じゅんこの部屋 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

苦楽のパラドックス

2010-05-31 23:03:35 | 家族
「お母さん、連想ゲームしよう」。
夕食後、どこで仕入れたのか、数字やカラフルな連想ゲームのカードを持って、息子が
誘ってくる。
昨夜のこと。こんな誘いは滅多にない。

一昨日の土曜、あれほど執着した部活の公式試合で、息子は3回戦で敗退した。
足の状態を思えば、まだ健闘したところだが、高校最後の個人戦。
しかもペアを組む相棒や、県下3位という1年生は、3回戦を突破して勝ち進んでいるらしい。
これまでの部活への深い思い入れを思っても、予想外の不本意な結果に、彼はどんなに
悔しい思いをしていることか。。。

小学校から大学卒業まで、スポーツに明け暮れた者として、その悔しさは想像に余りある。
なぜか勝った喜びより、負けた試合を覚えているものだ。

その傷心の息子から、滅多にない誘いだったのだが、あいにく昨日は、朝早く家を出て、
帰宅したのが夜8時過ぎ。
あわただしく食事の準備をして、夕食終えて、さあこれからパソコンに向かってスイッチ
ONと、新たな戦闘体制に入った直後である。
とても付き合うわけにはいかない。

「ゴメン」。。。
どうもタイミングが合わないんだよ。

誘う心境が分からなくもない。
残った団体戦も、今の足の状態では、最高のコンディションで臨むことは難しいのだろう。

スポーツは、勝つ喜びを求めて、ひたすら練習するのだが、勝てば勝ったで、更に上をめざす
もの。。。
当然、心身の鍛錬の厳しさは、より一層増してくる。

強くなるにつれ、周囲の期待も生半可でなくなるから、試合に臨む緊張感や不安は高まるし、
それで負けようものなら、受けるショックは、常人の窺い知れぬ激しいものだろう。

幸福を求めて強さを求めているのに、強くなるほど、幸せどころか苦しみが深まっていく。。。
「これ以上、走れません」と自殺した栄光のマラソン選手もいる。

なぜ幸せを手にするほど、苦しさが増してくるのだろう。

これは、スポーツだけではない。
芸術も、文学も、経済も、豊かな人ほど、深刻な苦悩にさいなまれるのである。

求める先々で直面する、このパラドックスに全人類はとまどうばかり。。。

この解答を、昨日のテレビ座談会で、はっきり教えていただいた。

仏教を説かれた釈迦は、「それは、すべての人は、心の病にかかっているからだ」と。。。
その病名は、「無明業障のおそろしき病」である。

この病が治れば、苦しみが転じて楽となる、「転悪成善」と救われる。
だから、全人類の生きる目的は、このおそろしい病を治すこと。

永遠に続く幸福を求めている我々だから、人生の目的はここにあきらかである。
人生の浮き沈みも、挫折も傷心も栄光も、すべて光に向かうご方便。

そう受け止めて、息子よ、今の試練も大きく乗り越えていこうじゃないか。
青春真っ只中の君にも、いつかきっと分かる時があるだろう。
いつもと違って寂しげな姿に、願いよ届け、と今日もしっかり書いておくからね☆
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今の姿に。。。

2010-05-26 09:40:00 | 家族
夜9時過ぎに息子を学校へ迎えに行く。

昨夜のこと。部活は7時半に終わったらしい。
その頃、迎えを呼ぶメールがあったのだが、事情で行けず、返信もできなかった。

電車で帰る選択肢もあるのだ。
帰宅して、そのうち帰ってくるだろう、と思っていたら、「何時になる?」と携帯電話。。。。

なんと、今までずっと待っていたらしい。
気が長いというか、なんというか、息子には、いつも絶句させられる。

第一、今も部活ができるような足の状態ではない。
捻挫して、大事な中間テストでさえ欠席したのである。
にもかかわらず、足を引きずりながら、部活には皆勤。。。

第二に、捻挫する直前、自転車がパンクして、今も学校に置いたまま。

大体、部活が終わって1時間半。閑散と誰もいない学校で一体何をしていたのだろう。

車を走らせながら、思いは巡る。

9時15分、校門に到着すると、自転車に跨った友達と談笑する息子の姿があった。

メールしても、家に電話しても、一向に応答のない家族を持つ寂しい息子に同情し、
一緒に待ってくれたというのである。

同学年の部活友達だと言う。
嫌な顔一つせず、笑顔で「じゃ、また明日な!」と手を振って、颯爽と自転車で
帰る後ろ姿。。。

こんな青春を目の当たりにすると、昭和の母は、ついウルウルになってしまうのだ。。。

電車賃がもったいないと、ひたすら母を待つ息子と、そんな息子を不憫に思い、
受験生の身でありながら、共に食事もとらず、1時間半もそばにいてくれた友。

その子は、生物が得意でその科目は、学年トップであるらしい。
農学部をめざしていると言う。
こんな男子を見ると、なんだか将来が見えてしまうのだ。
きっと夢をかなえて、人を大切に、大きな人間になっていくだろう。

また、ここまで育った環境や過去の生育も想像できる気がするのである。

現在の姿に、過去も未来も見えてくる。。。

だからね、息子よ。
言いたいことは分かっていると思うけど。。。

待て待て、こんな良き友を持った息子も、今回は認めることにしよう。
そうして、深夜に一人、仏前で勤行する息子の後ろ姿を、何より有難く感謝しよう。

今の仏縁に、明るい未来が見えてくる。
無上の幸せに、向かう子の姿を、誰が望んで見れようか。
ただごとならぬ仏縁を深く感謝して、一層奮起せずにおれないのである☆
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東京スカイツリー。。。

2010-05-19 19:59:32 | 世事情いろいろ
東京スカイツリー。。。

一昨年の夏に着工され、その雄姿が半分ほど見えると言う。
竣工予定は来年末。

タワーの水平方向の断面は、地面真上では正三角形であるが、高くなるほど丸みを
おびた三角形となり、地上約320mで円となる。

概観は日本の伝統建築の発想を駆使し、反りの美的要素も盛り込まれているらしい。
雄姿というより、美しい姿というべきなのだろう。

日本の建築技術は素晴らしい。
東京タワーの約2倍と言っても、ただ高さを誇るだけではないのである。

スカイツリーは、見る角度によって、美しい形が微妙に異なるそうだ。
その発想の原点は、約50年前に取り壊され、下町の人に親しまれた「おばけ煙突」
と言う。

戦後、下町にそびえる4本の煙突があった。
立つ位置によって、重なって3本となり、2本となり、1本に見える。
そこで、名づけられたのが「おばけ煙突」。。。

子供も大人も、「おばけ煙突」3本見える場所とか、1本になる所、と指定して、
待ち合わせをしたらしい。

子供の頃の懐かしい思いが、今、時代の先端を行く世界的建造物に取り入れられた
と言うことだ。

立つ位置によって見える形が異なる、というのは、しかし、なにやら教訓的でもある。

「真ん中も右から見れば左」という「格言」を聞いたことがある。

テーブルの真ん中に置いたコップも、コップの右側にいる人から見れば左に見えるし、
左側にいる人からは右に見える。

つまり同じ事柄でも、立つ位置によって、見解が分かれてしまうということ。

国益がからむ外交問題などは、特に顕著であろう。
今、話題の普天間問題もしかり。

誰しも、自分の立つ位置こそ真ん中だ、と主張しがちだが、自惚れ強い我々は、
相手寄りの位置に立って、ようやく偏らない中間位置と言えるのでなかろうか。

そもそも、欲目から離れることは難しい。

が、相手の主張にも一理ある、と一歩譲って、肯定的に受け入れてみると、そんな
見方もあったのか、と思わぬ発見や、新鮮な視点に驚くこともあるに違いない。

そんな懐深い人に、人は心を許すのでなかろうか。

かと言って、付和雷同するでなく、反対意見や苦情も、向上の糧とし、できるだけ
公正に客観視できる冷静な大人になりたいもの。

日々、人間関係のつれづれに思われることである☆
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光に向かって

2010-05-16 21:41:05 | 家族
夕方、息子から突然、「迎えに来て」と助けを呼ぶメール。
部活で足を挫いたらしい。

相当痛むようなので、仕事帰りに学校へ直行した。

来月から始まる高校最後の総体に向かい、目前の中間テストも度外視で、ひたすら
部活に集中してきたのに。。。

今までも、試合の直前に、友達と喧嘩して誤って手の甲を骨折し、欠場したことも
あるし、ジンマシンで試合前夜に倒れたこともある。

なぜか息子は、ここ一番で、コケることが多い。
これを世間では、間が悪いというのだろうか。

夜12時の就寝前には子供部屋を覗くのだが、兄はいつも爆睡で、妹はせっせと机に
向かって勉強中。。。

連休の時もそうだった。
「学校の課題が多くて、休日も遊べない」と次女は言う。

それに比べ、受験生の息子ときたら。。。

同じ高校なのに、同じ高校生でないのだ。

最近も次女の提出物を見て、息子の未提出物が発覚したばかり。。。

「母さんの言いたいことわかるよね?どうしてこんな結果になるか・・・」
「その先、言わんでも分かる」。

善因善果、悪因悪果、自因自果。。。
因果の道理は、大宇宙の真理。
蒔いた種に応じた結果が、自分にあらわれるんだよ。

そう、幼い頃から、耳にタコができるくらい言ってきた。

痛い目にあうたび、身に応えて知らされてきたはずなのに。。。
わかっちゃいるけど、やめられぬということなのだろう。

昨日もテレビ座談会で尊い教えを聞かせて頂いたばかり。

釈迦が八万四千の法門を説かれたのは、我々を人生の目的である無碍の一道に
出させるため。
大宇宙のあらゆる仏方も、その世界において生きるすべての人を、無碍の一道に
出させるために法を説いておられる。

釈迦も諸仏も、その同じ目的に向かって、大宇宙の真理である因果の道理から、
もろもろの悪を為すことなかれ、謹しんで善を修めよと廃悪修善を教えられた。

仏教は、三世十方を貫く教えだから、立っている舞台のスケールがまるで違う。

大宇宙の塵のような地球の中で、一粒の砂のようなちっぽけな自分が、その凄い
教えに出会い、よくぞ人間に生まれたものぞ、の大目的に向かって進ませて頂い
ているのである。

因果の道理を知らなければ、始まらない。

一緒に帰宅すると、朝、持たせたはずの弁当がテーブルに置き忘れてある。
息子よ。。。
これが、どんな大罪か、母はもう言葉が出ないのだ。

生活即求道なんて、おこがましくてとても言えないが、せめて失意の時は、心を
むなしくして過去の行為を振り返ってみようではないか。。。

そうして、同じ失敗は二度とすまい、と悪い種まきを改めて、共に光に向かって
進みたい。
そう、尊い目的あっての勧めなのである☆
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母の日のプレゼント

2010-05-10 06:31:25 | 家族
連休の始めから帰省していた長女が、帰り際に置いていったプレゼントが、
サンキューのコーヒーに、コエンザイムQ10のサプリと、シミをもぼかす
パーフェクトクリーム。。。

母の日の贈り物も、だんだん年齢を意識せずにおれないモノになってきた。

いつまでも変わらない母を願う気持ちは、誰しも変わらないのだろう。

自身の積もる年を忘れて、子の成長を楽しみに育てる間は、まだ若い。

ばたばたしているうちに、いつしか身長も追い越され、やがて子供の方から
案じられる老境に入っていく。

小さくなっていく親に、子は何を感じていくのだろう。

長女は、「バチャバチャのばあちゃん」に、将来「私」がなると言う。
どうも今のイメージを膨らませた結果らしい。

いまだに息子は、叱られると「お母さんは子育てに向いていない」と反抗するし、
次女は、母の飛ばすギャグに、いつも「フン」と冷めた目を返してくる。。。

幼い頃は、足元にまとわりつくように慕ってきた3人だったのに、いつの間にか
離れて親を見るようになってきた。

これを成長というのだろうか。。。

プレゼントには、「いつもありがとう。3人より」と書いてある。
どんなに突っ張っていても、これが本音と有難く受け取っておくことにしよう。

そうして、昨日も二千畳で共に並んで聞かせて頂いた、ただごとでない尊い
仏縁を何よりも心から感謝しよう。

どんなに姿は老いて力は弱まっても、仏法に本当の幸せを知らされた親子の
絆は、ますます強くなっていくに違いない。

聞法の場で仏縁を喜ぶ君達の笑顔が、母にとってはかけがえのない一番の
喜びなんだよ。。。

思いやりのプレゼントも確かに嬉しかったけど、そういう意味で昨日は最高の
「母の日」だった、と感謝を込めて記しておくね☆
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人命が地球より重いのは

2010-05-07 06:40:22 | 家族
なんだか、書きたいことは溜まっていくのに、目の前のことに追われ、今日まで
あれよあれよと言う間に過ぎてしまった。

昨年の今頃は、毎日のようにブログを更新していたのに。。。

なにしろ、年明けて約5ヶ月、一日どころか半日も、家にいることがほとんどない
状態で、きてしまったのである。

これでは、いくら体力を誇る私でも、要領だけでは両立は望めない。
こんな状態で「我は主婦なり」とでも名乗ろうものなら、周囲から「詐欺だ」と
糾弾されることだろう。

昨日は、連休明けで、晴天も続き、ようやく半日で、布団干しや、冬物の洗濯、
入れ替えを終えることができた。

月に一度でもこんな日を設けたら、家事も一気にはかどり、家の中の見通しも
よくなるに違いない。

この連休には、長女も帰省した。
なんだか、そばにいるだけで助かるもの。

その娘が、一日も家におれない性分の母に対し、「完璧な病気だ」と診断する。
聞法の会場で前傾姿勢で走っているのも、「お母さんだけ」。。。
どうも、なんとかという、じっとしておれない病気があるらしい。

こちらからすれば、子供達の動作は、まったりとスローモーションに見えて
仕方がない。
返事まで、間延びして聞こえてくる。

老少不定とは言え、人生半ばを過ぎ、残された時間を惜しむ気持ちが強くなる
からだろうか。。。

連休は、続けてテレビ座談会の尊いご縁を頂いた。

人命が地球より重いのは、絶対の幸福になるための命だからであり、それを
教えられた仏法を聞かねば、命の尊さはわからない。

人生100年生きたところで、無始無終の生命の歴史から言えば、点にもならぬ
一瞬のこと。。。
そんな泡のような命で、よくぞ人間に生まれたものぞ、の生命の大歓喜をうる
身になることは、まさに地球より重い、多生億劫の大目的と教えられる。

どんなに思うように恵まれた一生を送ったとしても、その目的を知らねば、
秀吉のように「露の我が身」と早晩、消える。

ああ、娘よ。。。
母は「病気」でよいのだ。
確かにあくせく生きてはいるが、仏法を知らず、ゴールも分からず、闇雲に
ぐるぐる回っているだけではないのである。

もう二度と巡ってこない凄いチャンスに恵まれたから、永い過去から繰り返して
きた後悔を、もう二度としたくない。。。

「チャンスを逃すな」の仰せに従い、今生こそ光に向かって疾走するのみ。。。
日々、残された命と競争なのである☆
コメント (2)
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