ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

昭和家庭史 光男編 (8) ラジオドラマ名づけは小山内薫

2006年01月15日 | 昭和家庭史
劇界の無気力に愛想をつかしていた小山内薫が築地小劇場を土方与志と創立したのは震災の翌年、大正13年6月13日のことである。 その旗揚げ宣言で「東京には見物をたくさん入れる劇場が多いが、芸術的良心を持った劇場は築地小劇場が唯一である」(前述「築地小劇場史」) と過去の面影を失っている歌舞伎や、新派劇興行と関係の深い松竹商業主義を昂然と批判し「我々の劇場では見物は従来の如く、遊び半分であってはならない。古い見物には用がない。我々の見物は学生でなければならぬ。何故、日本の物は演らぬか。私達は演出者として日本の既成作家の創作から、何等演出欲をそそられないからだ」(同上) と旧体制への挑戦を宣言、文壇や劇界から反発を呼んだ。


しかし小山内はそのことば通りに「桜の園」や「ベニスの商人」「人形の家」「幽霊」「群盲」などの翻訳劇を上演した。
 間上と一緒に光男が小劇場に足を運びはじめた昭和2年の夏、客席はガラ空きだった。
もともと、客の多くは学生と一部のインテリ層であったから、学生にとって円本を買えば観劇は1回減らすというきびしい事情もあった。
雨や風の日には観客100人以下ということもあったようである。
光男は間上と時に滝蓮子と食事をしながら、その日の感想などを語りあったという。
光男が好きだった俳優は山本安英、丸山定夫だった。
「山ちゃん」という愛称で呼ばれていた安英のひたむきな求道的な表情と演技力に光男は魅かれていたらしい。
 昭和7年、NHK(JOAK)のラジオドラマに応募した光男は「もしこれが当選したら、新妻役は、山本安英にやってもらいたいなあ」と妻のキミに語っていたという。
そして実際に当選して、キャストもその通りに配されたのだから因縁は深い。
女優・滝について光男は「あの人は大根だからな」と辛かった。
光男が世帯を持った翌年、この滝蓮子が盲腸炎で入院、「嘴」の同人たちは、身近に美人を見られるというので、小劇場の熱心なファンでもないのに、代わるがわる見舞いに行った。
病床で艶然とした表情を浮かべ「みなさんの中で、来ていないのは光男さんだけ。冷たいわぁ」と拗ねて見せた。
伝え聞いた光男は
「ヘン。しょってやがらあ。いやんなっちゃうよ」
と妻キミに強がりを言ったそうだが、妻のほうはその笑顔から「いやんなっちゃったかどうか。あやしいもんだ」と軽い嫉妬が混じった感情が残ったそうである。
この滝の演技力を「ダイコン」とした光男の評がなぜなのかはわからないが、当時の公演リストを調べてみると、滝は東山千栄子や、山本安英、丸山定夫、薄田研二らに混じって、中堅どころの役をつとめている。
戸板康二「物語 近代日本女優史」の中でも
「杉村春子は、国姓爺合戦の時も、桜門で田村秋子の錦祥女のうしろに滝蓮子と提灯を持って立つ侍女の役であった」と名を記憶されている。
  昭和3年12月、小山内薫が急死した。
小山内の追悼公演「夜の底(どん底)」の最終日、土方を筆頭に、丸山、山本安英、細川知歌子ら6人が脱退し「劇団新築地」を発足させ劇団は分裂した。
 小山内について特記しておきたいことがある。
光男が応募した「ラジオドラマ」であるが、そういう新たな部門の名づけ親が小山内だったのである。
 ラジオは大正14年7月に愛宕山放送が開始された。
小山内は8月に作家の久保田万太郎などと「ラジオ劇研究会」を組織し、それまでは、ただ棒読みをしていた旧劇や新派の台本をラジオ用に書き換え、小劇場の一統にドラマとして放送させた。
 「これを『ラジオ劇』とか『ラジオプレー』などと呼んでいたが、小山内の考えで「ラジオ・ドラマ」に統一したのである。大正14年ごろのJOAKの調査では、聴取者の希望しているものは、①ラジオドラマ、落語 ②舞台劇、講談、映画、物語 ③びわ、浪花節 ④オーケストラの順番であったという」(山本恒夫 「庶民娯楽の面白さ」 学文社)


■■ジッタン・メモ■■
昭和7年2月、左翼的芝居だけが芝居と思わなかった東山千枝子や、田村秋子が「劇団新東京」から「「築地座」を旗揚げした時、その一座の中に、滝蓮子さんの名前を見出すことができる。

滝蓮子さんがその後、関西新派に転向、戦後は一時ラジオに出演していたという話を「古本ねこや」HPでみかけたことを記録したい。
「古本ねこや」HP 
http://www5d.biglobe.ne.jp/~furuneko/shincho3.htm

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