ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

紅葉北海道早歩き行 

2009年11月10日 | 2009 暮らし雑感
紅葉北海道早歩き行 

初日
羽田から千歳へ。
そこからから県民共済ツアーバスで一路苫小牧へ向う。
5歳上の兄夫婦の誘いで今回の北海道行きとなった。
北海道はデッカイドウと聞いたことがあるが確かに大きい。
おば様ガイド嬢によればその広さ、東北6県に新潟県を足した面積に相当するとのこと。
  窓外に見る樽前の紅葉は少し盛りを過ぎたとこだった。
ほどよい黄葉は鮮やかだったがなぜか赤の配色が少ない。
この辺りは小雪地帯で通りすぎる牧場にはサラブレッドが点在していた。

白老を通る。
もう40年前になるが、兄はこの地に仕事でやって来て地方鉄道の観光のポスターを作るための”官費旅行”で1週間ほど滞在、当地の写真撮影の仕事をした。
その頃の兄の肩書きは商業デザイナーだった。
白老はアイヌ語「シラウオイ」(アブの多い所)からの名前らしい。
外は晴れているのだが、バス運転席のフロントガラスに雨が時折かかる。

バスは登別から室蘭、→ 伊達市へ向っている。
途中、「動物に注意」という標識を見受けたられたが、その図には「蝦夷シカ」が描かれていた。
有珠山ロープウエイ搭乗することを楽しみにしていたが、強風のため本日の運転が中止になったと添乗員が報告。
ガイド嬢の説明によれば、有珠山はほぼ30年ごとに爆発を繰り返している。
この爆発は、なぜか日本歴史の転換点に符合。
昭和20年の終戦時期、もっと遡れば嘉永6年ペリー来航、明治43年大逆事件などと時をあわせているのは興味深い。
直近では昭和52年に大爆発。
この時の降灰は襟裳岬までに及んだそうだ。
噴火、降灰、落石の惨事があり有珠新山が生成された。
この年は、日本赤軍の日航ハイジャックがあり、獄中被告の釈放など「超法規的措置」で話題になった。その一方、王さんが世界新756号を放った年でもあって記憶に残っている。
30年ごとにの数字を加えてみたら2007年という数字が浮かぶ。
今後の10年間が注目される。

有珠山の寄生火山として昭和新山があるが、ここでバス旅行団体の記念写真を撮影。
近くを散策。
アイヌの方々の生活居住を示す一隅があり三松記念館もあった。 昭和新山は昭和18年に噴火し敗戦の年に標高402メートルの新山となった。
この噴火の記録を後世に残すため郵便局長だった三松正夫さんが、当時、一切の私財を投じて、この山を買い取り、隆起の状態をつぶさに調査したという。
これらの事、あの暗い世相の中でなかなかかできることではないと思った。

バスは洞爺湖わかさ芋本店で小休憩。
 「やっぱり うまいって わかさいも」ポスターがあってその写真はボクシングの内藤選手。
彼の出身は隣町・豊浦町。
芋を試食したが、これがやっぱり美味い。
思わず財布を緩めた。

バスは一路、洞爺湖へ。
西側ポロモイ山の山頂中腹に「ザ・ウィンザーホテル洞爺」が見えてきた。
周囲を大森林に囲まれ、洞爺湖サミットが開かれた場所だ。
  2008年7月7日~9日にサミット関連の22諸国首脳がやってきた。 我々は陸路バスでここまできたが、各国首脳は政府専用機などで新千歳空港から空路、ヘリ入りとなったはずだ。
今回のツアーも速足だが、最近の政治の動きも超スピードの感もある。
このサミットの時には福田首相だったが、終わってみぞゆうの麻生首相が1年、そしていま友愛の鳩山首相だ。

宿泊した洞爺湖畔亭は、老舗の旅館だが今の日本のデフレ不景気のざわつきをどこかに感じた。  
まず仲居さんが少ない。その為、酒がなかなか出て来ない。
酒客が興ざめでみなブスっとしていると添乗員があわててビールを運んでいた。
これも更に北の旅路の気分をそぐ。
デフレになって、安かろう、悪かろう、当たり前だろうでは困る。
どんな旅でも、小さな夢を見にそこにでかける。
経営におもてなしの心だけは失ってもらいたくないものだ。
だが最上階の大浴場はなかなかよかった。
湖面を眺め対岸の夜の灯りを楽しみながら湯船に浸ることができた。

2日目
翌朝、雨のち晴れのバスに乗り込む。
だが天候急変も充分にありえる、ということで、ガイド嬢の発案で乗客一同アイヌ語でおまじないを3回した。
カムイ ポプニカ アーホイヤ 
神様、神様  どうぞ天気にしておくれ 
このおまじないが実に霊験あらたかで、その後によく効いた。

積丹(シャコタン) 半島を外周する。
蝦夷富士の羊蹄山は雲の中にあった。
甜菜 ビート畑が目に付く。
北海道の家は、我々関東の住まいとは明らかに違っている。
まず塀が無い。雨どいもない。屋根は滑雪のためトタンで部屋の仕切りは小さく頑丈。
すべてこれ豪雪対策の故だそうで、大きな灯油タンクは半月に400リットルも消費するとのこと。
ここは道南だが道東、道北になればその寒さは半端ではないらしい。
零下20~30度の日もあるというのだから想像を絶する。だがこの暖房完備で室内は半そで、ランニングでもOKということだ。
窓外に見る日本海の荒波に旅情がある。
波しぶきは大波だ。
防波堤の工事現場に人影が見受けれたが、町中の歩行人は、ほとんど見られずひっそりとしていた。
なぜか、「石狩挽歌」のメロディが浮かび口ずさむ。
一方、小樽に着いたら買い物だ。アブラガニとはこういう蟹、イボが6つのタラバ蟹、花咲きガニは根室だけなどひっきりなしにおばさまガイド嬢の説明は続く。

積丹町の神威岬に着く。(写真)
下りたとたんに台風なみの強風で私の73キロが吹き飛ばれそうになる。
丘の草木が烈しく波立っている。
 ここでも記念撮影があったが、帽子に注意してくださいと言われた途端、我が帽子が 空中を舞って一行の前まで飛んだ。

小樽では少し自由散策の時間があった。
だが小樽運河は興ざめだった。
夜の華やかな花街を昼間見るようなもの。夜の美人も昼の素顔ではもたない。
美術工芸店がならび、なぜかカミさんたちは万華鏡を買っていた。 この小樽の坂道のどこかで、かって伊藤整と小林多喜二はすれ違ったこともあったろうな、などと考える。
私が兄事しているS先輩の初赴任地もここ小樽支局だった。
運転手に支局のあるあたりを聞いた。
地獄坂という聞き慣れないことばを聞いた。
明治時代にできた小樽商大の頃は、荒涼としてその一帯は深い雪に包まれていたとのこと。
兄夫婦と小奇麗な寿司店で会食。
後日の電話でSさんから叱られた。 美味いすし屋はオレに任せろ。なんで電話をしなかったんだ。

夕刻5:00の小樽はもう日暮れ近い。
苫小牧港まで戻り新潟までの船中一泊。
波を枕に瀬を敷布団に。リズムに慣れれば、寝やすい。これは4人の感想でもあった。
翌日は快晴。
デッキからの海上景観はすばらしかった。
時々、栗島などが現われその島影を見ていて飽きがこない。
過ぎ去りしあのこと、このことなどをジョッキを片手に兄と話すこともできた。


■■ジッタンメモ■■
旅程 2009年 10月20日~22日
航路 羽田 → 新千歳空港 → 昭和新山 → 洞爺湖わかさ芋本店  → 洞爺湖温泉

二日目 洞爺湖温泉 → 洞爺湖展望台 → 羊蹄山眺め → 京極ふきだし公園 → 積丹半島めぐり 神威岬 → 小樽自由散策 → 苫小牧港 → 新潟 へ 船中泊
日本最大のフェリー 新日本海フェリー しらかば号 とか


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