ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕 【大江戸役人役職読本】 新人物往来社

2009年11月16日 | 〔09 七五の読後〕
大江戸役人役職読本 新人物往来社 

それぞれの執筆担当者が江戸幕府の職制をやさしく解説した読本。 「時代劇や時代小説がもっと面白くなる一冊」が宣伝文句だが、最近のテレビ時代劇もあまりみない。
時代小説はほとんど読まない。
それでも江戸は面白い。この本も役立った。

■■ 寺社奉行

● 寺社奉行 出世に向けて旅支度
寺社奉行は老中までへの出世登竜門だ。 寺社奉行を振り出しにして大坂城代 → 京都所司代 →若年寄 → 老中とすすむのが常道。

● 歯も欠けて奉行裁きに秋の風
エリート街道からではない突然の抜擢もある。
大岡越前の場合、江戸南町奉行を経て還暦の年に異例の寺社奉行へ。
かっての名奉行も老齢故に辛かった。
年により歯などもよわっていたのではあるまいか。
吉宗の抜擢が晩年の大岡忠相を苦しめさせた。

■■ 側用人
将軍側近にあって老中への伝達、老中からの上申を取り次ぐ。

● 初仕事 おまえの顔など見たくない
老中の酒井大老を綱吉は罷免した。
これがこの将軍の初仕事でもあった。
老中の堀田正俊が城中で刺殺された事件は有名だが、その直前に綱吉は「生類憐れみの令」を用意して堀田は反対していたという説がある。
堀田以後、綱吉は老中を置かず、側用人を軸に専断政治を行った。

● 犬公方 両刀束ねて寝所入り
綱吉の男色、女色は共に有名。
寵愛の近習は二十数人、その一方で家臣の妻と娘を犯す。
胸糞が悪くなるような将軍様だ。
家臣も家臣だ。
牧野成貞は妻を献上し、柳沢吉保は妾を献上し二十二万石を手にした。
吉保の子が綱吉のご落胤であったことは、別の本で読んだことがある。

● 綱吉に仕えた用人17人
綱吉在位28年間に17人の側用人がいた。
今の一部の大企業にある虎の威を借りて威張って陣取る社長室みたいなものだ。

■■ 小納戸
将軍身辺の雑務奉仕。500石。慶応2年(1866)に廃止

● 勘気あれば 二男以下を献上し
傍近くにあれば突然、将軍さまの怒りに触れることもある。
諸大名の方でも勘気を蒙ったあおりからお家断絶になることを怖れ、出仕させるのも二男以下にしたとのこと。 

● 忌日にも魚肉を食べた米将軍
将軍の潔斎日に魚肉が膳に出て、それをチェックできなかったのは小納戸役の大失態。
吉宗はその日、潔斎日と知りながらその膳をすべて平らげ塁が彼らに及ばないようにしたという。
この挿話、綱吉と比べてかなり良い。

■■ 小姓
将軍の雑務役。配膳役の奥小姓と表小姓がいる。ともに500石

● 守秘義務に血判をして御登城
一切漏らしてはいけないことも多く出仕には血判の誓いとなる。
勤務は隔日登城 四つ半(AM11:00) ~ 翌日の四つ半まで

● お小姓は要路またげば側用人
間部詮房、田沼意次 、柳沢吉保などがその典型

■■ お城坊主
殿中の給仕や掃除。20俵2人扶持。役金27両

● 正月は笑いとまらぬ月となり
受け持ち大名への年始に伺うと、屋敷の方からお城坊主へご馳走を出し祝儀まで用意をしてくれた。
そうまでするのは、大名のほうにも情報入手などの下心がある。

● 殿中で世話を焼きつつ告げ口も
諸藩の江戸留守居役は御用部屋の坊主にコネがなければ遅耳となって肝心なときに用が足りない。

● 忠邦は炉灰を消して席を立ち
御部屋坊主が、仕事にかこつけ部屋に出入りし全身を耳にしている。
天保改革など人事などを含めた密談は火ばしを筆にし灰に書き、聞き耳を防いだ。
跡が残るのも防ぐため、灰文字を消して水野は席を立ったというのは私の勝手な想像。

■■ 奥祐筆
政務機密書類の作成。 

● 祐筆の奥は秘密の秘をにぎり
奥祐筆とは奥向きの最高機密文書を扱う官僚だ。
老中文書の古例を調べ当否を決定の材料も調べる。
なんだかいま話題の内閣法制局など官僚連と似ている。
幕末の定員40人  

● 盆暮の届け欠かさぬ留守居役
諸藩の留守居役はこの奥祐筆への饗応にも心を砕く。
この鼻薬がないと国元から請願が出されても奥祐筆はそっぽを向き、担当要路に取り次がず、そ知らぬ顔でしまいこみ、扱いをボツにしてしまうこともあったという。
この扱い箱は「地獄箱」と陰で言われたそうだ。

■■奥医師

● 老中を治さば 薬礼二千両
慶安3(1650)年、老中の堀田正盛の急病を治療した奥医師・奈良玄竹は、褒美に幕府から千両、堀田家からも千両を頂戴している。 これ以後、薬礼の最高額が千両と決まったそうだ。

■■国目付

● 国目付 居宅は領主が設営し
● 駐在し国行政へ目がピカリ
幼少で家督をついだ大名領に、幕府から派遣された目付役人。
駐在して時に指図あれこれもするし、百姓などの訴状があれば直接受理したともいう。
山形最上藩などがよい例だ。
お家騒動があったが、国目付は藩主が酒色にふけり政務をせず乱れあり云々と報告し60万石を取り潰した。
酒色にふけりといっても当の藩主義俊はまだ12歳。
あきらかに改易目的の取り潰しだったと本書解説にあった。

■■ 道中奉行
●行列の進攻役はいのちがけ
五街道とその付属街道における傳馬、旅宿、宿場駅の取締り、助郷の監督、道路・橋梁など改修、工事など道中関係全てを担当した。 その役料は享保8年(1723年)から年に3000石、文化2年(1805年)以後は年間金250両。
参勤交代は奉行も諸大名も大変だった。 仰々しい参勤交代は風呂桶から漬物樽まで運んでいるのだからその手配は大変だ。

● 川留で立ち往生して しようない
財政難で困っていた東北の大名のほうも大変だ。
長雨で川留め、費用が嵩む。
国許へ急使を出しなんとか金の都合をつけた庄内藩の酒井忠徳公もいた。
その後、この藩主は藩財政改革に力を注ぎ、後に庄内藩中興の英君と讃えられた。

■■ 関東郡代
私が住んでいる杉戸など関東の古文書には伊奈半左衛門というのはおなじみの名前だ。
関東直轄の訴訟から年貢徴収までの一切の民政を取り仕切った郡代である。 

● 関八州 農の世界の指揮をとり
開幕の徳川領有は240万石。 直轄領は100万石に及ぶ。
関東郡代は直轄領の収入増大が狙い。
そのため歴代の伊奈氏は利根川、鬼怒川、荒川の付け替え(河川改修)を行い肥沃な関東の大地の新田開発に尽力し数十万石の増収を図った。
伊奈氏は27万3000石、400人の家臣を代官として各支配地に分けた。

● 町奉行と縄張りめぐり悶着も
江戸後期に及び、町奉行と行政が重なる範囲が増えた。
鞘当もあったろう。 加えて寛政4年(1792)、十二代忠尊のときに家政嗣子をめぐり不行届ありと知行地すべてを没収、永蟄居となった。
罷免、改易である。
これを潮に関東郡代が廃止された。

 「さてさて惜しき事なり、伊奈半左エ門殿と申せば百姓は勿論、町人に至るまで神仏のように敬い申し候処、かくの如く家断絶に及びでは気の毒千万、殊に御由緒と申し候ては上もなき家筋にて惜しき事なり」 (寛政四子年覚書)

と当時の文書に残る。
伊奈半左衛門、なかなかの評判だ。

■■ ジッタン・メモ
ブログの最良の読者は自分自身だ。
リタイアしてだいぶたてば2年前から3年前に何を読んでどう感じたのかなどは、見事なまでに忘れてくる。
ところが時に自分のブログを開いて、見出し替わりにつけた五七五をつぶやけば、その読後感はすぐ蘇えるから便利だ。
ケータイでもブログは見られるから、退屈なとき、場所をとらずに読めるのも一興だ。
読後のメモをパソコンに入力するのも、多少のボケ防止にはなるだろう。
時系列でもテーマでも仕分けをしてくれるから、ブログとは便利な整理道具ともみることができる。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿