ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【天保期の方々】(10)【渡辺崋山】 ドナルド・キーン 新潮社 

2009年04月27日 | 【天保期の方々】
【渡辺崋山】 ドナルド・キーン 新潮社 

■■ 崋山の絵 ■■
 なによりも本の扉後にある27枚の口絵がいい。
文中の人間崋山の生きように触れた折々、その絵が解説されていて大変参考になった。
文末にある40頁にまたがる「注釈」のほか崋山の参考文献、索引もしっかりしている。
崋山の人間性や業績について語られているが、それは縷々知られているので割愛。
崋山の絵の部分だけ抜き七五の備忘としたい。

● ふるさとは 江戸町々と藩邸に
江戸藩邸で生まれ、江戸で育った渡辺崋山。
ただ一家は父親が上士とはいえ11人世帯で貧窮を極めた。
父親の定道(1765~1824)は年百石で江戸藩邸に出仕していたが実質は五十石以下だったらしい。
少年の崋山はかく思った。

 「急にしては親の貧を助け、緩にしては天下第一の画工と相成り申すべしと一事に思ひを定め申し候」

こういう姿勢と態度こそが戦前の教科書にはぴったりした素材で、それが修身の鏡となったようだ。
戦後の我々の教科書には崋山の「寺小屋」や国宝にもなった「鷹見泉石像」などの絵が あった気がする。

● 文晁の弟子 金陵に入門し
金子金陵が16歳の崋山の才能を見出し師匠の谷文晁に紹介した。

 南畝から讃を貰った崋山の絵
崋山22歳の作品に太田南畝(蜀山人)の讃があったという。
当時から江戸文人仲間では注目された若い絵師だったようだ。

● 初午灯篭 百枚書いて銭一貫
注文があった絵が初午灯篭。
この売り絵を書く。
この銭一貫で紙と筆とを調えたという。
ただ貧乏小藩の勤めぶりや生活の実態にはわからない点も多い。
キーンは崋山の生活を文化13年(1816)の崋山23歳の日記から拾い

(崋山の)典型的な一日は、朝6時に起床、午前中に風呂に入り、午後は画を描いている。夜は、藩邸でいつもの夜勤である。崋山は午前二時過ぎまで床に入らなかった。時には、昔の大家の作品を模写することに熱中して、一晩中まんじりともしない夜もあった。

と紹介。
ここを通読すれば一体どこが貧しいのか。
朝6時に起きて、風呂に入って、午後は絵を書き、夜勤を勤めたあとは又午前すぎまで絵に熱中できる環境なんてもんは、平成21年の金融危機下のサラリーマン家族にはない。
財政が窮迫している小藩での小禄だから貧しくとも時間だけはあったということなのか。

● 「一掃百態」 江戸の人々ありのまま 
崋山の寺子屋の絵。
私たちの使った教科書のどこかにあった記憶が残っている。
 この「寺小屋」は、崋山26歳時の作品で『一掃百態』のなかにあった。
この三十二葉の小冊絵の中には、金魚売りやそれを買いたそうにしている親子連れもいる。
糊の利いた裃の武士が歩き、子守り女が二匹の亀を見ている場もある。
江戸の町と日々の生活が生き生きと描かれて飽きがこない。
ただ浮世絵と違って遊女たちやその世界を崋山は描かない。
儒学教養も身についているから芸術は道徳的な力がなければの考えもあったとのこと。
 「一掃百態」というのだから、一回の筆さばきで江戸庶民の百態を描いたという意味か。
ただこの絵は崋山生前には刊行されていない。

● 百態は北斎漫画の刺激受け
北斎漫画の八冊目が出たのが文政元年(1818)。
当時、大評判だったから崋山もそれを見ている。
キーンは北斎に刺激を受けて百態の風俗画を作ったのではないかと推論している。
北斎漫画の第一冊目は「動物、鳥、昆虫、花々、魚」だった。

● 与謝蕪村 丸山応挙へも批判
二十代の画家崋山は先達二人にもきびしい。
絵画伝統の筆法を知らないのに、ひたすら技巧に走っている。
その上で、その弟子たちも風俗画を描いているが、その粗雑下品な絵には吐き気がでるほどと激しい。

● 描いた絵 一家にとっての収入源
中国絵の模写や蜻蛉や蝶々などの写実画は注文があった。
藩邸への勤めのほかの内職、 一方、谷文晁の画室で絵の模写に丸一日を割く日々もあった。
以下は崋山35歳の所感。
貧窮にしての売絵を嘆いている。

余つねに思ふ。
この時妙絵を臨模(リンモ)し、法書を影写すれば、かならず技を進めんと。
しかるに困乏飢饉に及び、わづかに画を以てまぬかる。
故に一日画を作らざれば、一日の窮を増すのみ。
ただ身窮するのみならず、上はニ母(母と祖母、定道は文政七年に病死)の養をかき、下は弟妻の慈をかく。
余の画、是を以て農の田、漁の畋(デン)のごとくに然り。
あに歎ぜざるべけんや。
臨模は模写の意。 (文政11年(1828)の日記より)

● 誕生日 師匠に贈った肖像画
崋山は松崎慊堂(コウドウ)に儒学を学び、師として尊敬していた。口絵には坐像、顔だけを書いた肖像画の二枚が収められている。
なごやかな表情の顔の絵は慊堂の誕生日の贈り物として崋山が描いたそうだ。
後年、崋山が「蛮社の獄」で牢に繋がれた時、慊堂は高齢で病の身であったが 崋山助命のために奔走し水野忠邦へ建白書を記した。
結果、崋山は死一等を減ぜられ田原藩での在所蟄居処分となった。
もう一人の儒学の師に佐藤一斎がいる。
文政4年(1821)に描かれた崋山の一斎像は11枚あったという。気に入るまでの写実的リアル感を追求したようだ。
この師匠のほうは林述斎家の塾頭の立場にもあってか蛮社の獄での崋山救命には動いてはいない。

● 棺蓋を開けて馬琴の子を描き
馬琴の嫡子宗伯と崋山は、ともに画を金子金陵に学んだ仲。
宗伯は滝沢琴嶺とも名乗ったが日頃から病弱だった。
天保6年(1835)馬琴は息子の危篤に際してその肖像画を崋山に依頼した。
崋山が到着した時にはすでに琴嶺は棺に入っていたが、崋山はその蓋を開け死に顔をスケッチした。
こうした場合、死者の肖像画は画家の思い出からのちに描かれることが多かったなかで、崋山の それは異例のこと。

● 古河藩の家老とらえた彩色法
崋山が学んだ西洋絵画の技法。
烏帽子と礼服衣装に太刀を帯びた気高い武士の表情がある。
顔に陰影あり彩色ありの肖像画は有名で今まで、いろいろな機会にこの挿絵などを見てきた。
古河藩主土井利位の大坂城代在職中に起こったのが天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱。藩家老であった鷹見泉石がその先頭に立って鎮圧の指揮をとった。
この年に崋山の「鷹見泉石像」が生まれた。
本人は崋山とともに熱心な蘭学者だった。
この絵は国宝となっているそうだ。

 サムライが笑ったその場を写し取り
サムライは生涯に三度しか笑わずとのことばがある。
その誕生、結婚、最初の息子の時ががそれで、侍には無骨無愛想がつきまとい、いかめしい。
ところが泉石の隣の口絵には笑顔のサムライがあった。
みていて「へぇー」と声がでてしまった。珍しい絵だ。
キーンは
 「この笑っている武士は実は泉石である可能性がある。左の小鼻の下にある黒子は、ニ副の肖像画に共通のものである。鼻といい、眼といい、眉毛といい、驚くほど似ている。このニ副を同じ泉石の肖像と受け入れ難い最も強力な理由は、二人の紋所が違っていることである。私は、泉石が笑っているのだと思いたい」 として同一人物と推定した。
ただ、藩家老ほどの家柄で育った侍が紋所の違うものを着ることはまず無いだろう。
注釈によると この肖像画の類似点、相違点についての論考は、日比野秀男「渡辺崋山 秘められた海防思想」があるという。
入手できれば読んで見たい。
ともあれ、二人の厚い信頼関係があってこの絵は成り立っている。

● 主の心 煩わせたと死を選び
蟄居謹慎の身で好きな絵を画きまたそれを売った。
それを黙認したとして藩主にその責が及ぶことを恐れた崋山の選んだ道は死への旅立ちだった。
 「不忠不孝渡邉登」。
自ら大書した文字を墓標として選んでいる。
非業の自刃に両親への不孝、主君への不忠を詫びた。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿