ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【天保期の方々】(9)【江川坦庵全集】戸羽山 瀚 巌南堂書店

2009年04月04日 | 【天保期の方々】
【江川坦庵全集】戸羽山 瀚 巌南堂書店

● 湛山は大先生と目標に
 石橋湛山という敬愛すべき政治家がいた。
戦前には「東洋経済新報」で長期戦争化を戒める論陣を張り、戦後には 第一次吉田内閣で蔵相を務めた人だ。
この人事、吉田茂の慧眼と思う。
昭和30年8月、湛山は鳩山内閣で通産大臣を勤めていたがその大臣室で「江川担庵 そのニ」への序文を起こしていた。 (坦庵)

先生の眞面目は、徳川幕末混乱の時代において、早く世界の大勢を透察し、来るべき明治維新の先駆をなし、韮山代官として先生が管内に種痘を奨励したというごとき、当時の民政としては実に大胆な施策であったと言わねばならない。

江川は種痘摂取にあたって自分の息子や娘を伊藤玄朴に接種させて住民を天然痘の流行から救おうとした。
パンを国内で初めて作った人でもあった。
民政の実例が多い人だ。
この「序文」を書いた湛山は翌年の昭和31年、脳梗塞で自民党総裁・総理大臣の座を辞職。
 「あの時のレバ、タラ」があるなら戦後総理として最適の人ではなかったか。
現在の太郎首相や小沢党首と比べるとそのスケールは桁違いの人であったらしい。残念。

● お代官 その人脈のその広さ
読後、江川太郎左衛門英龍をめぐる人脈はすごいなと思った。
その人脈は彼の誠実進取の人柄も物語っているようだ。
絵は谷文晁、外国事情は杉田玄白、間宮林蔵からは北海探検を聞き、伊能忠敬からは伊豆測量を教えてもらっている。
剣の道では斎藤弥九郎が兄弟子であり、渡辺崋山や川路聖謨とも親しい。
幕府から中濱万次郎も預かっている。
砲術を学ぶ門弟は四千人と言われ、その入門と破門に第一号が佐久間象山だった。

 ● 大飢饉 甲州になびくむしろ旗、旗
江川は天保6年に世襲代官に就任。
翌年の天保7年は大飢饉年、この3年間は凶作が続いている。
相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領が彼の持分だがその内、甲州郡内は、難しい治世の場として昔から定評があったようで、慶長以来数十人の代官が更迭されている。
英龍は、部下二十人を引き連れ、八王子に泊して、一揆暴徒の一隊を鎮圧。
 当時の緊迫した様子が文書に残っていたので備忘とする。

   甲州郡内領之もの共騒立候ニ付申上候書付
 (相州日蓮村の名主から荒川番所の出役え訴え出た暴動一揆の報告書)

私御代官所、相州津久井縣日蓮村役人共訴出候者、甲州郡内領村々之儀、米穀高直ニ 而人気騒立頭取躰之もの七八人有之、
紙幟江村名并名前を書記し、太刀帯、三百人位一組ニ相成、右頭取之もの及差図村々を押歩行、
人數え不加ものは其所を焼払候抔申立騒立候ニ付日々人數相増凡三千人餘集り、
西村貞太郎陣屋元甲州谷村を始、外村々并 同州笹子峠を打越、壱丁田中村迄押歩行、
凡家數三四拾軒打毀及亂妨候由、
夫ヨリ縣内え押入右日蓮村政右衛門方打毀候趣之風聞有之由に而、
郡内領村々ヨリ政右衛門取置候質物凡金七八百両程之品々両三日之内受出候ニ付、
風聞之通一両日之内ニは押寄可申、片時も案心不仕旨申立候
 以上

天保8年3月、江川は斎藤とともに刀剣行商人に扮して甲武相の三州の地を視察巡行している。
この斎藤は、江戸九段坂下に「練兵館」を開いた。
練兵館は千葉周作の玄武館や桃井春蔵の士学館と並んで江戸三大道場の一つ、後の塾頭に桂小五郎がいる。
江川が伊豆国韮山の代官となった時には、斎藤は江戸詰書役として彼に仕えている。


■■ 備場巡見
天保9年12月 水野忠邦は江戸湾防備のため備場見分を目付鳥居耀蔵と江川英龍に豆相総房4カ国の海防巡視を命じた。
これは、今までの拙稿ブログにもメモ書きしたが、この記録、珍しいので本文より抜いておく

 戌十二月四日
張札ニ而 越前守殿御直於御部屋 隼人正え御渡
御勘定奉行へ
御代官江川太郎左衛門 右相州御備場為見分被 差遺候間、
其段可被申渡候御目付鳥居耀蔵も被 遣候間、
申談見分可致旨可被申渡候
右内藤隼人正殿被 仰渡、御立會川路三左衛門殿之旨 被聞直ニ御禮御廻勤被成候旨、是又被仰聞
出役  井上善次郎

立会いに川路聖謨の名前がある。
正任 御目付 鳥居耀蔵 御上下御同勢 三十五人
以下、御目付として加藤某、小菅某の名前と部下五人づつ とし御小人目付として五人の名と部下二人づつ 副任 御代官 江川太郎左衛門 御上下拾人 の記があった。
そのほか関連の文書として 「江川太郎左衛門人馬覚」や江川の手代が残した巡見時に食事、宿泊の様子がこと細かに 綴られている。

 この全集には、 江川の反射炉建造資料 農山漁の民政資料などが山のようにある。
殆ど上記にあるような候文体の釈文で 埋まっているが、県立図書館から借りた本なので、期限もあって、すべてに目を通せなかった。
洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に先見の目があり数々の実績を挙げた江川は【天保期の方々】でも指折りの逸材だったと思う。

 ■■ジッタン・メモ■■
江川と川路聖謨の交遊録の一端が川路の日記にある。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿