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あまちゃんの カタコト中文日記

中国・杭州がえりのライター助手、日々のいろいろ。

台湾うまれのヤマトナデシコ2 門司篇⑥

2025-05-01 | 台湾エッセイ

20(終章). 4人きょうだい


「妹は自分が死を覚悟したときに、『お母さんよりあとになって本当によかった』 と言ってました。弟が死んだときの母を見ていたから、何が何でも母にそんな悲しみを味わわせたくないと 思ってたんでしょう」

光子は心臓などを含め、数度の大手術を経験している。
しかし仕事はずっとこなしていた。肺がんになってからも酸素ボンベを抱えながら英語を教えに行っていたという。

「うちは4人とも母を見てきてるので、やった仕事は違うけど、みんな時間を むだにすることはしなかったですね

― ごきょうだいで集まると、蘇澳の話、されますか?

「しますね。私たちきょうだい、仲が良かったんです。きょうだいって よくケンカするとか言いますけど、最後の最後まで仲良かったんですよ。 姉がとてもおっとりした性格でね、それがよかったのかも」

自分が4人きょうだいで育ったせいで、信子は自分も「子どもは4人ほしい」と願った。
だが「子どもは2人まで」 という夫。
「じゃあ、3人で手を打とう」 ということになり、3人目が産まれたあと・・・・・・
食卓を囲むたびに 信子はいつも「1人足りない」と思ってしまう。
ついに夫は不承不承ながらも 4人目をもうけることを承諾する。

***


「これは母がリューマチやったあとなんで、本来の字ではないと思いますけど…」


晩年にお母さまが書かれたを(ご自宅で)見せていただいた。
(書には、こう記されてあった)

ひとりひとりの笑顔をうかべて 私は楽しい。すべてをおつくりになって 人間をすまわせてくれた神さま、ありがとう

信仰する神に、そしてこれまでかかわったすべての人へ感謝する母の思い そのものであった。


【 門司篇 完 】


 
ライターの旅 またまた 長すぎるエピローグ


ライターは北九州の門司を訪ねた。(2013年11月)


訪ねずにはいられなかった。一家が引き揚げて住みついた門司という町を見たい。住居跡を確かめたい・・・・・・ なぜか、そんな衝動に駆られた。

インターネットの格安1泊ツアーを申し込んだ。
新大阪駅から山陽新幹線で小倉駅下車。小倉駅でJR鹿児島本線に乗り換え、門司、小森江、次の3つ目が門司港駅である。

途中、門司駅で「ここか?」 と下車しそうになるのをこらえる。観光客がうっかり間違えるのも無理はない。

門司港駅で降り、戦後の門司についてたずね歩いていると、本来の目的とは違うが、興味深い話がいろいろと出てくる。

総じて人々が口にするのは、これである。

昔 ここは銀座にも負けないくらい賑やかで、お洒落な街だったんです

若い人が減って、今や老人の街です

聞くたびに胸が痛んだ。皆さん遠い目をして、懐かしそうにそうおっしゃるのだ。



明治22年(1889年)、門司港が開港。
門司港はかつて横浜・神戸と並ぶ、日本の 3大貿易港だった。

信子の話にもあったように 大手の財閥や銀行が大きな支店・本店を構えていた。
劇場や映画館が軒をつらね、文化的にもそれは栄えた街だった。


しかし戦後、門司はさびれていく。門司区(昭和38年までは門司市)の人口は昭和34年をピークに減少。
決定的となったのは昭和50年(1975)の新関門トンネル、および山陽新幹線の開通。
交通の拠点は小倉駅へと移り、九州の玄関口は福岡・博多へと移る。

こうなると、便利な新幹線でさえ 恨めしく思えてくる。

ああ 新幹線よ、どうしておまえは 門司を飛び越え、小倉に停まる


かつては銀座にもひけをとらない 大繁華街だった門司。
映画の資料館である「松永文庫」に立ち寄ると― 

大正時代以降、門司の映画館がどれほど活況を呈していたか。
また昭和30年前後、門司港近くの栄町商店街がにぎわう様子を 写真集などの資料で確認することができた。

松永文庫の松永武室長は、かつて門司では”野球が盛ん”だったという話をしてくれた。
これはスポーツ用品店でも 同じことをお聞きした。

門司=北九州ということで 戦後のプロ野球でいうと西鉄ライオンズ贔屓か? とおもいきや、そうではなかったようだ。

門司には当時 毎日新聞があったので「大毎オリオンズ」ファンが多かった。
また、海を挟んで向かいの下関には(のちの)大洋漁業があったので「大洋ホエールズ」ファンも多かったという。

またノンプロ(=アマチュア、社会人野球)では、「門鉄」の愛称で知られた門司鉄道管理局(現在のJR九州硬式野球部)が強豪として人気を誇り、北九州の八幡製鉄所 (のちの新日鉄八幡、2003年限りで廃部) との対抗戦は「製門戦」と呼ばれ、学生野球の早慶戦さながらの対抗戦だったという。

のちに門鉄木塚忠助内野手らが入団したことで「南海ホークス」の人気も高まったようだ。
このように野球ひとつとっても、戦後の門司は相当盛り上がっていたようだ。


また、ある旅館 (つかさ旅館 さん) のおかみさんは「鈴木商店」の名前を挙げた。


玉岡かおるの小説『お家さん』でも知られる、かつては三井・三菱を凌ぐ大手商社だった鈴木商店は、明治37年(1904)の大里製糖所(現在の関門製糖)を皮切りに次々とこの地に工場を建設。門司の産業発展の礎を築いた。

大里とは、現在の門司駅のあたりの当時の地名。門司駅は昭和17年までは大里駅という呼称だった)

門司には”遊郭” もたくさんあった。まだ路地裏に姿をとどめる遊郭跡もある。
ある料理屋のおかみさんは こんなふうに話す。

「遊郭はそれなりに意味があったんじゃないかしら。素人の男の子が勉強する場所として、あれは必要だったと思うの。(略) 
 最近のストーカー殺人にしても 女性のほうの別れ方が下手。わざと嫌われて別れるように仕向けるとか、あるでしょう? その点、遊郭の女性はプロだから本気にさせないのよね」

美人のおかみさんは終始笑顔でカラリと話してくれた。説得力あり。

平日のせいか人は少なかったが、どの店や施設に行っても人がとても親切で気持ちよかった。

***

新町2丁目」という昔の町名・番地だけで 現在の場所(住居跡)を特定するのは非常に難しい作業だった。

事前に福岡県立図書館の郷土資料課に依頼して入手した当時の地図と、インターネット上の地図とを付き合わせ、場所を絞り込むことができた。

だが、さすがに戦後70年の時を経ると、どこが住居跡だかさっぱりわからず、付近に一家を知る人もいない。

門司図書館の学芸員さんがとても熱心に地図や資料を探してくれた。
知らない土地をあっちへ行き、こっちへ行き・・・・・・
万歩計は半日で軽く 2万歩を越えていた。


本当に親切だったな、図書館の学芸員さん・・・。



「まるで『探偵ナイトスクープ』(テレビ番組)のようじゃないか」
と我ながら思う。

訪ねた ある写真館 (写真のムラオカ さん)では、
「『永遠のゼロ』 (当時のベストセラー、百田尚樹の小説) みたいですね!」
と言われた。

まんざらでもない。がんばれ! と背中を押されているような気がした。


日も暮れかかり、あきらめかけていたとき。
ダメもとで訪ねた薬局で一家を知る人物に出会い、疲れが一気に吹っ飛んだ。

昭和9年開業の小橋薬局=現在の門司薬局
ここの店主・小橋さん(小橋一弥さん)が、なんと末っ子・竹中春野くんと 幼い頃によく遊んでいたというのだ。


門司薬局の小橋一弥さん。

小橋さんのほうが学年は1期下だが、当時春野のことを「たけなか、たけなか」と名字で呼んでいたという。

2人でよく岸壁(「6番岸壁」)まで遊びに行ったらしく、春野くんに 「このドラム缶、いいにおいがするから、におってみろ」と言われ、かいでみると・・・・・・ アンモニアの なんとも形容しがたい くさい臭い! あの強烈な臭いだけは忘れられないという。

また信子に関する記憶も。
「信子さんには 進駐軍の帽子をつくってもらいました」。

戦後、そんな帽子が流行っていたのだろうか。
かわいい弟の友だちのために、信子は母の店のミシンでちゃっちゃっちゃーとつくってあげたのだろう。

(自分は手先が器用じゃないとか言いながら、なんとも優しい姉ではないか!)


小橋さんに一家の住居の場所を聞くと、
ここにありましたよ」。

まさに薬局の真向かい、通りからは少し奥まったところ。
現在はそこ一帯が舗装され、駐車場になっていた。





一家の足跡をたどる旅で、ただ一人でも一家を知る人に出会えてライターは感無量であった。


***

門司を訪ねた翌年(2014年)、上京して竹中信子さんのご自宅をたずねた。
2年ぶりの訪問。当時のお写真を拝見するためだ。

信子さんはギリシャ料理でもてなしてくれた。
門司のお店でよく日用品を買いに来てくれたギリシャ人の女性から母が教わった思い出のレシピだ。
鶏肉と玉ねぎをオリーブ油で炒めて、トマトとにんにくを加えて煮込む。

母のことで ご縁のある高橋さんなので、このお料理がいいかなーと

おいしかった。そのお気持ちが たまらなく嬉しかった。

ふと、写真の束のあいだから一枚の絵葉書がぱらりと落ちた。

「練馬区 東大泉書道教室 竹中春子様 / 小倉市 西村光子

妹・光子が毎日のように母に宛てて書いた手紙だ。

実は光子が亡くなったあと、夫のふみたか氏が妻の形見として「光子が母に宛てて書いた手紙」 を欲しがった。
信子はすべて送り返したつもりだったが、まだ残っていたのだ。
そこには文字がびっしり。 (一部抜粋します)

お母様へ・・・・・・ 朝から降っていた雨が止み、薄日が射して来ました。午前中病院に行きましたがリュウマチは治癒しないと言われてがっかりしています。 和子姉さんが来て下さったお蔭で 家がほんの少し 綺麗になりました。和子姉さんからは人参をいただき、文隆さんは大根を一本あげました。では又。光子

ほれぼれするような字、そして素直な文章。
お会いしたこともない“光子”がそこにいるような気がして、涙がこみあげた。しっかりと生きた竹中家の人々を象徴するような葉書である。


私はこの一家の物語を聞いて本当によかった。自分にあれほどの苦労は乗り越えられないかもしれない。
でも”追体験”させてもらったことで 自分が少し変われたような気がした。

よーし。明日からはもっと背筋を伸ばし、地に足つけて生きていこう」。

蘇澳で家族や従業員たちが納まる写真の背景には、いつも百合の花が咲きほこっていた。百合のなかでも大ぶりなテッポウユリだ。

でも今は咲いていない。ある時、日本人が蘇澳の山野に分け入って「ユリ根」を根こそぎ取ってしまったのだという。

私がお金ためてね。あの蘇澳の炭酸泉のところを昔のようにテッポウユリで埋めたいの

これは信子さんの夢? いや、夢ではない。
台湾・蘇澳の山裾がテッポウユリで埋めつくされる日もそう遠くないだろう。

別れぎわ、85歳の童女は、ほほ笑んでこう言った。

わたし、もうちょっと、生きるつもり」。

 
台湾うまれのヤマトナデシコ 2』 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

そして... 天国の竹中信子さん、本当にありがとうございました!



★この門司篇より前の物語「1.蘇澳篇」をまだお読みでない方は こちらへ。

★台北を舞台にした前作 『台湾うまれのヤマトナデシコ1(ゆきこの話)』 も ぜひご覧ください。

コメント

台湾うまれのヤマトナデシコ2 門司篇⑤

2025-05-01 | 台湾エッセイ

17. 母の晩年


齢80を越え、なお書道教室を続けていたころの母。


いつの頃からか― 信子は家の片づけを済ませた夜の9時頃、自転車で母の家まで行くのが日課となっていた。

母のところに2時間くらいいて帰ってくるという、そういう生活してました。母のそばで母の読みかけの本を読んだり、ぽつぽつとお喋りしたり」

信子が帰るとき、母はいつも門のところで見送ってくれた。日によっては 深夜12時近くになることもあり、娘のことが心配だったのだろう。

***

「自分の親のことを誉めるのもおかしいけど。私の母ってね、“特別な頭”を持っていたように思えました」

たとえば―。
夜、信子がいつものように母のところへ行き、その日の新聞の話題から、
「東京のOLが大島で土地を買って、定年後はそこに住む予定で休みのたびに行ってるとかなんとか・・・」と話をしたところ。
ちょうど母も同じ記事を読んでいて、「その方のお名前は ○○○子さんと おっしゃいませんでしたか?」と名前まではっきり覚えているのでびっくり。信子はさすがに名前までは覚えていない。内心、くやしくてしょうがなかった。

この人(母)いったいどういう頭をしてるんだろう?」

母のこのいう部分は妹と弟がしっかり引き継いでいるな、と信子は思う。

 

◇ 「母、戦後はじめて蘇澳へ

 

自宅での書道教室は引き続き盛況だったものの、母もさすがに自分で教えるのは厳しくなり、指導に関してはすべてお弟子さんに任せるようになっていた。


母85歳の時、信子は車椅子を押して母を台湾へ連れて行く― 
母にとっては引き揚げ後 初めての蘇澳訪問である。懐かしい人々との旧交を温めた。


戦後初めて台湾・蘇澳を訪れた 母・春子(中央)。右後方で母に寄り添うのが 信子(右から3人目)。


祖父・竹中信景が始めた蘇澳の炭酸水工場は 戦後、空前の大繁栄の時を迎えたという。母はよく、「(引き揚げの際に) 会社を残してこられて、よかったね」と言っていた。

しかし工場はその後、経営者の仲間割れや台風の被害から、ただの草地に戻ってしまう。

現在は【蘇澳篇】の冒頭に書いたように「蘇澳冷泉」として賑わい、蘇澳観光の目玉になっている。

***

信子は毎年7月に蘇澳で開催される「蘇澳冷泉まつり」に来賓(冷泉発見者の孫)として招待されている。
工場の跡地である山裾には、蘇澳の役場が建立した「蘇澳冷泉」の石碑がある(下写真)。

冷泉先駆者記念」と赤い文字で刻まれた碑には、中国語と日本語で冷泉の沿革が記されている。
竹中信景はもちろん、そこには信子の名前も。

その後、十五歳で日本へ引き揚げた孫娘の一人竹中信子はその後女流作家になり…・・・」と刻まれている。

昭和58年(1983)には信子が中心となって「蘇澳会」を立ち上げ、当時工場で働いていた人たちとは 今でも家族のような付き合いがある。


蘇澳冷泉の石碑で記念撮影をする竹中信子さん。(2012年夏、蘇澳冷泉まつりの際、筆者撮影)

石碑に刻まれた「蘇澳冷泉 沿革」。



信子の名前は こうして石碑にしっかりと刻まれている。(同じく 2012年夏撮影)

 

◇ 「愛息の死

穏やかで充実した日々のなか、母に悲しい知らせが入る― 愛息・春野の死である。

まるで父・秋三の生まれ変わりのように誕生した長男・春野。
一家の宝のように大事に育てられ、台風のときも信子がとっさに身を挺して救おうとした、たったひとりの弟。

母にしてみれば絶対に守りたい存在だったのに、まさか自分より先に病で逝ってしまうとは・・・。

このショックで、母はがくんと年を取った

***

80代も終わりに近づき、母は腰が痛くなり、自宅で介護の人にきてもらう機会も増え、ベッドから離れられないようになる。

「母はずっとベッドで寝ていて、私が行くと こうやって身体を起こして話しするでしょ。私はいつも少し離れたところから話してたんですよね。もっとそばで、手でも握りながら話せばいいのに。なんとはなしに 離れたところに 机があるもんだから」

「そしたらね。母がとってもかわいい顔になってきましてね。あれどうしてですかね? いやー、かわいいなーと、しばしば見直しましたよ」

徐々に痩せて、あどけない童女のような顔になっていった母。
ぽつりぽつりと、こんな子ども時代の話をしてくれた。


母・春子の実家は(蘇澳に引っ越して来る前は)基隆だとばかり思っていたが。
実は基隆から船で渡ったところの ⋆ 社寮島(現在の和平島)にあった。
そこには当時琉球人(沖縄人)の漁民を中心とする部落があった。

母はそこから船で基隆の小学校に通っていたが、琉球人というだけで石を投げられるなどのいじめをうけ、そのうちにあまり登校しなくなった。

小学4年生で実家が蘇澳に引っ越したので 蘇澳の小学校へ転校。それまで休んでいた分、勉強が遅れていたが。蘇澳の小学校では放課後に「できる子が できない子を見てあげる」という方針があったので春子はがんばって勉強し、ほどなく「できない子から→ できる子」に。

それにしても、母がそんなひどい差別を受けていたなんて。今なお、母の子ども時代を思い出しては涙する信子であった。

★参考★
 作家の佐藤春夫がかつて台湾を訪れた回想記のなかに『社寮島旅情記』がある。

 (定本『佐藤春夫全集』第二十一巻 臨川書店 より抜粋)

「船が基隆へ入港したのは十一時ごろであつたろう。(略) 『内地から来た奴をいきなり真昼の基隆の街へ引っぱり出すのも可愛想なやうだね。どうせ基隆には見物するところもない。どうだあの島へ渡って涼んで来ないか。あの山の裾に琉球人の部落がある。泡盛でも飲んで蛇皮線を聞くぐらゐの外は、つまらぬところかも知れないが』。彼はもう手を上げてサンパンを呼んでゐた。港内を二十分も漕いで行ったらうか。浪の騒いでゐるでもない磯の黒いところを避けてサンパンは砂浜へ漕ぎつけられた。」 

佐藤春夫が訪れた社寮島のどこかに母・春子(当時は宮城ウト)はいたのだろうか? 
作家が社寮島を訪れたのは大正9年頃。すでに宮城家(母の実家)は蘇澳に転居した後と思われる。

この文章によると、基隆から社寮島へはサンパン(渡し船)で渡っている。
当時この島は台湾最北端の孤立した島であったが、現在は橋(和平橋)によって基隆とつながっており、バスなどで容易に往来できるということだ。


18. 母の最期

母は年をとっても頭はしっかりしていた。
入院した際、信子は退屈だろうと 母に本を差し入れた。

写真の多い本が疲れなくていいと気を利かせたつもりで持参すると、あまり喜ばない。

それである日、雑誌『世界』と『中央口論』を買って持参してみたら、とても喜んだ。

「私が行ったら、『中央公論の誰々さんが何々という題で書いてるけどとってもおもしろかったよかったらあなたも読んでごらんなさい、って言うんですよ。90の人がね、これ読むか? と驚きました」

高齢になっても聡明さが失われることはなかった。

そんな母にもついに最期がおとずれる。

死に方がちょっと・・・・・・。入院中に看護婦さんがオムツをしようとするのを断って、ベッドの下におまるのようなものを持ってきてたんです。ある時、そこで用をたして転んじゃったんですね」

夜中にベッドの横で転んでしまった母は起き上がれなかった。
2人部屋だったが、もう1人の患者は重症で寝たきりなので何も気がつかない。

母は朝6時すぎに看護婦が巡回するまで、そのままそこに・・・・・・。
体が冷え切って肺炎をおこしてしまう。それが死につながったのだ。

もう退院しようかって話になってたときです。腰があんまり痛くて、入院するまでもなかったんでしょうけど。入院したほうが早く治るかな? と決心もしないうちに病院をさがしてくれた方がいて、入っちゃったりしてね。私も選択まちがったかなーと思ってね」

母も退院を心待ちにしていた。退院後はしばらく信子の家で静養してから、公園の家(自宅)に戻る予定にしていた。

「おばあちゃんが住む前にきれいにお掃除しましょうね」 と信子の娘が準備してくれているところだったが―。

結局、母はそのまま病院で亡くなった。

最期を看取ったのは姉の和子と信子の2人。

光子は体調を崩していた。
「よくなったら行くわ」と言いながらも、ついに母の死に目には会えなかった。

光子、光子・・・・・・」と末娘のことを憂いながら、母は天に召されていった。


母が亡くなったあと、信子はある牧師からこんな話を聞かされる。

「以前、『神学校へ行きたい』 と春子さんから相談を受けましたが、(80歳の)ご高齢なので反対しました」

信子は母の願いを断った牧師のことを恨めしくさえ思った。母はただ 早逝した夫の夢に近づきたい・・・そう願っていたに違いないのだ。

 


19. 光子との別れ ― 母から聞いた 父の最期


竹中家の三姉妹― 左から 二女信子、三女光子、長女の和子。



母が天に召される頃、光子は病と闘っていた。

「そのとき妹は肺がんになってましてね。心臓の手術を2回して、乳がんの手術もして。何度もレントゲンをかけたのが いけなかったんでしょうね」

ある日、光子から電話があった。
信子ねえさん、私、肺がんになった」。

信子はびっくりして声も出なかった。当時、肺がんは助からないと言われていたのだ。

光子はつづけた。
お姉さん、心配しないで私ね、今とっても幸せなのよ。肺がんになったらね、ふみたかさんとの間がね、いっそう濃厚になったっていうかね。視線が合ったらじっと見つめ合ったりして・・・・・・ とっても幸せなのよ、不幸じゃないのよ」。

光子は生きるための努力もしていた。色々調べ尽くして、「あの人は肺がんの権威らしい」とか、「中国の薬が効くらしい」とか。
信子に頼んで、板橋にある漢方医の薬を取り寄せたこともあった。
が、結局 どれも効果はなかった。

「ときどきお見舞いに行ってたんですけどね。妹の言うことが、なるほどな~と思ったのは。私たちが話しているとき、ふみたかさんが来てね。妹と視線が合うでしょ。そしたら妹もうっとりしたような顔してね。ふみたかさんも目が離せないって感じで妹を見てるんですよ。ああこれか!と思って。2人は最高の恋愛関係だと思いましたね」

光子が呼吸困難に陥る回数が増えてきたと聞き、
もう 長くはないかもしれない」 と思った信子は迷ったあげく、母から聞いた “あの話” を光子に聞かせることを決心する。

***

父・秋三が死んだ夜のこと。
母・春子は父の枕元にひとり残って 泣き明かしていた。
ふと顔を上げると、窓の外に父が立っていた。
母はびっくりして そばににじりより、こう尋ねた。

あなた、死ぬときは お苦しかったでしょう?」。

すると父は、

いや、少しも苦しくなかったよ。窮屈な着物をね、一枚一枚 脱いでいくように 体も心も軽くなってね。 とても快く、気持ちよかったよ」

と言って、パッと姿を消した。

母はすぐに下駄を引っかけて庭へおり・・・・・・ 懸命に父の名前を呼んでさがしまわった。まだどこかにいるんじゃないか? と。
もちろん、いるはずもなかった。


父が死んだ日、母は春野を出産してまだ4日目だった。そういう意味で 母はこの時、極限状態にあったので 父の姿が見えたのだろう。

父(の亡霊)は死ぬときに「苦しまなかった」と言ったが。母の話では意識不明の父はぼろぼろと涙を流していたらしい。
それも、こんなに涙が出てくるのかと思うくらい、ふいてもふいても流れてくる。

母はそれを見ているとき、これはつらくて泣いているのではなく、何か荘厳なものに感動して涙があふれている― そんな印象をうけた。
このように、母は信子に語ってくれたのだった。

***

光子は信子を食い入るように じーっと見て、話を聞いていた。

信子は怖くなった。妹にショックを与えたのではないか? と。
「死期が近いことを知り、話しているのか?」 と思われるのもつらかった。

「ジレンマ感じてたんですけど、決心して話しました。妹はきっとね、『死ぬことは怖くない』 と思って 逝ってくれたかなーと思います」


それから 1ヶ月余りで 光子は逝った。
葬儀のとき、光子の夫・ふみたかさん(西村氏)はこう言った。

「信子ねえさん、お母さんの話を光子にしてくださったでしょ。あの日ね、光子が 『ほんとにそんなこと あるのかしら?』 と言ってましたけど。 死ぬとき枕元で 『光子しっかりしろ』 って言ったら、もう話はできなくても こうやって頷いてました。きっと光子は一枚一枚 苦しい病気の身体を脱いでね、旅立って行くように見えたと思うんです。 いい話を聞いたと思います」。

最良の伴侶に見守られながら 旅立った光子―  信子は ただただ安堵した。

(つづく)

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台湾うまれのヤマトナデシコ2 門司篇④

2025-05-01 | 台湾エッセイ

13. 母、上京 学生寮の寮母に

ある日のこと。信子は東京・池袋の教会で「寮母さん募集」の貼り紙をみつける。

募集していたのは「東アジア学生寮」という施設。戦争中、日本の兵隊が東南アジアへ赴いたため、混血児が多く生まれた。

戦後、この教会の加藤という牧師が東南アジアを巡った際、「この混血児たちを 日本で勉強させたい」という思いがつのり、教会のなかに 学生寮を開いたのである。

その「寮母さん募集」を見て、信子は母に提案してみた。母もすぐに承諾した。

「門司で苦労するより、こういうところで働くほうがいいと母も思ったんでしょう。料理上手な人ですし」

母は門司の家を姉夫婦に譲り、上京する。昭和42年、母・春子64歳のときであった。

「当時東京に出ていたのは私だけ。姉夫婦は門司、妹夫婦は小倉ですね。弟は九大(九州大学)を出てから新日鉄(旧・八幡製鉄)で働いていたので北九州。研究で東京の方にも来てましたけどね」

このときから 母の東京生活を信子が近くで見守ることになる。

母は学生寮に住み込み、三度三度の食事をつくった。
空き時間には学生たちに日本語を教えたりも。

「東南アジア学生寮」 といってもスウェーデン人やアメリカ人、中国人・・・と幅広い国の学生がいた。食事づくりは助手がついていたこともあったが、献立はすべて母が考えていた。

***

寮母時代の母・春子を知る人がご存命だったので、お話をうかがった。

林玲(はやし・れい)さん。昭和10年生まれ、山形県のご出身。上京直後は東京で知り合いも少なく、この池袋教会が心の拠りどころだったという。
当時、小学校教諭だった林さんは子育ての真っ最中。教会内のすみれ幼稚園に娘を通わせていた。
学生寮と幼稚園は棟つづき。春子とは毎日顔を合わせ、時おり娘の面倒をみてもらっていた。
そのうちに2人の距離は縮まり、春子は寮生のことで林さんに悩みを相談するようになる。
というのも、戦争遺児は殆どが1人親(たとえば母親がフィリピン在住など)で、なかには手を焼く問題児もいたのだ。

当時、寮母としての春子については、「とにかく指導力がすごかった」と元教師でもある林さんは語る。

みんなを公平に、という基本的な姿勢ができていると思いました。ダメなことはダメ、とはっきりしているけれど、やさしかった。見ていて決して無理はしていない。楽しそうっていうか、余裕があるように感じました」

当時30代だった林さん。60代で自立して働く春子の生き方は女性として目標になったという。

春子のほうも 林さんに対してはよほど気を許していたのだろう。ぽつぽつと昔話を切り出すこともあったという。

やっぱり人間は苦労しないとダメね」 (林さん 談)

(インタビュー当時) 80を目前にした林さんの心に、今なお鮮烈な印象を残す母・春子。その人間力は数々の試練を乗り越えてこそ 身についたものであろう。


 東アジア学生寮で厨房に立つ母・春子 (上の写真は学生の1人と)。

学生たちにとっては ”日本のおかあさん”のような存在だったにちがいない。


 

14. 母の書道教室

学生寮の寮母として数年働いた頃、母・春子は体調を崩した。

さすがに70を前にして寮母の仕事はきついだろうと心配した信子が、「そろそろ潮時だから、やめたら?」とすすめ、母もそれに応じた。

当時練馬区の大泉学園に住んでいた信子は 母のために一部屋用意し、母を迎え入れた。

「お母さん、書道の資格取って、うちで書道教室やったら?」

台北の静修女学校時代、小宮先生に見込まれ、「君は書道を勉強して 将来は書家になりなさい」 と言われた母である。

東アジア学生寮の寮母時代も忙しい合間を縫って 細々と書道を続け、学生たちに教えたりもしていた。

母はすぐに資格をとり、信子の家の一部屋を利用して書道教室を始めた。

すると、思いがけなく生徒がわんさか集まってくる。

「母が 『この部屋狭いから』 と近くにアパートを2軒分借りて。1つは自分の家にして、もう片方をお教室にして始めたら じきに100名くらい来るようになって。初めは不安だったんですけど十分独立できるようになって。10年近くそこで教えてました」

晴れて書道教師として独立―  母は齢70になっていた。


 書道教室の前で腰かける 母・春子。

「東大泉書道教室 指導 竹中秋・・・」とある。雅号に亡き夫・秋三の「秋」の字をつけたと思われる。


 

15. 理想の夫婦像― 光子のはなし

三女の光子は大学卒業後、附属中学の英語教師として小倉に残った。
そこで同僚の数学教師、西村文隆(ふみたか)氏と出会う。

2人は息が合い、すぐに結婚しようという話になったが。結婚前に光子の心臓の疾患が判明、医師からは「結婚はやめたほうがいい。出産が危険ですから」 と言われる。

光子はあきらめようとしたが、西村氏はどうしても結婚したかった。
そこで、
もし結婚したら、僕が布団の上げおろしから料理まで 全部引き受けます
と宣言。
これを約束したうえで、結婚した。
絶対に危険だと止められていた出産も 覚悟を決めて命がけで産んだ。

「その子がとってもいい子でね。こんなこと言ってました、

『日曜とか散歩に出るときに、私が危ない道でちょろちょろ前や後ろで歩いているのにね。お父さんとお母さんは必ず2人で手を握ってね、手をつないで歩いてるのよ』。
 ほんとに2人は仲良かったですね。その1人娘もいい人生送ってますよ。子どもにも恵まれてね。妹の性格がよかったから、あんないい子が生まれたんだと思います」

この上なく幸せな夫婦だが、光子は嫁としての苦労を味わった。
お姑さんにいじめられたのだ。
実はお姑さんが気に入った人を嫁に迎えるつもりが、息子が光子を連れてきた。その嫁ときたら心臓が悪いうえに 英語教師の仕事を熱心に続けていたもんだから、何かにつけて気に入らなかったのだろう。

「私が思うに、妹みたいに性格もいいし素敵な女性なのに、何が不満なんだろうなーと」

それでも2人は幸せな夫婦だった。人生観、価値観ともに共通の何かがあったのだろう。

もし次の世があったらね。どんな草むらをかき分けても私たちは探し当ててもう1回、一緒になろうって約束してるのよ」― 信子は妹からこんなことを聞かされていた。

「(つらい時に) 色々かばってくれたんでしょうね、ふみたかさんが。それにふみたかさんは料理好きなんですよ」

伴侶のサポートを得て、妹は教師として精一杯やっていた。学校以外にも週2回、同和部落に英語を教えに行ったりもしていた。

光子は同僚と結婚したということで、附属中学から普通中学へと転任する。そこでは「中学生のための英作文コンクール」に出場する生徒たちを指導し、毎年のように九州代表として全国大会へ送り込んだ。

「妹はどこの学校へ行っても九州代表として連れていくんですよ、教え子を。なにか特別なことやるの?って聞いたら。まず日本文で作文を書かせる。その作文で一番訴えるものがあるものを書いた人をコンクールに出すため、英語の特訓をする。発音とか直してね。それで代表になるんですって」

光子はコンクールの全国大会のときには引率の教師として上京、信子の家に泊まっていた。
共働きで忙しい生活のなか、姉との再会は何より心の安らぎだったのではないか。

 
妹はとっても親孝行でしたからね。毎日母に手紙を書いてました。絵がうまいもんですからね、ちゃっちゃっちゃーと自分の似顔絵を描いたりね。ある時は庭で咲いた花の写真を貼ったりね」

光子はいつもハンドバッグに葉書をしのばせていた。「10分ほどありますから、お手紙します」 とまめに近況をしたためるなど、常に母を気遣っていた。

葉書が届くたび、母のところにいるお習字のお弟子さんたちが「先生、手紙ですよ。字がとっても上手ですね」 と手紙を母に手渡した。

蘇澳の小学校時代、「ここのきょうだいは下へ行くほど字が上手だな!」と校長先生が生徒の前で言ったのが思い出される。

母はいつも満足そうに光子の手紙を受けとった。母に似て、光子は手先が器用だった。

「私は器用じゃないんです。光子からはよくテーブルクロスとか編んだの貰いましたよ」

その後、光子はリューマチがひどくなってからも「手を麻痺させないように」とせっせと編み物をしていた。
寸分の時間を惜しまず働いてきた光子の身に、このあと次々と病がおそいかかる。



16. 公園の家

信子の自宅近くにアパートを借りてスタートさせた“母の書道教室”は大盛況だった。

だが、数年もしないうちに―。

「アパートの契約更新のときに、母は 『もう 貸せません』って言われたんです。やっぱり80歳くらいの高齢で ひとり暮らしっていうと、みんな嫌がるんです」

「じゃあ一緒にさがしましょう」 と 大泉学園あたりの物件を母と一緒にさがし始めた。

信子が同伴するので不動産屋は 「親子で借りる」 と思いこんでしまう。話しているうちに 母ひとりだとわかると、「申し訳ないけど、年とった人のひとり暮らしはお貸ししないんです」 と断られる。

「その母の落胆する顔をみて・・・なんかとっても くやしくってね。『母に家、買ったげよう』 と思ったんです」

ある日、信子は母と家を見に行った。そこは庭のない家だった。「ここどう?」 と聞くと母は首をかしげるので、気に入らないとわかった。

が、そのすぐ近くに 倒れかかったような ”空家” がある。

「あれ、なんだろう? と思って見に行くと・・・なんと 周りがぜんぶ公園なんですよ。この環境はすごい! と私が憧れちゃって」

正確にいうと、西と北の二方が公園に囲まれた公園隣接地だった。母にたずねると、あんまり家が古くてひどいので「そうね~」と反応はそれほど芳しくなかったが。

信子は直感で「この家、ほしい」と思った。
すぐに持ち主を探したが、近所に聞いてもどこへ引っ越したかわからないという。それからずっと家のチラシ(広告)を気にして見ていたら。
1年後くらいに「あの家じゃないかしら?」というチラシを見つける。

「もう小躍りするような気持ちですぐに見に行って。買い叩けばもっと安くなったかもしれないけど、こっちは狙ってたその家が手に入ると思って」

チラシを見つけるまでの間、信子は母のアパートに寄るときもわざわざ回り道をして、その家が「まだ売れていないな」と確認していた。それほど欲しかった家なのだ。
環境はいいし、書道教室の生徒さんが自転車をとめる場所もまったく心配ない。何よりも立地。今のアパートから離れていないから、生徒さんたちにも引き続き来てもらえる、と思ったのだ。

「母にね、『この家、買いたいと思うんだけど、修繕すればいいでしょ?』と言って。母も修繕費出して。家の代金は妹と折半して買ったんです。屋根を葺き直し、柱を整え、畳を入れ替えたりしたら・・・ こじんまりとした結構ちゃんとした家になりました」

なにより、窓からは公園が見える。母はこの家で書道教室を再スタートし、晩年を過ごすことになる。


新居(= 公園の家)に隣接した公園でたたずむ母・春子。
ここで みずからの書道教室を再スタートさせた。
 
(つづく)
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台湾うまれのヤマトナデシコ2 門司篇③

2025-05-01 | 台湾エッセイ

10. 信子、上京

クリスチャンの母とともに門司で教会に通っていた信子は、

「どうせ仕事をするなら、孤児院のようなところで働いてみたい」

と教会の牧師に相談した。
すると牧師は、

それはどうだろう。あなたはもっと勉強するべきだ」 

と言って、自分の友人が最近開いたという東京の夜学校を信子に薦めた。
そこであれば昼間働きながら勉強できるから、と。

牧師の名は福井二郎といった。
第2次大戦前、妻とともに満州国の熱河(ねっか)省〔現在の中国における河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の交差地域〕 に渡り、馬やらくだに乗って中国の奥地まで布教活動をしたことで知られる牧師である。

たしかに信子には”学びたい”という気持ちがあった。

「これも何かの縁かも」
と福井牧師のすすめに従い、東京の夜学校へ行くことを決心する。


しかし「行かないでくれ」と 母に強く引きとめられる。

母が反対してね、泣いてね。当時東京は“怖い、怖い”って頭があるんです(昭和25年頃のこと)。
 とにかく行かないで、地元で仕事してくれ、とか色々言ってましたよ。
 
 でもね・・・ 私も門司がいやになってたんでしょうね。勉強したいって気持ちもあったし。反対を押し切って東京に出てきて、寮に入って勉強しました」


母も若い頃には台湾から単身上京して女学校へ入り、テニスの全国大会に出場するほどの行動派であったはず。
娘のこととなると、やはり話は別なのか。

私だからよけいに心配したのかもしれないです。
 母は私のことを4人のなかで1番ダメな子だと思ってましたから


信子は蘇澳時代から とりわけおてんばで危なっかしいところがあるから心配したのか。
いや、そうではない。
当時 母は信子のことをとても頼りにしていたのではないだろうか。

***

結局、母の反対を押し切って、信子は上京
東京の目白にある学校の寮に住み、夜学で勉強しはじめた。

「目白の駅から2百~3百メートルくらい行っても まだ廃墟ですよ。高級住宅地が空襲でやられてるんですよね。まだ昭和25年ですから」


昼間は出版社の事務の仕事や、都立病院のレントゲン室で働いた時期もあった。

「終戦直後の”夜の学校”というのはおもしろくてね。クラスメイトがほんとに千差万別で。東京女高師(現在のお茶の水女子大学)を出た人もいるし、日本女子大を出た人もいるし。男性では高校で数学の教師をしていた人、靴屋さんとかも。そうそう、特攻兵だった人もいました。一番すごいのは慶応大学の教授がいました。あとは私みたいに高校出てきた人も。みんな一緒に勉強するんです」

東京での新生活、バラエティにとんだクラスメイトとの出会いはさぞ刺激的だっただろう。


ここに、信子の上京直後の写真がある。(この章の下部参照)

鮮やかなブルーのツーピースにつばの広い帽子。そのモダンないでたちは デパートのエレベーターガールのようだ。

「母からね、『使いなさい』と絹の白い布が送られてきたんです。それを私がコバルトブルーに染めて(ツーピースに)仕立ててもらったんです」

のちにこの写真を人に見せたところ、
戦後まもないお金のない時代に、よくこんな格好できましたね」と言われる。

「母は私が高校出たときにも靴屋へ連れてって、足の寸法をはからせて革靴をプレゼントしてくれました。お店がよくなってきた頃とはいえ、母はよくしてくれたなーと思います」

さすがは、かつては“大正ロマン”を地でいった母である。

たとえ貧しくとも「女性たるもの、おしゃれ心を忘れてはいけない」という考えが母の中にあったのかも、と信子は思う。


母から送られてきたシルクの布で仕立てたツーピースを 颯爽と着こなす信子。


(白黒コピーでゴメンナサイ! 実際は鮮やかな空色ブルーがまぶしい1ショットです)



11. 母の店、斜陽になる


信子が上京する頃、母の店はかなり繁盛していた。
多い日には売り上げが *2万円にものぼった。 (* 現代とは貨幣価値が違うので相当な額であることは間違いない)

しかし、いいことはそうそう続かない。突然、家主から立ち退きを迫られる。

家を借りる際の契約不備 (書面での契約がなされていない、等々)を通告してきたのだ。

ひょっとすると 店の成功を妬んでのことかもしれない。
やむをえず、母の店は繁華街から離れた場所(日の出町)への移転を余儀なくされる。

店は大幅に縮小され、しかも人通りの少ない場所でとたんに物が売れなくなる。

これは時勢のせいもあるだろう。以前のようには物が売れない時代になっていたのだ。

不運は重なるもので― 

蘇澳時代から お世話になっていた大西氏がクリーニング店の経営に失敗。
保証人に名を連ねていた母は多額の借金を背負うことに。
その後はたびたび高利貸しが借金の取り立てにくるようになる。


まもなく 50に手が届こうかという母は 早朝は4時起きで もやし工場で働き、
昼間は店番をしながらレース編みの内職。
そして夜は門司駅前の食堂で皿洗い― 働いて借金を減らすしかなかった。


そんなことになっているとは、つゆも知らない信子 (@東京)。

母は何も(手紙に)書いてこなかったんです家が大変だっていうことを

信子が「どうですか?」と書いても、
母の手紙には「心配しなくても 大丈夫」の一点張り。
苦労めいたことは 一切書いてこなかった。

信子は母、そして妹と弟が苦労しているのも知らず、東京にいた。


◇ 「光子と春野

二女の信子が上京してからというもの、2つ下の妹・光子が母を何かと助けていた。

「妹は上の学校へは行かずに就職するつもりだったんです。でも担任の先生が4回も家に来てくださって『進学しなさい』と。それで とうとう母もね・・・ 自分も蘇澳の小学校のとき、同じように先生に説得されて 静修(台北の静修女学校)に行ったわけでしょ。なので遅ればせながら、やっと決心したんですね」

だがその時、主な大学ではすでに入試が終わっていた。

ただ一箇所、学芸大学の小倉分校という新設校だけが残っていたので、光子はそこの英文科を受験し、進学した。


大学でとりわけ成績がよかった光子は 附属中学の英語教師の職を得て、小倉に残った。

光子は働いたお給料をほとんど母に渡していた。
長女の和子は門司にいたが (明治屋で英文タイプの仕事をしていた)すでに結婚していたので 経済的にはあてにできなかった。

高利貸しの取り立て屋は容赦なく、小倉の光子のもとにまで訪れた。

後年、光子は「門司には行きたくない」と言っていたのを信子は覚えている。
それほど つらい思い出ばかりが詰まった土地なのか。

あの蘇澳での幼き日、意味もわからぬまま「生きる悲哀」と達筆な字で書いていた無邪気な妹は10代の後半、まさにこの言葉を地で行くようなつらい日々を過ごしていたのである。

***

一方、光子の2つ下で 引き揚げ時に小学5年だった弟・春野はといえば。姉3人の下で育ったせいもあり、気が弱かった。

あれは― 信子がまだ門司にいて、春野が小学生だった頃のはなし。
春野はなぜか 大西のおじさんから、

お前はバカだから、百姓になれ」 

とよくからかわれていた。すると、気の弱い弟はめそめそと泣き出す。信子は弟をかばい、大西氏に食ってかかった。

大西のおじさん、あなたは春野のお父さんじゃないんですから、よけいなこと言わないでください

すると おじさんも「なにぃ!」とむきになる。

「弟は バカじゃないんですよ。人並み外れて優秀な頭してるんです。スウェーデンの王室アカデミーから、 『あなたの研究に関心あるから研究を継続してくれないか』って 言われたこともある 弟なんです。でも 新日鉄の研究に入ってたから、それ 断っちゃった。独創的な頭をしてたと思うんです。それなのに (大西のおじさんは)・・・」

と、いま思い出しても腹立たしい。

「大西さんは親切ですよ。生活能力のない私たち5人を 妹さんのところに紹介して。でもそれだけに、いばってましたね」


信子が東京で夜学に通いながら働いている頃、門司の春野は貧しいなかで勉強していた。参考書などはとても買えないので、古本屋で物理などの本を借りて猛勉強を重ね、九州大学の理学部へ進む。

苦しい生活のなか、光子と春野が揃って国立大学へ進んでくれたことは母にとって何よりの喜びであった。

福岡で学生生活を過ごしていた弟は学費や生活費を工面するため、家庭教師や土木作業などのアルバイトに精を出した。

「家庭教師のときには、やる気のない生徒を殴って 辞めたりもしたそうです」

貧しいなかで必死に学んできた春野にとっては、恵まれた環境にも関わらず真面目に勉強に向き合わない若者たちに我慢がならなかったのだろう。

気が弱くて泣いていた末っ子が熱い男に成長した証しのような、ほほえましいエピソードではある。

引き揚げがなければ、妹や弟はもっと(その才能を)伸ばすことができたんじゃないかな~ なんて思いますよね


母譲りの知性と運動神経、そして可愛らしさを持ち合わせていた光子。この世に生まれたときから竹中家の宝(跡継ぎ)として大事にされ、
家庭音楽会ではみんなのアイドルのように歌い、階段をトントン・・・と駆けあがっていた春野

2人は引き揚げと同時に肩身の狭い思いを味わった。

信子は姉として じゅうぶんなことをしてやれなかったことが残念でならない。

私はなんで東京に出てきて勉強してたんだろう? 私が働いて母親を助ける立場にあったのに、何考えてたんだろう? って、ひと頃すごく反省しましたよね」

信子は大人になってから気づいた。あの時、自分は女学校を中退してでも 母を助けるべきだった、と

勉強は一生もの。いつでも再開できる。数年くらい遅れたって何てことないのだ。
自らの精神年齢が低いばっかりに、母や妹弟への思いやりが足りなかった・・・と今なお悔やみつづける信子であった。


 

12. 信子、音楽の道へ

昭和25年、20歳で上京した信子は昼間働きながら勉強を続け、5年で夜学を卒業。

その後は縁あって 会社員の男性と結婚、子どもにも恵まれる。

そして昭和32年、27歳のときに意を決して、武蔵野音楽大学に入学する。

これには母の生き方も大いに影響している。
女性も働いて 経済的に自立したい」― その第一歩であった。


音楽といえば、蘇澳時代にピアノを習っていた姉・和子のイメージがある。

「母が姉を音楽家にしたくて、姉がピアノの先生につき始めたんでね。私も負けん気になって 習いたいと言ったら、小学校の先生につけてくれたんです。女学校では芸大を出た先生について。でも一年も経たないうちに 学徒動員で学校そのものに行かなくなって。そうなると やめざるをえないですね」

蘇澳時代、姉はピアノの先生の家に下宿させてもらい、本格的に習っていた。

姉がピアノを練習していたら、兵隊に怒鳴りこまれて 殴られそうに・・・・・・ そんな時代である。

もう、ピアノどころではなくなって「終戦になったら、また教えてください」と言っていたら、数ヶ月もしないうちに 引き揚げである。

そして引き揚げと同時に「姉を音楽家にする」という母の夢は潰(つい)えた。

結局 姉は音楽の仕事にはつかず、明治屋で英文タイピストとして働いた。

それにしても、あのおてんばだった信子が音大とはビックリである。(失礼)

「門司の教会のところに 立派な(建物の)YMCA会館があって、そこの門に『ピアノ教授します』と書いてあって。母に行ってもいいか? と聞くと、いいって言うんですよね。それで行き始めたら、あっというまにインフレになって、生活費が足りなくなって 月謝も払えなくなって、2ヶ月くらいでやめざるをえなくなった。学校の月謝すら危なくなって・・・そんな時代でしたよ」


結婚、出産を経た信子が進学したのは、武蔵野音大のピアノ科ではなく「声楽科」だった。

「私は声がよく生まれついたところがあって。台湾の女学校に入ったときの先生(芸大出身)がすぐに評価してくださって、謝恩会で独唱とかのチャンスを与えてくださった。こんどは門司に来たら『卒業生を送る会』の独唱。東京に出てからも何かあるごとに独唱、独唱と やらされました」

たしかに蘇澳時代、信子は「歌ばっかり うたっている子」ではあった。

なるほど、こうして話をしている声も 独特の深い響きがある。

***

当時、武蔵野音大はには4年制と短期大学部、またそれぞれに1部(昼間)と2部(夜間)があったが、信子は夜間の4年制へ。

武蔵野音大の最寄駅は西武池袋線の江古田駅。家から電車で一本、近くて通いやすいこともあり、ここを選んだ。

― ご家庭を持ちながら、よくご主人も快く送り出してくれましたね

「私は短大でいいって言ったんです。子どもがいるから、かわいそうだから。そしたら主人が 『4年で申し込んできたよ』って言うんです。
 『2年くらいの勉強じゃ、なんにもならないと思ったから』、そう言いましたよ」

なんと理解のある ご主人だろう。

信子は4年間音楽を勉強し、その後自宅で音楽教室を開いた。

「当時はみんな夢を持って、一斉にピアノを習ったんです。月曜から土曜までぎりぎり午後いっぱい使っても 25人教えたら精一杯。その間、子どもが学校から帰ってきても、目で『おかえり』っていうくらいで・・・」

当時はまだピアノ教師が少ない時代。
* 中村音楽教室の盛況ぶりが目に浮かぶ。(* 中村は信子の結婚後の姓) 

では、理解あるご主人が家事や子育てを手伝っていたのか? というと・・・。

「夫は家の手伝いは何もしてくれない人でした。研究開発の責任者で、家でも世界の技術的な情報を勉強してばかりで。子どもたちがかわいいときに ほったらかしにしちゃって、すまなかったなーと思ってます。お膝に乗せてね、本を心ゆくまで読んであげるとか、そんなことはできなかったです」

母(信子)が時間を惜しんで仕事に打ちこむ姿を、きっと子どもたちは見ていたはず。かつて信子が母を見ていたように。

後年、音楽教室の仕事を後進に譲り、台湾の女性史についての研究を始める際にも 家族は理解をしてくれた。

そして15年以上かけて執筆した『植民地台湾の日本女性生活史』(全4冊)については、子どもたちはまだ誰も読んでくれないが、「夫だけは読んでくれた」 という。

(つづく)

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台湾うまれのヤマトナデシコ2 門司篇②

2025-05-01 | 台湾エッセイ

5. 母の店 「パンパン、身を隠す」

家族5人、その日暮らしでなんとか食いつなぎ、1年あまりが過ぎたころ。
家主が ”通りに面した家” を貸してくれることになった。

試しに 母が戸板2枚の上に石けんなどの日用雑貨を並べてみたところ―。
戦後の物のない時代だったせいか、置いたはしから飛ぶように売れた。

その売上金を持って、小倉や下関に仕入れに行く。
やはり (商品は)すぐに売り切れた。

「いける」と自信を持った母は食堂をやめた。
お店は時流に乗って繁盛し、日用雑貨だけでなく 化粧品や食料品も置いた。
2階には ささやかな洋裁店もこしらえた。

もちろん信子も手伝った。
毎日学校から帰ると、閉店時刻の夜11時まで店番をした。


ある夜、こんなことがあった。

「夜11時くらいに店番をしていて、バタバタと音がするなーと思ったら、
 “パンパン”が1人、駆け込んできてね。パンパン、ご存じよね? 
 繁華街だから、そういう店で客引きするわけですよ。

 (門司の)横の通りには昔から遊郭みたいなのがあってね。
 パンパンと言われる人たちはモダンな服装をしてて、
 スタイルなんかも よくってね。
 だけど “手入れ”があるんですよね。捕まっちゃうんです」

警察の追っ手を逃れてきたであろうパンパン、いわゆる 進駐軍兵士相手の娼婦が
信子に 「隠して!」 と助けを求めてきたのである。

信子はその女性に見覚えがあった。たしか店に買い物にきたこともある人。
背が高くモダンな顔をしていたので「素敵な人だな~」と思っていたのだ。

その女性に「隠して!」と言われ、
信子はとっさに階段の下に女性を隠し、その前に箱などを急いで並べた。

まもなく警官が前を通り、ちらと店をのぞいて通り過ぎていった。

しばらくして、「もう出ても大丈夫かしら?」と聞かれ、
信子は「もう大丈夫みたいです」。

彼女の素性はわからないが、
当時は「家が没落した」「満州から引き揚げてきて食べていけなくなった」などの
不幸を背負い、やむなくパンパンに身を落とす女性が多かった。

当時は女性をかくまうのに必死だったが。
今思い出すと、ちょっとおもしろい体験ではあった。


余談
 上野の「アメ横」 は、 引揚者による「飴屋横丁」が もとの由来だった!

戦後、全国各地で「引揚者マーケット」などと称される、闇市を起源とする市場が多数あった。
そのうちの1つが、東京都台東区上野の「アメヤ横丁(通称“アメ横”)」。

当初「ノガミの闇市」と呼ばれたこの一帯は朝鮮人、華僑、引揚者、復員兵、上京者、テキヤなど、
様々な人々が縄張り争いをしながら露店を出していた。

その中で引揚者たちは「下谷引揚者更生会」という組織を結成。
会の事業として上野駅でアイスキャンデーを売り始める。

ただアイスキャンデーは冬になると売れなくなる。そこで彼らは飴屋を始めることに。

当時、人々は砂糖不足で甘いものに飢えていたから飴屋は大繁盛し、
引揚者以外の人々も巻き込んで一帯は飴屋だらけとなった。
アメヤ横丁」と呼ばれたのはこれによっている。

その後、進駐軍からの横流し品も置かれるようになり、
ここから「アメリカ横丁」だと思い込む2次的解釈も生まれた。

(以上、『叢書戦争が生みだす社会2 引揚者の戦後』 関西学院大学先端社会研究所[編]より)


門司で母・春子がささやかに始めた店も「引揚者マーケット」にほかならない。
ただ、母の場合は組織も何もなく、たった一人の力で始めた店であった。


6. 戦災孤児、ひきとる

この頃、戦災孤児の兄弟2人を母が引き取ったことがあるんです

学校にも行かず門司の町をさまよっていた戦災孤児の兄弟を、
母が見かねて家で預かった。
しばらくは家族のように暮らし、信子たちも2人をかわいがった。

母は小学校への転校手続きをとり、2人に勉強させようとした。

「そしたら、上のお兄ちゃんのほうが
 『絶対に勉強はいやだ。自分は靴磨きをして弟を養うんだ』
 と言ってきかないんです。
 弟のほうは学校に順応して 友だちもできたんですけど」

自分たち家族が食べていくだけでもやっとなのに、
よくまあ食べ盛りの男子を2人も預かったものだ。生活スペースも広くはないのに。

2人を預かって半年が過ぎた頃。
なぜか信子たち一家と孤児2人の写真が 門司の新聞に掲載される。

「引き揚げ者でありながら、こういうことをしている人がいる」
というような記事。いったいどのような意図で書かれたのだろうか。

兄弟を預かって1年。
相変わらず兄のほうはまったく勉強をしようとしない。
母は「このままではいけない」 と2人を熊本の児童養護施設に入所させる。

「将来のために、勉強しなくちゃいけないのよ」

と最後まで2人に言い聞かせ、お別れをした。

その後、2人はどうなったのだろう。
一人前の大人に成長し、母のところへお礼に来たのだろうか?
せめて心の中で感謝し、まじめに暮らしているといいのだが・・・。


7. 母へのアプローチ

ここまで竹中家の話を聞いているうち・・・・・・

ライターには 1つの疑問があった。

夫に先立たれた母・春子は4人の幼子を抱えているとはいえ、
門司に引き揚げてきたときは まだ40そこそこの”女盛り”。(← 表現がいささか下品でスミマセン!)
まわりの男性が放っておかないだろう。

そこで 恥をしのんで 思い切ってたずねてみた。

― お母さまはこれほど美しい方だったので、いろんな お話があったのでは?

「わかりませんけどね・・・・・・。 
 母から1度だけ聞いたことがあるのは、いつも桃太郎食堂に来る人でね。
 ものすごく 品のある紳士がいたそうです」

その人は下町の大衆食堂には似つかわしくない、まさに「掃き溜めに鶴」のような紳士だった。

そんな立派な紳士が どうして度々食べにくるのだろう? と母も不思議に思っていた。

するとある日、
「これ、私の娘です」 と紳士は連れてきた自分の娘を母に紹介した。

別の日には 母が家に戻るところを追いかけてきて、
「一度、お話ししたいことがあるんですが」 と言ってきた。

「突然のことで母はびっくりして、ぴしゃっと断っちゃった。忙しくて時間もとれませんし・・・ とかなんとか言ったんでしょう。
 ずいぶん経ってから、『どうしてお嬢さんを連れてきたりしたのかしら?』と言ってました。きっとその方も戦災で奥さまを亡くされてたんでしょうね」

紳士のアプローチにも気づかぬふりをして、ぴしゃっと拒絶してしまった母・春子。

引き揚げ以降、門司でお世話になっている大西氏や その妹への気兼ねもあったにちがいない。

ずいぶん昔の話ではあるが、
もったいない!」 とライターは思わずにはいられなかった。


8. 女学校時代のはなし

◇ 「信子、図書部へ

引き揚げまもなく、県立門司高等女学校の4年に編入した信子。

「私は門司のときはあまりいい学生じゃなかったと思います。本が読みたかったので 放課後は図書部に入ったんです」

戦後、図書部では大きな仕事があった。
戦時中、佐賀の田舎の方に疎開させていた女学校所蔵の本がどんどん箱詰めで戻ってくる。
それを1冊ずつ目録に書き込んで整理していくのである。

図書部のなかでも上級生にあたる4年生の信子は、責任者として下級生に指示を出さなければならない。

「きょうは この箱、やってください」 

「あなた、ここにシール貼ってね」 「これ、あそこに分類してね」

とやっているうちに、信子は本を読みそこなったという。
それでも、

― 本にいっぱい触れられて、何かプラスになったのでは

「本や作家の名前は頭に入りました。たとえば、マルサスの『人口論』 とかね。
 あと、哲学書みたいな本も女学校にはありましたから、いろんな本に接しましたね」

この経験はのちに 本を執筆する際にも生かされたに違いない。


また信子が責任者として切り盛りするようすは、母・春子の独身時代とダブる。

静修女学校時代の恩師・小宮先生の紹介で得た仕事― 台湾総督府の調査課でチーフとして重宝がられた春子。いや当時はまだ「宮城ウト」だった時代。


本といえば― 女学校の図書室以外でも、信子には忘れられない光景がある。

「新町のお店(母の店)のある横の通りで “なんとか銀座”というところに大きな本屋が一軒、ぽつんとできたんです。
 そこへ行くと、こうこうとライトがついててね。本が本棚に最初は少し。それが日ごとに増えていくんですよ。それを見たとき、嬉しいっていうか 興奮しましたね」

“なんとか銀座”とは、栄町銀座(栄町商店街)のことだろう。
まさに戦後からの復興を象徴するような光景である。



◇ 「映画三昧、芸術三昧

門司の女学校で忘れられないのは映画鑑賞である。

「この映画はいいから」と授業の一環として 先生が引率して よく観に行った。

「戦争中は文化的なものがなくなって、(戦後)どっと海外の映画が入ってきたでしょ。
 1ヶ月に1回くらい、いやもっと観たかもしれない。あの時の印象はとっても残っています」

「ソビエト映画では『シベリア物語』に、『石の花』― これは世界最初の天然色の映画です。

 『イワン雷帝』― これは日本の歌舞伎が影響を与えたと言われています」


ソ連映画『イラン雷帝』(1944)について調べてみると―。
たしかにエイゼンシュテイン監督が1928年にモスクワでおこなわれた 二代目市川左團次の歌舞伎を観て感銘を受け、その影響で主人公に「見得を切らせる」という歌舞伎的な演出を用いているようだ。

(いま日本でロシア映画に触れる機会など、めったにないな・・・・・・)

 
他に信子たち女学生が当時観た映画としては、

『少年の町』(1938米)、グリア・ガースン主演の『キュリー夫人』(1943米)。

フランス映画ではジャン・コクトーの『悲恋』(1943)や『美女と野獣』(1946)など。

ノルウェーのフィギュアスケート選手 ソニア・ヘニー主演の『銀盤の女王』(1936米)や、
アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュインの音楽映画なども。


「たくさん見せられましたよ。今考えると 先生たちがそういう文化的なものに飢えてて、
 『これはいい、生徒と一緒に観ましょう』 って 連れていったんじゃないかなーと」

お弁当を食べた後、午後は電車に乗って映画館へ。映画館はいつも貸切だった。

「生涯のなかで あの時代が一番映画を見たと思います。先生たちだけでなく、私たちも飢えてて」


女学校時代の芸術鑑賞は映画だけにとどまらない。

戦後の門司には国内の名だたる音楽家が演奏に訪れ、また歌舞伎の公演などもおこなわれていた。

「東京では歌舞伎座にしろ劇場にしろ、どこも空襲でやられて、めぼしい建物は進駐軍が使ってますから 興行ができなかったんでしょう」


もちろん門司でも多くの劇場や映画館が空襲で焼失していたが、信子は新しくできた劇場で 二代目市川猿之助の歌舞伎を観た。


「戦後の大変な時代だったけど。それまでの軍国主義の闇みたいな天井につっかえているような感じがパッと広がって、そういう文化的な刺激があって。夢みることのできた幸福な時代だったのかな~と今は思いますね」

― ある意味、門司は恵まれていたのでしょうか

「そうかもしれません。貿易港ですからね。海外の影響もあって、ずいぶん開けているところもあったんでしょうね。

 ただ・・・・・・ 今はベッドタウンになってますからね。さびれていくばかりで。“レトロの街”とか言われてます」

昭和22~23年、女学校4年から専攻科1年にかけての芸術鑑賞が信子の感性を磨いていった。


9. 卒業後の進路

引き揚げと同時に 門司高等女学校の4年に編入(S.21年春)した信子は、その後専攻科1年(S.22年)を経て、
翌昭和23年には”学制改革”(六・三・三・四制の導入)で新制高校の3年に編入された。
すなわち新制高校の第1回卒業生となる。

「卒業式3回やってますから。
 まず女学校の卒業式して、専攻科を卒業して、高校の卒業式と」

信子は母の苦労を見てきたこともあり、高校卒業後は就職するつもりでいた。

門司港は戦前からの繁栄の名残りで日本銀行をはじめとする大手銀行や名だたる一流企業の支店が数多くあった。

さらに信子たちは新制高校の第1期生(計18名)として珍しがられ、引く手あまたであった。

そうなると、母・春子の期待もふくらむ。
これまで引き揚げ者だとバカにされ、苦労を重ねてきたが、

「信子が大手に勤めてくれたら少しは肩身が広くなる」と思っていたのだ。

***

あんたたちね、勉強したいなら日本とは言わず、洋行(海外留学)してもいいから」。

台湾にいた頃、母は子どもたちに よくこう言っていた。
あの時代にしてはめずらしい寛容さである。

なので信子も「女学校を出たら、上の学校へ進むのが当たり前」と思い込んでいた。

しかし敗戦、引き揚げ・・・と一家をとりまく環境は激変。進学どころではなくなった。


あれは引き揚げの年、女学校4年の終わり頃だったか。
学校から進路希望についての紙が配られた。就職か?進学か? についてのアンケート用紙だ。

信子は進学なんて夢にも思わなかったので「就職」のところにマルをすると、
それを見た母が、

進学させてあげられなくてごめんね。お母さんが甲斐性なしで・・・・・・」

と激しく泣き出し、信子を抱きしめた。
これまで堪えていたものがプツッと切れてしまったのだろうか。

信子にしてみれば、それほど進学したいとも思わなかった。
クラスのなかには専門学校や東京女子大、日本女子大などに進む人たちもいたが、

「この時代、行ける人もいるんだなー」 くらいにしか思わなかった。

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信子は新制高校の第1期卒業生ということで、てっきり大手銀行にでも就職できると思っていたが。

信子は就職できなかった。
担任の先生いわく、
「竹中さん、あなたには優先的に仕事を紹介してあげたいところだけど、求人票がどこもみんな”両親健在”になっていて・・・・・・」

このとき、「世の中とは無情なものなんだ」 と信子は悟った。

母子家庭だからこそ、生活の安定のために子どもが働かなければならないのに、
これほど差別的なものなのか、と。

私が初めて目の当たりにした、深刻な差別です

大手企業への就職をあきらめた信子は しばらく近所の写真屋で働いた。

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