テルミンとJAZZ
テルミンやマトリョミンの話。私、こちろうこと相田康一郎のプロフィールは左メニューバーのCATEGORYを。
 



 テルミンという楽器の形はとても魅力的だと思う。テルミン博士の手になるRCAテルミンおよびその系列の楽器は木製キャビネットで、重みと風情がある。現在発売されているテルミンはやはり電子楽器的であるが、それでも独特の風格というべきものを持っているように見えるのは贔屓目であろうか。
 木製キャビネットのテルミンに風情があるといっても、垂直、水平に出ているアンテナの輝きが、やはり先進的な、あるいはSF的な科学性を感じさせる。ここがまたたまらない魅力である。
 我が家の居間にいつも鎮座するイーサウェーブは既に部屋の一部分と化してしまった感があるが、なにかこう、いるだけである種のオーラを放っている。ときにはボリュームアンテナがネクタイかけになったりもしているが、垂直と水平の輝くアンテナがなにかの意思を持っているかのように感じることがある。
 私はテルミンの音、うまく弾いたときのその音楽性、とともにテルミンという楽器そのもののカタチにも魅せられているのだということをあたらめて感じている。この魅力に大きく寄与しているのは水平に突き出しているボリュームアンテナだとふんでいる。

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 おもしろい、不思議、???、テルミン演奏を初めて目の当たりにした人が漏らす感想である。当然のことと思う。自分もそうであった。ただ、できれば、そこから一歩先に進んで、テルミンが奏でる音、音楽、演奏そのものにもっと耳を傾けてもらいたいものと思う。誰にか。多くの人にである。
 生れて初めてバイオリンの演奏やトランペットの演奏を実際に聞いたと想定すれば、やはり、テルミン演奏を初めて実際に見たときと同じ不思議感を持つのではないだろうか。テルミンの演奏をテレビで見る機会や実際に聞く機会を多くの人が持つようになれば、不思議感はだんだん減っていくだろう。私もアマチュア演奏家としてテルミン不思議感減少活動(?)の一端を担えるようになりたいものである。

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 最近連続して人前でテルミンを演奏する機会があったが、その際、自分の目線がどこにあったか、思い返してみた。1回はクラリネットとの2重奏で、タイミング合わせのためにクラリネットの動きを注視していた。もう1回は外人さん(ロシア人)が多くを占める聴衆の前でのピアノ伴奏による独奏。このときはどこを見るでもなく、目は空中のあらぬところを見ていたのではないか。少なくとも、聴衆の顔を思い出せない。
 師匠の演奏をビデオに収める機会も持ったが、演奏中の顔をアップにしてみたものをプレイバックしてみたところ、やはり空中のどこか1点を見るとは無く見ているようだ。よーく観察してみると、そのときの目の開き方は所謂「半眼」という仏像のそれである。極度の集中により眼を開けているのに空けていない、起きているのに起きていないというような感覚(半覚醒状態)となっているのではないだろうか。そのうち、テルミン演奏中に突然悟りが開けてしまうかもしれない。

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