土曜日、京都で同窓の人たちに会った夜。帰宅が遅くなって疲れているはずなのに、なかなか寝つけない。こういう時こそ本を読もう。返却期限まであと3日と迫った、沢木耕太郎渾身のノンフィクション『天路の旅人』(全572ページ)を最後まで読み終えた。
読んでいるこちらも長い旅であった。読み終えてしまうとさびし~ものが。
第二次大戦末期、ひとりの日本の若者が敵国・中国の、その大陸の奥深くまで ”ラマ教の巡礼僧” に扮して潜入した。密偵、スパイ?というより、ただ憧れの地を踏みたい一心で、若者は中国大陸・チベット・インド... と危険をかえりみず、7年間ひたすら歩いて旅をした。
この若者こそ、沢木氏が25年前に出会って取材をした、西川一三(かずみ)。当時すでに80歳近くで、その時代(大正生まれ)の人にしては背が高く(沢木氏と同じ180cmくらい)、がっちりしていたという。
西川は昭和12年、満鉄(満州鉄道)に入社。満州のあと、天津や北京、内蒙古の包頭(バオトウ)でも勤務。しかしあることに嫌気がさし、昭和16年に満鉄を退社。
その後、内蒙古に設立されてまもない「興亜義塾」という学校へ。当時の広告には「中国大陸の蒙古から新疆にかけての奥地、特に西北の地域で国家(日本)のために挺身する若者を養成する」とあった。
これを目にした西川はピンときた。子どもの頃から中国大陸の奥地への憧れがあったのだ。きっかけは尋常小学校時代。ある蒙古服姿の男性が学校に来て、ゴビ砂漠とか青海湖などの旅の話をしてくれたのだ。いつか自分も行ってみたい、と願望を抱くようになる。
興亜義塾では入ってすぐ、中国語や蒙古語・ロシア語が叩き込まれた。このおかげでのちに旅の道中、日本人だと怪しまれることは殆どなく助かった。
さらに旅の途中、西川はその地域の言語:チベットやインドの言葉も習得し、奥へ奥へ(西へ)と旅を進めていった。
なにせ徒歩での移動である。荷物をラクダの背に乗せ、険しい山も谷も、河をも渡っていかねばならぬ。その命を落としかねない過酷な道のりをも乗り越えるたび、楽しいと思えるようになっていく...。
***
われらも杭州時代(2015~2018)、全中国を制覇したいおじちゃん(弊ジムショ顧問)の”あんぱい”に乗っかって、あちこち週末に旅をした。
その時に訪ねた土地の名前が本書に出てくるたび、その光景を思い出した。
たとえば青海省のタール寺(塔尔寺)。
青海省の青海湖はその名前からしてどれほど美しいのだろう?と期待したが、
なんとも寂れたところで、このようなひどいトイレの思い出ばかり。
ああ、どこもハエだらけであったわ😢
読みながら、「この本はめずらしく地図の解説がないのだな。さすが沢木さんともなると、すべて文章で表現するんだ。じつに思い切ったもんだ」などと感心していたら。
300ページほど読んだあたりで、
見返し(表紙と裏表紙の裏側)に地図があるのをハッケン!
ああ、うっかりにもほどが、、。
西川一三の、この7年におよぶ旅は、彼にとってまちがいなく”人生のハイライト”だったかもしれないが。のちの日本での粛々と働く堅実な生活(一年のうち364日は化粧品店の店頭に立つ)もとても好ましいと思った。
これはボクがあと10や20若ければ、こうは思わなかっただろう。「せっかく旅に行ったのだから、帰国後、何か大きなことができるんじゃ? もったいないよ」などと思ったかもしれない。が、今のボクにはなんとなく理解できる。← 歳をとったといふことね (^^ゞ
本書のなかでメインの「旅」以外で興味深かった箇所。
●たとえば、ラマ僧には”男色”が多かったということ(やっぱり!)。
●「風葬」:最初の旅に同行したバト少年が病死し、遺体を風葬することになったくだり。遺体を死体捨て場である谷間に運び、そこでわずか2日のあいだに遺体は白骨化。犬とカラスと禿鷲(はげわし)によってきれいに食べられたのだ(食べ残しがあると、何か今生で悪行をしたのでは?と忌まわしく思われる)。この風習はチベット旅行の時、ガイドに聞いていたく驚いたものだ。
●叩頭(こうとう):いわゆる五体投地。これをチベットのお寺で目にしたり、巡礼者がこれをしながらラサへの道を少しずつ進む光景はすさまじい。
●アルガリ:これは本書で初めて知った。巡礼の旅のテント生活に欠かせない燃料。いわゆる、そのあたりに落ちている家畜の糞(それを拾ったもの)。
●ツァンパ(下写真)
標高が高いため動植物に恵まれないチベット地方の主食。
はだか麦を練って、つくったもの。
ではさいごにチベットの絶景を。
こういう河をも、
西川一三は歩いて渡ったのか。もう一生行くこともないであろう😢(さいごはラサのポタラ宮)
◆いじょー、お読みいただき非常感谢🙏