ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【天保期の方々】 (12)  【江戸奇人伝】旗本・川路家の人びと 氏家 幹人 平凡社新書

2009年07月13日 | 【天保期の方々】
【江戸奇人伝】旗本・川路家の人びと 氏家 幹人 
                             平凡社新書

「鹿政談」という奈良奉行を扱った落語がある。
機転の利くあたたかい裁きができるこの奉行は川路聖謨をモデルにしていたらしい。
聖謨は筆まめの人で、いままでも何冊か彼の日記類を読んだが、この本は川路の身辺にいた人々を取上げて面白く読ませてくれた。
なかでも奥方のおさとさんは美人で個性的魅力がある人なので、この夫婦像をメモ録とする。

● 拳骨で ためらわずに孫をぶて

何卒新右衛門へ被仰、御一同にて強くあたまを御はり可被下候。強く折檻と大人之心痛にて夭折いたし候義に候はヾ、乱世に長寿は無之と申候ものに御座候。
何卒、厳敷可被成下候。

孫の太郎の子育てへの川路からの注意。
いたずらには拳骨で結構、折檻して欲しい。
それで丈夫に育たないようなら乱世に長寿者はいなかったはず。遠慮なく手厳しくと江戸の孫の養育を実弟の新右衛門に依頼。 聖謨自身もこのスパルタ教育でやられた。
御家人の父からは「子はせめころせ、馬は乗りころせ」とまるで巨人の星の一徹親父のような育て方をされた。
しかし聖謨の本心はこの孫を可愛くてたまらない。
ほかの川路文書を読むとよく孫が出てくる。
この孫の太郎さんは明治4年の欧米派遣使節団の書記官としても活躍した人。

● 自らは つらの皮のあつ姫と名乗り  
奥方の実家の兄が酒飲みにやってきたので川路聖謨が、接待しながら、内儀おさとの手紙を披露した。

そこで義兄が申すには おさとはわがいもとながら、天下の奇才にして亭実又世に越たり。
世にかゝる人あるべしともおもはず。
紫式部にして松浦さよひめのみさほあるものは、一天四海にわがいもと一人なるべし

と、酔言に混じり日頃の妹の感じを率直にのべた。
しかしオレ聖謨は

われはカヽ自慢なれど、大越がいふほどにはおもはず。
夫より一二段は不及かたかと疑ふ也。
いかがあるべき。
はないろちヽぶ杉浦さほひめ位かとおもふ也

おまえはいい女房だけど紫式部ではなく「はないろちヽぶ」、松浦さよひめではなく「杉浦さほひめ」あたりではと駄洒落ている。
これに対して奥方のおさとさんは、夫への返信にこう書いた。

兄なる人、鯛のさしみに酒のみて、酔て、おのれが日記や文や見てたわむれ事共いひしは、いとをこにこそあれ。
紫式部松浦さよ姫にはあらで杉浦ちヽぶ位ならむとの殿の御言葉、大にをかし。

とし、続けて

されど夫もまだ過たらむ。
紫もめんせつたうらかわ姫位ならむ。
いと顔(ツラ)の皮あつ姫と人やわらはむ。

あなたが言った花色秩父や杉浦さよ姫でももったいない。
あえて申せば、 わたしは「紫木綿雪駄裏皮姫」か「いとツラの皮厚姫」くらいではないかしら

著者によるとこれは、まだ一度も活字化されていない貴重な史料とのこと(国立国会図書館蔵)
中年のユーモアあふれるいい夫婦像だ。
おさとさんは3つ年下の御内儀。
嘉永4年、聖謨が奈良奉行から大坂奉行に昇進することで江戸に戻り、おさとは川路の養父母と一緒に大坂で待っていたその間の夫婦の手紙のやりとりであるらしい。
これが江戸高級官僚の夫婦仲睦まじい生活のひとこまだったわけだ。

● 京都行 かわいい亭主に旅をさせ
安政五年正月に58歳の聖謨は、日米修好通商条約の勅許を得ようとした堀田老中に随伴して京都に上った。
だが交渉は難航、わけのわからんちんの公卿を相手に最悪の3月滞在となった。
以下は、その頃の聖謨から江戸で留守をまもるおさとさん宛の手紙。

ここにいたりて、おさと平日世話之行届かゆき所へ手の届が如くなることをよく弁たり。
帰りてもこヾとは申まじ。
かはゆきおやぢには旅をさせるにはあらぬか。

可愛い親翁(オヤジ)つまり、おまえの「夫に妻のありがたさを実感させるには辛い旅をさせるに限る」と著者の解説。
「可愛い子には旅をさせろ」を文字っておやじとしている。
勅許獲得に失敗した堀田の帰府から数日後に、彦根藩主の井伊直弼が突然大老に任命された。
ここから安政の大獄の伏線が始まってゆく。

● 役人の世は狂言芝居と妻諭し
おさとの眼よりみれば、役人などにも甚敷芝居に似たるもあらじとは定がたし。
心と躰とかはりたるはみな芝居也。
何卒あなたも役人の狂言芝居の場をまことに御はなれありたし。日々に芝居に似たることの甚敷うちにあらせながら、しばしの間芝居に似たるものをよみて、其の後悔つやつや合点不参候。
いにしへより今にいたり芝居の臭気なき人いかばかりかある。
御かぞえ御覧候へ。

心無き役職に動かされてその役になりきっているのは役者とおなじではないか。
「心と躰とかはりたるはみな芝居也。」というところだ。
慧眼というか、すごい。
あなたも官僚社会の裏表を知り芝居に似た場面の修羅場を踏んでいるのだからいまさら後悔などはお似合いになりませんよ。聖謨を諭しているわけで、驚いた夫婦だ。
無能な町長を助けるためにその役を汗みどろで演じたわが小さな町の総務調整幹という役場のトップの男の顔がふっと眼に浮かんだ。
おさとさんは年増の美人で稀有の才女とある。
しかしこのおさとさんが聖謨の母からの手紙に喜んで雪隠にかけこみ、中に落ちたという話もあるからそそっかしいところもあったらしい。
著者も「幸い、金隠しに手が掛かったので全身クソまみれになる悲劇は避けられた」とその状況を記している。

●母上の お慰みに日記書き
川路の残した日記の動機だ。
江戸の母を寂しがらせないため身辺雑記を送る。
 このめずらしい文書記録は当時のいろいろな時代の素顔が見える好史料だ。

因にいふ。
この日記、元来<中略>母上の御慰に、わが御傍らにありて常に御物語をするを筆にかえたるものなれば、可笑(オカシキ)ことまたわが健にて勤居るといふことを専にするなれど、おりおり弥吉等に聞かせたしとおもふことも出来て、かたくろしきことをもしりす也。
みる人勿怪(アヤシムナカレ)

本文からの孫引きとなってしまうが、川路の文章力について司馬遼太郎は 「こんにちにいたるまで、政治家・高級官僚で川路聖謨ほどの観察眼と文章力をもった人はいないのではないか」 (街道をゆく 10 羽州街道、佐渡のみち) と褒めている。
司馬さんからみても聖謨はお墨付きを与えた注目の人であったようだ。

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江川と川路聖謨の交遊録の一端が川路の日記にある。


 


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