ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【天保期の方々】(8) 【夢空幻】金座御金改役・後藤三右衛門の生涯  堀和久 講談社

2009年03月20日 | 【天保期の方々】
【夢空幻】金座御金改役・後藤三右衛門の生涯  
                        堀和久 講談社

著者は浅草フランス座の宣伝部にいて作家になった人。
経歴の点では井上ひさしさんによく似ている。
私の高校時代の映画部の恩師も同じような道を辿って教師になった人。
毎年の賀状交換で、いまもお元気でおられるのががうれしい。

■■ おぞいもん ■■
● 伊那飯田の元結問屋に呱呱(ここ)の声
「若松屋」に三男坊の林奥輔が誕生した。 末っ子のこの子は、おぞいもんとあだ名された。
おぞいもんとは鬼っ子、できそこないの意味なのだが、元気旺盛でガキ大将の狼っ子。

 元結は尾張の城下で大人気 
飯田地方の晴れた空には元結の紙系百筋が縞模様となって空になびく。
商家の次男は別家の暖簾わけか、養子か、部屋住みの使用人かになる。
奥輔は寺町の退仲塾へ通う。
この田中退仲師匠がなかなか魅力あるキャラとして描かれている。
博学の酒徒の師匠なのだが、江戸に出向いて本因坊家の碁師師範代となり、生涯を通じ奥輔の知恵袋となった。
実在の人であったらしい。

● 木刀を手に塾頭になって統率し
奥輔は京都の猪飼塾で儒学と漢方を学ぶ。3年半の修行。  

■■ 金座 ■■
 ●ご改鋳なくて公金に手をつけて
改鋳がなくなると金座の維持コストが大変になる。
その維持のため公金に手をつけざるをえなかったようだ。 文化七年(1810年)に後藤宗家は取り潰され、分家の三右衛門が貧乏籤をひいた形で、金座長官のお鉢を受け継ぐ。

● 御改鋳 待てど暮らせど来ぬ便り
● お薬と共に寝るのは三右衛門
慶長小判の寿命は百年。元禄小判は二十五年。
元文元年の改鋳以後八十年のご無沙汰となっている。
田沼時代は改鋳より増税策を検討、定信の寛政の改革は改鋳より緊縮倹約の政策をとった。
改鋳がなくて金座を預かる身は楽ではない。
そのため三右衛門は病いがちの日々となる。 各地諸藩の地金を買収、純度を算出して代価を算出する仕事はあるが利幅はない。
広大な空き地の雑草をむしり、ただひたすらお上からの改鋳のご沙汰を待つ日々。
金座維持費は千五百両かかる。
三千三百坪の建物施設、三十人の雇い人がいる。
改鋳になれば分一分の制があって、鋳造高に合わせて月に千両、二千両の実入りが期待できるが、なければどうにもならない。 貨幣のもとになる金銀は、幕府の専有と定まっている。
佐渡、石見、伊豆などの主要金銀山は直轄地にくみこまれていた。
だが、諸藩の領内にも小規模の鉱山は少なくない。そこでの産出地金は、そのまま幕府が買収する決まり。
取り扱うのはこの金座である。

● 養子婿 後藤奥輔誕生し
金座は半官半民の運営。
その仕事柄、金力と権力の権勢を幕府は警戒し四代目から帯刀を禁止している。
この頃は一御用達商人なのだが、退仲碁師の情報網から貨幣改鋳近いという情報をつかみ、奥輔側は家系図を細工し豪華な色に染めあげ堂々と後藤家への婿入りとなる。

● 家斉の御小姓として気に居られ
文化14年、江戸城には水野忠成という美男の新老中が誕生している。ひたすら家斉をヨイショして有名になった人だ。

●忠成の大功三つをかぞえあげ
大御所と言われた家斉は彼の業績を評価。
・貨幣改鋳で幕府財政を好転させてくれた。
・家斉自身の子女50人余の養子先、輿入れ先の面倒をよく見てくれた。
・朝廷側へ太政大臣の宣下工作に尽力してくれた。



● 二分判金 火事場のような騒ぎなり
奥輔こと三右衛門の時代に、ついに新貨幣鋳造の発注となる。
 二分判分の鋳造高は一期百万両。
さあ、忙しくなった。火事場の騒ぎだ。
奥輔と軍師の読みがあたった。

● 引き換えよ 町触れなどが徹底し
文政元年五月、二分判金鋳造が公表され、現通用金貨との引き換えが勧告された

小判金の儀、年久しく相成り、自然と瑕金等多く、世上難儀の趣相聞こえ候につき、このたび二分判金吹き立て候。二分判金は二ツをもって金一両に通用すべきものにて、小判、一分判金と取り替え、通用差し滞り申すまじく候事。 このたび世上運用のため吹き立てられ候二分判金の儀、来月十日より流通いたすべく候、現行の小判、一分判は極印消え、瑕等多く、近く吹直しこれ有り候。追って古金はすべて通用停止仰せ申すべく候。


二分判金は改鋳原料の確保、年貢代、諸問屋への支払い、藩御用達の為替決済はすべてこれで行えという通達があったという

● 文政3 三右衛門は二十六
奥輔、御金改役就任4年目の好運に出会った。


● 一日の生産高は十万両
● 十日ごと千両箱の雨が降る
一日百両の分一金が後藤家に入る仕組み。
一方で吹所で金銀を溶かしたことにして小判二枚に一枚はとりこむことができたという。


● 口の中 お尻の穴まで再検査
作る金座職人への出入り監視の改めはきびしい。

● 金座勤め 婿一人に嫁八人
それほど人気のある職業として江戸市中には見えた。
高給であり品行方正の証明。 家の娘を嫁がせたいという親も多かったか。

● 三右衛門 林述齋の私塾入り
述齋は官学の八代目家元。
ここで述齋の息子の鳥居耀蔵と出会い、以後印旛沼開鑿などを通じ昵懇な間柄となる。

■■ 忠邦 天保改革 ■■
● 舵取りをしたくて浜松出世城
水野忠邦は上昇志向の強い殿様だった。 長崎警備で幕府要職につけないのは我慢できない。
実入り二十数万の実収地から浜松の痩せ地六万石への転封自らを願ったのは二十六歳の時。
文化十四年(1817年)九月のこと。

● 忠邦が本丸老中に就任し
療養中の水野忠成が逝去した。
天保5年(1834年)忠邦が代わって本丸老中に任ぜられ、天保10年(1839年)に老中首座となってゆく。

● お殿様 晴れて華燭の典を挙げ
奥輔と軍師は故郷の飯田の殿様に莫大な政治献金を為した。
お殿様の堀大和守はそれを持参金として忠邦の妹と華燭の典をあげた。
文政4年水野は京都所司代に一方の堀大和も寺社奉行と栄進している。
いわば二人への政治献金は先行投資として描かれている。
ところで作家の堀とお殿様の堀はどういうご関係なのか。
そのご末裔でもあられるのかどうか、偶然なのかはわからない。


● 御金蔵 山吹色にきらきらと
新たに三百万両が幕府御金蔵に入った。
これは幕府6年分の予算となる。
当時、天領四百万の年貢米=八十万両 旗本・御家人の俸級三十万両 年間予算は五十万両

● 堀大和 若年寄の黄金味
水野忠邦の西ノ丸老中より2ヶ月早く外様大名としては異例の出世で堀の殿様は若年寄に昇進。
各方面への鼻薬などの資金工作の用立ては後藤三右衛門の奥輔と軍師の知恵。政治資金だ。
無証文で水野、堀にも金をどんどん融通。

●  一朱判金、二分判金は終了し
天保3年、終了の一方で小判、一分半金、二朱判金は絶え間ない鋳造が続く。

● 天保4 初代光次が名乗られて
家康の座右にあった後藤庄三郎の家柄に復活した。
 大量の鋳造は、後藤家に多大の利益を生み、忠邦への献金にも比例する。 忠邦は、幕閣の中での地位を高め、天保十二年(1841)、大改革を開始。

● 妖怪も矢部もそれぞれ名が知られ
 天保7年、大飢饉のこの年、鳥居耀蔵は西丸目付 矢部は勘定奉行勝手方に就く。 
田中退仲は金座留守居役の碁師として諸大名などから情報を収集。
奥輔と妖怪は文政6年の昌平黌でも学びの仲。
当時の鳥居耀蔵は家斉近侍の御組頭。

● 金づるにされる鵜飼の鵜の立場
天保の大飢饉の中でものうのうとしたゆたかな金座の立場は、諸藩大名からの羨望と憎しみを買い、それでも彼を便利な金づるとして利用した。
しかし、奥輔のほうではいざとなれば裏御用の金を公開するという点で強みもあり、上納金も含めて奥輔と軍師と幕府側と諸大名の駆け引きが随所に繰り広げられた。

● 上納金居丈高に矢部迫り
天保8年、勘定奉行となった矢部定謙は上納金を下命として奥輔に強要。 奥輔との間に確執が生まれ、懇意にしていた鳥居耀蔵はそれを聞いている。
耀蔵こと妖怪が南町奉行となった矢部追落しの謀略にはこんな要素もあったかという作品の一こま。

● 忠邦は改革ブレーンを手招きし
この中に御金改こと後藤三右衛門の名前は当然あった。
鳥居耀蔵や渋川敬直らの名も。
以後の天保改革のあれこれは、拙稿ブログでも重複してるので割愛。

● 改革へないないづくしで反抗し

当時の江戸に流行った「ないないづくし」

苗や苗はよしか、初物の茄子がない、胡瓜がない、隠元豆のもやしがない、白粉(オシロイ)あまり塗り手がない、この節師匠の花見がない・・・・諸品下がれど買い手がない、世間に根っから銭(オアシ)がない

● 阿部の手で守旧派を一掃し
水野に替わった老中阿部正弘により奥輔こと三右衛門は贈収賄などの非をあげられ小伝馬町の獄舎へ繋がる。 弘化2年9月、水野忠邦は蟄居の上2万石減封、10月三右衛門は極刑に。
その罰は、欠所、お家断絶、投獄打ち首。とむごい。
この頃、堀大和守も失脚。
水野派は一掃されて黒船時代に向かってゆく。



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