心地よさ
ここでは至る所に椰子の木があるのでココナッツは手に入れやすい。
でも、木から落ちたものをタイミングよく持ち帰れるかはまた別の話し。
それにココナッツを割るのも大変なので持ち帰ることもなかった。
落ちてすぐのものはコツを掴めば比較的簡単に穴を開け
中の水分を飲むことができると教わった。
でも、数日経ってしまうと皮の部分が硬くなって
開けるのが難しくなるからタイミングよく拾えないとダメだ。
だからまだ出来ないでいる。
皮を剥いてココナッツの実を取り出して
白い部分を削ることやココナッツミルクを取ることを新しく習った。
これは新鮮でなくてもいいので今度拾ったらやってみよう。
知らなかったけれど新鮮だと中にまだ中に水分があり、
数日経つと、この水分の部分がスポンジのような固形になってしまう。
ココナッツウォーターとして売っているのはこの水分の部分で
観光者などにストローをさして飲ませるよう売っていたりする。
ただ、皮を剥いていくのは大変なので
これは誰かにやってもらわないと力仕事過ぎる。
以前は南国にありがちな果物は野生にあるような気がしていたけれど
それは大きな間違いでそんなに無いものだ。
パパイヤはあるけれど残っているのは高いところだし
実が小さいので種が多い。
種類が違うのかな...
野生のもので手が届くものはすぐ無くなっているし
第一そんなに無いものだ。
やはりバナナや果物の木は敷地に植え無いとダメだ。
でも、ココナッツは手に入れやすいので
ココナッツで何か活用してできたらいいと思っていたので
使い方が分かったので挑戦してみよう。
まだ、怪我した左手は少し不便なままだ。
骨には問題なかったけれど時間がかかりそう...
去年まで定期的にしてきた自分の仕事からも
本格的に手を引き何だか今年は全く気持ちが乗らない。
今まで長く続けていたフリーランスの仕事は
引っ越すことが近づいた時に辞めて
一昨年まで希望の方のみに不定期に続けて
去年はコロナもあったので残りの仕事をして終わった。
今年は更に今までの仕事に対して全く気が乗らない。
だからと言って何かしたいことがあるわけでもなく
できることがあるわけでもない。
とっても情熱を持てることもなく
そこそこなモノが多く、ピントが絞れない。
それはそれで楽しく日々充実はしているのでいいと言えばいい。
ただ、何となくもったいない気もする...
でも、自分で仕事を開業するって中途半端にはできず
今のようにのんびりすることもなく
また時間に追われるのも少し怖いのは事実だ。
自分で始めるなら簡単に閉めたり休んだりも難しい。
気まぐれなフリーランスはやっていけない。
色々な自分の中の勝手な条件を書き出していこう。
場所に縛られないこと
自分だからできること
まだあるけれど、そんなことを今朝はぼんやり思っていた。
何でもそうだけれど、簡単に誰でもできることは
当たり前だけれど価格破壊も起きるし需要も無くなっていく。
仕事自体が無くならないにしても今は情熱が薄れてしまった。
同じことを始めることはできる。
でも、今やりたいことなのだろうか?
やりたいことを見つけるのは難しい。
昔と違って、仕事というものの捉え方もずいぶん変化し
趣味的なモノでお小遣い稼ぎになったり
フリーランスや個人で起業をすることも気軽になった。
その分、何でも、どの分野でも
薄利多売的な仕事の感覚がしてしまう。
誰にでもどこにでもチャンスがあると言えば
あるようになったわけだ。
自分の仕事に対しての考え方、向かい方も
少し変えたほうがいいのかもしれないけれど
まだ、始めたいことが見つからない。
そんなこと言ってられる贅沢な環境でもあるからとも言える。
ずっと仕事中心の生活をしていたので
数年は少し自由な生活自体を楽しもうとも感じている部分もある。
でも、ずっと何も仕事をしない感じはしていない。
きっと何かはじめるだろう...
それはまだ何かはわからないけれど。
いつも鏡で見ている自分と
写真で撮った自分は何だか違って見えるものだ。
客観的に見ると写真のように見えるのかもしれないけれど...
でも、面白いと思うのは人間の目を通して脳が認識した時
それぞれの顔の見え方は人によって違うらしい。
それを聞いた時に妙に納得したのは、
ある人にとってはoooに似ていると言うけれど
別の人からしたら似ても似つかず、
どちらかというとoooに似て見えたりすることがあるからだ。
ある人にはとてもハンサムだったり美人に見えても
他の人には全く否定的な見え方をする事もある。
人によって無意識に脳が認識し印象を残すような、
注目する箇所が違うからだそうだ。
もちろん、好みもあるのだろうけれど
単に客観的に見た時に実際にそう認識するらしい。
平均して多くの人が感じる美は
左右均一な要因が大きいと言うことは知られているけれど
左右が違うのは個性的で印象深くなる利点もある。
そう考えると、誰かみたいな顔や流行の顔になる必要もない。
今のままでも誰かにとってはハンサムだったり
美人に映るかもしれないし...
今や日本でも整形は身近になっているし
海外ではもっと一般的に行っている国もある。
アメリカのテレビでは整形手術の前後を見せているものもある。
以前、日本も少し似たようなものがあったけれど
アメリカはもっと本格的な豊胸や整形だけの
手術したらこうなったと言う感じのもの。
多くの芸能人やセレブは若くてもまめにお手入れをし
年々綺麗になっていくものだ。
歳をとっても変わらないと雑誌やテレビで言っていても
整形して保っているのだから驚くようなことでもない。
歳をとってシワやタルミが出るのは当たり前で
体も変化していくのは自然なことでそうならない人はいない。
そうは言っても多くの人に常に見られていたり
自分を映像や紙面で見ることが多いのだから
望む形や老いを防ぎ美を求めたくなるのは勿論分かる。
先日撮った証明写真のように普段自分の写真を撮らない人は
たまには自分を映した写真などを眺めてみるのは刺激になる。
もちろん、携帯で加工したり
肌が綺麗だったり目が大きく見えたりするような
可愛く映すアプリの使用はしないで見ること。
いつも通り鏡だけ見ていると変化を感じずらいので
整形などはしないとしても
油断している自分に喝を入れる意味でもたまには必要だ。
綺麗さだけでなく、今の自分は生き生きしているのか
そんな表情もたまにはチェックして心を改めるのもいいことだ。
よく人は自分の希望を押し通すために
誰かのためにそうしていると綺麗事を表面的に言う。
言葉や思考は自分自身も誤魔化すことができるから
自分自身でさえも本心を見つけられなくなる事もある。
なかなか、常に自分の本心と繋がっていることは難しい。
もしも「自分がoooの為に...」のような言葉や思考が来たら
きっとその時は自分の本心は隠れている。
そんな時は、もっと掘り下げて自分自身の本心を見つけていく
作業をして行かなくてはいけない。
これは色々なことで言えるのだけれど、
自分の思考を深掘りする作業をたまにしてみると
以外と思っていることが自分の何かへの言い訳が
何層にも重なっている事が見えてくる。
その本心を剥き出しにしないと
なかなか理想と現実のギャップを埋めることができず
心の中に何かのザラつきが常にあることになる。
人のことはよく分かるのに
自分のことは本当に見ないのが私たちだから
意識をして作業する時も必要だ。