ときぶーの時間

募金の受付先 東邦銀行 安積支店 普通0644994 名義がんばる福島
みなさんご支援宜しくお願いいたします。

励ましを胸に!

2011-12-31 09:30:20 | 日記

NO-43
みなさん、応援ありがとうございます。涙が出そうなくらい嬉しいです。色々な情報をコメントして頂いたり、募金を頂いたり、本当に感謝いたします。どうもありがとうございました。松村氏もこの事をとても喜んでいて、改めてみなさんの力のありがたさを二人で痛感しています。

今回の募金に協力して頂きましたみなさんに本当に感謝いたします。どういうわけか海外の人からも募金を頂きました。日本で募金をしていただいた皆様に、お詫びしたいことがあります。彼(松村直登)は一週間に一度くらいしか富岡町を、これからの冬は出られない状況にあります。皆様の善意の募金の入金の確認がすぐに取れません。

彼が「銀行口座に毎日、寄付してもらって俺も嬉しいけど、確認のため毎日、俺は出て行って確認出来ねえし、ほんとに行けねえから寄付してくれる人にほんとに謝ってくんねえか?頼むよ」 

本当に申し訳ありません。どうかご理解下さいますようお願い致します。僕たち夫婦も三春町の隣の船引町に、義父母が避難していてお天気を調べて帰るつもりです。誠に申しなく思いますが、募金をしていただいた皆さんに、お礼のご挨拶がすぐに出来ない事をどうか許していただけますよう、重ねてお願い申しあげます。

彼には餌をやるのが日課でほとんど富岡にいます。

それと、横須賀のNPO団体の元気ハツラツ 明るい町づくりの佐藤昌久代表をはじめ、理事のみなさんにもこの場をお借りしてお礼を申しあげます。全く動物愛護に関係の無い団体さまなのに、色々と親切にして頂き本当に、感謝!感謝です。

特にYさん、本当にありがとうございます。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。これからも、色々と教えて下さいますようお願い致します。福島の田舎から避難して来て、どうしていいのか?何をしたらいいのか?って悩み、迷っていた時に助けて頂いて夫婦で本当に感謝しております。

さて、みなさん。もうすぐお正月ですね!僕たち夫婦はお正月を祝う気分ではありません。それでも、お正月はやってきます。それなら、せめて明るい気持ちで新年を迎えた方がいいですよね!

強制避難区域の富岡町のかみさんの実家で農家特有の広い家に兄弟家族が全員いつもは集まるのだけど、義父母たちも田村市の3Kの団地に避難して3世帯11人で暮らしているから、とても狭くてそこへ僕ら夫婦二人で行っても泊まれないので、今度のお正月は帰るところも無くお正月気分になれません。

かみさんは、自分のおふくろの作るなますが食べたいと言っていたけど、「今年は我慢してくれよな!」と僕は、心の中でつぶやきました。東京の義兄も毎年帰って来てたけど、今年は帰って来ないのかな?

いつもと全然違うお正月。いや結婚して27年目にして初めて経験したお正月です。仕事も無く家を失って暇なはずなのに、何やら忙しくて今月は床屋にもいけず髪も切れずにいて、震災後どこをどうやって又何をやってきたのだろうか?と振り返ると情けないほど自分でも分かっていません。

こんなになって、やっぱり都会のみんなが本当に羨ましいです!かみさんが、お雑煮だけは作ってくれるので、それが今の僕のほんとにささやかな楽しみです。僕の娘も今度のお正月は帰るところが無いので、3人で新しい年をこの都会のどこかでひっそりとお祝いしたいと思っています。

強制避難区域の富岡町で、ろうそくを灯し電気も無く不便な生活を強いられている松村氏から「正月にいつ来るんだ?」とのリクエスト。約束したのが1月5日なので、何でだよ?と聞いたら「俺にも予定があるからよ!」と強めのお言葉。

僕が「松っちゃんは、どうせ牛の花子とイノブタの桃子とのデートしか予定ないじゃん」と馬鹿にしたら、彼の反撃!「馬鹿言ってんじゃねえよ!俺にだって予定くらいあら~」だって。彼は孤独でないからいい。一昨日会った坂本栄司県議もしょっちゅう電話を入れて彼を呼び出し、食事をさせたりお酒をご馳走してくれるから。

ブログを読んでくれる全国のみなさん、お正月は暗い話をしたくないので、ときぶーの時間は何を書こうか迷ってます。彼のたくさんの友人、知人の事でも書こうかなあ?とか、彼と僕の最初の出会いとかなんて、色々考え中。

今年の11月15日に初めて参加したブログで、たくさんの人からの励ましや叱咤激励!時にはきつ~いお叱り。その全てを本当に感謝して今年の一年を終えることが出来た事を、嬉しく思っています。全ての人にありがとうを言います。

また休む書くと詐欺師にされちゃうので、僕は1月1、2日の予定は東京の娘と過ごし、3、4は福島の三春町の義父母と郡山市といわき市の避難所の知人や友人に会い、本当は会津に避難した友人に会いたいのだけど、雪がもう積もっているので会津に行くのはあきらめました。

福島では友人たちの仮設住宅に泊まり、5日は強制避難区域の松村氏と会い6日に横浜に帰って来る予定で、このお正月を過ごすつもりです。あくまでも予定ですが、ブログの再会は書けるときに書くという感じで書かせて下さい。

被災後初めてのお正月、少し休んでいいですか?こんな時でないと同じ被災者である友達と会えないんだ!みんなも仕事を失ったから、やっと仕事に就けた人は新しいところで休みも取らずに働き、自分をアピールして新しい会社に自分の必要性を訴えています。だから失業中の僕とは今まで会えなかった?いや、会ってもらえなかった?そんな感じ。

今、こんな思いをしていて僕は前世で悪い事でもしたのか?それは、僕の運命だったのか?分からないけど、みなさんには豊かで幸せなお正月が訪れることを、願っています。

引き続き全国のみなさん、強制避難区域に残された動物の命を救うための募金をお願い致します。今は、NPO法人の設立準備中のため、NPO表記のないがんばる福島の口座しかありませんが、餌が無く苦しんでいます。特に放し飼いにされた牛500頭の囲いをすることが一番で牛たちに餌や機材を恵んで下さい。

東邦銀行 安積支店 普通 644994 口座名義 がんばる福島 へ善意の募金を宜しくお願い致します。

特に今は、牛のとうもろこし、麦やわらなどの餌が欲しいです。その次に500頭の牛を囲う柵を作り、保護する費用が必要です。新年に何を言われても本当に必要なので、助けてくれる人がいればみなさん、どうか紹介して下さいますようお願い致します。工事現場で使う足場パイプとかクランプやジョイントなど、どうか寄付して頂ければありがたいです。これがあれば柵が作れます。

全国のみなさん、今までの励ましを胸に震災の悲劇から立ち上がることをここに誓います。今年は、本当にありがとう御座いました。みなさんにも、新しい年が良い年になりますようお祈りして今年最後のブログとさせていただきます。。

作者 ときぶーより。



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感動しました!

2011-12-30 00:45:00 | 日記

NO-42
只今、福島から戻りました。二日間の間に色々なコメントありがとう御座いました。そして、募金をしていただいた皆さまに、本当に感謝申しあげます。この気持ちを忘れずにこれからも一生懸命に頑張っていきますので、今後もどうぞ宜しくお願い致します。

昨日は、嬉しかった。募金してくれた人がいらっしゃった事が一番でした。二番目は、来年設立予定の僕らのNPO法人の副代表に宇宙科学研究所の山下博士が、監事には地元選出の坂本県議がなってくれることを承諾してくれて、一歩前進したことをご報告させていただきます。

もちろん松村直登が代表で、僕も山下博士と同じく副代表をさせていただきますので宜しくお願い致します。今日の写真は、横須賀市のNPO団体の元気ハツラツ明るい町づくりの佐藤昌久様の会のYさんが、ブログを見て僕を捜して、この団地まで届けてくれた物です。この物資を頂いて福島に行って来ました。

嬉しかったですよ。犬の餌や、ネコの餌。にわとりの餌にネコ缶や人が飲む水まで。車のトランクにいっぱいと後部座席にいっぱい。強制避難区域の富岡町にいる彼(松村直登)も喜んだ、自分に関係の無いボランティアの仕事じゃあ無いのにと思ったけれど、本当に嬉しかった。

Yさんは女性である。あの原発の爆発した3月12日に町民が一斉避難する中、家族で横須賀から福島に入り、ペットの餌を車にたくさん積んで残された動物を保護してくれた人だった。Yさんは、時には警察の方とひと悶着しながらも、多い時には一度に17匹も車に乗せて、動物保護シェルターのある滋賀県とかいっていたけど、毎回そこまで運んでくれたのである。かなり重労働のボランティアである。

とにかく驚いたのはあの爆発の日に、原発の前に立ち彼女のダンナさんは防護服も着ずに、5時間も交通整理をしていたという。彼女と娘さんも動物の保護で走り回っていたらしい。Yさんが言った「内の主人は、完全に被曝していると思う。私たちも、被曝してるかも・・・」と。間違いなくダンナさんは被曝しているでしょ!どこまで、この人達は親切なんだろう?嬉しくて泣ける。

保護した犬のその数と福島に入った回数。とても真似出来ないことをしていたのだ。自分たちは逃げていたのに申し訳ない。そんなYさんに、「この飼い主さんだけ、連絡が取れないの!出来たら捜して欲しいの。」といわれた住所が楢葉町大字上小塙字中島・・・と我々住民だけが知る住所で僕の良く知っているお客さんの1人だったから確信した。

保護してくれた後もずっと飼い主を捜し、見つからなければ自分で面倒を見るとまで行ってくれたYさんに「本当にありがとう」と言いたい。Yさん家族のみなさんにも感謝いたします。こんな事もあるんだ。こんな人もいるんだ。日本はまだ捨てたもんじゃないね。必ず、助けてくれるひとがいる

ここのNPO法人元気ハツラツ 明るい町作りの佐藤昌久代表も、「何かあったらいつでも来なさい!」と言ってくれて本当にありがたい。これからも教えていただくことが多いと思う。僕らが募金を募れば、詐欺みたいに言う人もいるが、僕も松村も詐欺士じゃないよ。国も県も、東電も何もしてくれないのなら全国のみんなにお願いするしかないじゃん。

本当に困っているから、お願いしています。富岡町の役場には、改めて日本動物愛護団体から頂いていた餌と同様の扱いをお願いして、更なる募金活動をしてまいりますので、皆さん応援を宜しくお願い致します。富岡町の牛を助けて下さい。今日は朝の3時から起きていて今から爆睡します。おやすみなさい。







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助けて下さい!

2011-12-28 07:15:18 | 日記



NO-41
今日は、牛の話なので今までの写真から松村氏の牛を世話している写真を選びました。昨日は本当に悔しくて悲しかったので、今年牛舎で死んでいった牛の姿を掲載しようと思いましたが、かみさんに止められて素直にやめました。悔しくてたまりません。昨日あったことを書きます。

強制避難区域の富岡町の松村氏から僕の携帯に昼12時に電話が入り、彼は少し怒った口調で一気にあった事を話してくれた。ある動物愛護団体の人からのSOSが彼の携帯に入り、「となり町の○○さんの牛を助けて!水をあげて!急いで!」と。彼は、もちろん命が係っているからすぐに川の水100Lを汲みトラックに塩と砂糖を積んで、その牛舎に向かった。

塩と砂糖は水に溶かしてポカリスェットみたいにして、牛が飲みやすく栄養の吸収が早くなるようにと家から持ち出し車を走らせたのだが、愛護団体の人が許可を貰ったから大丈夫と言ってくれたから行ったのに、警察の立会いで彼は許可証が無くその牛舎に入れてもらえず、一度引き返した。

動物愛護団体のTさんに連絡し「入れてもらえないよ!」と電話を入れたら、「もう一度行って下さい!」と強く言われ、再度その牛舎に向かったが、その時に警察もいなくなっていて牛は殺処分されていた。その事を電話で伝えたら動物愛護団体の女性Tさんは、電話の向こうで泣いていたと彼は言った。

その牛舎には、たくさんの乳牛がいたらしく、飼い主が時々餌と水をやりに帰って来て面倒を見ていたのだった。しかし、昨日はもう十数頭しか生きていなかったと彼は言った。僕は、その牛の殺処分の現場を想像すると胸が痛く、深い喪失感を感じやるせなくなった。もう、何もしたくなく何も考えたくなかった。

乳牛は、「乳を搾ってあげないと、乳炎になるから大変なんだ!」と松村氏に聞かされたのだが、乳搾りをしないとお乳が出なくなって病気になってしまうらしい。乳が出ないようにするには、餌を制限して乳が出来ないようにするしかない。だから、彼はガリガリに痩せた乳牛を見て「牛も極限の状態で、苦しみながら今まで生きてきたんだ」と言った。苦しんで生きてきた牛を薬殺する人間・・・・・・・・

随分とその病気にかかって今までは死んだのだろう。乳房が腐ったりしたのだろうか?彼は「乳房から病気になった牛もいた」と僕に言った。このことで、彼の日課の餌やりが午前中のスケジュールが出来なくなり、午後になって一気に回らねばならなくなり、夜まで連絡が取れなくなった。

これがとなり町の牛の現状です。何でも、「その牛の内臓だけはある○○大学がこれから持っていくんだ」と彼から聞かされた。あの牛たちの腹を割いて内臓だけ持っていくだと?頭に血が上った。僕らの町の牛は、殺処分されないでいるけれど、他の町村は全て殺処分をするという。人間の都合で殺さないで欲しい!だけど、お金が無くてどうにもならない(辛い)

昨日松村氏と二人で話したのだが、今は彼が餌を何とかしているけど、それが止まったら最後にはおそらく僕らの町富岡も、殺処分って言ってくるだろうか?と・・・そうならないように今まで走ってきたのに、最後の最後まで馬鹿と言われてもいいから突っ走って行こうと僕は彼に言った。

このブログをお読み頂いている全国のみなさんに、恥を忍んで緊急のお願いをしたいと思います。どうか、みなさんの力を貸して下さい。今、次々に殺処分されている牛がたくさんいます。そして人知れず、土に埋められて処分されていると聞きました。

誰が、殺処分すれば放射能汚染物になる牛を埋めていいと言ったのか分からないが、こんなことを許していいはずが無い!今まで、僕は牛が殺処分されている現実を知らなかった。そして埋められている事も・・・絶対にダメだ。僕らの町では殺処分しない方向で動こうとしていますが、本当に予算が無く前に進めません。

今、松村直登が自分のお金で牛の餌を買ったり、動物愛護団体の皆様の協力を得て犬や猫の餌を確保させていただいていますが、500頭分の牛の餌を確保できない状態にあります。お正月明けの分の餌しかありません。今、NPO法人の立ち上げ準備中で、認可を待つ間の餌の確保に苦しんでいます。どうか、強制避難区域に残り1人で残された動物たちの命を守って来た松村直登に力を貸してください。

東邦銀行 安積支店 普通口座644994 名義がんばる福島 この口座にどうぞ義援金・募金をして頂きたくお願い申しあげます。お金での支援がダメであれば、牛用の飼料一袋1500円から2000円くらいの麦かとうもろこしの袋を、富岡町の役場宛に松村直登の名前で送って下さい。

全国の皆さん、本当に助けて下さい。とうもろこしか麦の餌を送って下さい。ブログを立ち上げた時にこんなお願いをするとは思わなかったです。本当に逼迫しています。どうか、宜しくお願い致します。

NPO法人を立ち上げた時には、必ずその募金を新設する口座に移行し、この募金の詳細を公表いたしますのでどうぞ宜しくお願い致します。

僕は今日、横須賀のNPO法人の方の支援物資をここ、横浜で頂いていわき市に向かいます。松村直登と研究所のY博士とS県議と4人で福島で会い、これからのことを話し合ってきます。ブログはお休みさせて頂くかもしれませんが、どうかご理解のほど宜しくお願いします。

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寒くなってチャンス?

2011-12-27 08:36:03 | 日記

NO-40
みなさん、おはようございます。今日の写真は餌を犬にあげている松村直登氏と喜んで食べる犬、今日はどこで食べ物見つける?と牛の井戸端会議?の写真です。

今年もあと5日で終わりますね!みなさんにとっては、どんな2011年でしたか?みんなにも、いい事も悪い事もあったのだろうなあなんて思ってます。とりわけ僕には3.11が全てでした。今までに体験しなかった未曾有の大震災と原発事故で、僕の人生が変わりました。そして今、何がしたいのか?何をすれば良いのかをずっと突きつけられて暮らしてきたような感じです。

僕の知り合いのタイル屋の社長ときたら「おい!元気か?気になって電話した。」と、このあとがいけない。「自殺でもされたら困るから電話したんだ」と笑いながら言った。全くひどいよなあ~。(笑)彼はいわき市に住んでいて、震災復興の仕事がやたらと忙しく僕が仕事していない事を知っていたので手伝って欲しいということだった。

残念ながら今の僕は、やる事があって手伝えないのだが、震災前は全然仕事が無くてひどい状態であった社長の仕事は、震災によってバブルがはじけたか?のような大盛況なのだ。おもしろいものである。こうしてあの震災がプラスになった人もいれば、どん底に落ちた人もいて悲喜両面の人達を見た一年だった。

さて強制避難区域の富岡町に残った怪物君。松村直登は今頃どうしているのだろうか?昨日鳥取県の方と横須賀の方からありがたいメールを頂き喜んですぐ彼に連絡を取ったわけだが、餌やりに忙しかったのか電話をしてから4時間後に彼から連絡が来た。

あの暑い夏から厳しい冬に入ろうとする今、彼にも変わった事があったのだ。僕は、笑上戸なのでまた大笑いをしたのだが、彼から「缶詰めは卒業したぞ!」と・・・・・寒くなってきて、夏場に食べられなかったと言うより、電気が無く冷蔵庫が使えなかったから買えなかった卵や納豆に豆腐などの食品を、この福島の寒さで冷蔵庫が無くても買えるようになり食べられるようになったと。

「食生活の改善を図ったぞ!」と自慢げに言う彼を僕が笑ったのは、その少ない3つの食品で何とか美味しく食べる方法はないか?と、彼なりに工夫して豆腐に納豆を混ぜて食べてみたり、卵に豆腐を混ぜて食べたりしたらしく彼なりに挑戦したのだが「こりゃ、まずくて食えねえ!やっぱ、納豆は納豆!卵は卵だけで食った方がいいや!」という彼の言葉に大笑いしたのである。

おもしろい男だ!本当に笑える。生卵に調理もしていない豆腐は僕も美味しくないと思う。NO-20の定食屋さんでの話しにも書いたが、彼は納豆が大好きなので毎日食べても飽きないと思う。だって、缶詰めを半年も食べ続けて未だにさば缶は飽きないというくらいの男なので、ワンパターンの食事でも文句を言わない男だからである。

最も、今までの食生活から考えてみたら、これからの厳しい冬の寒さは食べる事への天からのめぐみになる。好き嫌いが無く何でも食べる彼には、今まで食べられなかったものを食べるチャンスが来たのだ。この寒さで食べ物が腐らないからこれからは何でも買えるし、それだけは良かったかな。

この半年の間に10kg痩せた体を、冬眠前の熊のように脂肪をたくさん溜め込んで、冬の寒さから身を守って欲しいと思う。それでもこの冬に彼の体重は元には戻らないだろう。寒さは大丈夫か?と僕は聞いたが、「うん、まだ大丈夫。」と返ってきた。

やっぱり彼には頑張って欲しいし、いつも元気でいて欲しい!これは彼のやっている動物愛護に留まらず全てに対して言えることかも知れない。今は、彼とまず残された動物たちの餌を確保して、無事にこの冬を乗り切りたい。

どんなに小さい一歩であっても、前に進み強制避難区域で動物の命を救う彼を助けていきたいと思う僕だった。








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感性の問題。

2011-12-26 08:03:12 | 日記

NO-39
みなさん、おはようございます。クリスマスは楽しく過ごせましたか?僕のところはケーキも買わず、ツリーもリーフも無く、かみさんに「ケーキも食べ無いの?」なんて言われたりして少しもその気分も味わうことなく、一日送れで今日、ショートケーキを買って2人で食べるつもり。ハ~。

食べたいなら自分の分だけ買ったら?とかみさんに言ったら、1人で食べるのが嫌なのか?結局買わずで、今思うと可哀相な事したなって感じ。こういう時は、嫌でも付き合ってあげないと・・・今日の写真は、道路で餌を貰うイノブタとわき目も振らず、餌まっしぐらの犬と彼の車に寄ってくる猫たちです。餌をもらえるのを分かっているので、牛以外は彼の車に寄ってきます。

昨日、外国人女性記者のナータリーさんから電話が入り、何か書類を届けるからアドレスを教えてと言われた。彼女は松村氏を取材した唯一の女性記者である。彼女の記事はAFP通信に掲載されたと言われた時、ネットでアクセスして彼女の日本語バージョンを読んでみたが、まあまあ良く書けていたと思う。

ナータリーさんと会ったのは、強制避難区域に残り1人で動物の命を守っている男(松村直登)を取材したイタリア人記者のアントニオ氏の紹介で、松村氏と東京の外国人記者クラブで4人で会ってからの付き合いになる。彼女は今回震災にあった宮城県におばあちゃんがいるハーフの女性で、4カ国の言葉を使いこなす頭の良い女の子である。

最初に会った時は、アントニオ氏のアシスタントか通訳の人だと僕らは思ったのだが、正真正銘の女性記者だった。24~5歳位らしいが、一生懸命に仕事をしている。彼女が働きかけてくれて、松村氏の個人記者会見が実現するかも知れないのだ。

今は、色々な人の力を借りて前に進みたい。松村氏に今月の19日に会った時にみんなに募金をお願いしよう!と彼に言った時、彼はう~んと色よい返事をしなかった。東京の動物愛護団体から餌をもらえなくなり、どうにもならない状況を打開するにはこれしかない!と僕は力を込めて彼に言ったのだ。

何故彼は、募金をお願いする事を躊躇したのだろうか?と僕は考えたがその答えはすぐに出た。彼は、自分のしている事が法に触れている事を認識していて、法を破って活動している人間が募金を呼びかけていいのだろうか?それでも自分が放り出してしまったら動物たちが死んでしまうので、何としてもこれ以上の動物を死なせたく無い!と、もがいているのである。

今回、募金をつのろうと思ったのは、正直言うと動物愛護団体様が詐欺に遭い松村氏に届いていた餌の予算が無くなって「もう、送れません」と言う事があって、真剣に悩んで出した答えだった。彼も募金は欲しいが掟破りの自分が認められるだろうか?日本で募金を呼びかけていいのだろうか?と、芯は真面目な男である。

強制避難区域での今の活動は制限されている部分もあって、彼のようにそこに住んでしまって動物の保護をするのは、認められていないのである。しかし、彼の住所は田村郡の仮設住宅になってはいるが、これからの冬に田村郡の仮設住宅から通って富岡に入り、動物の面倒をみろと言われても、さすがに無理がある。

距離もそうだが雪の積もる田村郡からはとても通えないだろうし、彼が仮設住宅を契約したのは以前、震災直後に行方不明者扱いを受けた事があり、住所不定の人間にされてしまうのを止めるために契約したのであって、その住所に住むためではなかった。こんな事を書いては役場の職員さんにまた迷惑をかけてしまうかも知れないが今回は本当にごめんしてください。

昨日ナータリーさんに「メリークリスマス」と言われたが、僕にはクリスマス気分が全然無くてお返しの「メリークリスマス」を言わなかった。松村氏に電話をしたら彼から「メリークリスマス!」と言われ、えっ、君からメリークリスマス言われちゃうの?自分はダメだなあ~なんて思ったし、情けなくなった。・・・・あいつに、メリークリスマスって言われて落ち込んだ。

クリスマスやお正月くらいは、もっと敏感でいたいよなあ~。いくら被災者であっても感性は失いたくないものだ。(泣)





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彼の電話機。

2011-12-24 10:20:37 | 日記

NO-38
みなさん、おはようございます。今日の写真は、今年の夏に生まれた子牛、彼の餌を待つワンちゃんたち、今では彼のトラックを見ると寄って来て餌をねだるダチョウにしました。

今までNO-3鎖につながれた犬から強制避難区域の富岡町で1人残り、残された動物の命を守り続ける男(松村直登)の事をずっと書いてきたけど、僕はみなさんに彼がどんな人間か分かってもらえた気でいる。こうしてブログを書こうと思ったのも、彼の行動が桁外れの行動で僕に強烈なインパクトを与えてくれたからである。

震災前はこんなに深く彼と付き合っていなかったのは事実で、今までは僕と彼が所属する会の会員同士の付き合いだけで普通の付き合いだった。しかし、彼が強制避難区域の我らの富岡町に1人で残った事がここまでさせたのだ。彼と付き合いのある仲の良い友人は、みんな驚いたし何とか力になろうと思った。

多分、彼は自分のしている事を何とも思っていないだろう。町民全員が避難してたった1人になっても全然臆せず、今では「1人暮らしも慣れれば楽だ」とさらりと言うし、原発事故の放射能で被曝することも恐れず「残された動物を誰が面倒見てくれるのだ!俺しかいねえべ!」と・・・・

もし、この事故を起した電力会社とか国や県、町の行政が動物を保護し殺処分をしないという事だったら、彼も避難したかも。確証はないが、それほど馬鹿な事をする人間でないと僕は思っている。彼と会ったら普通のおじさんであるから、みんなはびっくりするかも知れない。

そんな彼を外国のメディアが今年は追いかけた。アメリカ人記者、イタリア人記者、フランス、イギリス、ドイツ、スペインと色々な国の記者が福島の富岡町に入り、強制避難命令に反抗し、たった一人で残された動物の命を守り続けるその勇気ある行動を賞賛した記事を、世界各国のTVや新聞や週刊誌などに掲載し、日本ではごく一部の人にしか知られていない彼が、世界中に知られ有名になり動物を愛する人達のヒーローになっている。

彼は、自分の事を「俺はインターナショナルだからな。」と言って笑いを誘うが、そんな彼に非難が集中した事があった。僕もこの件に関わり文句を付けた1人である。彼の事を心配した友人の殆どの人が文句を付けたのだった。彼と連絡を取るのにみんなが苦労していたからだ。

彼の持っていた携帯電話が、某社の物で彼の住む富岡町の少し山深い温泉宿のある岩井戸に入ると全く繋がらない携帯電話を使っていた。町の中心部に出てくれば繋がるのだが、彼が家に戻ると全く使えない代物だったのだ。彼を応援する友人知人のみんなが、早く携帯を交換しろ!と彼に文句を言っていた。

ほんと、8月まで連絡を取るのに苦労した。彼も動物達の世話や東京・神奈川に出て来る用事とスケジュールがびっしり詰まっていて、なかなか交換しに行く時間が取れなかったのは事実であったが、みんなが困っていた。だから、インターナショナルな奴が連絡取れない環境にいるのは絶対にダメだと、仲の良い議員や僕らがしつこいほど言ってようやく交換してもらった。

それまでの連絡方法は、電気が来ていないので、留守番機能もFAXも付かない電話回線のモジュラージャックを差し込めば使える昔の電話機が主流だった。しかし、電気が来ていないのでその電話の呼び鈴も音が小さくて、彼が聞き逃すと連絡がつかないという状態であった。

彼にとっても、こんなに自分の使っている携帯電話で文句言われると思わなかっただろう。震災前なら何の問題もなかったのだ。FAXだって、留守電だって使えたし、仕事で昼は町中にいたから連絡は取れていたのに、震災後は、電気も無く家の電話が使えなくなり、強制避難区域を出て家の新しく電話機を買い、取替えたのに文句を言われたのだから。

連絡取りたいのに「電波が届かないところにいるか?電源が入ってないか?」のガイダンスに僕も何度、イラッときたか。みんながそんな感じでいたのだ。だから、某社のケータイに交換してからは何処にいても連絡が取れるようになり「俺は、インターナショナルだからな。」と酔っ払って言う時も、付き合いで笑ってあげるようにしている。

これで、彼を取り巻く環境の一つが改善され、教授や博士、議員に記者さんとか、友人知人の全ての人の大事な時間の中にムダだったあの空白の時間がなくなったのを、僕は喜んだ。















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冷たい風。

2011-12-24 10:01:31 | 日記

NO-37
今日の写真は、イタリア人記者が取材に来た時に撮った彼の写真と今年の春4月頃彼(松村直登)が同じ強制避難区域の浪江町に行った時に、撮影した馬の写真と富岡の鳥小屋のにわとりの写真です。富岡町では今、牛の問題で困っているけど、浪江のこの馬たちは保護されたのかなぁ?鳥小屋のにわとりは、イタチとか野犬化した犬たちに食べられたって彼が言ってたから、あの小屋に鳥は今はいないと思う。。

昨日、彼に電話したら「今日はほんと寒いよ!」と「餌やりもきつくなってきた。」と言っていた。福島の会津では雪、会津の方からとても冷たい風が吹いて富岡に向かってくるのだから、身を切るような冷たさで僕ならこたつ入って猫みたいになってるね。それに浜通りの冬の風はとても強く吹く町だ。

今から17年くらい前の話だが、僕は地元の名士の経営するグループ会社の一社のホームセンターに勤めていたのだが、ホームセンターには経営の神様の風(いい風)が吹き、売れるわ!売れるわ!で、何を企画してもはずれ無しの大当たり!仕事が一番おもしろかった時代であった。

そんな順風漫歩の僕に、恐怖の事故!が起こった。あの時は本当にびっくり仰天し青ざめた。今でも思い出したく無いけどね。僕たちの店ではエクステリア関連にもっと力を入れて売り上げの底上げを図ろうとガレージ・物置など駐車場の一角を使っての建設ラッシュ。

僕も今になって思うのだけど、店の裏側に設置して風が吹いても飛ばされるとは想像しなかった。少しは心配していたから物置を倉庫代わりにし物置の中に、在庫の商品を置いていたのだけど、商品もろともそのプレハブ倉庫(一流メーカーの物置)が強風で吹っ飛んでしまった。

富岡川の河川敷に飛んで行ったのなら怖くなかったのに、ごろごろと回転しながらぺしゃんこになり、国道方面に飛んで行き僕の顔なじみのお客さんの車にぶつかった。だけどボンネットにぶつかったから良かったものの、万が一あの凶器と化した鉄板が車の前面ガラスに当たったら、確実にお客様の首を飛ばしていただろう。

アンカーボルトを打つ業者さんの手配が送れて起こった事故であったのだが、それだけ強い風が吹く地方である。あの時の教訓で絶対を確実!にと教わったのだが、今回の大震災はその教訓が活かされないほどの震災であった。そして、僕の友人である松村氏は原発事故で放射能汚染の危惧される富岡町に残り、今日も残された動物の命を守るべく今も1人で戦っている。

彼には、盆も正月も無い!腹を空かせた犬や猫、牛や豚に餌をやらなきゃいけないから休んでいる暇がないのだ。それに廃墟と化した町には食堂もスーパーも無く、暖房の効いたお店も何も無いから、温まる場所が無い。あの冷たい風にさらされ餌をやりながら回っていると体は冷え切ってとても大変な労働になっていると思う。

今日のクリスマスイブも、強制避難区域で残された動物たちの世話をする松村直登にただの12月24日でしかない。一週間前に餌が無いと、いわき市のホームセンターに鳥用の餌を買いに行ったと言っていたが、昨日の電話で、ある動物愛護団体から犬、猫用の餌を少し分けてもらったらしい。

放し飼いになった牛の餌が特に問題の種で、今、彼は本当に心配している。あの大きな牛は餌をたくさんたべるから500頭もいると、大変な量の餌が必要でこれからの真冬に草も生えないから、餓死してしまうと真剣に考えている。

牛たちは餌を求めて至るところに出現し、民家や農家の納屋に入り、穀物などの残り物や食べられるものなら何でも手当たり次第食べていると彼は言った。彼も実は、納屋に犬や猫、鳥用の餌を保管していたのだが、牛の群れが彼の納屋を壊して中に入り、その餌を5頭の牛に全部食べられてしまったから、餌を自分で買わなければならなくなった。

だから今回、分けてもらった餌は全て家の中に保管したらしい。家の中にはさすがに牛は入って来ないと思う。今、僕にもこの冬がとても長く感じる。牛の事を考えると早く春が来て欲しいのだ。春になれば草が生え、それを食べて牛は生きられる。被災者である僕も、横浜で避難しているが牛の事が気がかりである。













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井戸とトイレの話。

2011-12-23 08:01:13 | 日記

NO-36
上の写真のイノシシの子供、小さくて可愛いと思った。彼が撮った動物の写真の中で一番可愛いかも?真ん中のワンちゃんは片手が不自由なのに、喧嘩が強くて縄張りのボス犬だったが、愛護団体に収容された。3枚目は毎日彼が、餌をやり続けている猫の写真です。

巷では今日から3連休の人がいて、クリスマスを楽しむそんな光景を見られると思うが、皆さんはクリスマスの準備はもうしましたか?子供のいる人は、ばっちり決めてくださいね!クリスマスが終わるとすぐに、お正月がくるからお金も大変だと思うけど、ここは決めておかないと。

昨日は、強制避難区域の富岡町で今も1人で暮らす松村直登氏は、あるお寺の風呂に入り、洗濯までしていると書いたが、彼が使わせてもらっているお寺の住職さんは、彼に「特に水はたっぷり使ってくれよ」と言ったらしい。僕にはその意味が分からず、すぐに彼に聞いた。何でたっぷり使ってくれって言ったの?と。

彼は、「ここの井戸はかなり深く掘ってあって、井戸水をたくさん使わないと井戸の内側から、細かい砂のような石が落ちてきて水の出口を塞いで、水の出が悪くなるんだ」と言った。以前にここの井戸の修理を住職さんから依頼された事があったらしく、その時はあまりにも大変だったとも言っていた。

だから、豊富な井戸水をこれでもか!ってくらい使って小石が出口を塞がないようにしてあげているらしい。ここの住職さんも、時々一時帰宅する時に奥さんに料理を作ってもらって、それを彼に届けてくれている。彼にとっても、それは楽しみの一つになっている。

風呂と洗濯は井戸水を使っているのは分かったが、トイレの話だけ聞いていなかった。彼に聞くのはタブーというわけではなかったが聞けなかった。。僕たち夫婦も震災直後、トイレに本当に困ったからだ。僕の家は1階と2階にトイレを設置していて水洗トイレのロータンクに入っている水の分だけは使えた。

回数にして2回分の水がタンクに入っていたから、2台で4回トイレを使えたのだが、男の僕は小用の時は、勝手口から裏庭に出て用を足しかみさんが多く使えるように努力した。まだ、寒い時期だったので体を暖めたくてガステーブルで湯を沸かし、お茶を飲みたかったが寒さでトイレが近くなるのを考えて飲むのも二人で我慢した。

都会に暮らすみなさんは、トイレが使えないなんて経験した事が無いと思うけど、マンションでも団地でも一戸建でも、トイレが使えなくなったらほんとに大変だよ!しかも一日だけなら何とかなるかも知れないけど、それが何日もずっと続いたらほんとマジありえねえって感じだし、笑えないよ!女の人にはほんとにキツイと思う。

かみさんも、小用の時は2回か3回まで水を流さないように使い、それはそれで涙ぐましいかみさんの協力もあって、2日間はトイレも凌げたのだが、もう限界になり夫婦で避難所に向かった。今回の震災で、普段感謝もしていなかったすべてものに改めて感謝した僕だった。

水のありがたさや火のありがたさ、それと普通に暮らす事の幸せとか小さなことも大きなことも全部、感謝の対象になった。こんな体験するはずじゃなかったから、しみじみと思う。良かったのか悪かったのか?今、生きているのだから良かったのだ・・・・

さて彼のトイレはどうだったのだろう?これは、みなさんにも勝手に想像して頂きたい。彼は広大な山林を持っていて、畳2枚分が約1坪で彼の家の山林の広さが6万坪あるらしい。だから、6万坪の自然トイレで用を足しているのかも?イノシシや猿とか山鳥と同じ山がトイレなのかも知れない。今度、彼に会った時に聞いておこうと思う。(笑)















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お風呂と洗濯。

2011-12-22 08:36:15 | 日記

NO-35
今日も強制避難区域の富岡町でたった一人で暮らす松村直登の話を書こう。上の写真は彼がイノブタ?と猫に餌をあげている写真と彼が飼育してるみつ蜂、富岡の海岸で撮った写真です。前にも紹介したけど、彼の住んでいるところは街から少し離れた岩井戸という地名の温泉宿がいくつかあるちょっと山深い場所。秋のある日彼の家に行った時に、炭こたつを見てノスタルジーを感じた僕であった。

横浜出身の僕は、初めて見るそのこたつに違和感を感じたのだ。話に聞いてはいたが秋なのにまだ気温が高く少し汗ばむような日に、テーブルの下の炭の燃えきったあとの灰が。何とも言えず夏に暖房機?のような感覚と昭和の時代にタイムスリップしたかのような感覚で、それは僕に新鮮でもありインパクトがあった。テーブルの上には灯りをともしたろうそくの跡が2つくっきりと付いてあった。

小さな感動とでも言うのかな。1人で感動していたら、うちのかみさんが「私の小さい頃、内も家で使ってたよ」と。もう少し、あの驚きの中に少しだけ浸っていたかったのになあ~。そんな訳で普通じゃない生活をしている彼に、興味津々の僕は色々とその暮らしぶりを聞いた。

自分も震災直後、お風呂と洗濯に困りそれは大変であった。正直、震災直後から僕の家でも電気と水のライフラインが寸断していて、ろうそくで灯りをとりファンヒーター4台とエアコン4台は使えず、緊急時のために用意して置いた石油ストーブ1台で暖をとり、風呂と洗濯は完全にあきらめた。

一昨年の12月に石油ボイラーの給湯器が故障して、風呂が沸かせなくなった時に僕は大なべ2つを使いお湯を沸かし、沸騰してはお風呂に入れて入れるようになるまで2時間くらいかかったかな?あの時も大変であったが、夫婦でお湯のありがたさを痛感した思い出がある。だが今回は水も無くどうにもならなかった。

今年の5月に再会した時、彼のお風呂と洗濯はまさか?川の水を使っているのかなあ?と。僕は勝手におもしろおかしく彼の風呂と洗濯の時の想像をしてその答えを期待した。彼が川に入って「今日の水は冷てえな!」なんてぶるぶる震えながら入っているのか?と僕は1人、笑う準備をしていたのだ。

人の不幸を笑ってやろうなんて、僕もかなり性格が悪いとこの時に分かった。(笑)それなのに返ってきた答えが「馬鹿言え、いくら俺でもそこまではしてねえ。」と僕はてっきり川の水しか無い!と決め付けていたから、その答えにはがっかりした。

何でも、風呂と洗濯は近くのお寺の住職さんが好きなように使いなさいと言ってくれたらしく、その寺の井戸は水が豊富だから全然苦労していなかったのだ。(がっくし)彼の事を書いている僕には、面白いこと書きたいばかりに川に入って体を洗ってぶるぶる震えてくれーと、どこまで、僕は性格がわるいのだろうか?

電気も無いのにどうやって洗濯機を回していたんだい?と聞いたら、彼が持っている発電機でガソリンを燃焼させて風呂も洗濯もしていたと。この時に彼のトラックの荷台にガソリン携行缶がいつもあったのを僕はこの時に理解した。ただ、お寺のお風呂が20人くらい入れる広いお風呂だから1人で清清と入れるのだが、ガソリン代がかさんで頭が痛いと彼は言っていた。

それでも、しつこく川の話を聞いてみたら、ついに白状した。今年の夏はかなり暑かったようで、午前中の餌やりで汗びっしょりになり、午後も餌を配って汗でびっしょり暑さで頭ももうろうとしたと言った。だから夏の間は午前中と午後の一日二回、必ずスッポンポンの丸裸で川に入り、体を洗ってそのままスッポンポンで20~30分川に入ったままほてった体を冷やし、また餌やりを再開していたそうだ。

僕らの富岡町の大半は、プロパンガスでガステーブルを使っている家が多かったと思う。僕のところもガスを使っていたから、ボンベが2本あって料理は出来た。冷蔵庫も電気が無くただの保冷庫になっていたけど、まだ暖房機を使わないと寒い3月だったから食品は悪くならずその食品だけで、3~5日は暮らせた。

それでも2日目から風呂も洗濯も炊飯器も使えず、どうしたって生活出来なくなり僕ら夫婦は避難所へ駆け込んだのだが、彼にその事をこの時に言ったら「川の水を汲んできて使えばいいだろう」と他人事のようにさらりと言った。冗談だろ?とむっとしながら言って返した僕だったが、彼なら絶対にやるなと思った。

彼には、水を川から汲んで来ても生活する根性があるよ。それは素直に認めた僕であった。だからいつもすぐに文句を言う僕であったが、この時は彼に文句を言わなかった。






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寒さの中で。

2011-12-21 09:24:58 | 日記

NO-34
昨日、親しい先輩たちと食事をした。先輩の会社の人と忘年会だったのだが、それに呼ばれて僕は楽しい時間を過ごせた。もうあと十日あまりで2011年が終わる。僕たち原発難民は16万人いるらしいが、みんなそれぞれに苦しい日々を過ごしているのだろうなあ?

先週の土曜日と日曜日に、福島に帰り買ったばかりのデジカメで撮った写真が、避難する時に持って来たモバイル型の小さなパソコンで編集できず昨日はがっかりした。新しいパソコン買わないといけない(泣)仮設住宅の写真と松村氏と津波の後の四ツ倉港周辺の写真なのだが、何とかしなくちゃ。ハ~。(痛い)

今日の写真は、松村氏の自宅でのシーンと犬と戯れる彼を紹介しました。これからの福島の冬を炭こたつと石油ストーブ一つで暮らし、顔を洗う水もめちゃくちゃ冷たくて気合を入れないととても顔を洗えないし、歯磨きもあの冷たい水で5~6回ごしごしすると歯がしみて磨くの嫌になっちゃう彼の生活を僕はとても真似出来ないし、僕にとってはめちゃくちゃ辛い生活だと思う。ご飯だけ炊いて、おかずは缶詰めとかインスタントのものばかりなんだろうし・・・・

電気が無いのは、究極の暮らしを実践する事になる。彼のところは水だけはあるから最低の生活なら出来るのだが、都会のみなさん、一度電気の無い生活に自分の家に帰ったら実践して見ませんか?ファンヒーターやエアコンも使えない寒い部屋で過ごし、ご飯もガステーブルがあれば鍋で炊く事は出来るけれど電子レンジも使えない。オール電化の場合は全部ダメだよね!

今の強制避難区域の富岡町での彼の暮らしは、とても不便な生活である。ろうそくを灯し夏は起きていたのだけど、寒さのあまり暗くなると布団に潜り込み朝の日が出て少し暖かくなってから、動物たちに餌をやりに行っていると聞いた。

彼の体は筋金入りの体なので、どんなに寒くても風邪を引かないと言う。僕なんかが彼と同じ事したら熱を出しすぐに寝込んでしまう。それに町には誰もいないのだから、風邪をこじらせて僕は死んでしまうかも?(笑)本当にこの冬を無事に過ごして欲しいと思う僕であった。















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嘆きと怒り。

2011-12-20 08:53:50 | 日記

NO-33
みなさん、おはようございます。昨日、夜9時に福島から帰って来ました。昨日は大ニュースが飛び込んできました。北朝鮮の金正日が亡くなったって、びっくりした。僕は土曜日に郡山の友人に会い、友人の仮設住宅に泊まって日曜にいわきへ向かい、強制避難区域で一人残り今、話題の中心にいる松村氏と泉玉露の仮設住宅で自治会長をされている僕の師匠の森川氏と会ってきました。

結構ハードスケジュールで、やはり疲れています。今回のブログは少し本音で書きたいと思う。今、強制避難区域の富岡町では牛の問題を未だに、片付けられずにいてTVのニュースで牛が交通事故を起していると全国に放送されている。

牛が悪いのではなくて餌も与えずに放置したままの人間が一番悪いのに、この事故を起した国と東電は何もしないのか?今まで何度も彼(松村直登)が訴えて来たが、事故の加害者である者が知らぬ存ぜぬ!を貫くつもりなのか?ひどいものである。動物たちの命を守るために必死に動いて来た松村氏は今、とても逼迫している。

何故なら動物に与える餌を動物愛護団体から支給を打ち切られ、自分のお金を使って調達しているのだが、12月分までの餌しか調達出来ていないから彼は今、必死に駆け回って餌の確保を急いでいる。上の写真は餌を待つ犬や猫に牛ですが、もう餌が本当に足りなくて困っています。助けて下さい。みなさんに寄付を本当にお願いしたい。

僕も初めて彼に相談をされたが、同じ被災者の僕が出来る事と言ったらたかが知れた金額しか出せず、全国のみんなに呼びかけて募金をお願いしようと二人で話して帰って来た。

都会の人?いや、全国のみんなが原発被災者はいいなあ~精神的損害補償金もらえて。と言っている人が多いが「ふざけるなよ!」と言いたい。自分の建てたマイホームにも帰れず、家の補償もされず、仕事を失って生活費も入らないのに、一ヶ月10万円の補償で、どうやって暮らせ?というのだろうか。残っている家のローンだってそのくらいあるんだよ!

今の横浜の住宅は、来年3月まで家賃の支払いが無くて大変に助かっているが、来年の3月からは一時止めて頂いた福島のマイホームのローンと、ここの家賃と新宿の娘(学生)への仕送りだけで30万毎月支払わなければならない。原発事故の前の福島にいるときは、給料は安かったけど共働きで何とか生活出来ていた。

娘が言った「お父さん、学校。私、行くのやめようか?」正直、言葉に詰まった。親として何度考えても自分の答えは、それだけはダメだ!情けないおやじであるが、そのくらいはおやじの意地を見せたい。

福島での生活は贅沢も出来なかったが、夫婦でまた親子で質素だが幸せな暮らしだった。事業立ち上げのために会社を去年の12月に退社し今年の4月に設立予定だったのだが、東電は何も残されていないからあなたの補償は出来ないと言った。それなら3月11日以前の富岡町に戻せよ!

どんな事したってそれが出来ないのだから、6町村の住民全員を東電と国は救済しろ!TVの報道だって、報道規制を強いているとしか考えられない報道だ!ある記者は言った。「このままを報道しては、この世界から出されてしまう」と。自分の会社がそんなに大事かい?スポンサーだからか分からないけど、自分の事よりこの事故のおかげで人生が狂った住民の事を考えられないのかい?

君らの会社の事故のせいで人生の基盤を失った人間の気持ちは気にならないのか?と声に出して言いたい。これは6町村の住民のみんなを代表して言う。今まで9ヶ月も我慢してきたが、そろそろ本音で言わないと本当に分からない人間が多いので言わせて貰った。

東電の中にはちゃんと理解してくれる人もいるのも事実だが、あまりにも少なくて本当にがっかりしている。「このまま生きているうちに補償されずに自分が死んでから水俣病の訴訟のように、自分の子供たちの時代になって和解でお金を国は出すのでは?」と郡山の避難所にいる腕のいい床屋のSさんは言った。

情けなさと失望と、やりれなさを抱えて福島の地を後にした。車を運転し横浜に帰る道中些細な事で、かみさんを怒ってしまったが救いはかみさんの明るさかも知れない。本人には面と向かって謝れないけど、ブログには記しておこう。助かってますと・・・

只今NPO法人 双葉地方復興企画の設立準備中です。その準備中にこんなひどい状況になるとは思いませんでした。必ず立ち上げますので、その時は皆さんに本当に助けて下さい。






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きのこの話

2011-12-18 08:50:56 | 日記

NO-32
今日の写真は地震直後の富岡町の惨状です。駅舎は津波でなくなり駅のターミナルには、流されてきた家が今でも撤去されずにあります。駅前のお店や家々の写真もたくさんありますが、家を失った人たちの気持ちを考えると掲載出来ず、こんなつまらない写真しか出せませんが見てください。

 11月25日発売のフライデーに強制避難区域で暮らす彼(松村直登)が掲載されたが、記事の中身にはがっかりした。彼が好物のきのこを食べていると書かれており、嘘偽りはダメだと本当に僕は思った。彼は、きのこだけは食べないようにと説いて回っていた人間だったから、あの記事の内容は全然ダメだ。
 
 何故彼がきのこはダメだと言っていたかと言うと、前述の博士と原発から30km離れた特定避難準備区域(出入りが自由)の浪江町に入り、今までに稲、柿、くり、キウイフルーツ、じゃがいも、にんにく、その他にも色々な農作物を採取して、放射能汚染度を測る博士の手伝いをしていてきのこの危険性を知っていたからだ。

 同じ浪江町でも強制避難区域があるように、ここは富岡町より広いから大変だ。この町の老夫婦Kさん夫妻の畑や山林で取れる食べ物の汚染度を測るのと放射能を取り込む食物の種類や土壌汚染の実態を調べるために、彼は何度も博士と山に入って案内したりと活動していた。

博士も彼も除染に一番効果が得られるものを探していたのも事実で、彼は博士のひまわり栽培などの手伝いをし、とにかく何でも調べて除染につなげようとしていた。そこで、一番高い数値を示したのがきのこだった。この頃は、TVでもきのこを取り上げていてきのこは食べないように注意を喚起されていたと思う。

きのこ狩りの本格的シーズンの前に山に入った時は、やはりあるべき所にきのこは出ていなくて無駄足を踏んだようだが、シーズン到来してからは見事なまでの豊作だったと彼は言った。特に地元でもおいしくて高級な猪の花と言われるきのこは、とても立派な大きさのものがたくさん採れたみたい。

彼も山案内をして博士を導くのだが、立派な猪の花に遭遇すると「博士、カメラカメラ!」と博士を呼び出し、博士も小躍りしてカメラを取り出して少年のようにパチパチと。この日の山での採取は大成功で博士が最後に言った言葉が「あー、今日は楽しかった。」と満面の笑みで言ったらしい。

僕も博士の研究所にお邪魔してお会いした時に、気さくで普通の人にしか見えない風貌に親近感を感じたが、この話を聞いて彼らしいと思った。話がそれたがもちろん、取ってきたきのこを博士が持って来た鉛で出来た80kgの箱に入れて放射能汚染度を調べたのだが「その数値を見てみんながのけぞったんだ!」と彼は言った。

土壌汚染のレベルが26万ベクレルなのに、きのこの汚染レベルが43万ベクレルだったからだ。そのきのこを手掴みで持って来た彼も思わず自分の手を引っ込めたと言うから、かなりの衝撃だったと思う。僕は土壌の汚染より何できのこの方が高いのか?分からなくてどうしてだ?と彼に聞いてみた。

彼は「きのこの菌糸は目には見えないカビ菌みたいなもので、場所によっては何十メートルから何百メートルもそれが繋がっていて、セシウム大好きの菌糸がそれをきのこに運び、きのこが吸収するからこうなるんだ」と説明してくれた。

それにしても、この日一緒に山に入ったKさん老夫婦は、バケツ二杯分たっぷりのきのこを取って来て婆ちゃんの一言「今度みんなが来た時は、うんめえきのこ料理作ってやっかんな!」と言ったそうだが、彼は「きのこだけはダメだ」と笑いながら言った。

「今度Kさんの家に行った時、きのこ料理が出て来たらどうしようかな」と彼が言ったのを、僕は驚いた。今まで鮎とか獲ってたくさん食べてきたじゃないか!と彼に言ったら「大体いつも、みんなで集まる時はカレーをごちそうしてくれるのだけど、きのこカレーにしても一個くらいは食べてもいいけど、あの婆ちゃんは具をいっぱい入れるから怖くて食えねえよ」と、何でも食べる彼が食べないものもあるんだと僕は笑った。

そんな彼を尻目にKさん老夫婦は、それらを平気で食べているらしい。彼らが放射能の話をしても「おいらは、老い先短いんだから、食いたいものは食うべ。」と、何を言っても気にしないでいるらしく、放射能汚染が何ベクレルと言ったって「何の事言ってっか、わかんねえ!」という感じだそうだ。

ここの婆ちゃんの事を聞いて僕の義母も「富岡に早く帰りたい。癌なんて怖くない。」と言ったのを思い出した。早く町を除染して年寄りが帰れる町にして欲しいと思う僕だった。

今日、今から福島へ行ってきますので、明日のブログはお休みします。彼(松村氏)と会うのと郡山に避難している友人と会ってきますので、火曜日に再開させて頂きますので、よろしく。

















































                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     
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諦めない!

2011-12-17 08:32:50 | 日記

NO-31
みなさん、おはようございます。今日の写真は、今年の6月頃の強制避難区域の富岡町に放たれた牛と動物たちの面倒を見ている松村氏の写真です。人なつこい牛もいて彼のレンズを覗き込む牛、意外と可愛いですよ。この頃は放射能で汚染された草がたくさんあって、牛の餌の心配が無い事が分かると思います。

3月から6月にかけて養牛業の人達が放し飼いにした牛は、400頭から秋の日の予測では500頭に増えたと言われ、町では11月頃からようやく牛の囲い込みが始まったのだが、予算が無く今年の冬の分の餌代しか無いということで彼は「どうするべ!」と頭をひねっていた。

このままでは来春に牛の命はなくなる、何としても方法や案を探さねば!と何日も真剣に考えて、ついにその答えを打ち出した。だが、それでなくても牛を殺してしまおうという人が多くて、普通に訴えても誰もうんと言わないだろうと彼はある行動に出た。

今まで8ヶ月以上も放射能で汚染された草を食べてきたのだから、牛の内臓の被曝はかなりのもので、どうせ汚染牛は肉牛の価値はなく、殺処分したとしても放射能汚染物扱いになってしまう。500頭の牛を処分するにも土の中に埋める事も出来ず焼却する事も出来ずにいるのに、やれ「殺処分だ!」といっている人の考えが僕にもわからない。

中間処理施設が作られていないのに、殺処分なんて出来るわけがないだろうと思うのだが・・・彼のように牛を殺さず生かして人間の力だけでは除染出来ない広大な土地で来春から生える草を食べてもらって、除染の手伝いをさせようと考えた方がまだ良いのではないか?牛だってこんな形で殺されるより生きていたいはず。

彼は今、町の問題になっている牛の糞を一箇所に集めれば今のような騒ぎにもならないし、放射能を確実に含んだ牛の糞をとても有名な研究所のY博士の研究したバイオ剤を使って、牛の糞の中で凝縮させその汚染物質のみ除去しようとY博士に提案した。これに博士も「これは、有りですね。」と快諾し、早速博士自身も動いてくれた。これが松村氏にとっても大きな逆転劇になった。

ここまでのプロセスが大変な道であったのだ。町長にも松村氏は面談し「この方法で牛を生かせないか?」「有名な研究所の博士を呼ぶから、話を聞いてくれないか?」と。町長も、そんな有名な研究所の博士なんか本当に呼べるのか?と、半信半疑というより最初は相手にしていないようだった。

博士は、すぐに計画書を作ってそれを持って単身で福島県に入り、富岡町の仮設の役場がある郡山に来てくれた。そして町長に松村氏のこの案を推してくれてやっと町長も「この案でいくから、みんなもそのように動いてくれ」とY博士と役場の幹部職員とこの案件を協議したみんなの前で言ってくれたのである。

Y博士が来てくれなかったら、お蔵入りの案件になり牛たちは殺されてしまうかも知れない。だから、僕もY博士には本当に感謝している。もちろん、役場職員と町長があの有名な研究所のY博士が来てくれた事に、びっくりしたのは言うまでもない。あの時は僕も驚いていたのだから。

彼の馬鹿力は、いつも諦めない気持ちの強さから発揮されるものであって、土壇場に強い男である。それが僕には羨ましく思える。彼は、どんな事があっても富岡町を離れないと言う。彼の思いは故郷富岡町が除染されて、みんなが町に戻って来て、今まで通りになることを夢見ているからだ。

だから、ろうそくを灯す暮らしでも少しも苦にしない。これからの福島は寒さも厳しくなるので、とにかく、健康には注意して欲しいと強く思う僕だった。




  












































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ある提案に

2011-12-16 06:31:28 | 日記

NO-30
みなさん、おはようございます。日々のアクセスに感謝しています。多くの方が僕の未熟なブログにお付き合いしてくれて、とても嬉しく思っています。今日の写真は震災後の富岡町の海岸を選んでみました。

写真の人物は原発事故で強制避難区域に指定されたわが故郷に、たった一人で残こり動物の命を守っている松村直登氏です。僕は横浜から20年前に富岡町に移住しましたが、当時住んでいた海岸から200mの所にあった住宅はコンクリートの建物でしたが、あの大津波で跡形もなくなっていました。

防波堤を壊し浜辺は瓦礫の山。跡形も無くなって今は静かな海を見る彼の胸中は何を思っていただろうか?人のいない廃墟の町に変わった富岡町に1人で生きている彼を、みなさんにも見て頂きたくて掲載しました。この写真は、イタリア人記者のアントニオ氏が撮影した写真です。

今日は彼と僕の6月の事を書こう。6月の一ヶ月は本当に横浜と福島を行ったり来たりして、とてもエネルギッシュに動いた月だった。僕は、3次避難になるけどようやく横浜の住居を見つけて引越しを終えたばかりであったが、彼の話に乗せられて付き合うはめになった。

国の決めた牛の殺処分に反対して養牛業の人達が放した牛を、殺さずに生かして牛の尿や血液など採取して被曝した牛のデータを取り、全世界の研究機関や科学者に送り世界のために生かすことが出来ないか?と彼と共に僕も一緒に走り回った。

もちろん前述の獣医のW先生もこの頃は20回位富岡町の現地や強制避難区域の他の町村に入り、国会議員とこのプロジェクトを立ち上げようと富岡町に残った松村氏とみんなが連携して活動した。これが、国会議員の提案だったからみんなでやろうとなったのだが、彼(松村氏)は本気だった。

NO-4 牛舎に残された牛で紹介した親子の悲劇や屍骸だらけの牛舎の惨状を見て来た彼のハートは、火の玉のように熱く燃え生き残った牛を助けたい一心だったと思う。僕の家の少し離れた所に牛舎があって、そこの牛60頭は繋がれたまま全部死んでいた。

AP通信のマイルス・エデルステン氏も彼とここに入り、自身の記事に身の毛もよだつ光景と書いた。「この牛舎に30分いたら、3時間は腐敗臭が服から抜けないからな!」と松村氏は言っていたから、相当なものだったろう。蛆とハエに覆われた屍骸、吐き気をもようす強烈な腐敗臭!想像を絶する牛舎の姿。

彼から聞かされた話だけど、あの大きな牛が腐っていて足をよけようと柵にかかった牛の足を引っ張ったら、骨だけがズルっと抜けて腐った肉と皮がきれいに剥がれたとか、この頃は気温も高くなり牛の目や鼻や口からは蛆が這い回り、一頭に数十万匹のハエが屍骸を覆っていて近づくと黒いカーテンのように飛び回り真っ黒になるほどだったと。

とてもじゃないけど、僕はこんな所へは絶対に入れない!いくら彼の友達だと言っても絶対に嫌だ!写真で見せられただけでも気持ちが悪くなる壮絶な光景だし、こんな所へ行ったら僕は熱出して寝込んでしまう。多分、経験が無いから強烈な腐敗臭で吐いてしまうだろう。考えただけでもダメだ。

牛舎だけじゃないんだ。富岡町にはある大手ハムメーカーの養豚場があって、そこには少なくても豚が3万頭いた。多い時には5万頭飼育出来る設備の整った養豚場があったのだが、人に聞いた話でそこもひどい状況になっていたと聞いた。あちこちでそんな状況であったから、彼は何とかしようと強い気持ちを持っていた。

この計画は、国や県の予算の事や色々な制約があり、問題山積で予算的に今は、牛を集めて今年の冬を凌ぐ餌代を確保したところらしい。それでも、このままでは牛が殺されてしまうだろうと、彼は必死に考えた提案をある人に託す事になるのだが、この話は明日のブログで紹介するね!




































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5月の頃の話

2011-12-15 08:40:45 | 日記

NO-29
みなさん、おはようございます。今日もこれで2度目のブログ作成中です。(泣)少しでも警察の話が入ると削除されてしまうのですね。(がっくし)おかしいよなあ。言論の自由の国なのに・・・

気を取り直して書いていきます。上の写真は強制避難区域に残り動物の命を守る松村直登氏の撮影したものです。鳥小屋のにわとり?行儀良く餌を待つ犬、町中を闊歩するダチョウです。ダチョウも人を見ると餌をくれるのではと近づいて来ると松村氏は言っていました。

今日は5月の頃の話を書いてみるね。彼が自宅で預かっていた犬が出産して可愛い子犬が4匹を手にするのだが「んっ、おかしいぞ?」と彼はその異変を調べ始めた。子犬は五体満足で健康そのものなのだが、生まれた子犬は全部オスでメスが一匹もいないのだ。

僕は犬を飼っていないしペットのことも良く分からない男なので、僕なら分からなかっただろう。彼は会津に避難している獣医W先生を訊ねて子犬を見てもらった。

獣医W氏も「こんな事、絶対に無いとは言えないが普通なら考えられないよ。犬の妊娠期間を逆算すると、3月12日に交尾している計算になるから、あの3月12日の原発事故の影響は考えられるのではないだろうか?遺伝子の配列などに異常が起こったか、何かしらの原因があったはず」と。

犬の妊娠期間が60日くらいだとか、何とかと彼が獣医W先生から聞いた話を色々と僕は、彼からまた聞きしたのだが、ちょうどその頃どこかのTV局で、同じ強制避難区域の浪江町で震災後に生まれた耳の無いうさぎを放映していたのを思い出し、間違いなくあれも原発事故の放射能に結びつく事象ではないかと思った。

犬でも猫でも3匹でも5匹でも、その中には必ずメスが最低でも一匹は生まれないとおかしいのだと改めて勉強した僕だったが、確か小学生の低学年で教えてもらったような記憶は残っていたが、すっかり忘れていてオスだけの4匹ってありえる話だと僕は全然疑わなかった。(恥ずかしい)

自分がどれだけ動物の事知らないかって言う事とどれだけ無関心かという事を知らされた。犬でも猫でも全部オスだったら根絶やしになっちゃうよね!全部メスだけだったら、僕もおかしいと思ったと思うが、全部オスはありえると本当に思っていたのだ。

こんな事があってからは、彼は動物の事には人一倍神経を使っている。彼は小さな事でも注意しているし、5日前に郡山で会った時に獣医W先生に犬の薬をもらって富岡に次の日帰って行ったのだが、彼は獣医ではないから普通は注射して治す病気だけど、注射はしてあげられないのでその薬を餌に混ぜて口から入れて治してあげようと、悪戦苦闘の日々を送っている。

本当に彼は動物をいたわっているし、彼のような人間がいてくれ、町に残された動物たちは助かっている。今日も富岡町のどこかで餌を与えている彼がいることを思いながら、自分ももう少し動物ののことに関心を持つようにしたいと思った。



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