ときぶーの時間

募金の受付先 東邦銀行 安積支店 普通0644994 名義がんばる福島
みなさんご支援宜しくお願いいたします。

車よ、お前もか?

2012-09-29 07:56:21 | 日記
NO-244
昨日は朝から忙しく、時間に追われとても疲れる一日だった。編集のやり直しもそうだが、車も体調を壊したみたいでチェックランプが点灯し、横浜のディーラーに駆け込んだら「修理が必要です。」に、えっ!!!

先月体調を崩して自分がひどい目にあったのに、今度は愛車で車よおまえもか?って感じです。人間もそうだが車も故障することがある事は当たり前だけど、今回の修理代は痛いなぁ~。

タイヤを入れ替えたばかりなのに・・・来月に入れば、また富岡町や楢葉に入らねばならないからちょっとショックだった。でも買うより修理の方が断然安く買う余裕もないから、すぐに依頼をかけて帰宅した。


今月は9月7日に顔を出してから、全然行けなくて何か申し訳ない気持ち・・・・・

実は昨日も、あの神経を抜いた歯の治療で4週間目でやっとレントゲンを撮り、来週で治るだろうか?ってところで自分でもずいぶんかかるなぁ~って思っている。

昨日のまさかの忙しさに、朝はしっかりと頭にスケジュールとして入っていたのに予約の時間を忘れて医院から電話をもらって慌てて行った次第だった。


食後にくつろぐ牛たち。富岡の第一柵で。

強制避難区域の富岡町は松村がいるから、動物たちの事は心配ない。いつもやる時はやる男なので、彼に言わせれば「ノー・プロブレム」全く問題ないって感じだ。

来月のイベントでは必ず会うことになるが、それまでにこちらはこちらでやることをしっかりやっておこうと思う。今日も横浜~東京を行き来しなくてはならず、自分の時間が取れない。

頑張ってやるべ~!掛け声だけでも勢いつけてやるしかない。今日の移動は電車で移動なので少し窮屈ではあるが、一日頑張ってやって来ます。








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横浜中華街で。

2012-09-28 10:09:33 | 日記
NO-243
昨日は久々に、東京に住む娘が横浜の住宅に顔を出してくれた。かみさんの誕生日を家族で祝おうと言う事で来てくれ、そんなわけで3人で出掛ける羽目に・・・・

県外に避難する羽目になったのがこの娘のおかげで、たまに横浜に顔を出した時くらいは言う事を聞いてあげようと思い彼女の注文を聞いてあげた。

僕は車の修理をしたくて住宅から一番近い横浜のディーラーを探して行きたかったのだけれど、行けずに昨日は3人で電車とバスを使い移動し中華街に出た。



特に中華が好きでもないのだが、横浜で有名な場所で食事をしようと言う娘のリクエストに、一時間以内で行けて一番近い所が横浜中華街だった。

ぶたまん(肉まん)や小龍包などの食べ歩きをして楽しんでいる若者もいたが、お昼時なのに人は少なく店の呼び込みが目立つような感じで、あちこちにいた甘栗店の呼び込みはしつこく感じた。

娘に「あの栗は絶対にもらってはダメだから」と言われ、そのわけを聞いた。受け取ったら最後!手を引かれて強引に店に連れられて甘栗を買わせられるからと・・・だから絶対にもらわないぞ!と気合を入れて歩いた。(笑)

歩き回り疲れて入った店で食事を済ませてが、通りからわきに入った不味い店に入ってしまいめちゃくちゃがっかりした。(泣き)その帰り道にある事に遭遇した。

何気にきょろきょろと街を見て回っていたらいきなりびっくりした。隣接しあう都会の雑居ビルの隙間に人が!


えっ何???洋服屋の軒下のTシャツの絵柄を見て歩いていたら、いきなり目に入ってきたこの人たちに、いやーびっくりした。ずっとこのままの体勢でしゃべりもせずに壁に付いていた。


6人がこの姿勢で中には女の子もいて、路上に立ちポスターを持っている人に聞いたところ何でも29日30日に横浜のある所でパフォーマンスするからその宣伝でやっていると。

さすがに都会は面白い所だと思った。食事はいまいちであったが、こんな都会の面白さと出会えて無理やり中華街にこさせられ、昨日はクレンジングオイルを忘れて化粧を落とすのにサラダ油を代用し、大げさなほど騒いでいた娘に感謝した。

「油は油で落す!」と意を決してサラダ油を代用した娘だが、朝起きてサラダ油のせいで顔がむくんでいる?とかサラダ油が吸収されちゃったかも?と大騒ぎ。(アホか?)にぎやかな娘である。忘れてきたあなたが悪い!

今日は、横浜に避難して初めて来た中華街とわが家族の話でした。













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栗の実の話。

2012-09-27 09:02:50 | 日記
NO-242
昨日は、自民党総裁選の結果を楽しみにしていた。予想通り石破さんと安倍さんの戦いになり、結果は安倍さんが総裁に返り咲いた。今の政治にがっかりしている人は、ことのほか気になっていたと思う。

一昨日、強制避難区域を解除された楢葉町の友人の所に行ってタイヤ交換をしてきたのだが、この一年半の走行距離が5万kmを超えタイヤも悲鳴を上げていた。


タイヤの内側がすり減ってつるつる状態で、指で押すと柔らかくてへこむくらい危険な状態だった。外側からだけで目視していてタイヤの山はまだ充分と思っていたから、びっくりした。

楢葉町に電気が来たのを少し喜んだ。友人の事務所の冷蔵庫から冷えたペットボトルのお茶を頂き、嬉しく感じた。こんな小さな事でも嬉しく思うのは、富岡町の電気の無い所で活動する松村の現状を知っているからだ。

今年の夏に彼の手伝いをした時に汗びっしょりになり、彼の家の裏の山からの湧水で冷やしたビールをごちそうされて、びっくりしたことを思い出した。ぬるい!ぬるくてあの一流メーカーの美味しいビールがまずく感じたからだ。(笑)


川の中の柵を作り直した時の写真。松村の頭のタオルは汗が目に入らないようにとのことだった。僕はタオルを首に巻いて手で汗を拭くスタイルで作業したが、汗が目に入りしみて松村のスタイルがめちゃいいスタイルであることを勉強した。

朝の5時に高速道路を飛ばして行った楢葉町の友人の事務所の冷蔵庫が僕の疲れを癒してくれたかも?彼の所も僕のマイホームと変わらず、お客様から預かった車が雑草に覆われて見えなくなっていた。


白いベンツと青い軽自動車はすっぽりと草に覆われていた。この他にも違う場所に6台くらい預かっていたがそこも同じ状態であった。


マンホールが吐出した道路のわきに立派な栗の木があり、栗の実がたわわに実っていた。この実もそうだが、避難区域にあるまたは避難区域に指定されていた区域の柿などの実は誰も食べないのだろうな~としみじみと思いにふけった。

以前、宇宙科学研究所の山下博士と松村たちが、稲・野菜類・キノコ類・ナシやリンゴの果物・鮎などと色々な食物の放射能汚染値を調べた時に、確か栗の実も計測したと思ったけれど、今はとても食べる気にならない。












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がっかりした。

2012-09-25 22:30:30 | 日記
NO-241
この頃毎日更新出来ず、みなさん本当に申し訳ありません。今日の夕方に福島から帰ってまいりました。ある意味がっかりして帰ってきた次第です。

先月体調を崩し、あの意地悪な歯のために今週は3回の予約を入れて自由に動けず本当に参っていたのだが、友人と会うために意を決して隣町の楢葉町に行って帰って来ました。

さすがにへこみました。これが強制避難区域を解除した町なのか?と。


町の至る所で、補修されていない道を見る事になります。これは初歩的な道路の断裂です。


もう少し行くと片側車線が断裂していて、本当にもう一方の車線しか通れません。


その先を行くと道路はこのような様を呈して行きます。


僕の靴を見て下さい。どこの溝も深さは20cm位の深さです。


そしてこの陥没の深さは60cm位の深さでした。


目にしたマンホールの周りにひびが入っています。


次に目にしたマンホールは全体が浮き上がっていました。


この写真の中央に見えるのが、下水道用のマンホールの姿です。この場所では90cm位道路から突き出ています。


また別の場所では、こんなマンホールが・・・・この道の数百メートルの中に吐出したマンホールが6個はありました。

車の修理工場の営業を再開したいと言う友人の工場の10m下の道路がこれである。友人が心配するように、この下水道が完全に壊れていてトイレの汚物と不浄水はこの下水を通れずどこかで滞留し溢れ出すことは明白である。

飲料水をトイレ用の水のために大量に用意した友人は、僕に「工事現場で使う仮設トイレでどうか?」と聞いてきた。僕はあまり品は良くないがそれもありだね!と言ったが帰りの車の中で、さすがにへこんだ。

修理工場の営業を再開するのに、仮設トイレで営業?ってか・・・本当に落ち込んだ。ある程度復旧させてから強制避難区域を解除してくれと本当に思った。

今の双葉郡はまさに終戦後の日本と変わりない!今の福島県双葉郡の住民は原発事故の放射能のせいで集団疎開をし、苦しみに耐えて暮らす戦後の人々と形こそ違うが同じ悲劇を体験している。

避難生活イコール疎開である。この生活を理解することが出来るのは、同じ仮設住宅で暮らし仕事の無い無力な時間を過ごせば分かる。これがどれだけ苦痛なのか・・・・

電気は来ていたが、ここでは料理も出来ない。洗濯も出来ない。風呂にも入れない。生活も出来ない。なのに、生きるためにここで仕事をしなければならない。

この国のやることなすことに頭に来ているのは僕だけであろうか?僕はひたすらこの国の未来を憂いている。

竹島や尖閣問題もしかり、このところ日本の政治に対してがっかりや憤りを感じている人たちが多いのではないだろうか?こんな日本に愛国心を持つ子供たちはいるのだろうか?

僕は政治家ではないけれど、本当に情けない国になったものだと思う今日この頃です。今日は毎日更新できない事をお詫びして眠りにつかせて下さい。おやすみなさい。











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再度紹介させて下さい!

2012-09-23 10:33:57 | 日記
NO-240
昨日、注文していた山本宗補さんの本をやっと取りに行けた。本当に行けなくて手にした時にすぐ読もうと思ったから、近くのコーヒーショップに入り一気に読んだ。


ようやく手にすることが出来た山本さんの本です。

フォト・ルポルタージュだから写真集のようだけど、最初の登場人物で岩手県の小原宗鑑さん(28歳)若い僧侶の話しは読んでいても目頭が熱くなり、山本宗補さんと同じ気持ちになった。

本の表紙に出ていた希望の牧場の吉沢さんの一言一句は胸を熱くした。この本に登場する人たちは、あの東日本大震災と原発事故が生み出した主人公である。

もちろん広島や長崎での原爆投下による被ばくを経験された方の悲惨さもこの本で改めて知った僕ではあったが、福島を守れなかった国に対して原発再稼働はもちろん、原発ゼロを明記しなかった姿勢に僕は怒りさえ感じた。福島県民はモルモットじゃないぞ!と。


登場人物の一人。我が町・富岡町の松村直登。未熟児で生まれた石松を抱いて。

僕の福島県富岡町では未だに右往左往していて、強制避難区域の解除がなされていない。町長と議会は「5年で除染とライフラインの整備はとても出来ない!」と国の警戒区域解除に抵抗している。

今では僕も町長と議会の反対意見に賛成だ。どう見たって5年で除染や上下水道の復旧工事が出来ると思わない。まして病院や学校にスーパーもない町に誰が帰るのだろうか?

原発の爆発によって撒き散らされた放射能が、本当の意味で復興の足かせになっている。約16万人の避難民はいつ戻れるのだろうか? 82歳になる義母は「死ぬまでに帰れるだろうか?」と肩を落とす。

住民には怒りを通り越して諦めの境地が目の前を揺れる。まだ抵抗してやるという人もいるが、先の見えない不安に時々潰れそうになるのは当たり前の事だと思う。

人間は大災害に対してどれだけ無力なのか?と書かれていたが本当にそう思います。是非、みなさん読んで下さい。そして悲惨な状況であった各地の災害写真を見て下さい。


本の中から。宮城県気仙沼市の写真です。大津波の恐怖は説明がいらないと山本さんは書いていましたが、まさにその通りです。この壮絶な写真に僕は言葉を失いました。この大震災と原発事故関連でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。

今日はフォトジャーナリスト山元宗補さんの本で鎮魂と抗いを、再度紹介させて頂きました。山本様には断りもなく本の中の写真を無断で掲載したことをお詫び致します。どうかお許し下さい。

そして山本宗補様には、この大震災と原発事故の記録本を出して頂きました事に感謝申し上げます。本当にお疲れ様でした。













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編集中!

2012-09-22 10:23:17 | 日記
NO-239
彼岸の入りから天気が悪く少しだけ涼しく感じる今日この頃だが、今年の夏は異常に暑く感じたのはやはり年のせいか?(笑い)昨日は強制避難区域での今年の写真を編集をしていた。


先週UKCのみなさんにもお手伝い頂き作った新しい柵は、ここの牛のために作ったと聞いた。

午前中から始めて午後に一旦出掛けたが、戻って作業を再開した時に東電の補償相談室の方から電話が入った。4回目の書類を提出してほしいとの事だったが、面倒くさいと思うのは僕だけではないだろう。

国や東電の賠償にいつも嫌な思いをしている自分も情けないが、東電とは早くこの悪縁を切りたいと思っている。本当の話だから仕方がない。それでも補償相談室の方とは一年四か月の付き合いになり、いいのか悪いのか?人間対人間の付き合いをさせてもらっている。

来週も福島に行くが、楢葉町で事業再開を考えている友人の所に行くつもりでいる。水の出ない町で居住も出来ないのに警戒区域を解除された隣町の写真を撮ってこようと思った。


松村の第二の柵。一度牛に逃げられて一か月後に戻されてからは、落ち着きを取り戻した。今は第一と第二の柵を繋げたから、ここに第一柵の牛も来てたくさん集まっていることがあるが、この頃は便利な第一柵の方に集まっている方が多い。


この中央のこちらを見て立ち止まっている牛。「何撮ってるの?」って感じがいい。癒しまでは感じないがこんな仕草を可愛いと思うことがある。餌は人からもらわないといけないが、水飲みは自分で言って飲んでこなければならないからこんな時に、生きているんだなぁ~と。

来月の横須賀のイベントにまた参加させて頂く事になり、今週中に編集をして来週はじめに提出して進めたいと思う。それではみなさん、今日はこの辺で。













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仕事の事。

2012-09-21 08:00:50 | 日記
NO-238
昨日は厚木市の先輩の所に顔を出した。仕事の相談もあって行って来たのだが、色々と案は出たものの実現させるには時間的余裕があるか?というところだった。


昨日も先輩にお昼をごちそうになった。先輩二人は焼肉大好きなので行先は焼肉屋になった。

原発避災者で就業補償も貰えない僕のような避災者は、このまま仕事もせずには生きていけないし本気で考えてはいる。僕の場合は事業立ち上げ目前に被災して、震災時にサラリーマンでも事業者でもないとの事で補償されないのだ。

僕のように補償されない人間は少ない方だと思うが、東電の補償はホントにひどい!まして家のローンを抱えているから笑えない事ではない。


何年かぶりの焼肉屋さん。僕はベジタリアンを自称しているが焼肉屋さんの肉は少しだけ食べられる。元々胃が丈夫でないからたくさん食べられないのだ。肉なら消化の良い魚の方がいい。

ハチノススープとカクテキやナムルなどの野菜系がおいしかった。青唐辛子は食べるのを止めた。また胃を悪くしてはたまらないからだ。牛を助けてるのに焼肉か?って言わないでね。これも付き合いで行ったものなので・・・

今まで考えていなかったわけではないが、原発事故で仕事も家もこれからの人生の羅針盤も失ったような感覚でいたから、次に何をするか迷い苦しんでいたのは事実。

何でもやる!っていう気持ちはあるのだけど、正直焦りはある。家の補償だってこの先どのようになるかもいまだに全く分からない状態だからだ。

これから何年経っても住めない町であろう。隣町である楢葉町のように帰ることは出来るが住んではいけない町として帰還宣言されたとしたらローンだけが残る現実がある。

町に戻ったって仕事は無いだろう。先が見えないと言う事は、本当に辛く苦しい!約16万人にも及ぶ県外避難者も県内避難者も同じ苦しみから逃げられないでいる。だけど僕らは前を向いて生きるしかない。


締めはバニラアイス。ご飯をお腹いっぱいに食べた後に、2玉のアイスにびっくりしました。これはきつかったです。

今日は一日家にこもり撮りためた写真の編集をしようと思う。














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お礼を言いに。

2012-09-20 07:50:23 | 日記
NO-237
昨日はUKCジャパンの細さんを訪ねた。一昨日「柵作りは無事に終わったから」と電話を頂きお礼を言うためにお伺いしたのだ。

もっともタッズ母こと細さんの奥様にも「どうしてる?奥さんも連れて来てよ」と電話を頂いていたから、かみさんも連れて行ってきました。


A/B/C/D/E/F/G棟とつながり、2階のシェルター入口から写真を撮りました。

2階のシェルターに初めて入らせてもらった。とにかく、たくさんの犬を助けていて本当に凄い。数日前にたった3人で400匹近くの犬や猫たちの面倒をみたらしいのだが、その日はさすがに大変だったと言っていた。


2階のシェルターで犬の世話をする細さん。

いつもはたくさんのボランティアさんが来てくれるのだけど、その日はそれぞれに予定があったのか?細さんを入れて3人しかいなかったらしい。ゲージの掃除をしてあげるだけでも大変な仕事だから、脱帽!


ゲージの清掃をする細さん。

誰が何と言っても細さんは凄い。原発事故で被災ペットになったたくさんの双葉郡の犬や猫を、このシェルターで保護してくれている。

福島ではいまだに約16万人の被災者が仮設住宅や借り上げ住宅に住まい、家に戻れず自分のペットを引き取りに来られないでいます。僕たち双葉郡の避難住民を代表して細さんには本当にありがとうを言いたいし感謝したい。

昨日はタッズ母から食事の誘いを頂いていて、彼女のおすすめのお店に行った。藤沢の隠れ家が店のタイトルになっている古民家作りの渋いお店を紹介して頂いた。


ごんばちというお店で、田舎の農家の家作りそのままの広いお店です。

地産地消のお店で、ご飯は玄米か雑穀米を選びおそば付きの定食を注文したのだが、おそばは炭入りの黒いおそばで何ともおつな食事を経験しました。タッズ母本当にごちそうさまでした。

お店に入る時も近くに牛小屋でもあるのだろうか?牛小屋のにおいがして、田舎をにおいを思い出しました。(笑い)

お店に入った時に僕は細さんが怪我をして36針縫った名誉の負傷を見せて頂いたが、傷は残っていたがきれいに治っていて本当に良かったと思った一日でした。



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友人の営業再開?に。

2012-09-19 07:31:31 | 日記
NO-236
一昨日の朝早く家を出て昨日の夜、福島から帰って来た。パソコンを持って行ったのに、時間に追われてブログの更新が出来ませんでした。

今回は国で進めている民家の除染の方法とかをしっかり聞いて来ました。やはり大手ゼネコンから下請けに仕事が出る仕組みに代わりは無かったが、屋根は高圧洗浄機で洗い流していたのが拭き取り作業に代わっていた。


友人が住んでいる郡山の避難所で会った。

一年半も経ち雨風によって今では放射能物質が染みついているから簡単に落ちなくなっているらしい。だからある友人の所は「俺のとこも3回くらいやるんじゃないかな?」と言っていた。

家の中の樹木も切り倒してくれるとか言っていたが、緑が無くなった家はさらに殺風景な姿になるだろうなあ~と思った。友人は楢葉町に車の修理工場を持っていて、真剣に事業の復興を考えていた。

復旧作業のため東電の第一と第二の原発に入れ替わり立ち代わり入る人たちのためにもなるだろうと本人は真剣だったのだが、電気は来たのだけど水が無くてトイレが使えないので、「水をどうするかだなあ~」とため息。


便利でいくつもの店舗があったコンビニ。今では盗難防止のためにガラス窓を遮蔽されたコンビニ。

すでにかなりの飲料水を用意したらしいがあくまでもトイレ用にである。更なる問題はロータンクに水を入れてトイレを使用した時に、その水は何処に行くのか?心配していた。

下水が壊れているとしたら?その不浄物は何処に滞留するのかなど本当に笑えない話であり、本人は曜日を決めて再開したいと・・・この場所から使えるトイレは5km離れにある広野町のコンビニのトイレしかない。


町には今でもお店と言うお店が何も無い。

これが避難区域解除をした隣町の状況です。水が無いと言うことはお風呂も洗濯も炊事も出来ない事で、とても人が住める環境に至っていないと言う事である。

警戒区域を解除して賠償金を削りたいためなのか?住めない場所に戻れますって言ってもこれじゃあまりにもひどいよなあって思う。

そこで営業の再開を真剣に考える友人を見て、感じるものがあった。僕もこのままではいけないし、早く次の事考えないとと自分に言い聞かせ、彼から少しパワーをもらって帰ってきました。





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地元紙から。

2012-09-16 12:12:16 | 日記
NO-235
昨日、同じ富岡町の被災者で川崎市に避難している方の所へ行った。彼女は地元の新聞を郵送してもらっていて、つい最近の新聞をもらって帰ってきた。

福島民友の9月12日の社会面に、富岡町でお世話になった方の息子さん夫婦の写真と記事を見て「えっ!」と言葉に詰まった・・・・・それは沿岸部での不明者一斉捜索の記事だった。


津波の後の富岡駅。海岸線の家々は全て流され何も残っていなかった。

あの津波で1歳6か月の娘さんを亡くし、今でも娘さんを探していると言う。富岡町の沿岸部では24人の犠牲者が出たと書かれていて、今も6名の方の行方が分からないと言う。

僕は息子さん夫婦を知っていて「嘘だろう?」と、茫然として何も考えられなかった。彼は釣船の船長をしていてあの津波の時に、家族の無事を確認して船を守るために船と共に沖に出た。

あとを託された奥さんは祖父と娘を車に乗せ、逃げる途中で津波に巻き込まれ、その時に奥さんは自力で車から脱出したが車の中では祖父が亡くなっていることを確認。そしてその時に1歳6か月の娘の姿は見当たらなかったと・・・・

一緒に別の車で逃げたお母さんは、車が浮いて流されたから助かったと書かれていた。あの津波の体験は相当怖かった事だろう。


津波でまったく別の姿に変わり果てた海岸近くの町の姿。

やはり知らなければ良かったなと思った。僕にも一人娘がいるが、娘の死なんて考えられないし考えたくもない。もし、自分にこんなことがあったら生きていくのさえ嫌になったかも知れない。

9月1日のいわき市での住民説明会の時に彼ら夫妻を見かけ声を掛けることが出来なかったが、同じ被災者でももっとつらい思いをしている人がいることを改めて痛感!知らなかったから声を掛けないで良かったと思う。

強制避難区域での捜索だって、いまだに自由に立ち入ることの出来ない町である。娘さんを失った彼の心を少しでも理解してあげたいと本当に思った僕だった。


津波後の駅前の商店前は瓦礫の山で通れなかった。

東日本大震災と原発事故の複合災害による福島の避難者は、県内に約10万人県外に約6万人の合計約16万人いる。同胞の16万人は明日も見えない苦しい中で生きている。

原発事故の収束もまるで嘘である。未だ原子炉注水トラブルに汚染水が漏れる事故。除染の遅れに放射性廃棄物の中間貯蔵施設の建設の遅れと、探せばきりがないしどれをとっても道半ばである。

避難などで体調を崩して亡くなられた方が福島県では、1,067人となったことも書かれていた。国はもっとスピードを上げて復興を推し進めてくれ!被災者に明日の生活を見せてくれ!と、僕は叫びたい!







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完全休養?

2012-09-15 07:51:08 | 日記
NO-234
昨日、また歯医者に行った。先週3本も神経を抜いた箇所が痛いような鈍い感覚が残っていて治療してもらったのだが、やはり神経が残っていたみたいで、完全に抜いていただいた。

こんな調子なので、強制避難区域の富岡で暑さの中柵作りの手伝いをしたら具合を悪くしてみんなに迷惑をかけてしまうから、今回は休ませてもらってちょうど良かったと思う。


前回の柵作りの写真。

あの6m鉄パイプを人力で運んだ(トラックが無かった)前回は、みんなで片道300m位の距離を何度も往復して運び組み上げたのだ。今回はもっと効率よい計画をたてたと思うが、この暑さの中の事だから怪我などしないで完成させて欲しい。


チームUKCの仕事は本当に早かった。今回も宜しくお願いいたします。

それなので今日は川崎に避難している富岡町の住民の方の所へ行く。この方はご主人を亡くし、娘さんと二人で暮らしているのだが、娘さんが仕事で家を出た時の一人きりになった時に落ち込んでしまうと言う。

本人はご主人の思い出がいっぱい詰まった富岡の家に戻りたくているのだが、帰れない現実に押しつぶされそうになってふさぎ込んでしまうらしい。

話しを聞いてあげるだけでも気がまぎれるだろうと、かみさんと一緒に行ってあげる。かながわ県民ホールで同じ富岡町の住人で、とみおか子供未来ネットワークを立ち上げた市村さんとの再会で考えてみた。

心折れそうな被災者がいれば、その人の力になってあげようと思ったのだ。出来ることなら神奈川・東京での活動なら時間的、距離的にも可能なので、これからもこんなことを考えて行動していきたいと思った。



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この暑さの中!

2012-09-13 09:20:51 | 日記
NO-233
強制避難区域の富岡町で、今度の土曜日と日曜日に新しい柵作りがある。またUKCの細さんたちが手伝って下さるとのことで感謝申し上げたい。

この暑さの中での作業だから本当に申し訳なく思うし、ありがたくて言葉にならない。先週松村に会いに行った時にいつもと違う光景を見て、また一歩進んでいるなと思った。

今までロールの餌がいつも十数個くらいしか無かったのに、びっくりするほどの量の餌を確保していたからだ。


急いで下ろした感じで置かれていたが、ここには100個を超えるロール餌が置かれていた。

彼の家の入口付近の道路わき左右にロール餌が置かれていて、200~250個はストックされていたと思う。すごい量に僕はただただびっくりするだけであったが、彼がまた前進しているのを実感した。


松村の柵の牛たち。先週の撮影。

あの強制避難区域の中で、彼はその時々の変化に対応して活動している。全国のみなさんからご支援を頂けたのが一番で、今日までやって来れたことだと素直に思います。みなさんには本当に感謝しております。


群れを外れて水飲みにやって来た牛。

この先もずっと続く長い道のり。これからもみなさん富岡町と松村の活動にご支援ご協力ください。宜しくお願いいたします。
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県外避難者。

2012-09-12 08:52:25 | 日記
NO-232
昨日は、病院を退院したばかりの先輩のリハビリに一日付き合った。原因不明で医者も手の付けようがない状態が続き、3ヶ月で30kgも体重を落とし寝たきりの状態であったから、足取りはまだふらついているけれど手術後の経過もよく退院して本当に良かったと思っている。

その付き合いから帰って来て、何気なく10日にもらった福島県内外の避難者数の表が目に入った。一度は目を通して見たものの改めて見た。沖縄・九州地方に111人。四国・中国地方に76人。近畿に103人。

これだけ遠い所に避難した人は、もう富岡町には戻らないのではないか?とふと思った。15,613人の人口の富岡町の約30%近くの4674人が県外避難者である。


国道288号線からさんろく線に入り、大熊町との境界付近の富岡町の入口。

この数字はひところよりも減っている。これは県内に戻った人がいると言う事だ。「県外に避難しているとどうしても町の情報が入って来ない。だから福島に戻って来た」と言った避難者を僕は何人も知っている。


町のいたるところでこんな補修されていない道路がある。

県外避難者も県内避難者も国の政策に翻弄されているのは同じで、国策で進めてきた原発の事故責任を国はしっかりと取るべきだ。賠償金を減らすことばかりしているようにしか思えない。

今までは被曝線量年間1ミリシーベルト以下が基準となっていたはずなのに、20ミリシーベルトまで引き上げてこの数値までは町に帰れると帰還を推し進めているが、住民はモルモットではない。


砂利を敷き詰めてあるが片側一車線の道路。富岡町にはあちこちにこんな道路があります。

累計線量計を首からぶら下げて生活する子供たちの辛さを本当に分かっているのだろうか?野球やサッカーが好きなのに外で遊べない辛さを分かっているのだろうか?

若いお母さんたちが我が子の行く末を心配している姿を想像してみて下さい。これは笑い事ではない!どうしようもない不安を抱えて生活する人たちの苦しみを国は理解して欲しい。







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神奈川県民ホールにて。

2012-09-11 07:53:22 | 日記
NO-231
昨日、かながわ東日本大震災県内避難者支援ネットワークが富岡町役場に協力を呼びかけ、神奈川県内在住の被災者同士の情報交換や町からのお知らせなどをするため県民ホールで懇談会があった。


昨日は車で行くのをやめて電車で会場に向かった。上から降り注ぐ霧が涼しかった。

僕も出席したが、今日のTVニュースでは、東日本大震災の被災者36万人(福島・宮城・岩手)が仮設住宅等で暮らし帰れないでいると発表された。


県民ホールの2F会場で。

福島の原発被災者は、いつまで待てば答えが出るのだろうか?補償問題もそうだが、このまま長引けば避難先での暮らしが固定化して帰れなくなるだろう。

昨日の出席者の中にも焦りと不安を口に出して言う人が多かった。早く帰還したい人・もう帰るのをあきらめた人・除染しても絶対に元には戻らないと言い切る人・この除染が一部の人(ゼネコン等)の利益になっていて無駄だと言う人・家が朽ちていくと嘆く人・色々な意見が出た。

僕らの町も町の中心部を少し離れたらすぐに林や山があり、山菜やキノコや柿や栗などを食べることが出来るようになるまで何年かかるだろうか?そしてそこまで住民は待てるのだろうか?

考えるだけで気の遠くなるような話だが、そこまで待てない。これは現実論として事実だと思う。だからみんな落胆し、諦めている人も多いのだ。

住んでいた住居を失うということは、地に足が着いていない事と同じである。だから、そんな被災者に5年先10年先のことなど想像がつかないし、今の事だけで精一杯のため考える余地がないと思う。

山林の除染を本当に考える事がある。どうしたら除染出来るか?と。莫大な費用が掛かるからか?一度は国も山間の除染は必要ないとしたが、林業関係の団体や企業から猛反対を受け、少しだけ歩み寄った判断を下した。

それでも完全なものでないから、評価できない。「元に戻してくれ!」これは原発事故で多くのものを失った人たちの叫びである。同じ原発被災者としてこれからも書き続けようと思う。
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避難民 何もなし得ず 近き故郷。

2012-09-10 09:33:15 | 日記
NO-230
昨日、富岡町で養蜂を指導して頂いた森川師匠から電話が入った。いわき市の泉玉露の仮設住宅の自治会長をしていたが、家を建てて自治会長も辞め新しい環境に身を置いたとの知らせだった。


四畳半2間の仮設住宅で、物置らしきものを作ったり工夫して暮らしていた。

師匠はある省庁が管轄している現代の森の達人にも選ばれた方で「森という自然に向き合い、先人からの伝統的な文化・技術を受け継ぎ、自らの経験の蓄積と新しい試み、研鑽によって独自の境地を開いた人。」である。養蜂業では日本に2人しかいない。


今年の3月10日の台湾のラジオ局の取材で訪れたときの写真。

その彼が「国策の原発事故は、まだまだ収束の見えない状況です。家庭崩壊を始め生涯築いた資産賠償も、今後の生活も、生命までも危うくなっています。政府・東京電力・行政のもどかしさはまるでゆで蛙です。賠償問題も自宅帰還も相当の長期戦になることでしょうから健康には充分に気を付けて下さい。健康は自己管理です。くれぐれもご自愛専一に!」とのことだった。

75歳位の年になったと思うが、今年の暑さも堪えたのか?仮設住宅の暑さは厳しくさらに狭すぎますと・・・・彼自身大病を数年前に患っているから命の問題もある。高齢者の賠償を早くと叫びたい。

富岡町の家も数年前に建て替えたばかりだったのに、今回の新築を喜んでいいのか?本当に迷った僕だった。


まだ寒かった福島の3月に4畳半の狭い部屋の中で咲き誇っていた花。

彼が新住所をFAXしてくれたが、結びの言葉に「避難民 何もなし得ず 近き故郷」で、数千坪の富岡の土地に思いをはせ、今度の狭い土地に家を建てた思いはいかばかりのものであっただろうか?

放射能さえなければこんなこともなかっただろう。双葉郡の町村と住民は放射能という重い十字架を背負い、これから長い年月を生きて行かなければならない。

僕は若い人に戻って来て欲しいが、除染の問題を考えたら帰って来て欲しくない。今の20代のお父さんお母さんが連れてくるお子さんはいくつの子たちだろうか?放射能は怖い!見えないから尚更怖い。

少子化の中で本当に大切な子どもたちを、見えない危険に晒すことなんて絶対に出来ないから国に言いたい!町を除染するだけではだめだ!広大なあぶくま山系までを除染しなければ復興はない!と・・・・





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