6日目
世界遺産で人類の負の遺産でもあるアウシュビッツとビルケナウ強制収容所
に向かいます。
アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)は、クラクフから西54㎞のところにある地方都市です。
アウシュビッツ博物館。
第二次世界大戦が始りポーランドがナチス・ドイツの支配下におかれた
1940年、この収容所はポーランド人の政治犯を収容するために造られた
ものでしたが次第にユダヤ人やロマ、ソ連軍捕虜も収容し、施設は拡大され
一大殺人工場と化していきました。
若い見学者達。年間200万人が見学に訪れるそうです。
収容所の入口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」
実際には、10人に1人も生還出来なかったそうです。
収容所内には28棟の囚人があり、最大で2万8000人も収容されました。
220ボルトの電流が流されていた鉄線。
アウシュビッツの唯一の日本人ガイドである中谷岩剛さん。
日本人の見学者は年間約1万5000人。他の国々に比べると多いとは言えない
そうです。歴史は繰り返す!!老若を問わずもっと多くの人に訪れてもらい
事実を直視してもらいたいと。
ドイツの工科大学の学生達は、休みを利用しアウシュヴィッツを訪れ、
修復作業などの技術提供のボランティアを行い、ポーランドの学生達は
社会見学で必ず足を運びこういった積み重ねが未来に繋がっていくと
おっしゃっていました。
到着するとすぐドイツ軍医により働けるかどうかの選別が行われ75%の
人々がそのままガス室に送られました。
殺人ガスに使われたチクロンBという劇薬。シアン化合物系の殺虫剤だ
そうです。
被収容者から没収した品々。
安心させるために「後でわかるように」と名前と住所などが書かれたカバン。
子供の靴。
ニベアの缶もありました。
この収容所で亡くなられた収容者。
この男性は1945年4月25日に収容され5月27日に亡くなられております。
通称「死の壁」。この壁の前で数千人にも及ぶ銃殺が行われました。
ツアーでご一緒の方がこの壁の前に鶴を供えられておりました。
お母さんと子供さん・・・・・世界中が平和でありますように!!
この老人は、ここに収容されていた方だそうです。
んな人生を歩んでこられたのでしょうか?
収容所の元所長ルドルフ・ヘスの屋敷。
この絞首台で彼は1947年4月16日に処刑されました。彼は、
処刑される前の2月に手記を書き残しています。
その中に「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私には
うらやましい。私はそれとは知らず 第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの
歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。
だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいる
からだ。」
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、
大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュヴィッツ
司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。
彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったと
いうことを。彼もまた悪人ではなかったということを。」と書き遺しました。
ガス室。天井に穴が開いており、そこからチクロンBをなげいれました。
焼却炉はかつて3台ありましたが、現在では2台が残されています。当時は1日に340人もの遺体が焼かれていたそうです。
アウシュヴィッツ強制収容所から約2㎞ほど離れた所にあるビルケナウ。
300棟以上のバラックが並び、アウシュヴィッツよりもさらに大規模な
収容所で、一大殺人工場でもありました。1941年に建設が開始され
1945年にソ連軍によって解放されるまで百数十万人の命が奪われました。
「死の門」と呼ばれたゲート。
トイレ棟の木造バラック。一日二回しか使用できなかったそうです。
居住バラック。蚕棚のような木造ベットで多くの収容者たちが身を寄せ合って眠っていました。
この道も収容者によって造られました。
世界中の紛争、テロが無くなりますように。戦争・・・・絶対ありえません。
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