ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔11 七五の読後〕 【百姓の主張】渡辺 尚志 柏書房 

2011年01月27日 | 〔09 七五の読後〕
 百姓の主張 渡辺 尚志 柏書房 


■■北塚村
千葉県のほぼ中央東部にある江戸の小さな村。
上総国長柄郡北塚村(現在の茂原市北塚)を舞台にした古文書記録をいまのことばに直した本となった。
起伏のあるドラマがあるわけではないが、村の訴訟ごとを通じて江戸農村の暮らしぶりが直に伝わってくるような感じを受けた。


● 双方にうまみもあった村請制
村請制は知行地領主の旗本からみれば居ながらにして年貢が入り、煩瑣な事務手続きがない。
村の方から見れば年貢額で領主との交渉もでき、日常的には嘴が入らず村の運営が自ら確保できるうまみもある。

● 村入用 その都度名主が立て替えて
名主は裕福で、文字が書け計算もできる人でなければ勤まらない。
文字計算は村人のほうにも言える。
割戻しなどが精確に行われているかどうかは文字を知り、計算もできなければ確かめようも無い。自分が損をすることになる。
寺小屋教育は暮らしぶりに大きく役立っている。
領主からの御用金は一時、名主が用立てあとで村人が出金する。
村入用分と年貢などとの相殺にあてるのだが、きちんとしてないとトラブルも発生しやすい。

■■第一次村方騒動
● 横暴な名主をみなで訴えよう
文政12年。小前を中心にして村中が名主横暴と領主に訴えた。
名主を辞めさせることができるのは知行地旗本の領主。この旗本は村田氏。
名主のほうも世間体上、自らも辞めさせてくれと願った。
事の起こりは旗本のほうの懐具合が悪くなり「箱の塗り直し」代を名目に一時用立ての御用金を名主を通じて村側に伝えた。
借金はやがて名主に返済されるのだが、この下付け金を巡り名主は村人に出金を割り返さなかった、また割り返してもきわめて悪平等だと小前百姓が騒いだ。

なおこの村は
文政12年 
名主 1 組頭3 百姓代 2
百姓 41 計47
(5人組で9つに分けた)
の構成になっている。


● 名主には着服疑惑の眼がそそぎ
領主に収める年貢と塗り直し代金の割戻し相殺を計らなかった名主に小前は不信をつのらす。
江戸屋敷に出向いて訴える。この旗本屋敷は小石川の春日にあった。

● 名ばかりの無尽でカネを取り立てて
旗本無尽というのがあって、無尽という名目で百姓から出金させて旗本が取り逃げすることも当時はあったそうだ。
その上納金は返済されたわけだが、そのかけ戻し金を着服したのではないかの疑惑の目が名主に注がれる。
名主は万事独断で事を処理し組頭や百姓代などに相談していない。
しかもこの名主、ことあるごとにワンマン声高で、小前らを怒鳴り散らし、叱り付け、横柄すぎるとふだんから評判もよくない。

● 名主には閉門、蟄居、隠居沙汰
旗本領主からのご沙汰が下った。
名主に重叱り、閉門、蟄居。本人には隠居申し渡し。
不明朗な会計、独善的な村行政傾向に領主の処罰がくだったわけだ。
しかし、北塚村から本人が消えるわけではないし、今までの力がまったく反故になるわけではない。
領主は江戸にいるから名主の村での隠然たる影響力には目が届きにくい。


■■ 第二次村方騒動

● 組頭 月番にて名主役
名主が蟄居となって不在だから、その役は組頭が代行。
はじめは月番交代でやっていたが病気で2人の組頭が辞任。

● 入札で組頭決めよと御用人
村方役人の選出に旗本の用人は選挙(入札)でと指示。
この用人という存在もできる人材を知行所のほうで召抱えて行政させることも多かったようだ。
この組頭候補も評判が悪い。前の名主とつながっている。
隣村で小間物屋稼業もやっていて役務専一でないことも小前たちには不満だ。

● 開票は江戸屋敷にて行われ
村は二つに割れた。
開票結果、小前から忌避されていた助次郎、利右エ門の2人が任命された。

● 鎌を持ち蓑傘を着たユニフォーム
小前のほうの不満が一気につのる。
組頭には悪事横領の不行き届きがあるから旗本に訴え出よう。
一同、一揆のデモスタイルで江戸をめざす。
蓑傘で鎌を持つというのは百姓の身分証明書とでもいうべきものだろう。
旗本屋敷前に座り込んだ27人。
これは門訴という強訴だ。

● 小前らの34人が傘連判
趣意に賛同した連判状とは映画の赤穂浪士のように巻物式だと思っていたが、傘連判という円状のものもある。
私も昨年、郷土史の公民講座でそれをみたことがあるが、この本に掲出されている傘連判は、天保6年未六月のものであることが本の写真を拡大してわかった。
要求は年貢と御用金用立ての相殺要求であり、同時に村の分離独立、村役人を通さない形での年貢直納を求めている。
組頭の助次郎は名主重右衛門が黒幕として参加し、小前が推した彦右衛門のほうはこの門訴に参加している。
助次郎も本音では組頭という繁務は願い下げをしたいところでもあったらしい。
村や領主からの手当給金はわずかなものであり、村人の反発を買ってまで職務は遂行したくない。


● 旗本は 幕府へ解決願い出る
知行地内の処分は軽微であれば罰金刑などができるが、屋敷門前に座り込み徒党をなしての訴えてくるということになるともう手に負えない。
徒党を組んで強訴ということになれば、これは天下の大罪である。
捨て置かんぞ、ということで勘定所へ訴えるということになる。
勘定奉行所は幕府領の年貢を預かり管理、幕府の財政運営を司り、また幕府領の
民事・刑事案件を一手に預かっている。


★ 馬喰町 人の喧嘩で蔵を建て
★ 馬喰町 諸国の理非の寄る所
百姓たちが泊まった馬喰町などは公事宿ともよばれ、そこは訴訟のプロもいた

いろいろな事情を聞いてその訴訟に関与介入して仲裁から和解まで動いてその利ざやを懐にする。
旗本と村との和解工作もあったらしい。

● 近隣の名主が仲裁買って出て
急を嗅ぎ付けた近くの本納村や谷本村の名主も旗本に仲裁を働きかける。
「小前は先非を悔い、以後は村田氏(旗本)や村役人の言うことを守る。守らせるからどうか勘定奉行への訴えは願い下げてもらいたい」というもの。
だが、勘定奉行のほうは吟味を続行、やがて刑が決まった。
首謀者は遠島、田畑は欠所(没収)。(吟味中に首謀者=頭取は牢死)
その田畑跡地は村役人が預かり年貢を納めること。
元名主ら2人は追放、江戸所払い。
傘印に連判したものは罰金と叱責。
組頭任命は撤回しない。
小前側が負けたような感じなのだが、旗本のほうは用人を解雇している。
これだけの騒ぎで旗本のほうも以後は内輪に済ますことで教訓になったようでその圧力にはなったのではと著者。
でも代償になったものはかなり大きかったと思う。

 知行地の旗本のほうには勘定奉行としては音沙汰なしだったのだろうか。
騒擾がたびたび起こった場合はどうなるかなど著者にはにぜひ言及してほしかった。

● 立替がもめごとになる仕組み
名主など村役人にはしょっちゅう立替をしなければならない場面が生まれる。
そのことが村内の揉め事にもなりやすい。
公私混同しがちでどうしても使途不明金が出やすい。
村の集まりでの村入用費である蠟燭、炭、酢や醤油から文書の紙、墨などの一時立替分や前述の領主の御用金払いなどがあり、年貢は村請だからその割戻しなどがあり、事務会計役がいるわけでもないから、揉め事になりやすい。
名主も裕福でないときもあり私的借金もあって公私未分離にならざるを得ない一面もあったようだ。

私も農関係の小さなNPOに所属しているが、理事長の独断専行が一部不明金などを生じて揉めることがあった。
これと、同じようなものだ。

このあとこの北塚村には第三次の村方騒動が生まれる。
文久元年(1861)の名主が訴えられた。
これは博打のもと締めのような男を組頭にして村が難儀をしているというようなもの。
役銭の取立てに問題があるといった内容が主訴。
この騒動は旗本のほうから名主を休職(罷免)とし任命した組頭のほうは辞職謹慎。
この騒動からの教訓で五人組の判頭(小前代表)を名主・組頭への意見パイプ役とすることなどが決まったようだ。

解決を暴力沙汰や一揆などという過激な方法はとらない。
訴訟となりながらも、双方がその落とし所を探る知恵が江戸の村にはあったようだ。


戦国時代にはこうした村文書はすくないが江戸時代には多い。
事実、私も地元の文書などの輪読学習会に参加しているので、村方三役の表記の文書にはいくつか接してきた。
だが、これほどまでに当時の揉め事や事情が浮かび上がってきた文書はなかった。
小説などでは味わえないリアル感が伝わってくる。

著者が紹介しているが
元禄10年(1967)の全国の村の数 6万3276
天保5 (1834)では      6万3562

現在、全国の村数      1800程度





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