しかし、奥の院まで行く人はそんなに多くない。書写山が西国33観音札所であるので、参詣の人が絶えることがない。参詣の善男善女で賑わっている。
この標識の上にある弁慶鏡の井戸が面白い。標識の下には小さな池がある。弁慶が若いころここで修行をしていたという伝説がある。
これは「義経記」の弁慶の項に記載がある。
それは、居眠りをしていた弁慶の顔に墨を塗った仲間がいた。弁慶が眠りからさめ、皆の前に出ると散々笑う。
はじめは弁慶も訳が分からずに一緒に笑っていたが、寺を辞して里に戻っても道行く人が笑う。
ここで気がついた弁慶は「男が鏡など見ないものだ」と思っていたが、池の水面に写る自分の顔に墨が塗られているのに激怒した。
彼は、怒りのあまり、松明を屋根に投げ上げた。そして散々に暴れまわった。このとき円教寺は、ほぼ全堂宇を焼失したという。
小さな池であるが、奥の院への参道の入り口にある。
正面のお堂が奥の院本堂であり、円教寺を創建した性空(しょうくう)上人を祀っている。
最近になって、ここの扉が開放された。一人の僧が常駐している。
左:伽藍が焼失して以来、性空上人の像が安置された。
右:近年になって焼失したとばかり信じられていた性空上人の像が発見された。それがこのポスターになっている。顔が違ってしまっているが画期的なことである。
本堂の軒下には、力士の木彫りが屋根を支えている。伝説で左甚五郎作と言われている。
屋根のコーナーのうち3つに見られる。1つだけは力士がいないが屋根の重さに耐えかねて逃げ出したと言う。
本堂の前に、2つのお宮がある。乙天(おとてん)と若天(わかてん)である。彼らは性空上人の初めからの付き人で、上人を助けてきた神様である。
さてここ書写山の伝説で、和泉式部が性空上人の教えを受けるために都からはるばる訪ねてきたという話がある。
上人が断ると、和泉式部は和歌を詠んだ。それを見た上人は歌に感動して、呼び戻し為になるお説教をしたと言う。
式部「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端(は)の月」
上人「日は入りて月はまだ出ぬたそがれに、掲げて照らす法の灯(ともしび)」
左に見える歌塚には、鎌倉初期の日付が刻まれている。
この標識の上にある弁慶鏡の井戸が面白い。標識の下には小さな池がある。弁慶が若いころここで修行をしていたという伝説がある。
これは「義経記」の弁慶の項に記載がある。
それは、居眠りをしていた弁慶の顔に墨を塗った仲間がいた。弁慶が眠りからさめ、皆の前に出ると散々笑う。
はじめは弁慶も訳が分からずに一緒に笑っていたが、寺を辞して里に戻っても道行く人が笑う。
ここで気がついた弁慶は「男が鏡など見ないものだ」と思っていたが、池の水面に写る自分の顔に墨が塗られているのに激怒した。
彼は、怒りのあまり、松明を屋根に投げ上げた。そして散々に暴れまわった。このとき円教寺は、ほぼ全堂宇を焼失したという。
小さな池であるが、奥の院への参道の入り口にある。
正面のお堂が奥の院本堂であり、円教寺を創建した性空(しょうくう)上人を祀っている。
最近になって、ここの扉が開放された。一人の僧が常駐している。
左:伽藍が焼失して以来、性空上人の像が安置された。
右:近年になって焼失したとばかり信じられていた性空上人の像が発見された。それがこのポスターになっている。顔が違ってしまっているが画期的なことである。
本堂の軒下には、力士の木彫りが屋根を支えている。伝説で左甚五郎作と言われている。
屋根のコーナーのうち3つに見られる。1つだけは力士がいないが屋根の重さに耐えかねて逃げ出したと言う。
本堂の前に、2つのお宮がある。乙天(おとてん)と若天(わかてん)である。彼らは性空上人の初めからの付き人で、上人を助けてきた神様である。
さてここ書写山の伝説で、和泉式部が性空上人の教えを受けるために都からはるばる訪ねてきたという話がある。
上人が断ると、和泉式部は和歌を詠んだ。それを見た上人は歌に感動して、呼び戻し為になるお説教をしたと言う。
式部「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端(は)の月」
上人「日は入りて月はまだ出ぬたそがれに、掲げて照らす法の灯(ともしび)」
左に見える歌塚には、鎌倉初期の日付が刻まれている。
良いところですねぇ..。
なによりも目を見張るのが、
屋根を支える力士の彫刻で
す。他に見たことがありま
せん。
世界遺産姫路城ということで、書写山も脚光を浴びているようです。
この力士像ですが、高い屋根の軒先で双眼鏡ででも見ない限り、細部が見えませんでした。
実は写真を撮って初めてその精巧な彫り物に気が付いたものでした。
一箇所が逃げてしまったというのもロマンですね。
噂で、何処に逃げたかも話がありました。
弁慶のユニークなお話・・最後に弁慶の持つ松明の火が円教寺の全堂宇を焼失・・矢張り一本気で少々無謀な処が有ったのかと思ってみたり致しました。
奥の院の本堂、性空上人さまの像が発見されたりお側に僧が常駐とは,良いですね。
本堂の軒下を支えれ力士(筋肉隆々リアルな彫り物にビックリです。)重さに耐えかね逃げ出した・・なんて??面白いお話・・思わず吹き出してしまいました。
木立の奥に佇む鎌倉初期の歌碑にも思いを馳せるものが有りますね・・
弁慶すら史実になかったという学者もいます。
この話は「義経記」の「弁慶」という節に、出てくるものです。暴れん坊弁慶の楽しい話が、数多く出てきます。
書写山でも、暴れ者だったので、墨でいたずらされたといいます。
力士が逃げ出して、播磨一ノ宮に行ったそうですが、書写山の坊さんが行ったとしても、一ノ宮の神主は見せてくれないそうです。