働く主婦のじゅんこです 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

今年も「しん」は「真」「信」「心」

2009-12-31 07:40:37 | その他
あっと言う間に一年が過ぎた。

今年も激動の年だった。
これが終わったら、ちょっと腰掛けて考えようと思っても、終わる矢先に次に向かって
走り出す、という感じ。。。

やれやれと思う間がないから、ボーとせずにすんだことが有難い。

今年の漢字は「新」。

チャレンジを訴えたオバマ大統領や、政権交代、新型インフルエンザ。。。

「新」とつくものは、いろいろあったが、個人的には、このブログの開設がそうだった。

何を見ても聞いても、書きたい材料になるから思いは募るが、後半を過ぎ、活動が一層
激しくなるにつれ、打ち込む時間が取れなかった。
これは、今後の課題だろう。

「しん」という字はいろいろある。

「親鸞聖人」の「親」もそうだし、「心」もある。
更に「信」も「真」も。。。

よって、今年「新」たでなく、毎年言えること。

それは、親鸞聖人の教えは、「真」実の「信」を獲て、無碍の一道に出ること一つ。
だから、早く未来永遠の幸福になってもらいたい、とあきらかにされた教えを学び、
教えに従い、「心」を込めて伝えること。。。

幸せにも、今年も聖人の本当の教えを、続けて聞かせて頂いた。

「真の知識にあうことは、難きが中になお難し・・・」
親鸞聖人は、仰せである。

「なぜ生きるのか」、「本当の幸せ」とは何か?
それを教えられたのが、仏法である。
が、どんな人も、仏教を正しく教えて下さる「真の知識」にあえなければ、何一つわからない。

ところが、その「真の知識」にあうことは、大変難しいと言われている。

昿劫多生の間、あえなかった「真の知識」に巡りあえた喜び、幸せは、色あせるどころか、
法に触れるたび、日々新鮮に、輝きは増すばかり。。。

今年も人生の目的に向かって、ひたすら自他共に教えの徹底に生きた一年だったし、
来年の今頃も命あれば、一層拍車をかけて、そう振り返る一年となるだろう。
同志と共に、ぜひそうありたい☆

一緒に腹を立てないように・・・。

2009-12-30 09:07:13 | その他
「一緒に腹を立てないようにしよう」と教えられる。

自分の思うようにならないと腹が立つ。
欲を妨げられると、あいつのせいだ、こいつのせいだ、と怒りの矛先を周囲にぶつけ、駄々をこねる。

子供なら、心の成長過程と可愛げもあるが、大人となると厄介である。
心のままをさらけ出すことが、善いことだと思っている一面もあるのだろう。

世の中には、毒舌家と言って、他人に対し、フツウなら言いにくい辛辣な言葉や悪口、厳しい皮肉を
あえて言う人がいる。
そんな人は、疎まれる反面、自分の思っている事の代弁者だと、根強いファンがいたりするものだ。

自分は、たとえ悪者になっても「みんなが言えないことを言って邪を正すのだ」みたいな、独自の正義
もあるのだろう。

だから、それが認められないと、いきなり大上段に、どうなってるんだ!と周囲にお構いなく腹立てる。

この行為が、いかなるものか。。。

まず、「腹を立てる」ということは、「自分は正しい」が大前提。

「実るほど、頭の下がる、稲穂かな」
と言われるように、「自分が正しい」とピンを頭を上げているうちは、人格的にも実りは浅い。

そんな人には、誰も心を開けない。

「下がるほど、人の見上げる、藤の花」。
人格者と言われる人ほど、自分の至らなさを謙虚に認め、周囲の意見を素直に聞くものだ。
その姿勢が、人望となっていく。

大体、カッとする人ほど、思い違いや、思い込みが激しいもの。
事情も分からないのに、間違った思いを正義として暴言を吐かれては、周囲はたまったものではない。

言った方は、無自覚でも、言われた方は、深く傷つき、死ぬまで忘れられないだろう。

「怒りは無謀に始まり後悔に終るものだ」と教えられる。
一時の怒りの炎で、今まで築いた人間関係も一瞬に焼失し、修復はなかなか難しい。

「自分の思いは間違い」。。。
この正しい前提を知れば、腹を立てるは、いかに愚かなことか。

まして、そんな者に触発されて、一緒になって腹を立てるは、愚の骨頂と知らされる。
だから、不当な怒りは、さらさらと右から左へ受け流す。。。

「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。怒りに怒りをもって報いるは、
げに愚かもののしわざなり」。

お釈迦様の御金言が、身に沁みることである☆

団結最強の子供達

2009-12-29 06:52:48 | 家族
長女が久しぶりに帰省した。

子供3人が、2人になって、食事の量が3分の2になるかと言えば、そうではない。
もっと減る。。。

つまり、相乗効果で、もともと3人分以上の食事量となっていた。
それが、1人減って初めて、そのことが分かったのである。

食事量だけではない。

この3人は、固まると凄い力を発揮する。

親バカなので、書いておこう。

長女が帰省した翌日。

仕事から帰ると、床はピカピカ。お風呂は真っ白。換気扇やコンロの回りもサラサラで、
ほとんど年末大掃除のメインが終わっていた。
おまけに豪華な手作りのフルーツデコレーションケーキが目の前に。。。

3人で振り分けてやったと言う。
もちろん、音頭を取ったのは、長女である。

彼女が帰省するまで、どんなに2人に頼んでもしなかったのに。。。

小さい頃から、長女の指示には、素直に従っていた2人だったから、長女にさえ言っておけば、
大体の問題は解決していた。
その効力がまだ。。。

こんな統率の取れた組織力は、厳しい環境を3人で乗り越えてきたからでなかろうか。

小さい時から、遠隔地への聞法や活動と、3人連れての必死さで、幼い長女を先頭に、
それぞれ荷物を持たせては「早く、早く」とせきたてて、モタモタしてると大人に対するように
厳しく叱った。

まさに鬼母である。
周囲がどんな目で見ているか、振り返る余裕も無く、子供がいることで、できないことが
増えるのを恐れていた。

今ならどう接しただろうか、と想像する。

留守も多かったし、預ける時間も長かった。
親不在の中で、3人は、厳しい戦火に結束した戦友のようにたくましく育ったに違いない。

どう考えても、親はいなくても子は育つ。

ただひたすら仏縁を念じ、どんな時も親鸞学徒に育ってほしいと接していた。。。

時間に厳しく、ますます舌好調な母だけど、体力の蔭りをきっと心配してくれたんだね。
ホント感謝してるんだよ、有難う☆

すべてを善意に・・・

2009-12-27 06:36:31 | その他
「総てのことを善意に解釈するようにしよう」と教えられる。

だいぶ前になるが、アメリカで、家を間違えて敷地内に入った16歳の日本人留学生が、
撃ち殺されるという事件があった。

その後、日本側からアメリカに対し、銃規制を求める声が上がったが、相手の立場で言えば、
見知らぬ突然の訪問者を、身に危険を及ぼす悪人と、悪意に解釈したからだろう。

少なくとも、善意に解釈されたら、こんな悲劇になっていない。

こんな最悪の結果でなくても、人間関係の悩み苦しみは、相手の言動を、悪意に解釈し、
泥沼に入っていることが多いのでなかろうか、と思う。

あの人は、なぜこんなことを言ったのだろう。この人は、どうしてこんなことをするのだろう。。。。

人間関係で、分からぬことは実際多い。

一言あれば、解決することでも、意思の疎通がなければ、「なんで?」「どうして?」と
なってくる。

そんな時、相手の言動を、善意に解釈するか、悪意に解釈するか。。。

これが、心の状態の分岐点になると思う。

大体、善意にしても、悪意にしても、こちらが考えるほど、相手は、自分のことを思っていない。
にもかかわらず、悪意に解釈したら、どうなるか。

その心は敏感に相手に通じ、相手はまた、こちらに悪意を抱くだろう。
二人の仲が、ますます険悪になるのは、必至である。

反対に、悪意でされたことでも、善意に解釈したらどうだろう。

たとえば、頭をカツンとこづかれたら、頭に刺した蜂をパチンと退治してくれた、と解釈する。
そうすれば、怒りは「有難う」の感謝になり、心はおだやかになるに違いない。

相手に対して怒り憎めば、ますます苦しくなるのは結局、自分。。。
悪因悪果、自因自果で、ますます闇に向かうだけ。

感謝で進めば、心は明るく、周囲も笑顔で溢れていく。

幸せも、不幸せも、結局、自分の心次第。。。

そのヒントを与え、実践で知らされるから、善意に解釈しよう、と勧められるのでなかろうか。

ただ、「すべてのことを」とあるから、どんな時も、どんな相手に対しても。。。
ここだなあ、と知らされることである☆

いつかはきっと。

2009-12-25 05:22:11 | 家族
子育てで悩みを持つ親は、持たない人より多いと思う。

子供と言っても、性格、感性、想像力、表現の仕方など自分と異なる人格だし、思春期は、
自己主張も強くなり、時にぶつかることもある。

それでも、娘なら、なんとなく分かることもあって過ごしてきた。
息子の場合は。。。今も読めない状態が、続いている。

特に今回の保護者会は、風邪で休む日が多かったせいか、教室に入る足取りも重かった。

「最近、風邪を引いていたようですね」。
顔を会わせるなり、先生の声。「昨日殊勝にもマスクをしていたので分かりました。インフルエンザで
マスクの装着がやかましかった時期は、してなかったようですが・・・」。

息子の時は、どうしても謝る言葉が多くなる。
「先日、無理して昼から登校し、かえってこじらせたようです」。

「あの日は、本人は知らなかったのか、午後から授業は無くて・・・。確かに部活は、しっかりやって
帰っていきました」。

「・・・・」。
次々と真相はあきらかになり、本能的に、防戦援護。。。
「なにせ、息子は、スロースターターだと言っておりますので」。

「スローでも、スタートしてくれれば・・・」。

先生のヤキモキする気持ちも分からないではない。だけど、もう信ずるほかないではないか。

そして思ったこと。
「できること」と「できないこと」の仕分けの覚悟は親にも要る。

どんなに因果の道理を説いても、つまづく先の石をどけてやりたいと願っても、本人が気持ちを
持たない限り、結局、打つ手はないのである。
望まぬことだが、転んで、痛い目にあって、ようやく知らされることも有るだろう。

そうは思っても、本人を目の前にすると、つい声を荒げて責めたい衝動にかられてしまう。。。
もういいや。ちょっと離れてみれば、こんな親だし、誰よりもがいているのは、当の本人かもしれぬ。

見方を変えれば、人間を学び、忍耐を教え、成長させてくれるのは、個性ある子供達のおかげとも
言えるだろう。

それに、なんと言っても、我が子と言えど、共に光に向かう多生の同志。
永の歴史に思いを巡らせ、百千萬劫の仏縁を思えば、多少のすれ違いは取るに足らぬ小さきこと。
だから、先の大きな目的に向かって、そっと背を押して慈しむ、そんな静かで優しい母に・・・
いつかはきっとなっていたい☆

疾風怒濤の黄金の日々

2009-12-21 22:27:45 | その他
「疾風怒濤のような」とは、こんなことを言うのだろう。

日曜が終わって次の1週間、まるで駆け巡るような日々。。。

12月は、特に日を追うごとに激しさが増し、フツウならとてもこなせないと思えることも、何とか
無事に乗り越えて、ようやくこの日を迎えられた。

「この日」とは、ブログを書こうとパソコンを前に座った、今日のこと。

10日間も空いたのは、初めてだし、その間、書きたいことが浮かんでは消えた。
文字にして、打ち込む間もなかったのである。

だから、いまさら何を書こう。。。

まず、自分への戒めとして・・。

余裕がない時は、「できること」と「できないこと」を仕分けする。

これは、主婦として勇気がいる。

年末となれば、やるべき家事が、気にかかり、保護者会に出れば、至らぬところが見えてくる。

やることは山とあり、それをキチンとこなすには、時間、体力的になかなか厳しい。

それでも若い頃は、「何がなんでもやらねばならない!」と体力に任せて意気込んで、結局、
一人で抱え込み、心身ともに疲弊した。

その過程を経て、つくづく思うのだが、「できない」ことは「後回し」と切り離す・・・。
この選択も有り、ということだ。

「できない」ことを「できない」と認めると、案外、そこに余裕が生まれるもの。
その余力が、年末の最後の追い込みに大いに発揮されるのだと思う。

だから、今は家事は後回し、一番やるべきこと、最もやらねばならない、ここ一つに集中する。
これには、「できる」、「できない」は論の外。
ただ、やるしかない、そんな毎日だったのである。

では、どこに向かって、ひた走っていたのかと言うと。。。

何のために生まれてきたのか、生きるのか、誰もが知りたい、人生の目的を、一人でも多くの人と
共に聞かせて頂きたい、それ一つに向かって、である。

布教革命と言われるテレビ座談会というご縁を、日曜ごとに設けていただいた。
どうしたら一人でも、一箇所でも多く、その尊いご縁を結ばせて頂けるか、日曜日が終わると、
次に向けての1週間、まさに疾風怒濤のような日々だった。

これは、どう考えても、動かされているとしか思えない。
仏縁ある方は、きっと分かられるだろう。

生きる目的に向かって完全燃焼すれば、生きるエネルギーが新たに生まれ、更なる力が、
爆発的に無限大となっていくことを。。。
これが、親鸞学徒の生きる道、とつい言いたくなるのだが、誇らしくも、輝ける黄金の日々。。。
感謝して進まずにおれない☆

日本が世界に発するもの

2009-12-11 20:39:57 | 政治・経済
海外から、日本に来て驚かれることは、人気のない薄暗い所にも、自動販売機が無造作に
置いてあること。

他国では、販売機の中に貯まった硬貨は、盗難の的。

人通りの少ない路地や、無防備な場所にそれがあるのは、「どうぞ盗ってください」と、
泥棒に差し出すようなものと言う。

分刻みの地下鉄や電車が、寸秒の違いなく、到着し発車するのも驚きの一つ。
少々の遅れが何なんだ、と気にしないのんびりした国は、多いようである。

他国の人から見れば、驚くことも、これらは日本の美徳に違いない。

かつて、見聞知の仏様相手の生活を教えられた一昔前は。。。

他人が見ていようが、見ていまいが、悪いことすれば、ジゴクにおちる、どんな悪い結果も
自業自得。
悪いことを慎み、善いことしなさい、と子供の頃から聞かされた。

だから、どんなに、都合が悪くなっても、した約束は守らねばならぬ・・・。

電車の時刻表も、全国に公開した約束事の一つだろう。
それを守るに、徹底して厳しいのは、当然ながら、そういう日本の精神風土からくると思う。

した約束は、必ず守る。
これは、人格を計る大きな要素でもあるはず。。。

「友愛」とは何なのか、未だによくつかめないが、最近「友愛」と聞くと「曖昧」が頭に浮かび、
ポッポと平和に鳴いていた鳩が、豆鉄砲で目を丸くする姿が目に浮かぶ。。。

少なくとも、一国の代表としての言動である。
当然、選んだ方にも責任はある。が、果たせないことなら「私を信じて」はあまりに軽い。

方角立たぬ先行きに、国民の苛立ちや不安は増すばかり。
どんな日夜、懸命の努力も、真の目的分からねば、徒労に終わるだけでなかろうか。

それに比べ、親鸞学徒の明るい未来と、そこに向かう確かな努力。。。

ゆるぎない信念で、はっきり示された目的に向かう喜びは、幸せの輪の拡大を更に生む。

皆が知りたい真の生きる目的を、世界に同時発信するテレビ座談会の輝く先は、とてつもなく
広くはかりしれない。

浮かれず、気を引き締めて、どんな小さな約束事も、守っていこう。
世界が求める、誰もが聞きたい教えだから。。。
その尊い無上の教えを、小さな身の言動で汚すことなきよう、くれぐれも☆

「幸せ」に包まれる言葉。。。

2009-12-07 23:54:47 | 家族
その一言で息を吹き返すことがある。

年末の忙しい中、駅のスーパーへ買い物に出かけたある年配の女性。。。

駐輪場の自転車の前後のカゴに、両手一杯の買い物袋を入れ、さあ出発!とこぎ始めた途端、
バランスを崩し、隣の自転車に倒れかかった。

重さに支えられず、思わず「助けて!」と叫ぶと、後方から、「助けるよ!」という大きな声。。。
男子中学生3人が、すぐさま駆け寄って、荷物を拾い、外まで出してくれたそうである。

孫と同年齢の中学生の「助けるよ!」の言葉が、頭から離れず、今も、大きな幸せに包まれる
そうだ。

「助けて!」に対し、「助けるよ!」

なんて、素敵な響きだろう。
困った人を黙って見過ごせない、共感と優しさがそこにある。

大きな失敗をした時がある。
しかも、その理由を「考えごとをしていた」と報告した。

更に叱られるかと思いきや、その上司は、
「この時期、いろいろ考えることあるものね」と、先に一言。

その時期とは、4月初め。長女の入学準備や活動で、地元と他県を往復し、公私ともに
めまぐるしい日々を送っていた。

と言っても、勿論、そんなことは言い訳にすぎぬ、頭から叱られて当然のミス・・・。

だが、始めの共感の一言で、固まった心が一気にほぐれ、一層、反省せずにおれなかった。
二度とすまいの決意とともに。。。

共感は、人に寄り添う優しさがある。
落ち込んだ心を、元気にする力がある。

だから、見習おうと思うのだが、これがなかなか難しい。

光に向かって、共に進もうの自覚の強さが、そのような優しい配慮、優れた言葉がけに
なるのだろうと、つくづく思う。

咄嗟のときにも、ほっと人を幸せにする言葉を発せる人になれたら、どんなにいいだろう。
そんな人なら、近づき、慕う人も増えるだろう。

日々の言動を振り返るほど、そんな優しい変身を、願わずにおれない。
そして、誰よりそれをユメ見ているのは。。。

今、そばを黙って通り過ぎていった息子だろう、ときっと思う☆

思いが動く、こんな時

2009-12-05 10:05:09 | 文学・歴史
「よ~し、オレ一人でも世の中、変えてみせるぞ!」
「どうやって?」
「・・・」。

正確ではないが、ラジオでこんなCMが流れてきた。
何の宣伝だったか。。。

「一人で、世界を変えてみせる」

若い時、こんな大志があっても、それを持ち続ける力のある人は稀だろう。

うっかり口に出そうものなら、「できっこないよ、誇大妄想だ」なんて冒頭のCMに
漂うような空気になるのが、関の山。

しかし、できないことではないと思う。

『その時歴史が動いた』という番組もある。
「歴史が動いた」とは「世の中が変わった」とも言えるが、何も勝手に歴史が動いたり、
世の中変わったのではない。

動かす「人」がいた、ということ。
そして、それは「誰」か、その時は「いつ」か、に焦点を当て、歴史が動いたカギに
迫っている。

信長であったり、秀吉であったり、家康であったり・・・。

今度の大河ドラマの坂本竜馬などは、明治維新という劇的に時代を変えた人物の一人
だろう。

歴史に名を残す人物は多かれ、少なかれ、その時、確かに歴史の変革を担った人、
世の中を変えた人だと言えると思う。

だから、「一人で、世界を変える」なんて大言壮語も、まんざら不可能ではない。。。

問題は、「どうやって」変えるか、ではなく「どこへ向かって」変えるのか、という目的。

ところが、冒頭のラジオのCMは、それがすっぽり抜けて、「どうやって」、「どうすれば」
という手段が、まず問題になっている。

目的が大事なことは、誰もがわかる。
だが、ラジオに流れるようなシナリオでさえ、目的が分からぬ曖昧さに対し、誰も気に
ならないようだ。

たとえ、目的を持ってそれを果たし、歴史に名を残した人だとして、多くの彼らが残して
いったものは何だろう。。。

車を走らせながら、こんなとりとめない思いがとどまらず、心がせかせか忙しい☆

あくなき向上のめざす先

2009-12-02 08:01:24 | 文学・歴史
世界的な不況下にかかわらず、過去最高益を更新する「ユニクロ」。

その強さの理由を示した、会長兼社長の柳井正氏の新著が
『成功は一日で捨て去れ』である。

2020年には売上高5兆円という大目標を掲げ、世界で一番、革新的かつ効率的企業
めざして驀進中。
この時期、25周年を祝って、10億円の感謝・還元セールを行っている。

これまでも、数々の危機を乗り越え、一人勝ちの成功体験は、幾度としれないはずなのに。
それを、「一日で捨て去れ」とは・・・。

いくら成功した、と喜んでもその時のもの。
経済、流行、消費者のニーズなど周りの環境は、刻一刻と変わっている。

成功に安住し、とりあえず売れる商品、安易な目先の結果に固執すれば、やがて衰退に
向かうだけだろう。

と言っても、「成功」の味をしめれば、誰でも、柳の下に二匹目のどじょうを探しがち。
そうして勝利のパターンを掴みたいのが、本音だろう。

ところが、日露戦争の大成功が、無謀な太平洋戦争に突入し、敗戦の悲劇をもたらした
とも言われるように、成功体験は、「慢心」を生む。
これが、一番恐ろしい。
自惚れは、現状に甘んじ、向上とならない。

『成功は一日で捨て去れ』とは、つまり「慢心は捨て去れ」か、「慢性は捨て去れ」なのか。。。

少なくとも、現状に甘んじては、大きな結果は得られないということだろう。

電話座談会も回を重ねるにつれ、映像、音声ともに格段に素晴らしい環境となっている。

それも、わずか1ヶ月余りで・・。
日々の猛烈な努力向上なくしてできないこと。

親鸞学徒は、どこへ向かって生きるのか、本当の幸せを知っている。
その目的達成に向かって、より良い環境をと示されれば、爆発的エネルギーでぐんぐん進む。。。

何もかも恵まれた今、どれほどの覚悟で、臨んでいるだろう。
「甘え」を捨て去り、後退を許さず、日々、光に向かって前進あるのみ。
そう、負けてはおれないのである☆