働く主婦のじゅんこです 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

批評家になる前に

2011-05-04 21:10:30 | 医学
脳の血管に出来るコブ、脳動脈瘤(りゅう)。
破裂すれば半数が死に至るこの脳動脈瘤治療の第一人者が、脳神経外科医の上山博康氏である。

手がける手術は年間およそ600。
その腕を頼って全国から患者がやってくる。

覚悟を持って患者に向き合う上山氏の原点には、恩師から言われた1つの言葉があったと言う。

29歳の時、生涯の師と仰ぐ医師との出会い。
伊藤善太郎、全国的に知られた脳卒中のエキスパートである。

「患者の思いに応えるのが医者の仕事だ」と自分のやり方を貫いていた。

たとえば、とても助けられない患者であっても、自分に非があったかのように遺族に
「申し訳ない」と頭を下げる。

一歩間違えば、医療ミスとも受け取れかねない。
そんな姿勢を、快く思わない医師も少なくなかった。
納得いかない思いは、若い上山自身にも。。。

そんなある日、恩師が彼に言った。

「批評家になるな、いつも批判される側にいろ」。。。

医療に対する覚悟を知らされた衝撃の言葉だった。

世に批評家は、たくさんいる。
公に言える立場の人、身近にもいるだろう。

原発事故でも「ああだった、こうだった」と離れたところから検証することも大事だろうが、
今も被爆覚悟で働く人、国難として向き合い指揮を取る人など、それぞれの立場で、最善を
めざし死力を尽くしている現場の人達がいる。

批判するには、それらの人と同等か、それ以上の必死の覚悟と言動が伴ってこそでなかろうか。

復興に熱いソフトバンクの孫氏が、福島に乗り込んで、泣いて知事に談判したと聞けば分かる
話でも、遠くで安閑としている人が、「どうしてこうなんだ」と非難したところで、どれだけ説得力
があるだろう。

安易に批評し、批判する側に立つ人は多いが、信念を持って非難にもあえて立つ勇者は少ない
もの。

伊藤医師の言動も、「患者の立場に立つ」という信念があったればこそ。。。

肉体の延命でも、信念の元、批判にあえて立つ医療者がいるのだ。

まして、未来永遠の魂の浮沈に関わる「なぜ生きる」を、世間中の非難攻撃覚悟で、あきらかに
なされた親鸞聖人の御心ははかりしれない。

その御跡に続く自負あれば、ひたすら、教えを仰ぎ従うのみ。
自分の思いなど入る余地はさらさらないと知らされるばかりである☆

真の医療人

2011-02-03 21:54:14 | 医学
ブリの照り焼き、ブリ大根、具だくさんのトン汁に、山菜炊き込みご飯。。。
これが、写真で全部紹介できたらいいのだけれど。

長女の友達を、自宅に招いての会食会。
娘達は、買い出しはして来たものの、何と、食材を家に置いて近くの温泉に行ってしまった。

それを一手に引き受けたのが、サービス精神旺盛な次女。。。

友達3人招待するから、と長女から聞いて、昨夜、8種類の果物入りの生クリームケーキと、
特製のヨーグルトデザートにリンゴケーキ、これらを全部作っていた上に、である。

なんだか、舌を噛む料理ブログになってしまいそうだが、持つべきものは妹、と胸を張って
言えるのは、まさしく長女のことだろう。

歓声を上げて舌鼓を打つ友達の前で、心なしか誇らしげな次女と、影が薄い母。。。

そんな彼女達、友の親が仏教の講師と聞いて、どんな感想を持っているのだろう。

仏教と聞けば、年取ってから聞けばいいもの、若いからまだ聞く必要がない、と思う年頃
である。

かくいう自分もそうだった。

それが、なんと仏教に、ずっと求めていた生きる目的があったとは。。。
知らされた時の驚き、感動は、今も忘れられない。

大切な人の命を預かる医師として、将来生きていく彼女達。。。
医者の使命は、延命だが、命の大切さを知ってこそ、その大切な命を延ばす使命に力が入る
はず。。。

もし、生きる意味を知らず、どうでもいい命となれば、昼夜を分かたず、自分を犠牲にしてまで
延命に力を注ぐ意味は、空中分解するに違いない。

実際、自殺未遂を繰り返し、そのたび病院に運ばれる患者に、徹夜で疲労困憊の医者が、
「死にたい人を、こうまでして延命する意味は何なのか」と、思わずつぶやいたと聞く。

そう、遅かれ早かれ、そういう大問題に向き合う時がきっとくることだろう。

だから、医師として一歩踏み出す今こそ、果たすべき命の尊さを知り、本当の延命の意味を
知る医療人になってもらいたいと心から願わずにおれない。

もし自分が病にかかった時、どんな医師に診て貰いたいかを自身に問うて、この究極の命題に
遠い先でも思い当たることもしあれば、どんなに素晴らしいことだろう☆

「改正臓器移植法」

2010-08-17 05:50:33 | 医学
2009年7月に成立した改正臓器移植法に基づき、本人の意思が不明でも、家族の承諾が
あれば提供が可能になった。

先日、20代男性が脳死と判定され、家族の同意で、5人の患者にそれぞれ臓器が提供さ
れたという。

死を待つばかりの患者にとって、どんなに救われた思いがしたことか。。。

不慮の事故には違いないが、短い生涯で5人の命を助けたと言える。

突然愛する肉親を失い、とまどいの中、重い決断をされた家族の方々の心情もはかり
知れないものがある。

こんな時、自分はどうしただろう。。。

振り返って想像した人も多いのでなかろうか。

脳死になった自分。
そして、そんな家族を持った私。。。

「脳死」になった「自分」の「心」はどんな状態なのだろう。

ここが曖昧である限り、論議は尽きず、評価も難しい。。。

なぜなら、「生」と「死」の境界を、誰の意思で決めるかの問題の前に、死に至る「心」の
状態を、誰もが知りたいからである。

ここがはっきりすれば、「臓器」を生かす本当の意義も見えてくる。

「肉体」はこの世、焼いて終わるものだが、私たちの「生命」は、果てしない過去から
流転を重ね、生死を繰り返し、永遠の未来へと連なっていると仏教で教えられている。

その果てしない生命の歴史からすれば、この世100年生きたとしても一瞬の命。。。
その儚い命で、何をするために生まれてきたのだろう。

それは、弥陀の本願を聞いて、この世から未来永遠の絶対の幸福に生かされるため。。。

親鸞聖人は、救われた世界を「無碍の一道」と言われている。
弥陀の救いは、一念だから、最悪、臨終の人も正客なのだ。

この多生の目的を知らされ、三世十方を貫く真理を物差しとして見れば、いかなる空中
分解に見える論議も、果てしなく続く論争も、このためだったのか、とその解決が見え
てくる。。。

どうか仏縁あれかし、聞いてくれよ、と念ずるほかはない☆

1番のんびりしている人

2010-08-15 21:21:22 | 医学
今は諏訪中央病院名誉院長である鎌田實氏が、院長の頃、「パニック障害」になったと
言う。

疲労の蓄積による精神疾患。。。
院長になって9年目、48歳の時だった。

増床する病院の運営と分院の改善、全体の機能分担や高度化、医師の確保。。。
一人でこなすには、相当な負担が続いていたに違いない。

「がんばるカマタ」が、初めて弱い自分を認めたら楽になり、病気の向こう側で支えて
くれた「家族」の存在に気づかされたと言う。

家族なしでは乗り越えられない。
病気をきっかけに、家族の絆が有難く、長年、足元を見ていなかったことが知らされた。

漫画家のさかもと未明さん。。。
2年前に膠原病を告知され、闘病生活が始まった。
病気が進行して、体が思うように動かない。
常に誰かの手が必要な毎日。。。

しかし、辛い闘病生活を通じて、心が大きく変わったという。
「それまで、アシスタントのミスを見つけては怒っていたのですが、今は『だめなお姉さん』。
彼らの力がないと何もできなかったと気づきました」。。。

周囲の優しさに接し、謙虚な心になり、人に感謝できるようになる。

それまで「恨みが強すぎる文章」と指摘されて実現できなかった自伝も改まり、昨年秋、
初めて出版の運びとなった。。。

誰しも、自分が一番苦労していると思っている。

一番頑張っているのが自分、と思いがちだが、実際は、どれだけ多くの善意で支えられて
いることだろう。

この事実が分からないと、頑張るほど腹も立つし苦しくなる。。。

本当は、一番のんびりしているのが私。
みんなはギリギリ一杯努力しているのだ。

至らぬ自分と、みんなの頑張りが、素直に認められれば、「おかげさまで」と感謝して
「ありがとう」と言わずにおれなくなる。

そして、いよいよ張り切って進まずにおれない。

事実、「がんばらない」と言っている鎌田氏も、ますます多方面で活躍し、前述の漫画家
さかもとさんも難病を抱えながら、歌手としても活動し、来春に初めて個展を開くと言う。

外に向きがちな心を内に向け、「蒔いた種は必ず生える」の因果の道理から常に自戒して
いきたいものである☆

長寿社会と真の医療

2009-08-11 06:44:59 | 医学
「年だから、大手術は無理」という考えは過去のもの。

医学の進歩は、めざましい。
日進月歩とはこのことか、と驚かされる。

まず、目の前の担当医師が若い。
茶髪にパーマ、飲み会で会えば、フツーのお兄ちゃん。
昼から手術なのに、大丈夫かしら・・・。いやいや、無論、見かけで判断はできない。

それらしき若いイケメン医師は、何人もいる。

そうだ、時代は変わったんだ。

病院は、白衣の看護師、というイメージだが、医師も、看護師も場所によってか、白衣とは決まっていない。
ブルーに統一されている部署もある。

診断も、治療を施すときも、まずパソコン開いてから。
機械が、病室前に、設置され、各人のデータを見たり、打ち込んだり・・・。
看護師も、パソコンに精通していなければ、務まらないだろう。

せかせか忙しく動く様は、ドラマの「○○病棟」などに出てくるまんま。そう、配役も含めて・・・。

昨日は、父の手術の付き添いで、一日中、病院にいた。

一昔前なら、大手術。
しかし、今なら、部分麻酔で、終わってからもすぐ会話ができる。
退院も4.5日で大丈夫。

ベッドも、ドアの開閉も、医療機器も、細部に至るまで、とことん便利で、使いやすく、
患者の負担の軽減を追求されたものになっている。
見ていてあきないし、感心せずにおれない。

人間のやることは、とにかく凄い。

病院は、暗いイメージだが、いまや、どこかのホテルかと思うほど明るく、待合室もシャレた社交場のよう・・・。

そこには、患者の意識の変化もあるのだろう。

病を治すだけが医療ではない。

人が人に介入する行為である以上、患者も施術者も体調や感情で、接し方や受け心が変わる。
医師と患者の関係も、一昔前とはだいぶん異なる。

今後、ますます「心」や「思いやり」「信頼」を重視せずにおれないだろう。

世界に先駆けて超高齢化社会を迎える日本。
「生活の中に医療あり」と、今こそ「心」と「心」の触れ合いを重視した新しい医療の姿を、
世界に示すときでなかろうか。

それには、「やがて死ぬのになぜ生きる」という根底の、患者も、家族も医師もみな共有する問題に目を向けてこそ、
病を「治す」だけでなく、「生」を支え、「生きる力」を与える真の医療になるのだと思う☆

言葉の催眠術

2009-07-16 06:43:49 | 医学
昨日、住民検診に行った。
採血する直前、目の前の看護師に「ちょっと痛いですよ~」と言われたが、実際、今までで一番、痛かった。

手がぶれるし、そんなに深く押さえつけなくてもいいのに、と素人でも分かるのだが、おそらく、本人も
苦手意識があって、予防線を張ったつもりだったのだろう。

しかし、「痛いですよ」なんて最初に脅かされると、いつもより身構えて、余計、痛く感じるものだ。

「大丈夫ですよ」の言葉だったら、案外、普通に終わっただろうに・・・。

言葉は、感覚をコントロールする力があるのだろう。

何かつらいことがあっても「あー、楽しい!」って声に出せば、前向きになれることがある。

大したことでなくても「苦しい」「辛い」と毎日嘆いて過ごせば、本当に病気になったりする。

ある成功者は、良いときは「感謝」。難があるときは、「有難う」と言ってきたそうだ。
「難」が「有る」と「有難う」・・・。

本来、仏教から出た「有ることが難しい」「有難い」という意味からは、だいぶ異なるが、
苦難のときも、プラス思考で発奮し、乗り越えてきた自負は伺える。

レスリングの浜口京子の父親の「気合だ、気合だ、気合だ~」は、自らも他も鼓舞する声かけの例として、
非常に分かりやすいだろう。

あれも、お腹から声を出すからいいのである。
黙って、ジェスチャーだけなら意味はないし、そんな団体があったら、恐い。

「今日も一日頑張ろう!」
少々バテぎみな朝でも、声に出して言ってみる。
たとえ、カラ元気でも、言葉によって気持ちも力も湧いてくる。

「あ~あ、今日も一日始まった」と、後ろ向きに迎える朝より、仕事はずっとはかどるものだ。

もっとも気合を入れると言っても、立ったり座ったりするときの「よっこらしょっと」は、
ちょっと避けたい響きではある。

年を重ね、疲れが見える時ほど、自分も、周囲も前向きに、元気になるパワーのある言葉の発信を
心がけていきたいと思う☆

侮れぬ「耳」にご用心

2009-07-08 06:46:17 | 医学
普段、私達は、視覚に頼った生活をしているが、侮ってはならないのが、聴覚である。

あの全盲のピアニスト、辻井伸行さんの快挙でも分かるように、耳は実に繊細で微妙な音を聞き分ける
優れた機能を持っている。

集中していれば、雑音を自動的に排除してくれるし、雑踏の中でも、興味のあるヒトの会話、自分の名前を
聞き取ることができる。これをカクテルパーティ効果と言う。

また、睡眠中、目は閉じて休んでいるが、耳は、危険を察知するセンサーの役目があり、休みなく働き続けている。

つまり、耳は、非常に優れた機能を持ち、大変な働きモノというわけだ。

ところが、近年、働き盛りの中年層に難聴を訴える人が増えているそうである。

いつも大きな音にさらされるような耳に負担のかかる毎日なら、分かる。
が、疲れによるストレスでも聴力が低下するらしい。

そう言えば、最近、子供に聞き取れない会話を、聞き直す回数が増えてきた。

早口で、滑舌が悪い子供のせいだ、と責めたいところだが、そればかりと言えぬだろう。

たとえば、ロックバンドの「レミオロメン」がなかなか耳に入らない。
何度「デミオロメン」か「デミオメロン」、しまいに「デカメロン」と開き直ったことだろう。

混乱するたび、子供に聞いて確認していた。

もっとも同じく歌手の「コブクロ」を「フクロウ」、「ゆず」を「あんず」と間違うに至っては、
聴覚のせいばかりでなく、いつもの妄想からくるのかもしれぬ。

こんなヘンな聞き分けの悪いオバサンに、毎日まとわりつかれる子供は、さぞ迷惑で不幸なことだろう。

「耳が遠くなったもんで」なんて、不気味な笑いでごまかすのは、止めにしよう。

世間のことなら、取り返しがつくが、仏法者にとって、教えを正しく聞かせて頂く「耳」は、最も大事である。

仏法は、間違って聞いては、取り返しがつかない。
白は白、黒は黒、自分の思いは捨てて、ありのまま正しくまっすぐ聞かせて頂かねば、始まらないのだ。

心がいい加減だと、いかに間違って聞くか痛感する日々・・・。

この先、年を重ね、聴力の低下が来ればどうなるか。
心の向きを正し、ここ一つと急ぎ、真剣に気を引き締めずにおれないのである☆

やる気は根気

2009-06-30 05:13:50 | 医学
還暦を過ぎて医師になった女性がいる。

学生結婚し、専業主婦として子供を育て上げ、第2の人生を医師として生きたいと、医学部受験の勉強を始めた。
今ならアラフィからの再出発・・・。
凄まじい努力が報われ、国立大の医学部に合格したのは、50過ぎてから・・・。

子供のような学生に混じっての勉学、実習を経て、見事、国家試験にパス。医師としてスタートした。

子育てに20年かかるとすると、人生80年として、4分の1の期間を占める。
ようやく子が離れ、自分だけの時間を見ると、折り返し地点はとうに過ぎ、体力も気力も著しい衰えに愕然とする。

どう生きればいいのだろう。

趣味や娯楽、友人とのふれあいで気を紛らわすか、旅や、芸術鑑賞で、心の空白を埋めるのだろう。

否、親の介護問題など、新たな局面に、そんな余裕のない人も多いかもしれない。

それを、人の役に立つ仕事に就きたいと、医学部受験を思い立つなんて・・・。
しかも、物忘れが目立つ年齢にさしかかってである。

もともと頭のいい人だったのでしょう、と受け流すこともできよう。

しかし、合格めざす勉強は、短期間でもプレッシャーがあり、最近の私の経験でも、頭痛がひどく辛いものがあった。
まして、浪人などできぬあとのない中、過酷な受験勉強がたたり、幾日も寝込んだ、と聞けば、さもありなん、
並外れた努力なくしてできるものでない、と知らされる。

若人の何倍も時間をかけて、1つ1つ覚えられたに違いない。

「やる気は根気」と言う。

「根気」よく続けることが、「やる気」のある言動なのだ。
そして、その努力は、高い壁を乗り越え、厚い障害をぶち破る。

残りの人生、人の役に立ちたい、という志を持って生きたい人は多いだろう。

ならば、「どう生きるか」で占められた半生から、お先真っ暗な今後の人生、「なぜ生きる」に反転して、
その答えを仏法に求めて聞いてほしい。

人命尊重を叫んでも、根拠は薄っぺらな欺瞞のヒューマニズムでなく、本当の生命の尊厳、生きる歓喜を仏法に知り、
自他ともに、確かな幸福な道を進ませていただけるのだ。

特に、同世代の女性には、共感を重ねて「根気」よく伝えずにおれない。
この「やる気」は、先の医師にも誰にもひけは取らないつもりなのである☆

人の行くウラに道あり花の山

2009-04-08 06:09:11 | 医学
人間ドックの検査は問題なし。ただ、注文は、「上半身の筋肉を鍛えましょう・・・」。

「エレベーターより階段」。これは足腰の筋肉のこと。
上半身ならさしずめ、腕立て伏せか、重量挙げか?

「日常生活に筋トレを」と「貯筋運動」を勧めているのが、早稲田のスポーツ科学学術院教授の福永哲夫氏です。
「貯金」ならぬ「貯筋運動」とはなんでしょう?

筋肉は、中高年になっても、腕立て伏せや腹筋など、鍛える部分に意識を集中し、強めの力で15分ほど毎日続けると、
筋力が効果的にアップするそうです。
つまり、筋肉を鍛えるのに、年齢は関係ないのですね。

しかも、老いによる姿勢や足の痛みなどにも改善が見られると言われます。

お金でなく、若さを保つ「貯筋運動」。

いくらお金があっても、寝たきりでは、使う喜びもありません。

毎日の筋トレは、年齢を重ねるほど体もままならず自己管理するのは面倒です。

けれど、今の苦を嫌って、近い将来、寝たきりにでもなったらそれこそ大変。

時間を作らずとも家事の合間やテレビを見ながらスクワット!
颯爽で元気な日々を願うならば、せっせと「貯筋運動」に励むのが得策と言えましょう。

「人の行く、ウラに道あり花の山」
人生の花、咲かせる為の今の努力、人知れずとも惜しまず継続したいものです☆

心を愛す人

2009-04-02 05:41:28 | 医学
昨日は人間ドックでした。病院に行くのは1年前のドック以来。
有難いことに病院に行く縁がありませんでした。

昨年の冬、大学受験に同伴した電車の中で急に発熱。
ここで子供にうつしてなるものかという極度の緊張感と危機感で、現地に着くまでに熱が下がったことがありました。
以来、「風邪かな」と思ったらパブロンより気合だと思い込んでしまったのです。

「病は気から」と言われます。

戦時中、高熱で寝込んでいた兵士が、上官の前に連れ出され、「下がったか!」と一喝されて「ハイ、下がりました」と
直立不動で答えた途端、平熱になって歩き出したということを聞いたことがあります。

いかに心が体に多大な影響を与えるかという実例です。
ストレスにより病になると言われますが、逆に心の持ち方で健康を支えるとも言えるでしょう。

とかく見えない心は軽視し、目に見える身なりや言動を気にして人を評価しがちです。
しかし、一番大事なのは心。身体や口を動かすのは心なのです。

同じ丈夫な身体を持ち、同程度の才能に恵まれ、それぞれチャンスがありながら、
一方は成功者、他方はそうでない者とに分かれていく・・・。
これは日々の心がけの相違によると言えましょう。
心を愛し、克己して努力する人でありたいものです☆