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随時随所楽しまざるなし

情報社会のニーズを理解

2010-01-09 14:15:19 | Weblog
こんにちは。

 私は情報システムについて俯瞰的な、または系統だった教育を受けていません。最初から実践だったわけです。今はそれが良かったと思っていますが、当時、それが物足りませんでした。

 私のコンピュータ勉強の歴史を少し振り返ります。卒論にコンピュータシミュレーションを選択したのは、21歳のとき。新しい物が好きだったから。コンピュータの概説書は厚い英語の本だけ。日本語のマニュアルや本は日立のハイタック10のマニュアルだけ。日本語で厚いのは時代遅れ。読むなと先輩から言われました。アセンブラーとFortranの手引書だけを先生から渡され、シミュレーションはモンテカルロ法と専用言語でした。先生は専門書を私たちに渡し、機械工場のシミュレーションをテーマにしなさいと言い、荏原製作所につれて行ってくれました。

 私の他にもコンピュータをテーマに選んだ同級生はいました。彼らも同じようなもの、機械工学科の中で変わり者でした。専門書と英語の論文を教科書として、新しいテーマをそれぞれ与えられ、卒論に挑戦しました。開発したプログラムはそのまま会社に納入されました。私は教科書がないこと、間違いだらけのマニュアルに不満がありました。しかし、指導教官達も私たちと五十歩百歩。足跡のないゲレンデでスキーをしたことはありませんが、同じような爽快感を味わえたと思っています。

 私の師匠、中村洋四郎さんの分析によると、コンピュータシステム開発の第1期は1945年から1965年。原子爆弾の開発に使われた時代でした。すなわち1番目の改革の波は1945年。私が生まれた年、日本が負けた年。2番目の変革は、1965年。私が20歳になったとき、すなわちコンピュータを専門にしたいと思った時。中村さんは、この時代のシステムエンジニアは未知への挑戦者だと説明してくれます。自分を振り返っても、師の分析は正しいと、言えます。

 1970年代、私は進むべき道に迷いが生じました。このままIBMのお尻に付いて行って、良いのか。自分は面白いのか、富士通は正しいのか、富士通はIBMに勝てない。疑問がどんどん大きくなりました。迷いが生じたのは私だけでなかったようです。中村さんは、システムエンジニアは未知への挑戦者としての役割に加え、顧客の死角を指摘するアドバイザーの役割が増え、時とともに後者の割合が増え、要求される能力、特に担当者能力の比重が変わったそうです。私は1979年に富士通をやめ、シャープに入社しました。時代の流れから当然だったと師は言ってくれます。

 1985年、3番目の変革の波が訪れたそうです。顧客ニーズを分析し、顧客システムの開発を請け負うことがシステムエンジニアの仕事になりました。システム開発の手法が飛躍的に向上し、大型のシステム開発が盛んに行われました。そして2005年、4番目の革新の波が訪れました。クラウド、超並列分散、スーパーサーバーなどの概念が渾然一体となったシステムだと、私は中村さんの分析結果を理解しています。

 コンピュータの歴史は20年ごとに変革が起き、今のシステムエンジニアは情報社会への道案内人の使命が課されているそうです。そして次の変革は2025年、地球規模の問題の解決、例えば、環境問題、核兵器の問題、飢餓の問題、ウイルスの問題などの解決にシステムエンジニアが取り組むことになると師は何と20年以上前に解説してくれました。当時、師は富士通高専の校長でした。このように入学者全員に祝辞を述べていました。

 中村さんは当時から技術キーワードにプロジェクトマネージメントとモデリングと再利用を挙げています。それらは今も重要だが、科学、技術、社会が進化し、社会の新しいニーズを生むと言っています。一番重要な技術は技術の3つのキーワードが重なる領域にあるはずと私は師の教えを解釈しています。

今日はここまでにします。



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