「がんばる」や「がんばった」って何だろう・・・?
そう言うと、おかしく聞こえると思うのですが
自分で自分のことを「がんばった」と以前のことを表現したりするとき
その基準は自分自身になる。
昨日、数人と話しているときにやたら「がんばった」と自分のことを
言っている人がいて、でも人から見たら「?」と感じるところも
色々あるわけです。
人と比べる必要はもちろんないのだけれど・・・
「がんばった」は何となく自分の中のマックスに近い努力をして
一般的な評価をも得られるような結果が出せた状態なイメージがある。
でも、もしも自分自身の量りが小さすぎてしまったら?
直ぐに「がんばった」になりませんか?
すると又、別の人の話で会社での話し。
ある人があまり働かないので注意をすると「これ以上がんばれない」と、
その人にとっては今も十分「がんばって」いるらしい・・・
おもしろくないですか?
先の例の人のやたら発する「がんばった」という1つの話しは
以前私が同じ分野で手にしたもののほうがより同じ仕事の中では
メジャーなもので、その人のは仕事の人が聞いても
あまり聞いたことが無いものだった。
でも、みんなに詳しいことは言わなくても結果を出すほどこだわって
「がんばった」という。
私は自分が「がんばった」とも思っていない・・・
今、振り返るとただがむしゃらに好きでやっていただけですが
人からは「がんばってる」とは言われていた。
確かに時間をそこにつぎ込んでいたほどひたすら努力していたなぁ~
と、振り返ると思うので「努力」していたのでしょう。
ここが差なのかもしれな・・・
自分が「がんばった」自覚がないからその言葉を使わない。
自覚の問題なのかもしれないですね。
もしかしたら、私も「がんばった」と言うべきかも知れない。
もっと、周りにアピールすることも必要かも・・・?
しないから「器用」だから直ぐに出来るんでしょ!
と意地悪もいわれたりされたりもした。
でも、結果も出していないのに影の努力をいちいち言う
必要もないと思ってしまう男前?なところもある。
人は共感したいし、それによって応援もしたくなるのかもしれない。
内情を知らなければの話ですが・・・
人の会社での働きぶりを知らないで、
「がんばっている」のに会社の人はもっと働けっていうような
ブラックな会社なんだと知り合いに聞かされれば「酷いね~」と
感じてしまうし、応援したくなる。
でも、一緒に働いてみると全く仕事が出来ない上に遅いことに
気付くことになるかもしれない。
それぐらい、自分自身で発する自分への評価なんて当てにならない。
人によって「違いのある量りである」ことを思い出さなくてはいけない。
他人は本当のことは知らないわけですし・・・
へばりついて見ているわけではないですから。
自分のアピールを上手にするのも、
共感を得るのに必要なことなのかもしれません。
人間の感覚って面白いですね・・・