働く主婦のじゅんこです 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

夏の終わりの変わらぬ風景

2009-08-31 21:35:55 | 家族
「宿題終わったの?」
8月下旬より、残り少ない夏休み、何度、発した言葉だろう。

「言わないでほしい」という息子。
「いい加減、言わせないでほしい」と願う母。

歴史的な政権交代で、日本の政治は大きく変わるようだが、毎年変わらぬ夏の終わりの
いつもの風景・・・。

確かに夏休み、部活は頑張った。
朝、一度も起こすことはなかったし、遅刻もなかった・・・。
だが、山とある宿題をやった気配もまるでない。

このまま突入すれば、どんな事態になるか、目に見えている。

「夏休みは、宿題より部活や友人と遊ぶとき」と割り切っている息子に、どうしたら
「早く宿題すませなさい」と焦る気持ちが伝わるのだろう。

書きながら、もうあきれて、半分バカバカしくなっているのだ。

だって、夏休みも3時間を切ってもうすぐ終わり。ジタバタしても、遅い。
当の本人は、少しも動揺する様子はないし、いつもと変わらぬペースに涼しい顔。
ひょっとして、やり終わったのかもしれぬ、と錯覚させるに十分だ。
だから、聞くのはやめて、そう思うことにしよう。

全国共通の学力テストで、富山は、小、中学校ともに3年連続、上位にある。
さすがに、先生は熱心だし、生徒も真面目。
国語の正答率が高いのは、なんとも頼もしい。
こんな恵まれた環境だから、どんなに助かっているかわからない。

伸び伸びと成長し、素直に勉学に励む富山の子供達。

明日から2学期。
どうかついていけますように☆

死の床で問う「なぜ生きる」

2009-08-30 07:05:24 | 芸能
15歳で脳腫瘍を発病、23歳で亡くなった川上浩輔さんの闘病実話をもとにした。
24時間テレビスペシャルドラマ。

進学校に合格し、将来を見据えて東大に進むことを夢見ていた彼は、突然の頭痛に襲われ、
長い闘病生活が始まる。

同じ年頃の子供を持つ身にとって、本人や家族の悲しみ、苦しみはいかに深いものであったか、
想像を絶する辛い日々であっただろう。

時に自暴自棄になる中で、必死に家族に訴える。
「何で自分だけが」
「こんなに苦しいのに、なぜ生きなければならないの?」
「何のために生まれてきたの?」

親子で向き合った真摯な問題。
しばらくの期間、考えていた母は言う。
「一人一人が考えなければならないことだと思う」・・・。

死の床で、子供からこんな最後の問いを受けたら、親は何と答えるだろう。
どんなに誠実に、真剣に考えても、この母親のように答えるのが、精一杯でなかろうか。

そう、これは、一人一人が向き合って、考えねばならない一番大切な問題であるに違いない。
しかし、問われているのは、「苦しくてもなぜ生きる」の解答は何か、である。

100%確実に、しかも突然やってくる死の現実を見れば、どんな人も避けられない、
考えねばならぬ大問題。

ただ、誰もが死を遠くに見ているから、素通りしているだけ、気づかないだけなのである。

ドイツの哲学者ハイデガーは、死を直視した上で「自分が今、何をなすべきか」を決断することを
「死への先駆的決意」と呼び、これによって「本当の自分」を取り戻し、人間本来の生き方ができる
と説いた。

迫りくる死と対峙してこそ、何が大事で、何が大事でないのか、「自分が今、何をなすべきか」、
ほとんどの人が、臨終まで気づかない最も大事なことが、見えてくる。

政治や経済で教えない、医学でもわからない、哲学にさえ見出せない、迫り来る死を前に、誰もが
一番聞きたい「なぜ生きる」。
その解答が、あきらかに示されているのが仏法なのである☆

「どぶ板選挙」を制した暁・・・

2009-08-29 05:58:17 | 政治・経済
いつもは、下にも置かない「先生」と呼ばれる人が、なりふり構わず、頭を下げて笑顔で握手。
選挙の期間に見られる光景・・・。

今回は、大物議員までが、「どぶ板選挙」だそうである。

「どぶ板」と言ってもピンとこない若い人が多いだろう。
側溝にふたを載せたようなものと言えるのでなかろうか。

昔よくあった長屋のどぶ板を渡って、狭い場所まで足を延ばすこと。

選挙カーで都市部を走り回るだけでなく、自転車や徒歩で、狭い路地にも入り込み、直接、
触れ合いながら訴える。
きめ細かく、抜かりない緻密な選挙活動のことだろう。

中には、絶叫し、土下座も辞さない必死な形相・・・。
ところが、熱い戦いを制して、地元を離れたらどうだろう。

たまに、国会中継で居眠り議員が目に入る。あの時のあれは何だったのか、シラケた思いが
するのは、私だけではないと思う。
選挙中のド真剣さがマコトならば、居眠りなどできないのでなかろうか。

各党の政策が、その場限りの人気取りに思えてしまうのも、日頃の悲しい現実からだ。

昭和15年。兵庫県出身の衆院議員・斎藤隆夫は、歴史に残る国会演説をした。
「政府軍部のすすめる大陸政策はおかしい・・・」。
聖戦の美名に隠れて「国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は
死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」。

彼の発言が通れば、5年後の日本敗戦はなかっただろう。
しかし時の国会は、斎藤を除名。
さらに、脅迫が続き、自決用の短刀が送りつけられ、彼は暗殺をも覚悟した。

今では考えられない時勢である。
それでも、思いを貫き、命かけて記した漢詩が残っている。

「吾が言は即ち是れ万人の声  褒貶毀誉は世評に委す
 請う百年青史の上を看る事を 正邪曲直おのずから分明」

たとえ当時の世評に反し、殺されようとも、百年後の歴史を見据え、国が誤らぬよう命がけで
自説を述べた。

こんな筋の通った気骨ある政治家がいれば・・・。
明日は投票日。国民として責任果たすべく一票を投じたい☆

有形より無形の財産

2009-08-28 09:33:44 | その他
エジプトのピラミッドの中に「今の若いものはなっとらん」という落書きがあるという。
若者に対する不満は、いずれの世、いずこの里も変わらぬようだ。

言葉遣いや考え方など世代格差は幾分あっても、若いからダメだ、と決めつけることはできないだろう。
身近にいる若い人達は、パソコンなど機械に明るいし、男性でも、優しい人が非常に多い。

大人は、「なっとらん」と若い芽を摘むことなく、若者に経験を伝え、若人からは情熱を学びたいもの。
互いに尊重し、高める関係が理想と思う。

しかし、目を家庭に転じて、実際はどうだろう。
核家族化は進み、地域の交流もほとんどなく、たとえ同居であっても、食事はバラバラ、対話もケータイ、
という家庭が珍しくないようである。

老後の世話になるからと通帳を渡した途端、施設に入れられたという悲しい話も聞こえてくる。

昔は親の面倒を見るのが当たり前だったのに、なんでこうなるのか、という嘆きになれば、
「今の若いものはなっとらん」はその通りと言えるだろう。

戦後経済は驚異の右肩上がり。
戦前、不自由した親達は、子供達に不自由させまいと、何でも与えた傾向があった。
金やモノなど目に見える有形の財が最高と、それだけに価値を見て与えられ、動かされ、育てられた
子供達は、それらを親が失ったとき、やがて離れていくのだろう。

それに対し、目に見えぬ無形の財がある。
頼りないようだが、身について失うことがないから、与えるほど宝は増し、子も周囲の人も身近に
集まってくる財である。

どんなに経済や社会、家族の形態が変わっても、親が子、大人が若者に遺さねばならないのは、
有形の財ではなく、無形の財産。

それは、一体何なのか・・・。

何のために生まれてきたのか、苦しくてもなぜ生きるのか。
誰もが最も知りたい解答であり、それを教えられた仏教である。

教えは目に見えぬ無形の財ではあるけれど、それを施され、人生の大事を知らされた若人は、
ご恩に奮起し、情熱を持って返さずにおれなくなるだろう。

まして優しい彼らが、生きる意味を教えてくれた親を見捨てることなど、ありはしない。

どんなに世代格差があろうとも、ここに互いに尊重し、高めあえる社会が築かれるのでなかろうか。
それも大乗相応の地と言われる日本だから、率先してできること・・・。

世界に発信する夢の社会に向かって、個々がまず、仏縁を求め、聞法を重ね身につけて、世代間が
絶えることなく、正しく伝えていきたいものである☆

「差別」や「交代」より一大事

2009-08-27 09:12:25 | 政治・経済
「女性差別」と聞けば、イスラム諸国など、よその国のことと思われるが、日本のこと。

国連の女性差別撤廃委員会が、女性差別解消に向けた日本政府の取り組みが進んでいないとして、
勧告を盛り込んだ総括所見を公表した。

新しい政権は、女性差別撤廃条約締約国として、この勧告を真剣に受けとめ、責任を果たさねば
ならないだろう。

その中で、女性の雇用や公的活動への参画が進んでいない、という指摘がある。

女性は、結婚や出産を機に仕事をいったん辞め、子育てがひと段落してから就職するケースが多い。
そのため、仕事を持つ割合のピークが2度ある「M字型就労」が特徴だ。

仕事を続けたい女性にとって、結婚はしても「出産」となると、一歩すぐには踏み出せない悩みどころが
ここにあると思う。

パート勤務は育児休業は取れず、たとえ制度に乗って育休を取ろうとしても、周囲の理解が得られにくい
こともあるだろう。

仕事を辞めなくても、子育てしながら働く親を支援する社会となればいいのだが、各党の政権公約で
重視しているのは、「子供手当」などの給付や無償化など金銭面での支援策。

もちろん、ないよりいいが、そんな予算があるなら、自宅で子供をみてくれるベビーシッターや、
母親代わりの保育ママの補助など、働く女性の支援に充ててもらえば、どんなに助かることか・・・。

保育所だけでなく、双方の両親に預けられた環境にあって、なんとか仕事を続けてきた経験から
つくづくそう思う。
だから、どうもこの辺りが、女性差別とまで意識は無くても、現場の「働く女性」と「政治」が、微妙に
食い違っているところでなかろうかと思ってしまうのだ。

どんな政治形態になろうと、差別があろうと、希望があれば、人は未来へ命をつなぐ意欲を持つ。
一体、この先、どんな希望に向かって、子を生み、育て、働くのだろう。

その確かな生きる目的は何なのか・・・。
「なぜ生きる」の答えを仏教に聞けば、明るい未来に希望が満ちて、どんな苦難も乗り越えられるに
違いない。
政権の行方をかけた酷暑の「舌戦」を聞くにつけ、最も大事な「なぜ生きる」の行方を、声を大に伝えずに
おれないのである☆

「礼」に見る日本の美徳

2009-08-26 09:35:31 | スポーツ
甲子園の夏も終わったが、選手達は、試合の開始や終了のときはもちろん、球場の出入りの際も、
脱帽して一礼していた。

「礼に始まり礼に終わる」。
これは、野球にとどまらず、日本のスポーツ界の美徳と言えるだろう。

「礼」は相手を尊重し、敬う心が根底にある。

母親が、礼儀を学ばせたいと、柔道の道場に通い始めた山下泰裕選手。
現役時代のその圧倒的な強さから「史上最強の柔道家」と言われる。

引退から逆算して203連勝(引き分け含む)。
対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録を打ち立てた。

強い人は、自分の力で勝ち上がったという自負があって当然だが、ここまでやってこれたのは、
家族や指導者、様々な周囲の人のおかげという彼のコメントを読んだことがある。

総じて、日本のスポーツ選手で勝利した人に多く聞かれるのは、「○○のおかげです」という
感謝の言葉であり、敗者となった相手に対する敬意の言葉・・・。
そう感ずるのは、私だけではないだろう。

戦う相手を尊重し、指導の先生、鍛錬の場、自分を今の環境に置くことができる全てのものに対して
感謝の気持ちが、礼として表される。
その精神が、勝利を得たとき、実感として迫ってくるのでなかろうか。

「オレが、オレが」と実力をアピールし、自ら鼓舞する諸外国の選手に比べ、いかにも奥ゆかしい、
日本の美しさを、つい感じてしまうのである。

イタリア語を「歌に向く言葉」、フランス語を「愛を語る言葉」、ドイツ語を「詩を作る言葉」と評した
ドイツの有名なソプラノ歌手がいる。
言葉の響きに敏感な人であるらしい。
同じく、日本語は、と聞かれると「人を敬う言葉」・・・。

スポーツに限らず、どんなときも、礼儀の精神を知り、基本を忘れず、周囲に潤いを与える言動を
心がけたいと思う☆

夏過ぎて聞く秋来たれ甲子園

2009-08-25 06:45:26 | スポーツ
夏の高校野球は決勝で中京大中京(愛知)が日本文理(新潟)を振り切り、7度目の優勝を遂げた。

両校とも、ここにたどり着くまでの厳しさを思えば、感慨は、いかほどだろう。
中京大中京は、地方大会から、一度も負けなし、ひたすら勝ち続けて、ついに4041校の頂点に立つ。

苦しんで、ひと山、ひと波、越えて得た日本一。
決して楽勝ばかりではなかったと思う。
決勝戦も9回表、2アウトから5点を取られ、あと1点であわや、というところ。
手に汗握る展開に、緊張と感動が見る者すべてに広がったことだろう。

やってる選手達だけでなく、周囲の応援、協力も見逃せない。

一心同体のごとく、一球、一投に泣いたり、喜んだり・・・。
ワクワク、ヒヤヒヤ、ドキドキの16日間だったと思われる。

勝敗が決したときは、敵も味方も最後まであきらめぬ姿勢に感動し、勇気を得て、拍手万雷で
迎えられた。

見ていると、自分も体験したような気持ちになるのだろう。

しかし勝利の美酒の味を本当に知るのは、監督や、厳しい練習に耐え抜いた選手達・・・。
咲いた花を見て感動するのと、ひたすら努力を続けて咲かせた人の感動とは、大きく違う。

幸せな人の生きる姿にどんなに身を重ねても、自分の現実は変わらない。
変えるのはあくまで自身の行為であり、自分が動かぬ限り、どんな苦境も変わらないのだ。
このたび勇気をもらったお返しに、実践で確かめたいものである。

どちらが勝っても、負けても、悔いなく完全燃焼した夏も終わり・・・。

夏草や 兵どもが 夢の跡  (松尾芭蕉)

いつの世も、どんなに激しく熱い思い出も、はかなく夢と消えていく・・・。
次はどこへ向かって進むのか。
夏の終わりに今度こそ、夢と消えない変わらぬ幸を、仏法に聞く秋(とき)来たれ、と
願わずにおれない☆

ながく幸せに続く道

2009-08-24 07:23:15 | その他
「周囲の人は、私が他人を癒しているように見えるかもしれないけれど、私の方が他人より
癒されているのです」。

悲劇の皇太子妃と言われるダイアナは、36歳、8月31日に交通事故で早世した。

死後12年たって、今もなおその死を悼む人は多い。
「イングランドのバラ」として慕われているそうだ。

離婚後も、対人地雷廃止運動や、エイズ啓発活動を行い、慈善事業に尽力した。

はたから見れば、ダイアナが、恵まれない人を励ましているように思えるが、当の本人は
心情を、冒頭の言葉に残している。

施せば、恵まれるということだろう。

死んで悲しまれる人もあれば、早く死んでくれと思われる人もある。

人を幸せにする存在は、そばにいると喜ばれ、いなくなれば悲しまれる。
他人を悲しませ、苦しめる人は、長くいるほど疎まられ、いなくなると喜ばれる。

死んだ後、いかに惜しまれるかによって、どれだけ他人の幸せに尽くした人か、はかる
バロメーターと言えるだろう。

仏教では、他人のためを思って行動すると、周囲から大切にされ、自分自身にも幸せが
巡ってくる、これを自利利他と教えられる。

反対に、自分さえよければ、他人はどうなってもよいという考えを我利我利といい、
苦しみの闇に向かう行為と教えられる。

利他に徹するままが、他人を生かし、自分も共に幸せになる・・・。

振り返って、自分は、どうだろう。
他人の都合や迷惑はお構いなし、「自分が」、「私が」と主張して生きれば、たとえそれが
一時通った人生であっても、いなくなればほっとされるに違いない。

そんな悲しい淋しい生き方は、慎みたいもの。
自分の都合が出てきたら、他人はどうかと、まず相手の都合を考え、勇気を持って優先する。
厳しくも心豊かな無上の道を進ませていただきたいと思う☆

大阪のみんな、ありがとう☆

2009-08-22 09:38:12 | 友達
阪急電車に乗ると、レトロなポスターが目に入った。
見出しに「禁じられた駆け込み」とある。
どこかの劇場の宣伝らしい。

「閉じゆく扉にかけこむことが過ちだったのか。
 息を切らすワタシを乗客が冷たい視線でただ見つめていた。」

監督  辛坊駆
脚本  真奈マモル
     橋瑠奈

最後に「駆け込み乗車はおやめください」と結んである。

このポスターを女子高生が、「メッチャ、おもろいで」と言ってはしゃいでいた。
監督名は「辛抱欠ける」、脚本家は「マナー守る」役者名は「走るな」と読むと言う。
なるほど、そこまで気付かなかった、大阪流のダジャレ。

電車にはいろいろな人が乗っている。
かわいいミニスカートのフリルを揺らして歩く若い女性・・。
ならまだしも、どう見ても60代後半からそれ以上と思えるオバチャンが、なんとフリルのミニに、
踵の高い赤い網サンダルをはいていた・・・。

ここは、どれだけ年を取っても、どんな奇抜な衣装でも、好きなファッションを楽しめる
おおらかさ、無頓着がある。

懐かしい大阪弁がゆきかう中、同級生と再会し、「光に向かって100の花束」を届けた。
読んだらわかると思うけど、光に向かって進む幸せ電車のようなものだから、駆け込みでも、
乗っている人は、冷たい視線どころか、みな手を差し伸べて、あたたかく待っているからね。
縁があることを願っているよ。
見切り発車は、友として何より辛いことだから。また会える日を楽しみに☆

高校野球に思うこと

2009-08-21 06:54:40 | スポーツ
高校野球もベスト8が出揃った。

応援のチームが負けていたら、どんなに点差が広がっていても、9回のゲームセットまでは、
あきらめられないもの。
なんとしても逆転だ、と選手も応援団も奮い立つ。これが、逆転サヨナラを生むこともある。

勝っていたら、あと一つ、あと一つ、と勝利の瞬間を心待ちにするだろう。

どちらにしても、力尽きて勝敗が決まったとき、空を仰いで歓喜するもの、或いは呆然と
グラウンドに立ち尽くすもの、膝を崩して泣く選手、悲喜こもごものシーンとなるが、ともに
達成感、充実感はあると思う。

どんな好ゲームでも、戦いには、最後がある。
3回、4回までなら、点差があっても、まだまだ取り返しがつく、と気持ちも若い。
しかし、回を追うごとに、集中力も増すだろうが、焦りも出てくるもの。

いつも思ってしまうのだが、もし9回が90歳として、人生の最後を迎えた時、どんな力が残って
いるのだろう。

人生で言えば、50歳なら5回、60歳になったら6回を迎えたとしよう。
それぞれどんなドラマが繰り広がるか分からないが、必ず、3アウト、タイムアウトで次の回と
なる。
そうしていくうち、だんだん最後が近づいてきた。
逆転できるチャンスも残り少ない。

心細く名残惜しく思えど、いつまでも試合は続かないのだ。
やがて、かならず最終回となる。
90歳まで生きたとして、人生の最終回のドラマはどうか。
最後の力をどこに向けて振り絞るのだろう。

最後の瞬間まで、ここ一つ、と命を賭けられるものが、人生の目的であるはず。
それがはっきりしておれば、最後の最後まで、あきらめず、目的達成に向かって完全燃焼
できるだろう。

それが無ければ・・・。

ただ回を重ねるだけ、時間を消化するだけの人生は、最終回まで何のために戦ったのか、
頭を去来するものは何なのか・・・。
戦い終えて、胸を張って、甲子園を去りゆく球児。
人生も目的果たして、悔いなしとこの世を去っていきたいと思う☆