テルミンとJAZZ
テルミンやマトリョミンの話。私、こちろうこと相田康一郎のプロフィールは左メニューバーのCATEGORYを。
 



マチネの終わりに
平野 啓一郎
毎日新聞出版

数日前に読了した小説の終盤、全く予期しなかった箇所に「テルミン」が出てきた。
出てきた、といっても主人公のギタリストが「ベルギーのテルミン奏者の
コンサートに共演し、何曲かは伴奏をした」というだけであったが、、。
しばらくして、作者である平野啓一郎はなぜに「テルミンの伴奏」という設定
にしたのか、考えた。ギターが伴奏する楽器って普通何が思い浮かぶだろうか?。
うーん、ふつうは楽器というか、歌、かな、、。あえてテルミンにした理由は
いかに?。
主人公のギタリストはクラシックギターの名手でありCDもたくさんリリースして
いるし、海外も含めてコンサートを数多く成功させてきた名演奏家である。
ユーモアがあり面白い話でその場にいる人たちを笑わせるのも得意。その主人公
が「テルミンとの共演を興味本位で引受けて、それなりに楽しんだ」という設定
であった。多くの読者にとって、「テルミン」というところにひっかかりが
あったのかどうかも気になるところだが、テルミンのことを知っていても
知らなくても、スーッと通り過ぎることが出来る場面ではあった。つまり、小説
のなかでは、さほど重要な箇所ではなかったと思う。一時期、全くギターを手に
することすら出来なかったほどのスランプに陥った主人公が立ち直った後、普通
に「お仕事的な」演奏も出来るようになった、音楽家としてのいわゆる日常を
描いた場面。そんな場面になにげなくテルミンが使われたことにテルミンを演奏
し、演奏指導する者としての喜びを感じた。ハンニバル・レクターがテルミンを
たしなむという設定には、相応の意味性が付与されている感じが濃厚だった
けれど、この小説のなかでのあまりにも自然なさりげないテルミンの取り上げ
られ方に、そして実は世界的な大手のレーベルが「美男のベルギー人テルミン
奏者」を推している、という設定にも喜んだわけである。
脱線したが、なぜ、テルミンだったのか。テルミン奏者であれば特定の演奏家を
想像させにくいし、あくまでも「共演し、少しは伴奏もした」ということについて、
実像を薄める効果があったのではないか。それが作者にとって必要だったのでは
ないか、と思った。つまりは小説の展開におけるある意味技術的な配慮という
ところではなかろうか。
先日、Facebookに「ギター奏者が主人公の小説を読んでJAZZギターのCDを購入」
という記事をUPしたが、それがこの小説であった。そのCDを買ったお店は
クラシックとJAZZが同じフロアーで、この小説とタイアップした福田進一さんの
同名CDがクラシックのコーナーの棚に目立つように陳列されていて、さらには、
ジャケットにもこの本の表紙の写真ががそのまま使われていて、ちょっと
気恥ずかしくて買えなかったことを告白する。
これからamazonでポチる。恥ずかしい、っていうのは、恋愛小説が売れて、
その「完全タイアップ」というあざとさにひっかかっている、ということと、
「大人の恋愛物語」に浸っている、ことが店員さんにバレバレという恥ずかしさ
のダブルパンチ。
あ、そうそう、物語は40歳くらいの音楽家とジャーナリストの恋愛小説で、
新聞に連載され話題を呼び、連載終了時は「マチネロス」なる言葉も生まれた
ようだ。音楽、映画、文学などの芸術に関する深い知識と考察、近現代史の
闇の部分を取り上げつつ、音楽家の苦悩や分別ある大人の男女が魅かれあう想い、
すれ違いの哀しさ、引き込んで読まされた。含蓄あるセリフもちりばめられており、
今度は福田さんのギターをCDで聞きながら再読したいと思う。

ちなみに、竹内正実先生のCD「ヴォカリーズ」のオビ文は平野啓一郎さんの寄稿
によるものだった。

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