働く主婦のじゅんこです 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

光る家

2009-11-30 07:10:59 | 友達
「おしどり夫婦」と言われるように、オシドリは仲のよい夫婦の象徴として扱われる。

しかし、実態は、子育てはメスが行い、繁殖期ごとに別の相手と結ばれるそうだ。

その点、丹頂鶴(たんちょうづる)のつがいは、一生解消されない。
「丹」は「赤い」、「頂」は「頭頂部」ということ。

白黒赤の清楚な姿は、美術絵画にも映え、「松に鶴」は花札だが、「鶴の恩返し」や、
「鶴は千年」の長寿の象徴など、日本では、大変馴染み深い。

いつまでも仲睦まじい夫婦は「タンチョウ夫婦」と呼ばれてもよさそうな・・・。

それをなぜ「おしどり」かは、別として、年を重ねてなお、仲良い夫婦は、見ていて、
実に微笑ましい。

相性というか、長年にわたる双方の努力、忍耐、向上心あってのことだろう。

「ずっと愛し続けます」という、最近、婚約発表した歌舞伎俳優のコメントには、オッと
驚いたが、始めは誰でもそう思うもの。

新婚時代は「○○さん」と名前で呼び合っても、子供が生まれると、いつの間にか
「お父さん」「お母さん」。

子育てするうち、「おい」と呼ばれて「なによ」となる。

すれ違いも、互いの忍耐で乗り切れるうちは脈があるが、どちらかが、ふっと切れて
しまうこともあるだろう。

他人同士が、長年連れ添うのは、大変なこと。
まして「おしどり」夫婦なんて・・・。

先週に続き、そのほのぼのとあたたかいご夫妻のお宅で、歎異抄第1章について、一語
一句尊く聞かせて頂いた。

参詣者も格段に増え、暖炉のある、庭園を一望する大広間で会食し、その後も各部屋で、
仏法讃嘆の声が溢れた。
グルメのご主人お勧めのお茶菓子まで頂いて・・・。

「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」(歎異抄第6章)

「連れ添う縁あれば同行するが、離れる縁あれば、別れねばならぬ。人の離合集散は、
入り組んだ因縁によるもの」と親鸞聖人は仰言っている。

真実知らされた同志が、一軒の家に会するのは、余程の因縁がないと有り得ないこと。
一人で求めるには、難しい遠い道だから、連れが大事とも言われるが、夫婦で仏縁あれば、
一層、強い絆となるだろう。

昨日ご縁の無かった法友も、共に百千萬劫の仏縁を感謝して、仲良く光に向かって奮起
したい☆

正体見たり枯れ尾花

2009-11-27 21:52:38 | その他
   どこの誰かは 知らないけれど、
   誰もがみんな 知っている

なんだか、ややこしい歌だが、国産初のスーパーヒーロー「月光仮面」の主題歌である。
   
   疾風のように 現われて
   疾風のように 去って行く
   月光仮面は 誰でしょう
   
結局、月光仮面は誰なのか、わからないということか・・。

どうも、人は、謎めいたヒーローに惹かれるらしい。

スーパーマンもそうだった。
秘密のアッコちゃんなどは、私がまだ小学生の頃に、流行ったものだが、今でも変身ものは、
正体が隠されている作品が多いと思う。

匿名で始めたブログであるが、
「どこの誰かは知らなかったけれど、じゅんこさんとは、あなたでしたか」と
身近に驚かれる人が、最近あってこちらも驚いた。
それも、一人でなく二人でなく・・・。

子供達に残そうと、せっせと書いてきたつもりだが、ネットの力は恐ろしい。
ちょっとしたキッカケでたどりつく。

「素敵な人だと想像していた」なんて、乙女心がキュンとなるようなことを言われると、
ゴメンナサイと穴に入りたくなるが、別に「月光仮面のおばさん」を気取っていたわけでは
ないのである。

匿名で、責任逃れをする気もなし、別に身を隠すこともないような・・・。
いろいろな人のブログを拝見すると、身元があきらかな方が、親しみやすいような気もしてきた。

発信したい確かな動機と、時間が許す限り、書いておきたいことは山ほどあるから・・・。
身を証したことで、話せる人増えれば、輪が広がってまた嬉し。。。

ということで、紹介記事を更新したので、子供達よ、若い友人達にも紹介ヨロシク☆

苦難も、あえて。

2009-11-26 23:50:06 | スポーツ
北島康介が、北京五輪後、1年3ヶ月ぶりに復帰戦を行った。

ロンドン五輪を目指すと言う。

自分を表現できる場所はプールだと、いったん水泳から離れ、改めて知らされたらしい。

金メダルが決まった、あの瞬間の雄たけび、涙目で発した感激のセリフを、今も覚えている人は
多いと思う。

オリンピック3度目の頂点へ・・・。
これがいかに過酷で、苦しい道のりか、誰より一番よく知っているのは彼自身。

その上での決断は、向かう先にある栄光の感動が、またとてつもなく大きなものだと、彼が一番
知っているからだろう。

苦しいのも、辛いのもこのためだ、と目的がハッキリしていれば、どんな苦難も、イバラの道も
耐えられる。

しかも大きな目標ほど、挑戦する意欲が、達成に向かう努力となるものだ。
だから、自ら苦しみを求め、厳しい環境に身を追い込んで、鍛え抜く・・・。

誰でも通れぬ厳しい過程だから、乗り越えて得られる達成感もまた、人並みはずれて大きく、
それが多くの人に勇気と感動を与えるのだろう。

「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と月に祈ったという天下の武将は、山中鹿之介と言う。
勿論、「難」や「苦しみ」を好んでのことではなかろう。
苦難が、自己を磨く大事と知ってのはず。

スポーツや、天下取りでさえ、苦難に向かい、甘んじてそれを受けて立つのである。

大宇宙の真理、因果の道理を仏教に知らされたものは、なおさら、目的の大きさに比例して
努力精進せずにおれないもの。

人生の目的という最大事に向かって、どんなに苦しく落ち込んでも、自己を磨く成長の糧として、
ひたすら光に向かい、苦労を厭わず邁進したい☆

五感の楽しみも・・・。

2009-11-23 22:34:46 | その他
車中、ラジオの歌番組で
「アレルギーで、肌のかゆみがひどくて困っている、癒される曲をかけてください」というリクエストが
あった。

その時流れたのは誰の何の曲だったか、覚えていないが、低音のゆるやかなテンポの歌・・・。

聞く楽しみに集中することで、かゆみを紛らわせるような曲を望んだのだろう。

寒い朝、なかなか子供達が、起きてこない。
子供達がまだ小学生だった頃、朝食に大好物の料理を作って「おいしいのができたよ。アツアツだよ」
などと声をかけて、起こしたものだ。
眠くても、食べたい楽しみが勝ると、起きてくる。

体のどこかが都合悪かったり、気分がすぐれなくても、おいしいものを食べたり、映画を見たり、
コンサートに行ったり、旅行したり・・・。
そうして楽しい状態を作り出すことで、人は自然と苦しみの立て直しを計り、更なる幸せを
求めるのだろう。

だから、何を見れば、どんな曲を聞いたら気持ちよくなれるか、どんな香りが落ち着くか、
何を食べたら満足か、どんなスポーツで快感を得るか、五感を喜ばせることに一生懸命・・・。

それが、「生きる」実感のようだ。

しかし、どんなに面白い映画でも、何度も繰り返し見れるものではないし、見続ければ、必ず
飽きがやってくる。
好きな料理も、毎食となると、苦痛になろう。
かゆみも、掻き始めは、気持ちよいが、やがてヒリヒリと痛みに変わる。

残念だが、いつまでも変わらない快感はないようだ。

五感の楽しみ・・それらは、趣味や生き甲斐であり、生きる目的そのものではないということ・・。

昨日、あるお宅で仏法を聞かせていただくご縁に恵まれた。

どの部屋からも緑の庭園が、目に触れて心地よく、採光に恵まれ、木のぬくもり、こだわりの
調度品、赤々と燃える暖炉・・・。

一番大事な目的を果たすために、整えられた素敵な環境と有難く思わずにおれない。
真剣な聞法だから、ほっとする空間の存在も大事になる。

目的が大事だから、手段が大事。
生きる目的に向かってこそ、仕事や生き甲斐、趣味や特技も生かされる。

その実感を胸に、みなと仲良く光に向かって過ごした感動と感謝の一日だった☆

「絶対」という言葉・・・

2009-11-20 21:54:35 | 家族
亡き母が、よく使った言葉に「絶対」がある。

ウソが嫌いで、潔癖症と言われるほど完璧を好んだ母は、「絶対○○する」とか、「絶対間違いない」
と、よく言ったものだった。

母が「絶対」の存在だった私は、母の言うことにウソはない、間違いないと信じて育ってきた。

ところが、仏法を聞かせて頂くようになってから、である。
「絶対」という言葉が、頭のどこかで、崩れていったのは・・・。

母の口から出るたびに、「それは違うよ」と訂正する私に、最初は、猛烈に反発していた母も、
仏縁が深まるにつれ「そうだね」と同調するようになった。

だから、今でも無防備に「絶対変わらない」という信念のような言葉を聞くと、どうしても敏感に
反応してしまうのである。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなし」。(歎異抄)
親鸞聖人は
「火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、
真実は一つもない」と断定されている。

煩悩にまみれ、不実な我々は、まことがないのが、まことの姿・・。

親戚や、家族からも「バカ正直」と言われていた母。
同情して、高いものを買わされたり、よく騙されて腹を立てていた。

皮肉にも、そんな姿から、人間の不誠実さ、不確かさを学んでいた私は、歎異抄にあるこの言葉に、
釘付けになったのである。

「絶対ウソつかない」と断言する母の姿も、偶像であり、ウソつかずして生きられないのが、
ホントの人間の姿だった・・・。

正直に生きようとする努力が、痛ましいほどだっただけに、「絶対」の自負は大きかったのだろう。
母への尊敬は、より増して、なんだか今でも懐かしい。

「絶対」という言葉は、私の思いには、使わない。と言うか、使えない。
絶対間違いないと言えることは、世間事にないから・・・。

ただ一つあるのは、歎異抄に続く「ただ念仏のみぞまこと」だけ。
不実で、苦しみから離れられない「私」を、必ず救い摂ると誓われた弥陀の本願、その弥陀より
賜った念仏のみが、絶対間違いない真実と教えられるのである。

弥陀に救われた世界を、第7章には「無碍の一道」、今日の言葉で「絶対の幸福」と言われる。

本当の意味で「絶対」の言葉を使える身が、とてつもなく有難く嬉しい☆

「わかってくれない」が意味すること

2009-11-17 07:02:40 | 家族
「何を言っても、わかってくれない」。
そう言って、息子はよく口をつぐむ。

悪さをして指摘したとき、それが、反論できないとき・・・。
「どうせ言ったって、わかってくれない」から「黙る」と言う。
一体これが、どういう意味か、分かって言っているのだろうか。

部活や試合、休日となると早起きするのに、休み明けとなると、寝起きが悪い。
原因を聞いても答えずに、「起こす大声が、近所迷惑」と反論する。

時間に遅れると「なんで、早く起こさない」。
起きれない時は、「自分のことはほっといて」。

あげくの果てに「お母さんには何を言っても、わからない」とくる。

17歳では、無理なのかもしれない。

幾つになっても、自分のことを「わかってくれない」と思い込んで嘆く人は多いようである。

これがどういう意味か、息子よ、ちょっと冷静に考えてみよう。

まず、相手がわかってくれないと責める前に、相手のことを、どれだけ分かっているか、
わかろうと努めているか、振り返ってみたらどうだろう。

「わかってくれない」と壁を作る人は、相手のことをわかろうとする努力を怠っていることが
多いと思う。

わかってほしいのは、誰しも共通した願い。
人は、理解してくれる人を求め、分かり合える人と共にいたいと思うもの。

相手の立場や、気持ちを分かろうともせず、一方的に
「分かってくれ、なんでわかってくれんのだ」では、相手も、とまどうだけだろう。

では、自分の心は、わかっているか、と己が心に問いを向ければ、「わかってほしい」ものが
何なのか、実際には、自分でも理不尽で「わからない」。

だから、相手にわかってもらおうとする意欲が欠如し、わからせる努力を放棄し、貝の姿となって、
黙るしかなくなるのである。

そうでなければ、理解できるよう向き合って、とことん話し合いができるはずだし、納得させる
力を身につけるべきだと思う。

誰しも、自分の判断が間違いない、と信じている。

そんな個々各別の異なる物差しで、互いに、人の心を計って見れば、どこまでいっても、
分かり合えることなど皆無であるに違いない。

「わかってもらえる」のが大前提でなく、「分かり合えない」ものが人間関係。
だからこそ、「分かり合おう」とする努力が不可欠なのだ。

「わかってくれない」という前に、少しは母の言葉も聞いて、心の内を語ってみないか。
駄々っ子のように甘えているだけにも思うけど、発した言葉で、自己を見て、互いの未熟さを、
鏡のように知らされることもあるだろう。

多生のただならぬ縁で、今も、そして未来もずっと、共に家族でいたいのだから☆

意味を知らずに発する言葉

2009-11-16 08:08:41 | その他
皇居前広場では、即位20年を祝う3万人が集まったらしい。

50年前の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まり、熱烈な祝福を受けたと言われる。

民間出身で、清楚で知的な美貌は、ミッチー・ブームを巻き起こし、国民の絶大な人気を得たと
言う。当時、日本で最も美しい女性の一人だった。

ところが、時の流れと共に、面影は例外なく変わってしまう。
人知れず平坦でない、半世紀の歩みの苦労があるのだろう。

年齢をあまり感じさせないジュディ・オングという女優は、「悦己悦人」、自分も喜び、人も喜ぶ
というポリシーが、元気の元になっているそうだ。

自分の欲を満たすために、他人のことなどお構いなしの生き方に比べ、人を喜ばすことを、自分の
喜びとする人生は、好ましかろう。

だから、その喜びが、いつまでも続けば、問題ない。

しかし、身を削るような思いで、人を喜ばせるほど、思わぬ失意も多いもの。

あんな人でさえ、苦労があるのだ、楽あれば苦あり、人生なんてそんなもの、それでいいじゃないか、
と言う人は実に多い。
が、どれだけその意味を知って、言っているのだろう。

もしこれでいいなら、「苦しみの新しい間が楽しみであり、楽しみの古くなったのが苦しみ」となり、
結局、一生通じて「人生苦なり」となってしまう・・・。

苦しむために生きるんだ、それでいいじゃないか、とでも言うのだろうか。

皆々幸せを求めている。しかも、いつまでも続く幸せを・・。

ごまかさない本音を内に見て、湧き上がる深い望みに触れたとき、生きる真の目的を求めずには
おられない。

本当の幸せとは、何なのか、生きる目的はどこなのか・・・。

それを、仏法に聞けば、泡沫のように消えない、本当の幸せに向かって、生きる意味ある一歩を
踏み出せるのだ。つくづく有難い仏縁を喜ばずにおれない☆

整形しても変わらぬ世界

2009-11-13 20:45:57 | 世事情いろいろ
別人のような整形手術を施して、2年7ヶ月逃げ回った市橋容疑者が捕まった。

逃亡の間、どんな心境だったのだろう。

少なくとも、整形するまでは、常に捜査の手や、警察の影におびえ、周囲に気づかれないかと、
戦々恐々。一時として、気の休まることはなかったのでなかろうか。

たとえ人相を変えても、別の人生に、生まれ変われるわけではない。

陰を引きずり、心許す人もなく、自由な外出を楽しむどころか、広い世間が、ひどく狭い監視下
に思えたことだろう。

整形後の写真が公開されてから、あっと言う間に、世間中から追い詰められ、ついに逃げ場を
失った。

逃げるために整形したことが、逮捕のきっかけになったのである。

蒔いたタネは、必ず生える。
これは、大宇宙の真理、因果の道理。

仏教では、善因善果、悪因悪果、自因自果と教えられる。
「原因」とは「行為」、「果」とは「運命」。

幸福という運命は、善い行いが、不幸や災難という運命は、悪い行いが引き起こしもの。
善いのも悪いのも、自分の運命のすべては、自分のまいたタネが生み出したものなのだ。

顔の一部を抹消しても、犯した罪は消失できず、どんなに環境を変えたところで、罪の重さは
軽くはならぬ。

たとえ、捜査の目をくぐり抜けたとしても、自分がやった悪業は、身から離れず逃げ切れない。
未来、必ず報いを受けて、泣き泣き果たさねばならぬのだ。

今は、どんなに立場や肩書きで、身を固めていても、及ぶ結果に例外も、特権も、境界線も
ないのである。

更に仏教では、口や身体で犯す罪よりも、心で思う罪の方が最も恐ろしいと教えられる。

「殺るよりも、劣らぬものは思う罪」

心のタネは、とかく問題にされないものだが、身に起きる結果を省みて、よくよく心の動きを
見つめていこう☆

脳科学でも暗い「心の闇」

2009-11-11 07:08:44 | 家族
昨日、久しぶりに、遠くで学ぶ長女に、米や果物を送った。
前回、届けた控えを見ると、なんと年明けてすぐの2月3日。
冬の終わりと、冬の初めに贈り物。
かわいい子供への仕送りが、年にたった2回とは・・。

なんて薄情な、と言う人あれば、こう答えたらどうだろう。

「仕事に追われ、暇が無かった」・・・。

これは、昨日知った、あの茂木健一郎氏が、所得の申告漏れを指摘された時のコメントである。

脳科学者として多数の著書があり、テレビでもよく見るあの人が、こんな非常識なことをして、
大衆を前に「プロ」として言えることでなかろうに・・・。

なぜなら「暇」が無かったからではない。
申告する「気」が無かっただけ。

どんなに忙しくて、面倒でも、気持ちさえあれば、工夫して、暇を盗んでやるものだ。

明晰な頭脳をもってしても、誰もがそうであるように、過ちの原因を知る心に暗いのだろう。

どれだけ脳を鍛えても、それは、筋力を鍛えた肉体と同じであり、いよいよ死んでいくときは、
共に焼いていかねばならぬ。

死んだら「私」はどうなるか、考えると不気味でおそろしい。

これは、科学で解かれぬ、知識で計れぬ、深い人間性からくるもので、すべての人にとって
これほど知りたい、知らねばならぬ大事はないだろう。

その解答が、あきらかに説かれているのが、釈迦の教え、仏教なのである。

今年も「母の日」や「誕生日」に、感謝のメッセージと贈り物を届けてくれた子供達。

有形のモノは、長女にもなかなか送れないが、人間にとって一番大切で、最も知りたい無形の
宝を、今後も発信するつもり・・・。

どんなに送る品物が途絶えても、「母は法施が最優先」と、仏法の理解を深めている長女には、
きっと好もしく届くだろう☆


「ベルリンの壁」を越えるもの

2009-11-10 07:02:33 | 文学・歴史
ベルリンの壁が崩壊したのは、今からちょうど20年前。

1989年11月10日未明、長く続いた東西を阻むベルリンの壁を、市民が破壊する姿は、
遠く異国のテレビで見ても、衝撃的なものだった。

なぜなら、冷戦、越えられないもの、決して崩れないものとして、地域と国民を分断する
象徴が、「ベルリンの壁」だったから・・・。
その「壁」の市民による崩壊は、世界をあっと驚かせ、歴史を変えたと言えるだろう。

東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込み、待ち受ける西ベルリンの
市民と、ゲート付近で抱き合ったり、踊ったり・・・。
大歓迎の大騒ぎは三日三晩続く。

ところが、今のドイツでは、15%もの人が「ベルリンの壁の復活を望んでいる」そうだ。

旧東ドイツでは、自由経済下での経済格差と、失業者の増加に苦しみ、旧西ドイツでは
旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いたと言う。

つまり、双方に「壁があった時代の方がよかった」と考える人が少なくないということだ。

「こんなはずじゃなかった」・・・。

どんな「歓喜」や「感動」も、「ため息」や「後悔」に変わることがある。
このような歴史的事件にしてしかり。

我が人生、「あの時代がよかった」という回顧が、誰しもあるから、
「ノスタルジック・フューチャー(懐かしい未来)」という言葉もあるのだろう。
つまり、未来は、懐かしく美しい過去にあるという・・・。

昭和は、物は無くても、ベビーブームで、未来に希望が持てた時代だった。
それを懐しみ、美しく感じる人たちは、確かに多くいるに違いない。

しかし、どんな過去の思い出も、生きる力にならないことも知っている。

老い先、何を力に、どんな未来に向かって進めば、「こんなはずじゃなかった」と後悔せずに
済むのだろう。

全人類に大きく立ちはだかる、「何のために生きるのか」。

歴代の哲学者も、思想家も、なかなか越えられぬ、手ごわい「壁」。

だが、それを教えた仏法に聞けば、長年の「なぜ生きる」の「壁」は崩壊し、生きる歓喜に
心は躍り、幸せな未来に向かって確かな一歩を踏み出すことができるのだ。

すべての国や人種、老若男女共に、「心の壁」隔てなく、仏縁あれかしとつくづく願わずに
おれない☆