ときぶーの時間

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ある提案に

2011-12-16 06:31:28 | 日記

NO-30
みなさん、おはようございます。日々のアクセスに感謝しています。多くの方が僕の未熟なブログにお付き合いしてくれて、とても嬉しく思っています。今日の写真は震災後の富岡町の海岸を選んでみました。

写真の人物は原発事故で強制避難区域に指定されたわが故郷に、たった一人で残こり動物の命を守っている松村直登氏です。僕は横浜から20年前に富岡町に移住しましたが、当時住んでいた海岸から200mの所にあった住宅はコンクリートの建物でしたが、あの大津波で跡形もなくなっていました。

防波堤を壊し浜辺は瓦礫の山。跡形も無くなって今は静かな海を見る彼の胸中は何を思っていただろうか?人のいない廃墟の町に変わった富岡町に1人で生きている彼を、みなさんにも見て頂きたくて掲載しました。この写真は、イタリア人記者のアントニオ氏が撮影した写真です。

今日は彼と僕の6月の事を書こう。6月の一ヶ月は本当に横浜と福島を行ったり来たりして、とてもエネルギッシュに動いた月だった。僕は、3次避難になるけどようやく横浜の住居を見つけて引越しを終えたばかりであったが、彼の話に乗せられて付き合うはめになった。

国の決めた牛の殺処分に反対して養牛業の人達が放した牛を、殺さずに生かして牛の尿や血液など採取して被曝した牛のデータを取り、全世界の研究機関や科学者に送り世界のために生かすことが出来ないか?と彼と共に僕も一緒に走り回った。

もちろん前述の獣医のW先生もこの頃は20回位富岡町の現地や強制避難区域の他の町村に入り、国会議員とこのプロジェクトを立ち上げようと富岡町に残った松村氏とみんなが連携して活動した。これが、国会議員の提案だったからみんなでやろうとなったのだが、彼(松村氏)は本気だった。

NO-4 牛舎に残された牛で紹介した親子の悲劇や屍骸だらけの牛舎の惨状を見て来た彼のハートは、火の玉のように熱く燃え生き残った牛を助けたい一心だったと思う。僕の家の少し離れた所に牛舎があって、そこの牛60頭は繋がれたまま全部死んでいた。

AP通信のマイルス・エデルステン氏も彼とここに入り、自身の記事に身の毛もよだつ光景と書いた。「この牛舎に30分いたら、3時間は腐敗臭が服から抜けないからな!」と松村氏は言っていたから、相当なものだったろう。蛆とハエに覆われた屍骸、吐き気をもようす強烈な腐敗臭!想像を絶する牛舎の姿。

彼から聞かされた話だけど、あの大きな牛が腐っていて足をよけようと柵にかかった牛の足を引っ張ったら、骨だけがズルっと抜けて腐った肉と皮がきれいに剥がれたとか、この頃は気温も高くなり牛の目や鼻や口からは蛆が這い回り、一頭に数十万匹のハエが屍骸を覆っていて近づくと黒いカーテンのように飛び回り真っ黒になるほどだったと。

とてもじゃないけど、僕はこんな所へは絶対に入れない!いくら彼の友達だと言っても絶対に嫌だ!写真で見せられただけでも気持ちが悪くなる壮絶な光景だし、こんな所へ行ったら僕は熱出して寝込んでしまう。多分、経験が無いから強烈な腐敗臭で吐いてしまうだろう。考えただけでもダメだ。

牛舎だけじゃないんだ。富岡町にはある大手ハムメーカーの養豚場があって、そこには少なくても豚が3万頭いた。多い時には5万頭飼育出来る設備の整った養豚場があったのだが、人に聞いた話でそこもひどい状況になっていたと聞いた。あちこちでそんな状況であったから、彼は何とかしようと強い気持ちを持っていた。

この計画は、国や県の予算の事や色々な制約があり、問題山積で予算的に今は、牛を集めて今年の冬を凌ぐ餌代を確保したところらしい。それでも、このままでは牛が殺されてしまうだろうと、彼は必死に考えた提案をある人に託す事になるのだが、この話は明日のブログで紹介するね!




































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