思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

今日は特訓

2005年07月24日 | Weblog
朝から夕方まで、ある施設に閉じ込められ、演劇公演最終段階に向けて特訓。
舞台装置もほぼ完成していた。
大道具さんも、4本の創作劇だからいろいろご苦労だと思う。

私の演技の中ではパントマイムの部分があるが、難しい。
もう少し工夫が必要と言われた。

女房は風邪で声をあまり出せない。
この暑さで冷房と炎暑の中をウロウロして、体調を崩した様子。
不機嫌に絡んでくる。俺のせいで風邪を引いたと言わんばかりだ。
あまり近づかないでおこう。

昔作ったモデルガン

2005年07月23日 | Weblog
多分30年ほど前のものと思う。
何故か今でも身近に置いてあって時々取り出して磨いたり触ったりしている(アホやなあ~)
あの当時仕事二の次で時々徹夜しながら作ったりした。次から次と。
女房は怒ってたなあ。

真鍮の弾丸がついていて、弾丸に紙火薬を挿入して檄鉄を落とすと連続してブローバックして排莢される仕組みになっている。
弾丸は発射できないが、殆ど実物そっくりに作動する。
スパイ映画とか、スパイ小説とか、孤高のスナイパーとかに凝りまくっていた。
つまり現実逃避の人生を送っていた。
「寒い国から還ってきたスパイ」…しびれるタイトルの小説だったなあ。
三つ子の魂百までというが、心根は今もあまり変わってない。
成長しないな、俺は。

テレ笑い

2005年07月23日 | Weblog
自意識過剰な私は時々テレ笑いする。
相当の顰蹙(ひんしゅく)を買っていることは分かっている。がいざ指摘されると自分への嫌悪感で悲しい気持ちになる。

1度目は、1年程前に第9の歓喜の歌レッスン中に、音程を間違えて発声して微かに照れ笑いした。
大勢の中だから1人くらい照れ笑いしても許されると思っていたら、壇上のレッスン教師に即座に指摘された。なぜそんなことまで見えているのか分からないがとにかく指摘された。

個人名ではなく
「今照れ笑いした人がいます。絶対にやめてください。全体の雰囲気がぶち壊しになります。一生懸命にやっている人に対する冒涜です。間違ってもいいです。どうせ1万人の中で聞こえませんから。しかし照れ笑いは目立ちますのでやめて下さい」

一瞬、わが人生の全人格を否定されたような悲しい気持ちになったことを覚えている。
そして、逆にわが照れ笑いあるいはせせら笑いも、その人の人生を傷つけてきたかも知れないと背筋を寒いものが走った。

2度目は先日の演劇練習中に言われた。
自分では意識していなかったが、
「演技中笑うべきときではないのに照れ笑いしている。もっとしっかり役に入り込んでください」と演出者に言われた。
帰ってから女房にまで言われた。
「だれも貴方自身を演じろなんていってない、役柄を演じろと言ってるのよ。いい年してええ加減にしてや~。」
女房は人格的には俺よりはるかに上をいってる。尊敬します!。
中途半端な気持ちでやってるからこんなことになる。
きっと皆に迷惑かけてるんだろうな。
多分俺はこんな風に生きてきたんだ。
この年じゃやり直しはきかんな。

いや。やり直しは何度でも出来る。めげずに頑張ろう。
思春期の女の子みたいだが、ま、いいか。多分重要なことに思えるし。

高校生の演劇見学

2005年07月22日 | Weblog
午後から高校生の演劇コンテストの発表を見に行く。
この前の立ち稽古のあとに、希望者に整理券を渡された。
多分私らの素人演劇よりは数段上の水準を行くだろうと期待して見に行く。
参考になることも多いように思う。

暑いし涼しいところで過ごすのが一番。

続き。
結構見応えがあった。青森県の八戸で全国大会があるらしく、そのカンパを求められたがしなかった。枚方市の市長も応援の挨拶をしていた。
演じる人たちは若いだけに激しい動きが随所に取り入れられていたが、様になっていた。
テーマは親子の愛情というところか。
若いだけにもひとつ踏み込みが欲しかったような気もした。

エアコンなしで

2005年07月22日 | Weblog
今日も蒸し暑い。
朝8時半ころ用事で外に出たが、既に我慢できない蒸し暑さ。

隣の家は、いつも玄関ドアを開けて網戸を張って風を通している。
10年来夏はそうしている。
多分エアコンを使っていない様子だ。
経済的理由とは思えないから、何らかの考えに基づいてエアコンを使わないのだろう。
そんな人は意外に多い。

今日は36度以上になるといっていた。
我が家はこらえ性がないから、エアコンつけっぱなし。
寝室も朝までつけっぱなし、女房が風邪を引いたみたいで声がガラガラになっている。
エアコンのせいだろう。
演劇公演も近いのに、早くなおせよ。
そして俺にうつすなよ。

1万人の第9応募

2005年07月21日 | Weblog
12月の初旬に、大阪城ホールに1万人が集い第9を歌う恒例の応募抽選結果が出た。
今年も抽選は当たり。
テノールが不足気味なのでテノールは必ず選ばれる。
従って、本当はバスかもしれないがテノールで申し込んでいる。
しかも、女房とペア条件で申し込むのでソプラノの女房も必ずセーフ。

去年の特訓でドイツ語の歌詞も覚えてしまったから今年は楽勝だろう。
8月15日からレッスンが始まる。私達は毎週月曜日のクラス。
3回サボったら12月の参加を拒否される。

レッスン会場は梅田にある。
梅田界隈が、劇団四季劇場やらブランド品のショップ、気の利いたお食事の店が出来たりして最近様変わりして洒落た感じになっている。
レッスンの後ウロウロと歩き回るのが女房の楽しみみたいで、レッスンの後が疲れる。
別行動を匂わすと怒るしなあ。

去年から参加しているが、1年経つのはあっという間だなあ。

ブログ文化

2005年07月21日 | Weblog
ウエブログでHPが手軽に作れるようになって、急速にブログの作成者が増加している。
日記調のものが圧倒的に多い。
デジカメの写真を掲載できるのも幅を広げている。
自分が描き貯めたデザイン画を公表している人もいる。
絵文字とか流行語をふんだんに駆使した文章は一昔前にはありえなかった表現だ。

日記を公開することは本来ありえないことだが、自分の思いのありったけを匿名性を利用して公開する。
自分の思いは誰かに届いているかもしれないと期待する。
友達同士の掲示板みたいに利用している人もいる。
自分の思いを文章にして、自らの考えを確かめている人もいる。
セックスを最大の関心事にして、普通は会話しないことも書き留めて自らを解放している人もいる。
ある意味では、居ながらにして多くの人生を共有できるともいえる。

ここ1年程の間に急速にひとつの文化に成長しているような感じを持つ。
不特定多数に公開している点が携帯メールの文化とも一味違う。

自由にコメントを送付できる点は、一つの意思疎通として楽しめる。相手の顔は見えないが。

最近気づいたことだが、書いているブログ自身に自分も縛られているような感じを持ち始めた。
じわじわと自分を縛り始めて、感情が解放されず固まってくるような感じ。
と言うのは、コメントしてくる人あるいはコメントを送っている人を意識し始めると言うことだ。
気に入られるようなことを書こうとする迎合性が生まれてくる。
恥は曝すまいとか。

そうなると匿名性が失われる。本当の感情から遠ざかっていく。
ジキル用とハイド用の複数のブログを持つのも、いいかな。
どちらが本当の自分か分からなくなって、2重人格的性格がが益々助長されたりして。

ふとそんなことを思う。



通し稽古

2005年07月20日 | Weblog
えらいこっちゃ~。
7月末の公演の日が近づいてきた。
今の状態では公演なんか覚束ない。
私の役は、役たたずの無責任男でフラフラと生きてきた甲斐性なしだ。
付和雷同型で自分の確固たる信念は皆無。人を非難するのは得意。
役になりきって真実の演技をしろと演出者からの注文が多い。

自分はそんな人間じゃないと思っていて心理的抵抗が多いが、そんな面も多いぞと最近思うようになってきた。
世間一般の常識的な思考パターンを代表する人物像だそうだが、なりきれない。

人間はある意味、どうにでも変化しうる要素をもっていると思う。
洗脳されれば殺人兵器にもなれるし、企業戦士とかもそうだ。
躁鬱症も病気といえば病気だが、誰でも備えている感情の起伏だ。
硬派とか軟派とか、何かのきっかけで変わりうる。

自分の中にも多重人格的に多くの要素が混在している。
役になりきるというのは、自分に内包する役柄にあう人格要素を取り出して表現しろということかな。
もひとつ良く分からん。

自爆装置不発

2005年07月20日 | Weblog
昨日の新聞に衝撃的な3枚の連続写真が載っていた。
パレスチナの21歳の女性が2重のズボンの下に10キログラムの爆弾を巻きつけ、イスラエルの入り口の検問所で疑われた。幾重もの鉄条網の途中でストップをかけられ、スカーフ・コート・上着を取るように命じられた。観念して自爆しようと自爆用のスイッチを引くが不発。
何度も引き直すがやはり不発。絶望のあまり手で顔を覆い泣き叫ぶ。

彼女は自宅での事故による全身やけどの治療のためにイスラエルの病院に通っていた。自爆の目的はその病院だった。
Tシャツの下からは、真っ黒なやけどの跡が腕とか腹とかに見えている。
活発で明るい女性だったらしいが、やけどの後の彼女の絶望に、パレスチナの過激組織が取り入って自爆テロリストに仕立てていった。

なんとも切ない写真だった。
哀れなヒーロー。

人間らしさを踏みにじり、テロリストにされていく過程はあまりにも非人間的で悲惨なものがあることを思い知らせる写真だった。

無駄な胸部X線写真

2005年07月19日 | Weblog
先日の新聞で読んだが、今日またテレビで見てまたもや腹が立ってきた。
会社の健康診断などで実施されている胸部のX線レントゲン写真は何の役にも立ってないし、むしろ検査で浴びるX線の照射の体への害のほうが心配とされているという。
この検査で肺がんが見つかる可能性は非常に低いとか。
しかるべき医療関係者の権威の発言である。
もともとは肺結核の検査が主だったはずだが、なんとなく継続されている。

この健康診断で医療機関に入る収益は、3000億円から4000億円という。
これも人命無視の営利行為だ。

確かにそんな事例があった。
後輩が会社のレントゲン写真で「異常なし」のお墨付きをもらっていたのに半年後に肺がんで死亡した。若い奥さんと2人の子供を残して。
レントゲン写真を取り寄せて病院に持ち込んで再判定してもらったら、写真を見る限りでは肺がんは認められないという。一体何のための健診か。

以前からそんなことは話題になっていた。
会社の健診での胸部のレントゲン写真は、小さな画像のため判別できず、ほとんど意味がない旨の話題だが、費用は会社持ちだから受けておこうとか、また受診は社員の義務的な面もあった。

政府はそんなことはとうの昔から分かっていたはずだ。
医療関係の収益を温存する要請に従って継続していたのだろう。
許せない。