ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

昭和家庭史 光男編 (7) 嘴は8号まで 間上書店がバックアップ

2006年01月13日 | 昭和家庭史
同人誌「嘴」は8号ぐらいまで発刊された。当初はガリ版刷りだったが、やがて活版刷りとなり1部80銭で店頭に並んだ。名古屋の従姉妹の秋子たちも学友ちを通じてかなりの部数をさばいてくれた。さてこの「嘴」を積極的に援助し、全国への販路開拓などにも力を尽くしてくれた人に間上儀太郎という人がいた。

間上は浅草千束の本屋の若主人で、外大露文科を卒業して家業を手伝っている貴公子然としたもの静かな人だったという。
光男とはウマがあったらしく、間上は、わざわざ尾久まで散髪に出向いてきたりしていた。
光男も露西亜文学に造詣が深い彼から、いろいろな話を聞くことを楽しみにしてた。
 当時、浅草花やしきにカワウソが数匹飼われており、間上はバケツにドジョウをたくさん入れてカワウソの餌として運んでやっていた。
この人と花やしきがどういう関係だったのか解らないが、ともあれ光男もお供で付いて行くと、カワウソたちははるか遠くから間上を発見し、一斉に騒いで歓迎したという。
さて間上書店の店頭、いちばん目にとまる場所に「嘴」は置かれた。独自な配送ルートを持っていたのか、やがて北海道や九州からも「嘴」読後感が光男たちのもとに届けられたという。
 この間上書店の隣に「滝」という大きな待合いがあり、そこの娘で、うりざね顔の瞳の大きな美人がいた。
名前は滝蓮子。
杉村春子と同じ頃に築地小劇場の研究室から女優になった人とのこと。
間上は蓮子と幼馴染だったらしく、よく光男と連れ立って蓮子の芝居を観にでかけた。
 小劇場は当時3周年を迎えていた。

 「昨年から今年にかけて、文壇の各作家は競って戯曲に手をつけ、またおびただしく刊行される無名の同人雑誌等が何れも新戯曲を満載して所謂戯曲時代を現出するに至った。(中略)
このころの東京朝日の報ずるところによると、全国に亘って約150の新劇団が存在していた。
如何に新劇運動が全国的に普及されていたかが判る。
150というこの存在にはそれだけの観衆の支持があった譯である。この数字は同時に新劇自身の力の増大と進歩との証左であった。」(「築地小劇場史」 昭和6年刊 水品春樹)

 「無名の同人雑誌が新戯曲を満載して」という小史記録に興味をひかれた。
光男が「嘴」で「感激の行方」という髷物の戯曲を「嘴」に発表したのもこの頃であったと思われる。
これは仇討ちに材を求めた創作戯曲だったが、作者の光男には一言の断りも無く「東京演芸社」という劇団が勝手に浅草公会堂で上演してしまったという。
このことは昭和7年のNHKラジオドラマ当選作となった光男の「肖像画」に対して、読売新聞記者が光男を探訪した記事中で判明した。
当時の全国の同人雑誌が競って戯曲を扱い、150というたくさんの新劇団がそれらの脚本に注目したという連鎖の関係が推測できる。

 ■■ジッタン・メモ■■
同人誌「嘴」が8号続いたという話は光男からキミへ、キミから息子のジッタンに受け継がれた。
だが昭和20年に襲った東京大空襲で、この同人誌はすべて灰燼に帰し、わずかな記憶の中で辿られている。
  間上と光男が通った築地小劇場の所在地は現在の地下鉄日比谷線築地駅からすぐ近くの、東京都中央区築地2丁目11番地に位置する。
小劇場は100坪の劇場敷地に客席が400~500席あり、天井高く、可動舞台があって日本の新劇運動の黎明期を飾った。


写真はNTTビルの壁の「築地小劇場跡」の記念銘板

最新の画像もっと見る

コメントを投稿