じゅんこの部屋 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

人間に生まれた喜びは。。。

2010-07-21 10:17:22 | 家族
20年前の1月末、長女はすやすやと横で眠っていた。

まだ生まれて3週間もたたないのに、なぜだろう。

その寝顔に、突然、熱い感動がこみ上げてきたことを、今も忘れることが出来ない。

「この子は同志だ。過去世、共に光に向かってきた懐かしき友。。。
今、こうしてようやく巡り会えたんだね」。。。

懐かしくて嬉しくて、感激の涙を抑えることができなかった。

なぜだか分からない。が、この時からである。
子供なのに、そうでない感覚が生まれたのは。。。

長女にとっては、さぞ迷惑だっただろう。
何せ、赤ん坊の頃から、そんなヘンな思い込みの母に育てられたのだから。。。

しかし、下の子が次々生まれるにつれ、その漠然とした感覚が、確信に変わっていった。

親の不在にも耐え、実によく面倒を見てくれる。
どれだけ、助かったことかしれない。
弟妹も、小さなお母さんのように慕っていた。
今は、因果の道理で、母を越えて頼りにされている。。。

その長女が、帰省して、昨日も長男の弁当を作ってくれた。
大学で弁当持参しているだけあって、出来栄えもカラフルで、なかなかのもの。
弁当だけは、手抜きしなかった母の苦労が伝わっている、とここだけ自負しておくことに
しよう。

そうして、何より嬉しいこと。
それは、毎日のように、ご法話についてきて、共に仏法讃嘆できるようになったことで
ある。

やっぱりね。。。
我々はかつて、光に向かう同志だったんだよ。
あの時の感動は、間違っていなかった。
二十歳になって、その時のことがようやく頼もしく知らされる。

世間では、子供と言ってもそれぞれの人生があるから、親が思うようにレールを敷いたり
強制してはならぬと言う。

しかし、どうだろう。。。
それは、生き方や生きる手段であって、生まれた目的は親も子供もただ一つ。
この世から未来永遠の幸福になること。。。
だから、それを教えられた仏法を聞かせて頂くことは、親として当然、子供にも求めずに
おれないところでなかろうか。。。

目的あっての手段であり、生きる目的を知らずに、たとえどんな生き方をしても、本当の
幸福を得るという人生の目的は果たせない。

人生の目的がはっきりしているからこそ、そこに向かって、自信を持って職業や仕事を
選択し、悔いなき決断ができるのである。

生きる目的を説かれた仏法を聞かせて頂くほど、生きる力が湧いてくるから、親子揃って
元気と感謝の充実した日々が開けてくる。。。

子育てで、肝心、要なところは、唯一つ。
何のために生まれ、生きるのか、それを親が知り、自ら姿をして示すことでなかろうか。

これ以上の自己肯定感を互いが持った、安定した子育てはないだろう。

最強の同志を身近に得た今、多生、億劫、微塵劫の仏縁を、いよいよ有難く感謝せずに
おれない。
仏法に燃え、尽きて悔いなき夏到来、と全力で進ませて頂こう☆
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円滑な人間関係のもと

2010-07-03 06:32:06 | 文学・歴史
論語に次のような一節がある。

「一生守らなくてはならないことを、一言で言えば何でしょうか」。
弟子が孔子に尋ねたところ、
「それは他者の身になって考える思いやりの心(恕)であろう。自分の欲しないことは、
他人に施さないことだ」。。。

他人の立場に立つということは、難しいようだが、大体、自分がしてほしいことは、相手も
望んでいることであり、してほしくないことは、相手も嫌がることである。

だから、自分の嫌なことは、他人にもしない。

これを基本とすれば、人間関係はほとんどスムーズにいくと思う。

世界が注目するW杯で、チーム一丸となって戦った日本は、延長戦の死闘の末、PK戦で
あえなく散った。

ゴールをはずした選手は、さぞ悔しく、勝利を期待した人達からの一斉非難を覚悟したこと
だろう。

しかし、駆け寄った仲間は、非難するどころか、「自分が蹴ってもはずしていた」と慰めたと
言う。

こんな失意の時は、「そんなに落ち込むなよ」という励ましより、「自分も同じことをした」と
いう共感が、何より救いとなるに違いない。

ゴールをはずした悔しさは、つまるところ経験者にしか分からないからである。
どんな言葉や行為が望まれるかは、当時の悔しい自分が一番よく知っている。

人生も、苦い経験があるほど、それなりに相手の痛みも分かるもの。。。

だから、言われて傷ついた言葉は、他人にも絶対言わぬこと。
心が晴れる嬉しい言葉は、できる限りかけていく。。。

たとえ、言わずにおれないことがあったとしても、それが自分本位であれば、周囲は引いて
離れていくだけである。

一時の抑えきれない怒りや感情で、人間関係をぎくしゃくし、損をしている人は少なくない。

誰しも望んでいることは、幸せであり、厭うているのは不幸だから、何を与えれば、その人は
幸せになれるのか、まず相手の立場に立って、与えることだけ考える。

これが、究極の思いやりではなかろうか。

仏法では、利他に徹するままが自利と教えられる。
幸せになりたかったら、できる、できぬと論じるよりも、ひたすら教えに従い、実践していき
たいものである☆
コメント (2)
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