働く主婦のじゅんこです 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

やる気は根気

2009-06-30 05:13:50 | 医学
還暦を過ぎて医師になった女性がいる。

学生結婚し、専業主婦として子供を育て上げ、第2の人生を医師として生きたいと、医学部受験の勉強を始めた。
今ならアラフィからの再出発・・・。
凄まじい努力が報われ、国立大の医学部に合格したのは、50過ぎてから・・・。

子供のような学生に混じっての勉学、実習を経て、見事、国家試験にパス。医師としてスタートした。

子育てに20年かかるとすると、人生80年として、4分の1の期間を占める。
ようやく子が離れ、自分だけの時間を見ると、折り返し地点はとうに過ぎ、体力も気力も著しい衰えに愕然とする。

どう生きればいいのだろう。

趣味や娯楽、友人とのふれあいで気を紛らわすか、旅や、芸術鑑賞で、心の空白を埋めるのだろう。

否、親の介護問題など、新たな局面に、そんな余裕のない人も多いかもしれない。

それを、人の役に立つ仕事に就きたいと、医学部受験を思い立つなんて・・・。
しかも、物忘れが目立つ年齢にさしかかってである。

もともと頭のいい人だったのでしょう、と受け流すこともできよう。

しかし、合格めざす勉強は、短期間でもプレッシャーがあり、最近の私の経験でも、頭痛がひどく辛いものがあった。
まして、浪人などできぬあとのない中、過酷な受験勉強がたたり、幾日も寝込んだ、と聞けば、さもありなん、
並外れた努力なくしてできるものでない、と知らされる。

若人の何倍も時間をかけて、1つ1つ覚えられたに違いない。

「やる気は根気」と言う。

「根気」よく続けることが、「やる気」のある言動なのだ。
そして、その努力は、高い壁を乗り越え、厚い障害をぶち破る。

残りの人生、人の役に立ちたい、という志を持って生きたい人は多いだろう。

ならば、「どう生きるか」で占められた半生から、お先真っ暗な今後の人生、「なぜ生きる」に反転して、
その答えを仏法に求めて聞いてほしい。

人命尊重を叫んでも、根拠は薄っぺらな欺瞞のヒューマニズムでなく、本当の生命の尊厳、生きる歓喜を仏法に知り、
自他ともに、確かな幸福な道を進ませていただけるのだ。

特に、同世代の女性には、共感を重ねて「根気」よく伝えずにおれない。
この「やる気」は、先の医師にも誰にもひけは取らないつもりなのである☆

失敗は無敗にまさる

2009-06-29 07:27:18 | その他
昨日、ようやく試験が終わった。

「ようやく終わった」と実感するのは、仕事はもちろん最優先、ブログも毎日更新しよう、
その分、家事は後回し・・・。
主婦として後ろめたさを感じながらも、ひたすら集中力と体力だ、と受験に臨んできたものの、
最後はさすがに息切れ状態だったからである。

火事場の馬鹿力ではないけれど、背水の陣で、必死に詰め込めば、脳の神経細胞も眠りから醒め、
記憶力も一気に爆発するだろう、と期待したが、妄想だった。

やはり、毎日の継続した努力が実を結ぶ・・・。

種まきが、まだまだ足りなかったと反省しよう。

「失敗は無敗にまさる」、と聞く。
チャレンジなく、敗北もなく終わるより、失敗から学び、失敗を恐れず、何度でも挑戦したい。

少なくとも、受験しなければ、勉強しなかっただろうし、やった種まきは、決して無駄にならないのだ。

それにしても、世の中、いろいろな試験があっても、これだけ老若男女、一堂に揃う受験会場は、稀だろう。
仕事の同僚の中では、年長の方であったが、視界を広げれば、私よりあきらかに上の方が大勢いた。
職業もいろいろだ。

言えることは、幾つになっても「旬」な人ばかり・・・。

昨日は、朝から一日、尊いかけがえのない仏法を聞かせて頂いた。

その貴重な素晴らしい時間を享受したあと、示される「なぜ生きる」を教学としてどれだけ身につけられたかに、
精一杯、力を尽くしたのである。

時間も体力も知力も「生きる目的」に向かって使える身の幸を、心より感謝せずにおれない。

世界に二つとない、幸せな場に身を置いて、光に向かって共に進ませて頂いたことを有難く誇りとし、
何度でもチャレンジしていこう。
「人生の目的」には、卒業があり、決勝点はあっても、身につける教学は限りなく深いものなのだから☆

他人の長所を認める「長所」

2009-06-27 05:15:20 | 文学・歴史
中学時代に、「愛読書は?」と聞かれたら、モンゴメリ作の「赤毛のアン」シリーズと答えただろう。
当時、子供ができたら、ぜひ読ませたいと、全巻、揃えて持っていた。
今は、どこへ行ったか、手元にない。

当時、乗っていた愛用の自転車に「シャーリー・カンスタレンシャン号」と、舌を噛むような長い名前をつけたのも、
「シャーリー」の部分は、アンの名前から取ったのである。

幼少時から、空想の世界に遊び、妄想癖のあった私は、自然豊かなプリンス・エドワード島で過ごす
アンの伸び伸びとした想像力に富む個性に、憧れを感じていたのだ。

そのアンの言葉で印象的なものがある。

「私の特技は、他人の長所を見つけることよ」・・・。
記憶なので、違っていたら許してもらうしかない。

ただ、アンの影響で、他人の良いところを、見つけようと努めるようになったのは、事実である。

ところが、自分の良いところはともかく、他人の長所となると、なかなか見つけられないもの。

短所ならば、いくつも目に入るのに、どうしたことだろう。

自分より優れ、長所を一杯持っている人ならどうか。
これは、なおさらできない。
「勝るをねたむ心」が邪魔をし、素直に認められないのだ。

自分のことを言う時は、自然と自慢話になるし、他人のことを話す時は、長所どころか、悪口になってしまう。

だから「他人の長所を見つけるのが得意」と言ってはばからないアンに、当時の私は、新鮮な驚きを感じ、
敬意を表したのである。

『できるだけ、他人の長所を発見してほめるようにしよう』と教えられる。

「できるだけ」「発見して」という言葉に、「意識して努力しなければできないことなのですよ」、
というメッセージが感じられる。

認め、褒めることで、長所が引き出せれば、それによって、短所を補うことができるだろう。
長所に自信が持てれば、短所に向き合い、克服する力にもなる。

そう思って見ていけば、みんな良いところを一杯持っているものだ。

褒めて下さる人は、必ず好きになるから、そこに親しい人間関係が築かれ、仲良く進ませて頂けるに違いない。
そう、和することを尊しとする教えを聞かせて頂き、光に向かう仲間なのだから・・・。
心していこう☆

勇者の人格

2009-06-26 06:02:39 | 政治・経済
世の中、困難なことはいろいろあるが、中でも特に難しいのは、自分の非を認めることではないかと思う。

「かんぽの宿」という国民共有の財産を、二束三文で叩き売ろうとした日本郵政の西川社長。
30%・3ヶ月の報酬返上で「社長続投」と言う。
そこには、少しも「悪い」という反省は見られない。

足利事件の18年。無実の菅家利和さんが、逮捕となった決め手が、まだ精度の低かったDNA鑑定。
その過信を認めて然るべきところ、当時、技官の上司だった科警研の元部長は、「何も『菅家さんが犯人だ』と言ってはいない」
と今も言い張る。

公共事業のド派手な建造物。使い道がなく、買い手もない。
「税金の無駄遣いだ、責任者を出せ」と言ったところで、「それは私です」と、誰が名乗りを上げるだろう。

企業あげての不祥事が発覚し、経営陣が、平身低頭しても、どこか白々しく謝罪と伝わらないのは、
彼らが、心から非を認めていないからでなかろうか。

それだけ人間は、自惚れ強いと言うことだろう。

自分に問題があっても、相手の方がもっと悪いと思っている。
仮に認めても、せいぜい、悪いのはお互い様だ、と思っている。

どんなに自分が悪いと認めざるを得ない決定的なことでも、相手に全く非がないとは、到底、思えない。

まして、100パーセント自分が悪いなんて、誰が認められるだろう。

しかし、実際は、100パーセント非があるのは自分であり、それを認めて謝罪するのが本当だ、と教えられるのだ。

この現実を認めるのは、なんて困難なことだろう。

『最も勇気ある行為とは、最も困難なことにあたる行為である』、と教えられる。

少なくとも、喧嘩や衝突した時、先に謝ることのできる人が、勇気ある人だと私は思っている。
だから、先に手をつかれると、こっちが「参りました」となってしまう・・・。

ところが、どうしたことか、家族や身近な人ほど素直に謝れないのだ。

家族のために、あの人のために、これだけやっている、という自惚れ心が、更に事実を厚い壁で覆い、不透明にしてしまうのだろう。

どこまで行っても、離れない自惚れ心・・・。

この心との戦いこそ、最も困難なことであり、それにあえて立ち向かえる人が、勇気ある人格者であり、
心密かに、「勇者」の称号を与えてもいいのではないか、と思っている☆

世にも厳しく素晴らしき鍛錬

2009-06-25 05:50:53 | 世事情いろいろ
オバマ大統領が、地方にタウンミーティングに行った時のこと。

親子で参加していたその父親が、質問のあと、大統領に言った。
「実は、今日の参加のために、学校を休ませて、娘を連れてきました。明日、先生に叱られないか心配です」・・・。

終了後、オバマ氏から、その娘に手書きの一通の手紙が手渡されたと言う。
それは、何とその子の通う学校の先生に宛てた手紙だった。

内容までは、分からない。しかし、推して知るべし・・・。

困った父娘の心を汲んで、すぐさま、手紙を書いて対応する気配りと行動力。
相手が、一人であろうと、通りすがりの人であろうと、困った人にはすぐ手を差し伸べる。

これが身についているから、信頼する優秀なスタッフが揃い、難局に舵を切る大国のリーダーになれたのだろう・・・。

ある若年性乳がんの患者は、主治医との意思疎通に困り、術後2年ほど悩み続けたという。

もし、患者の苦しみを、受け止め「共に闘おう」と、隣で支えてもらえるような医師に早く出会えていたら・・・。
きっと、闘病生活も心強く変わっていたに違いない。

互いの信頼関係が、勇気を与え、生きる希望につながっていくのである。

これは政治家も医師も教師も、どんな職業であっても、人間関係において、一番大事なことと言えるだろう。

今、目の前にいる人に、誠心誠意、接していけたら、どんなに素晴らしいことか。
これは、簡単なようだが、常に相手を優先するだけに、自己を律する厳しさがあり、善いことでも、実行は難しい。

相手を生かし利他に生きるのは、厳しい訓練を受けながら進むようなもの。
辛く苦しいが、それだけ素晴らしい宝となって、結果は必ずその人にあらわれる。

光に向かい、厳しくも素晴らしい鍛錬に身を投じ、今度こそ悔いなき人生を送りたい・・・。
仏縁にあい、最も心がけていきたいことであります☆

思春期子育て・本気の一歩

2009-06-24 06:46:00 | 家族
大阪府のある高校・・・。
かつては、進学校として知られたが、学校崩壊、100人以上の退学者を出した年度もある。

住民から廃校運動の声さえあがったが、教職員がチームとなって再生に取り組み、
努力の甲斐あって授業が復活、部活も活発化した。

昨年末、フォークソング部が、「軽音楽の甲子園」と呼ばれる大会「スニーカーエイジ」に初出場。
学校あげての応援も審査され、見事、準グランプリに輝く。

富山にいると、こんなことは、ドラマの世界でしかないような気がするが、大阪で育ち、
大阪で教師として奮迅している友を持つ私にとっては、身につまされるものがある。

その友人曰く、「子供の学力低下や素行不良のあらわれは、親を見ればおおよそ察しがつく。
親の多くにその自覚はないが、あきらかに家庭内のコミュニケーション不足を感じる」そうだ。

先の準グランプリに輝いたボーカルの一人は、
「学校で暴れたとき、先生が駆けつけて、本気で自分の話を聞いてくれた。嬉しくて大泣きした」・・・。
人として向き合う初めての体験だったと言う。

力で押さえつけるのではなく、信頼関係が大事なのは、社会でも学校でも、家庭でも同じに違いない。

本気で子供と向き合い、話を聞く。
これが子の人格を認める最初の一歩なのだろう。

しかし、実際、子供の稚拙な自分勝手な論法に、本気で耳を傾けるのは、時間的にも苦痛になるもの。
これは、日々、息子の屁理屈につきあう私の実感だ。

だけど、これからは、一方的にさえぎる前に、「なるほど」、「そうか」、「オッ、驚きの発想!」
「ほぅ、奇抜な展開だ」、とまず受け止めてから、話をすることにしよう。

もっとも、娘達からは、最初からかみ合わず、見事にズレたまま続く息子と私の会話を聞くこと自体、
苦痛だと言われているのですけれど☆

愛されて真に満足な道

2009-06-23 06:45:24 | その他
人は、免許や、資格など肩書きに弱いようだ。

たとえば、私の髪型を見て「ちょっとおかしい」と思ってる人でも、「カリスマ美容師にしてもらったんだよ」と言えば
「今風だね!」と評価はガラリと変わるだろう。

ここで「ちょっとおかしい」髪型と、卑屈に言うのは、最近、自分で髪を切っているからである。
いつもの知り合いの美容師の都合が悪くなり、思い切ってハサミをジョギジョギ入れてみたのだ。

始めは、どう見ても「失敗」だったが、翌日、大衆の前に堂々と出る大胆不敵な私がいた。

そこで、知らされたこと・・・。

ほとんどの人は、こちらが気にするほど、「私」の何も見ていない。
そして、髪型を良いとか悪いという評価は、極めて曖昧であるという事実・・・。

だから、「揃ってない」とか「バサバサだ」と言ってくる人が、たとえあっても、自称「カリスマ美容師」のせいにすれば、
「ふぅん」、「なるほど」で、たぶん片付くのだ。

人生、大抵、こんなもので済んでいくように思う。

にもかかわらず、実際は、周囲の目を気にし、他人の評価に神経をすり減らす毎日なのである。
女性にとって「髪は命」と気にかける髪型でさえ、誰も、見て正しく評価できないのに・・・。

だから、他人の目を気にするのは、ほとんどムダな苦労と知るべきだろう。

大体、自分のことしか考えない者が、他人のことまで心にかかるはずがないのである。

スタイルや、服装、目鼻の位置など、少々ワケありでも、大丈夫。
こっちがどれだけ悩んでも、回りはそれほど関心を持って見ていない。

それを気にするのは、テレビに出る俳優や女優のように、自分も周囲に注目されていると勘違いしているだけなのだ。

どこまでも自惚れ強い自己と知らされる・・・。

そんなところに力を注ぐヒマがあったら、一番大事な「なぜ生きる」に急ぎ向かうべし。
欲に向かう人の行かない道にこそ、花があり、進めば輝く人となり、一目置かれる人徳が身についていくだろう。

そして、多くの迷える大衆に愛されるよりも、如来聖人に愛される道を選んだ確かさに日々満足させられるに違いない。
人として生きる誇りを持ち、満ち足りた人生の決勝点は、きっとその先にこそあるのだろう☆

塩と砂糖と・・一味の世界

2009-06-22 06:52:34 | 家族
朝、起きるとフロアーに砂糖が、散らばっていた。

一体誰が・・・?
不審がる私のそばで、長男の声がする。

「ナメクジがいたから、塩かけた」
「・・・・。これは塩ではない、砂糖だ!」

「そうかぁ、それでナメクジの様子がおかしいと思った」。

息子よ、おかしいのは、お前の方だろう。

ナメクジなら立ち向かう勇気もあるようだが、クモが出ると、17歳の今も、悲鳴を上げて逃げてくる。
過去世に、よほどクモに襲われ、悲惨な目にあったらしい。

クモをかわいいとペットにする人もあれば、恐れる者もいる。
世の中には、好みも趣味も個性溢れる人で一杯だ。

昨日、一昨日と多くの人たちと二千畳の大講堂で、降誕会の良きご縁にあわせていただいた。
日本全国どころか、海外からも集う御法筵は、まことに不思議な仏縁と喜ばずにおれない。

ここには、生い立ちも性格も一つとして同じ人はない。感受性もみな異なる。
なのに、教えに導かれ、無上の道を進ませて頂いている親鸞学徒は、老若男女ともに、心通じる同志として、
なぜか安堵と懐かしさを覚えるのだ。

「四海の人はみな兄弟」「御同朋、御同行」とすべての人に手を差し伸べられた親鸞聖人・・・・。

寂しいときも、悲しい時も、嬉しい時も、決して一人じゃないんだよ。

それを誰もが、実感するから、百千萬劫の仏縁を喜び、明るい未来に向かう笑顔が、自然と弾けるのである。

2人の娘だけでなく、昨日は息子も、この幸せの輪に入って聴聞させて頂いた。

仏縁あれば、何も言うことはない。

たとえ塩と砂糖を間違っても、死ぬまでクモを恐れる男であっても、一切が隔てなく一味平等に救われる
無上の教えにあえたのだもの☆

礼儀に見る好感度

2009-06-19 07:05:39 | スポーツ
石川遼クン。
2年前、15歳で男子プロツアーで史上最年少優勝。
翌年、最年少でプロ入りし、昨年、やはり史上最年少で、獲得賞金1億円を突破した。

彼が、まだ騒がれない無名の新人であった頃。

関西のあるゴルフ場で、まだ中学生に入りたてぐらいの彼に、ひどく感銘を受けた姉の知り合いがいる。
そこには、試合を控えた若い選手がたくさん集まっていた。

その中で、周囲の人たちに、一人一人帽子を取って、丁寧に挨拶をする選手がいた。
遼クンである。
他の選手達とは姿勢が明らかに異なる。
まったく面識のないその人にも、深々とさわやかに「よろしくお願いします」と頭を下げたそうだ。

すっかり魅了され、「きっと大物になるだろう」と注目していたら、その後、どんどん実績を挙げ、
時の人になったと言う。

若く、突出した存在は、時として批判の的にされるものだが、今もそうした雰囲気が起こらないのは、
彼の人間性からくるのだろう。

予選落ちでどんなに辛いときでも、必ず記者会見に臨む姿勢も、ツアーが多くのファンや関係者に
支えられ、成り立っていることを、あの若さで認識していればこそ・・・。

若い人は、「若い」というだけで好まれるが、遼クンのように礼儀正しさが、身についていれば、
最強の好感度アップと言っていいだろう。

どんなに才能に恵まれ、それが開花して注目を浴びる人であっても、礼儀のない人は、
たちまち愛想をつかされ、人は離れるものだ。

だから人間関係で、礼儀は非常に大事なのである。

では、礼儀の基本は何か。

相手の立場に立つことと教えられる。
心開く挨拶も、頂いたものにお礼を言うのも、相手の心に添ってそれを汲む思いが素直にあらわれれば、
相手に届き、互いに満足する人間関係を築くことができるだろう。

簡単に言えば、まず、自分がされて嫌なことは、相手に対してもしない。
喜ぶことはする・・。

相手の状況、立場を、自分に置き換え、起きる心を見て、相手の心を察していく・・・。
それでもたびたび失敗し、傷つきながらも、繰り返し、心の機微を察知できるよう努力していくしかないのだろう。

ところが、その自分が一番、気難しい、とくる。

今も気づかないまま、どんなに、どれだけの人に堪忍してもらっているか分からない。

気づいて教えて下さる人には感謝し、多くの人達と交わって自己を磨いていきたいと思う。
少なくとも「親しき仲にも礼儀あり」に欠けた言動は、めざす「幾つになっても旬な女性」から脱落することを、
肝に銘じておこう☆


「努力」にまさるもの・・なし

2009-06-18 07:04:33 | 家族
「○○できない」と言う前に、反省すべきことがある。

今は研修医で、医学生の頃から知る彼は、忙しい授業や実習の中で、よくこれだけできるものだと
感心することがたびたびあった。

後輩となる長女も同じようにできるだろう、と進学に期待していたが、そうではなかった。

「○○できない」事情は、それぞれある。そのハードルの高さも人によって異なるだろう。
しかしその事情のほとんどは、「なんとしてもやる」という気持ちで、なんとかなるものだ。

「忙しい人ほど仕事ができる」とも言われるが、そこには「○○を絶対やるぞ」という気持ちが大前提にある。

つまり「○○できない」と言う前に反省すべきこととは、「○○する気がない」自分を認める、ということ。
もっと言えば、努力すればできることでも、できない事情を上げて、「努力を放棄する自分」と向き合うことである。

大体、能力や才能が、人によって異なるのだから、同じように「できる人」になるのは、難しいじゃないか、
という反論もあろう。

そうだろうか。

才能や能力と言うより、ほとんどが、努力であり、どれだけ努力したかでその人の受ける結果は異なってくる、
と教えて頂いた。

盲目のピアニストもどれだけ人知れぬ努力があったかしれない。
勿論、特異な才能はあったろう。しかし、それもここに至るまでその人の努力、種まきあってのこと・・・。

もともと人間に、天から降って与えられるものなど何もないのである。

目的が確固としたものであるほど、やる気は増し、努力は果てしなくなるだろう。
少なくとも努力もせずに「○○できない」事情を上げることは自戒しよう。

なせば成る なさねばならぬ 何事も ならぬは人のなさぬなりけり
心に締めてやはり書いていこうと反省した次第です☆