働く主婦のじゅんこです 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

失うことで見えてくるもの

2009-10-30 06:30:02 | その他
幼少の頃、失明した米国人男性が、40代で視覚を回復した実話がある。

盲目の彼は、大学時代、危険だと周囲から反対される中、独自の手法をあみだして、
障害者スキーの金メダル3個と世界記録をとった。
卒業後はCIAと銀行で働き、結婚すると企業幹部の座を蹴って起業し、現在は実業家
だそうである。

目が見えないと、どんな心の世界が広がるのか想像もつかないが、残された感覚器官を
研ぎ澄ますことで、健常者と変わらない、あるいはそれ以上鋭く、物事の本質に迫ること
ができるのだろう。

視力を取り戻した時、本質の多くはすでに知っていた、と彼は気づく・・・。

体当たりで危険に身をさらすことで、感覚を総動員し、考え抜くことで、壁を乗り越える。
人を外見で「見る」ことができない分、心を敏感に「読む」ことで、人を「見抜いて」いたに
違いない。

視覚に頼らない分、眼力を養ってきた、とも言えるだろう。

失うことで、可能性が狭まったと悲しむのでなく、ハンデによって秘めた大きな可能性を
開拓する、と心の向きを変えれば、やる気も勇気も湧いてくる。

視覚に頼ると、おろそかに聞き漏らすことも出てこよう。

頼るは聴覚だけ、と覚悟して臨めば、真剣さも増し、心に残る言葉も多くなるもの。

仏法は真剣に聞きなさいと教えられる。

このたびの最新システムの聞法は、全身を耳にして、一言も聞き漏らすまいの真剣さが、
より実感として迫ってくる。
つくづくすべてが、光に向かって総がかりの道・・・。
有難く感謝し、今日も元気ハツラツ、全力で進ませていただこう☆

日進月歩の科学の役割

2009-10-28 09:32:25 | 政治・経済
若い仲間が増えた。ERIさん、20代の女性である。
外大出身なので、さすがに言葉に敏感だ。
話をしても、こちらの言わんとすることを正しくキャッチして、適切な表現で返してくる。

今まで、年配の方と多く接してきたから、この素早い反応に、こっちも頭のギアを切り替え、
回転速度を増さねばならない。

早速、彼女は、春風のようなタッチで、「くりから日記」のブログを書いていて、パソコンにも
なかなか明るい様子・・。

パソコンと言えば、グーグルは、アメリカのソフトウェア会社であるが、「人類が使う全ての
情報を集め整理する」と言う壮大な目的をもって設立されたと言う。

各国の料理が並ぶ無料食堂、フィットネスジムやサウナなど、充実した福利厚生サービス、
猫以外のペット、遊び道具が持ち込める仕事部屋など、独特な企業文化で知られている。

既存の考え、枠にとらわれない発想は、こうした自由な空気から生まれると言う。
独自に開発したプログラムは、世界中のウェブサイトを巡回し、今迄の検索エンジンにない
機能によって、2002年には世界で最も人気を博するものになった。

「ストリートビュー」の公開は、さすがに物議をかもしたが、このような斬新な展開は続くだろう。

今後も、科学技術は、どれだけ進歩するかわからない。
が、「人類が使う全ての情報を集め整理した」ところで、それらをどこへ向かって生かし、
「歩」を「進」めるというのだろう。

科学は、人類が、生きる目的を果たすために、進歩を遂げていくもの。

科学だけでなく、政治も経済も医学もあらゆる営みは、人生の目的を果たすために存在する。

「人生の目的」、「未来永遠の幸福」に向かって、全人類が持てる総力を結集し、進んでこそ
真の平和も訪れよう。

最新システムにより、世界の光である親鸞聖人の教えが、世界に同時発信され、昨夜も
多くの同志と尊いご縁を頂いた。

仏縁に恵まれた今日ほど、科学の日進月歩の技術革新を待たれる時代はないだろう。

老若男女、共に同じく、よくぞ人間に生まれたものぞ、の生命の大歓喜溢れる世界に出て
ほしい。その聖人の御心を知らされるほど、ますます伝えずにおれなくなる。
今までの仲間も、今も、これからの人も・・。
恵まれたこの時代に生を受け、共に光に向かう昿劫多生の仏縁を、尊く喜ばずにおれない☆

悲しくてやりきれない

2009-10-26 23:10:47 | 音楽
ある人が、後期高齢者向けの健康診断を受けた。
受け取ったチェックリストに、介護予防の質問が並べてある。

(問)「自分が役に立つ人間だと思えない」
これに、「はい」か「いいえ」で答えよ、とあったそうである。

しばらく悩んだその方は、「はい」と回答した。が、後日その経緯を家族に話し、寂しそうに
つぶやいたと言う。
「私なんて役に立たないのよね。生きていたって」。

75歳を過ぎて、人のために役立つ人間か、否かと聞かれ、「役に立っている」と胸を張って
言える人は、どれだけあるだろう。

若い頃は、存分に働けても、年寄れば、歩くこともままならぬ。
人の手を借りなければ動けず、寝たきりともなれば、どんなに肩身の狭い思いをすることか。

「自分が役に立つ人間か」と問われると、真面目な高齢者ほど、落ち込んでしまうに違いない。

若いときには、思いも寄らぬ老境の苦しみである。

人生の半分を過ぎると、坂道を下って行く先が見えてくるもの。
体力も、気力も失せ、身近な家族も離れていく・・・。

「やるべきことがなくなった」と62歳で自殺した音楽家に、同調する同世代の人も少なくない
のでなかろうか。
若き日に彼が作曲した「悲しくてやりきれない」は、今も遠く聞こえてくる。

悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いは ないだろうか

悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる苦しさは
明日も 続くのか

老いも若きも、誰もが聞きたい。この限りないむなしさ、苦しみは、一体どこからくるのだろう。

その苦悩の根元が、あきらかにされ、その解決を示されているのが仏教なのである。

命を絶つほど、限りなくむなしい人生が、「よくぞ人間に生まれたものぞ」の限りない生命の
大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされる。

すべての人が知りたい「苦悩の根元」。その答えを、今日も聞かせて頂いた。
気持ちはどこまでも若く、燃えてますます伝えずにおれない☆

正邪を決める「我が都合」

2009-10-21 23:18:25 | その他
CS第2ステージで、中日と日ハムが先勝した。

どこの球団だったか、大事な試合でひいきのチームが負けた時、球場を去るそのチームの
選手に罵声だけでなく、生卵が飛んでくることもあったと聞いたことがある。

勝ったときは、「よくやった」。
負ければ、「容赦はしない」。

この心理は、分からぬでもないが、負けて悔しいのは、誰より当の監督や選手でなかろうか。

どれほどの努力をして応援しているかは、わからないが、少なくとも、自分は、サポートして
やっているという自負があるのだろう。

日本郵政の次期社長が元官僚ということで、「脱官僚」と矛盾でないか、と批判もあるようだ。

「官僚が悪い」と多くの人が叫んでも、実態をよく知った上での批判がどれだけあるのだろう。

経済評論家の勝間和代さんは、著書『断る力』に
「自分が正しく、周りが間違っている、という発想が、必要以上に相手の努力を認めないまま、
悪いことだけに注目した「悪者論」をつくっている気がしてならない」と書いている。

結果、「正しいはずの自分が正しく評価されなかったり、思いが通じなかったりしたとき、
しかも面と向かって相手にするほど勇気も自信もないとき、陰口や2チャンネルへの書き込み
という形で、歪んで噴出する」とある。

正しいのは自分、となれば、「納得すればやる」「納得できねば抗議する」という攻撃的姿勢に
なるだろう。

物事の正邪を決める物差しは、自分の思いと信じているようである。

物差しといっても、自分にとって都合がよければ正義で味方となり、悪くなればたちまち邪と
変わり、敵に回るだけ。

ファンや、支持率も、コロコロ変わるのは、我が都合・・・。

無責任な放言に振り回され、気に病む愚かな生き方はしたくないもの。

かの禅僧、一休も言っている。
「今日ほめて、明日悪く言う人の口、泣くも笑うも ウソの世の中」☆

楽しむゆとりも・・・

2009-10-19 22:09:16 | スポーツ
体操の世界選手権女子個人総合で、鶴見虹子選手が43年ぶり、史上2人目の銅メダルを
獲得した。
17歳エースの彼女が、最近わかったことがある。
それは、全種目で、演技前に審判に対し、無理やりでも笑顔を作る。
「表情が硬い」と指導者にアドバイスされ、始めたことだが、笑おうと意識している間、
競技直前の不安が紛れるという。
この笑顔の効用の発見は、ステップアップの一つになっているようだ。

同じく男子総合では、内村航平が、史上4人目の金メダル。

本番の緊張と興奮により、思いも寄らぬパワーを生み出す筋力を「試合筋」と言われるそうだが、
陸上などのタイムレースと異なり、微妙なバランスの体操には、これがしばしば障害となる。

硬くなり、思わぬミスにつながるらしい。

20歳の内村も、「結構、やっかいですよね」と言いながら、その試合筋の制御を、今は完全に
把握しているようだ。

たとえば、ゆかの力の入れ具合は、「練習の半分程度」。
あん馬は、「7割」、つり輪は「苦手なので9割」、跳馬は「5割」・・・という具合。
冷静に、試合筋の作用を計算できることが、美しい演技につながっているらしい。

同じようなことは、フィギアスケートでも言えるだろう。
GPシリーズ、フランス杯で、織田信成が優勝した。
4回転ジャンプを得意とするライバルが、ミスで自滅する中、それを回避し、完成度の高さで、
金メダルを獲得した。

一方、女子の浅田真央は、SPのトリプルアクセルのミスも響いたのか、総合2位に終わった。

難度の高い技に挑戦して高得点を狙うか、回避しても美しい演技を最大限引き出すか・・・。
この選択は、難しいと思う。

ただ「ミスが許されない」国際舞台で、気負いや力みが、演技に大きな影響を与えるのは、
鶴見の笑顔効果や、内村の「試合筋」との付き合い方でもわかるような気がする。

油断でなく、緊張の中の余裕と言うべきか・・・。

「○○せねばならない」と追い込まねばならないことも、時にあろう。が、適度なゆとりが、
コツコツと長続きを生むこともある。

ブログも日が空くと、遠くにいる長女は何かと心配するようだが、書きたいとき、書けるときに、
綴るようにしているから大丈夫。力を抜いて、楽しんでいこう☆

「悩む人生相談」に答える

2009-10-17 20:29:52 | その他
40代女性からの悩み相談が、新聞に寄せられていた。
「心の底にいつも煩わしい気持ちがあります。一生懸命、一日一日大事に生きるべきだし、
必死に生きていれば、余計なことを考える暇がないのは分かります。と言って何かをしよう
としても、楽しいと感じられない。どうすればいいのでしょう」

これに対し、精神科医の答えは、簡略すれば、次のようなものだった。

「あなたは、生活に意義とか意味を求める人ですね。それが見出せないので、生きることが
煩わしくなっている。・・・大自然の中の自分を自覚せば、しょせん小さな人間のやること、
必死でもいい加減でも大差はない。・・・『生かされているだけなら適当にやらせてよ』、と
考えることで根底の疲れを和らげたらと思います」。

この女性の悩みは、深くて重いと思う。

なぜなら、回答者も冒頭に認めているように、これは、「生きる意味」や「意義」を求め、
それが見出せない悩みだからである。

この世に存在するものは、みな意味がある。目の前の机もパソコンもコーヒーカップも・・・。
もし、存在意味が無くなれば、これらは、たちまちポイと捨てられるだろう。
割れたカップを、捨てたところで、誰も文句を言わないように。

自分の存在する意味がわからない。何をしても楽しくない。
生きる意味がないと思うから、割れたカップを捨てるように、ポイと屋上から身投げする。
それに、誰が抗議できるだろう。

突き詰めていけば、こんな生死にかかわる大問題。

「しょせん小さな人間のやることだから、適当にやらせてよ」、と開き直り?を勧めるような
答えで、女性の根底の疲れは、どれだけ和らぐのだろうか。

生きる意味はこれだ、とはっきりしてこそ、苦しくても辛くても、元気もやる気も湧いてくる。
それがとてつもない崇高な目的ゆえに、果たす命が日々輝き、楽しい人生となるのである。

政治も経済も科学も医学も、哲学にも示されない人生の目的が、仏教にある。
それは、人生苦悩の根元を断ち切られ、よくぞ人間に生まれたものぞ、と生命の大歓喜を
得て、未来永遠の幸福に生きること。

人生に悩み、目的を求めるすべての人にとって、仏法に勝る、これ以上待たれるかけがえ
のない出会いはないだろう☆

「コボちゃん」と「サザエさん」

2009-10-16 10:10:18 | アニメ
読売新聞の朝刊、4コマ漫画「コボちゃん」。
主人公コボちゃんの下に、弟か妹が生まれる展開となり、反響が広がっているそうだ。
コボちゃんの田畑家は、1882年の連載開始以来、両親と祖父母の3世代家族。
今日まで、9765回という連載の間、親類の竹男が居候していた時期を除けば、ほとんど
家族構成に変化はなかった。

つまり、約27年間、人間ならば、32歳になっているところ、コボちゃんはずっと5歳であり、
ようやく1つ、お兄ちゃんとして年を重ねることになったということである。

チョコレートのCMだったか、サザエさんの家で、法事が営まれていたシーンが放映され、
はっとしたことがある。
カツオやワカメ、タラちゃんやイクラちゃんが成人していたので、祖父の波平か、祖母の
フネか、あるいは2人の法事だろうか?

製作者によると、2人とも存命だという。
が、見た時は、いつまでも変わらないと思っていたサザエさんの家族に、いきなり変化を
見て動揺してしまった。

元気に生きていた人が、亡くなっていく。
どこにもある当たり前の風景なのに・・・。

マンガは、登場人物が年を取らず、変わらないことに、安心感があり、愛着も生まれて
くるのだろう。
白髪頭で、ヨボヨボに衰えたサザエさんが、出てきたら、驚いて、きっとがっかりするに
違いない。
そう、マンガの主人公は、基本的に年を取ってはいけないのだ。

人は、変わらないものに安心する。
だからこそ、永遠不変のものを探し求め、マンガに夢を見るのだろう。

では、変わらぬものとは何か、愛か、自分か、それとも・・・・。

永遠のテーマでありながら、人はいまだ暗中模索の中にいるのでなかろうか。

不変の真実の幸福を「無碍の一道」とあきらかにされたのが、世界の光、親鸞聖人。
毎年、11月のご命日をご縁に、各地で報恩講が勤められる。

二千畳では、「無碍の一道」の歎異抄第7章と、演題が決まった。
心して一人でも多くの人と共に聞かせて頂きたいと思う☆

徳ある人に・・・

2009-10-11 06:32:31 | 文学・歴史
戦後、旧ソ連で抑留された元日本兵の話。
先日テレビで放映されていた。

マイナス何十度という、想像を超えた極寒のシベリアで、ろくな食べ物も与えられず、
日夜労働の日が続く。
あまりの苦しさに逃亡をはかり、銃殺される者、朝になると飢えと寒さで息絶える者・・・。
60キロの体重が40キロになり、生き残った日本兵も、半数になったと言う。

果てしない絶望に続く極限状態では、自分のことしか考えられない我利我利の本性が、
むき出しになるもの。
その中、配給のわずかなパンを仲間に分け、周囲を思いやり、励ます元少尉がいた。

ある日、マイナス39度の中、強制労働を課せられる。
衰弱しきった体にこれでは、みな死んでしまう。
限界を感じた元少尉は、叫んだ。
「今日は作業中止だ。みな、凍傷にならぬよう集まれ」。

何事かと駆けつけ、銃を構えるソ連兵。
反抗すれば、その場で銃殺されるのが、常だった。
銃を前に、彼は盾となって言い放つ。
「撃つなら撃て。お前たちに、我々の心はわかるまい。私の使命は、みんなを日本に
帰すことだ!」

そう、日本は負けはしたが、日本の魂まで屈したのではなかった。
極限下で身をていして仲間の命を救った崇高な姿・・・。
直後、彼は連行され、消息を絶った。

半年後、帰国した元日本兵は命の恩人である彼の消息を追う。
が、氏名も分からず、手がかりはない。
60年の時は過ぎ、最後の手段にかけた、新聞投稿。
それがきっかけで、なんと80の齢を過ぎて、奇跡的な再会を果たすのだ。

一途な思いは、こんな展開を生むのだろう。
まさしく感動のシーンだった。

元少尉の言動もさることながら、元日本兵の受けた恩を胸に、長きに渡る深い思慕の情に、
心打たれずにおれない。

幾年経ても、忘れられない人がいる。
会えるなら、会ってそばにいきたい。
そんな思いを抱かせる人があれば幸せだし、慕われる人は、まさしく徳の有る人なのだろう。

ある国の王様が亡くなった時、皆から人望があった臣下が「私がひきうけるべきでない」
と跡継ぎに譲り、人のいないところへ逃げたと言う。
すると、人々はその人を慕って集まり、そこに都ができた。

「住めば都」というのは徳のある人のところへ、みんなが集まって都になるという意味なのだ
そうだ。

大事なのは、徳のつながり。つくづく顧みて知らされる。
人生の師に巡りあい、慕う同志に恵まれた身の幸を、しみじみ感謝せずにおれない☆

誕生日と100年カレンダー

2009-10-09 11:09:26 | その他
昨夜、思いがけないご厚意を頂いた。
誕生日を覚えて下さっていたらしい。
一日早い、嬉しいサプライズを、しみじみ有難く感謝せずにおれない。

夜、持ち帰った花束やケーキを見て、「そう言えば・・・」と目を薄め、ようやく思い出す次女と、
部屋で何をしているのか、出迎えもない息子。
さすがに長女は、夜遅くに電話をかけてきて、
「明日だよね。(プレゼント)何がいい?」と、けなげにも聞いてくる。
答えは、いつもと同じ、「・・・。現金でいいよ」。

誕生日を迎える風景は、年々変わっても、心は万年変わらないようだ。

年齢を数えれば、ぎょっとするが、もしこの世に鏡がなければ、老けゆく顔に落胆することもなく、
若々しい気持ちを、かなり保つことができるだろう。

知り合いの哲学者から、小さな字で印刷された100年カレンダーのプリントを手渡されたことが
ある。
以前、市販されたそのカレンダーは、買った人の中で自殺者が続出し、生産中止になったらしい。

呪いはかけてないようだが、のぞくと確かに気味が悪い。

なぜなら、平均寿命の86歳まで生きたとして、西暦20○○年が、私の死ぬ年。
ここに、自分の命日となるXデーがある。
しかも、一枚のプリントに、100年分が記載されてあるから、Xデーは、紙の半分より前。
なんと、もうすぐ目の前に迫っているではないか・・・。

この世で最も恐ろしい「死ぬ日」を待つだけの日々に、なんの意味があるだろう・・・。
このカレンダーと向き合うほど、死にたくなる気持ちがわからぬでもない。

万年若さを誇っても、まだまだ死なんという思いが大前提。
そんな甘さは、逃れようのない「死ぬ日」が、視界に入ってくれば、たちまち吹き飛んでしまうのだ。
しかも、その日は今夜とも知れず、地震よりはるか突然にやってくる。

誕生日は、一年、確実に、死に近づいた記念日であると自覚しよう。

そして、この最も困難な「死」から目を背けず、その解決を教えられた仏法に向かってこそ、
明るい「生」が開けることを伝えよう。
ご厚志に恵まれるほど、その自覚も高まるばかりである☆

「ブタがいた教室」より・・・

2009-10-07 06:17:42 | 芸能
4月。6年2組の担任となった熱血新米教師の星先生は、
「卒業までの1年間でブタを飼育し、最後にはみんなで食べたいと思います」と大胆な
授業を提案する。

生徒達に生き物の命と、それを食べて生きる人間の姿を通し、命の大切さを実感させる
のがねらい。

子どもたちはブタをPちゃんと名付け、掃除、エサやリなど慣れない作業に奮闘しながら、
クラスの仲間として慈しんでいく。

やがて卒業を迎える頃、教室では、手塩にかけて育てたPちゃんを「食べる」「食べない」で
大論争が巻き起こる・・・。

昨年暮れにヒットした映画「ブタがいた教室」。
原作は、大阪の小学校での実話である。

映画では、あえて子役のセリフは用意せず、子供達が真剣に考えたことを、自分の言葉で
激論させた。
時にボロボロ涙をこぼしながら、発言する彼らの姿に、心打たれた大人も多かったようだ。

子供達は1頭のブタをめぐり、生きるとは、他の生き物の命を奪うことと学んでいく・・・。

この試みを、「残酷」という見方もある。
しかし、家畜のブタなら、殺して食しても平気、ペットのブタならどうも、となれば、やはり
矛盾と言わねばならないだろう。

命に、差別はないからである。

テレビでは、畜産家が、丁寧に育てた家畜の肉を、特選素材とする料理番組が盛んである。

それを「残酷だから、やめろ」と抗議する人はどれだけいるだろう。
見て楽しむ心あれば、自分も殺生を肯定しているということだ。

豪華な毛皮を着て、捕鯨に反対したり、人間のすることは、何もかもご都合主義なのに、
こんな矛盾を、自分の中には感じない。

虫も殺さぬ顔をして、蚊や、ゴキブリを殺している。
日々殺生を繰り返し、その命を糧とせねば、生きておれないのが私。
しかもそれを悪と自覚できないほど、麻痺した心の迷いはどこまでも深い。

仏教では、こんな尋常でない矛盾した人間の姿をすっぱ抜かれ、どんな極悪も救われる、
唯一つの道を示されている。

矛盾を矛盾と知れば、いつかその苦しみの解決を求めるきっかけにもなるだろう。
すべての人に仏縁あれかしと願うばかりである☆