ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

堺市博物館への道

2013-04-16 05:00:00 | 大阪にて

私はたまに串本から電車に乗って大阪へ帰ることがあります。1日だけ大阪で用事がある時などなのですが、車でも電車でも往復だいたい1万円ぐらいかかりますから、いつも同じようなことばかりするのはイヤな性質なので、たまには電車に乗ろうと思うのです。第一電車に乗ってると、ゆっくり景色も見れるし、目を瞑っていてもいいのです。お酒だって飲むことも出来ます。車に乗ってると(運転してると)そういう訳にはいきません。ただ紀勢線はトンネルがやたらと多く、「良い眺めやなぁ」と思っていても急に遮断されたりして興醒めになってしまうこともあり、一長一短ではあります。紀勢線を天王寺から乗ると、しばらくして右に大仙陵古墳が見えてきます。知らない人が見ると小高い山がずっと続いているようにしか見えませんが、鬱蒼とした小山を過ぎると緑豊かな公園になり、ここが百舌鳥古墳群であることが分ってくるのです。

             

私の家の近くにはJRは通ってないので、堺の方へ行くには南海電車を利用します。大仙公園へ行くには高野線の三国ヶ丘駅でJR阪和線に乗り換え、一駅向こうの百舌鳥駅で降りると近いのですが、すぐに電車が来るとは限らないし、少なくとも140円ぐらいは要るのでしょうから私は歩きます。三国ヶ丘駅で降りるとすぐに大仙陵古墳があるのですが、後円部分であり、あまり整備がされていません。古墳を右にして道路に沿って暫らく歩いていると、右側で踏切の警報機が鳴ったのでそちらの方へ歩いていきました。踏切の向こうに見える小高い山が大仙陵古墳です。

             

大仙陵古墳は(宮内庁では今でも仁徳天皇陵と言ってるようですが)、宮内庁の指定によって人は立入禁止になっています。宮内庁は自分を何様だと思っているのか、仁徳天皇が実際に存在したという証明をしてみろと言われても、古事記や日本書紀に書かれたものからしか立証できないのでしょう。古墳自体が豪族のものであり、天皇という名称が使われ始めること自体が2世紀も経てからのこと、何を根拠に宮内庁は、人民の苦役によって造営された古墳などを天皇のものだとして私物化するのか不思議でなりません。

人が入ってはアカンけど、カメなら良いと言うのはどういう根拠なのか。

       

カメだけではありません、サギもネコもカモも入っているではありませんか。きっと無数の虫も居ることでしょう。私たちのような庶民はそれ以下の存在とでも言うのでしょうか。

                       

ここは大仙陵古墳の南東角、大仙町7の表示があります。前方後円墳の前方の角にあたります。私の歩いてきた道は百舌鳥三陵周遊路と書いてあり、多くのジョギングする人で賑わっていました。三陵とは百舌鳥古墳群の中で大きい順に、この大仙陵古墳と上石津ミサンザイ古墳と土師ニサンザイ古墳のことを指すと思われるのですが、どうもその三つを周遊しているとは思われません。宮内庁は相変わらず大仙陵を仁徳、ミサンザイを履中、ニサンザイを反正と結びつけているようです。大仙陵古墳のずっと北にある田出井山古墳を反正天皇陵だとする説もあるようです。ミサンザイもニサンザイも陵(みささぎ)の訛ったものですから、単に上石津陵古墳、土師陵古墳と名付けても良さそうですが、訛りを残しているのはどういう意味があるのでしょう。

この記事を綴っている最中にニサンザイ古墳の環濠に杭跡があったというニュースがあり、濠に橋を渡していたのではないかと説明していました。

             

大仙公園の中にもいくつかの小さな古墳があります。おそらくこの古墳は孫太夫山古墳と名付けられた古墳だと思います。百舌鳥古墳群を調べているとドンチャン山古墳などと言う騒がしそうな古墳もありました。

             

孫太夫山古墳の周りに咲くサクラの木の下でお弁当を広げる人の姿もちらほら、春の陽気に誘われて、このような場所で昼食をとるのも一興です。

             

この像はどうやら仁徳天皇らしい。仁徳天皇がこの地に御陵を造営しようとしたとき、野から走り出たシカが倒れ、その耳から百舌鳥が飛び立ったのでこの地を百舌鳥耳原と呼ぶことにしたという記述が日本書紀にあるらしい。でも堺市の地図を探しても耳原という地名は見当たりません。大仙陵古墳より1kmほど西に協和町という地名があり、そこに耳原総合病院と言う有名な病院があるのが耳原の唯一の手がかりでしょうか。因みにモズは大阪府や堺市の鳥に指定されています。

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