昨日は仕事の後、
知人と会ったりしていたせいか帰りの電車から凄く疲れていた。
時々ブログを書いている途中、
睡魔でよくまとまらない思考のまま書き上げてしまうこともある。
ちゃんと見返したりしていないから
後から読み返すと分かりずらい文になっていたりする。
きちんとした文にすることも大事だけれど
思ったこと、感じたことなどを
その時の自分の表現したいままに書くのもいいかなと思っている。
必要があればきれいな文にすればいい。
最近は一年前に書いたブログが届くので
去年はこんなことを考えていたんだなアと自分自身を見返すことができる。
自分でも、もっと上手に書けばいいのに…と笑ってしまうけれど
それはそれで自分の言葉であったり
その時の思考で自分の中から出たものだから…
仕事として書いているわけでもないし
書いて自分の思考をまとめたり落ち着かせたり
発散出来るものだけれど
それがもしも、誰かの役に立ったとしたら
それは素晴らしいことだ。
自分の仕事や先の色々なことを考えた。
20年以上今の仕事をしていたけれど
大きく変わってしまった。
私の仕事だけではなく、
世の中の仕事や仕事の流れが大きく変わった。
業種によっては既にいきずまっているものもある。
まさに私の仕事でもある。
私はこの仕事が好きでただ続けたいのか?
それともこの仕事でビジネスをしたいのか?
世の中の移り変わりという流れに
どう自分が対応できるのかが問題だ。
新しいものも取り入れ進化させていくこと。
でも、余りにも気軽に始められるもの
増えすぎて価格破壊が始まったものに
どれ程のビジネスチャンスがあるのだろう?
仕事なら利益を考えるべき。
利益が出せて続けることが出来るわけで
何も生み出せない物事を続ける余力があるなら
続ければいいけれど、
大抵はもう意味もなさないものも多い。
今日は自分のこれからの仕事について考えさせられた。
若者が世の中を作る…
だから、
今若者が何に興味を持っているのか?
今何を考えているのか?
今何に考え方が移行しているのか?
それで、ビジネスチャンスを狙う企業が動けば
それによって若者に好かれたい大人も合わせようとする。
ことによっては政府も便乗していく…
確かに若い感覚は便利なものもドンドン生み出すし
面白いものを生み出す。
それはそうなんだけど…
大人は大人の世界があり
若者は若者の世界がある
大人が子供の世界、
若者の世界に入り込もうとする必要はない。
若者も私たちと同じように、
また私たちがもっと晩年になるように
誰もが自動的に嫌でも大人の世界に移行する。
子供から大人になり、そして死ぬまで年齢を重ねる。
年齢を逆行させたがったり若ぶると言うのは
今までの生きてきた知恵や人間としての深みを
否定しようとすることになる。
今の大人はもっと若者目線になりたがっているような気がする。
もっともっと、年をとることへの魅力を若者が感じるくらいに
また、憧れを持たれるようになるくらいになりたいものだ。
そして大人も自分がいる世界やこれから進む世界に
もっと自分自身が自信と楽しさを持って
大人の世界を同じ大人と過ごすことを、
大人同士の会話を楽しむことをしよう。
毎日が特別だということをつい忘れがちになる。
でも、特別なんだ。
だから毎日を大切に過ごせたらいい。
少し意識してみると違った過ごし方ができるかもしれない。
1日を少しだけ充実して過ごせるようする…
それだけで何だか素晴らしい日になる。
人の悪口をやたら言う人がいる。
誰しも気の合わない人はいるし
大抵の人は自分が正しいと思っているから不快に感じる。
だからそんな時、
溜め込むことがいいことだとも思わないけれど
必要以上にずっと言い続けても何もならず
そんな事を聞き続けるのは嫌なものだ。
嫌な人がいたらなるべく近づかず
当たり障りのない距離を保つように心がけておけばいい。
みんなが同じ感覚で
みんなが自分を好きで
みんなと仲良くすることは難しいのだから。
誰かがヘンなのかもしれない
自分がヘンなのかもしれない
だから、自分が心地よくいられる人と
楽しい話でもすればいい。
自分の正義やルールを声だかにする必要もない。
今、自分の力で人生をどうにかする時期ではない。
がむしゃらに自分で何とかするもので切り開くものだと
思い込んでいた時期もあった。
壁にぶつかっても、叩かれても
それでも自分で何とかしなくちゃいけないと思っていた。
今はそんな時期も過ぎて受け身で流される方向へと流され
そこで何をさせてもらえるか、
そこで出来ることを一生懸命出来る自分になりたいと思っている。
今、何も自分の未来に不安はない。
もちろん心配事はそれなりにあるけれど
人生を信頼することが私の責任でこれからを彩る。
人生にはそれぞれの時期があり
それを活かすも困難にするのも自分の見方でもある。
来年に入ってしばらしたらグアムに引っ越すことになっている。
ここにいる間は、何かと日々やる事が沢山あって忙しい。
実家とも近いので両親のことも色々手伝いたいし…
何もせず自分のことだけにかまけてはいられはしない。
それがいい年をした大人ってもの。
それが来年は自分にかまけていられるようになるので
無駄にしないように時間を使っていきたいものだ。
そうは言っても近いので定期的に帰ってくるし
自分に使える時間も限られているわけで
限られているからこそ計画的にしなければ…
子供の時はいくらでも自分のことにかまけていられるのに
本当に時間を有意義に使えず無駄にしていたなア…
それが子供ってものなのかな。
見えないものについて人間が語るというとき。
同じ人間でありながら
どうやら何か分かっているようなことを言う人
そして、全く見えないものを知りたいと思う人
どうやら分かっていることを言う人を信じるとき
それは何を信じているのだろう?
その人が言う言葉?
でも、本当にその人自身から出たものなのか
どうして分かるのだろう?
もしかしたら、とても勉強熱心で
誰かの言葉が自分のもののように出ているだけかもしれない。
もしかしたら、興味のある人たちが聞きたい言葉に詳しいのかもしれない?
それだけ見えないものに対して
その時、自分の見たいもの聞きたいことを
信じようとしてしまうところはあるのだろうし
信じようとするものが今の、その時のレベルなんだと思える。
誰がどう、誰が正しいとかではなく
いつだって自分が信じられるものが真実である。
同じ場所、同じものを見ても気づき方や感じ方が違ったりする。
きっと、それは自分が感じるエネルギーが違うから。
エネルギーが低かったり高かったり
閉じていたり開いていたり
感じる事ができると言うことは
きっとその時は自分のエネルギーが繊細に高まっているのだろう。
と言うことは、周りのエネルギーと融合しやすくなるってこと。
それならいいものも重いものに対しても意識しておかないと。
いいエネルギーを融合させ流そう。
言語化するという難しさ。
自分の中の思いを言葉に乗せること。
そして、その思いが正しく伝わること。
正しい言葉を選んだつもりが思ったように伝わっていない。
言葉を上手く選べていない。
受け取り手の聴く力。
伝え手と受け取り手との意思疎通の問題は尽きない。
人は慣れれば慣れるほど、聴こうと言う情熱が少なくなる。
また、そこに問題があるのは否めない。
もっと、聴くことにも情熱を向けよう!