ときぶーの時間

募金の受付先 東邦銀行 安積支店 普通0644994 名義がんばる福島
みなさんご支援宜しくお願いいたします。

遅くなりました。

2012-10-30 17:15:38 | 日記
NO-259
静岡の用事も友人・知人にお世話になり、無事に済みました。挨拶回りも終えようやく一段落したところです。少しだけ休んでしまいましたが、これからも頑張って行こうと思います。


厚木市に事務所を構える先輩の所にも挨拶に。運転しながら車内で撮った一枚。

強制避難区域の松村は相変わらず忙しいようで、先週僕の携帯に外国TVの番組制作をされている日本人の方から取材の依頼があって、早速彼に電話をしました。松村はドキュメンタリー番組の取材をOKした模様です。


草刈りをした時の写真。

彼に渡す物もあるので今度行ってきますが、その時に近況をお知らせいたします。いましばらくお待ちください。


横浜駅東口にある友人のお店。今日の挨拶まわりの最後でした。


左はオーナーの岩田さん。右はがんばる福島の理事でもある渡辺さん。二人とも今の福島の現状に理解があり、無理なお願いをいつも聞いてくれ応援してくれ本当に感謝。おそばがおいしいお店です。

このところ全国で地震が多くないですか?先週、富士山の地下深くのマグマがもう爆発寸前にまでなっているという話を聞いたが、東海地震であの美しい富士山が無くなるのだけは勘弁してほしいと思った。

もしそんなことになったら日本の美しい姿が一つなくなってしまう。また、静岡県の犠牲者の数はとんでもない数になるのではないだろうか?と真剣に考えもしたが、もう大地震は起こってほしくない!

東日本大震災だけでホントに充分である。今起きてしまったら日本経済は、立ち直るどころか更に深い闇の中に落ち二度と上がって来れないだろうと予想するジャーナリストも多く、彼らは東日本大震災からまだ立ち直っていない日本の状況を危惧している。

原発難民だから言うのではないが、日本の政治家はちゃんと仕事をしてくれ!こんなお粗末な日本にしたのは誰なのか?今の政治に何にもいいところが無いんじゃない?

僕たち避難民と被災した動物たちに安住の地が訪れるのはいつになるだろうか?先週UKCジャパンの細さんのシェルターを訪ねた。細さんは福島県双葉郡の被災動物を800匹以上保護してくれた人です。


神奈川県寒川シェルターで。電話で支援者の方と話す細さん。


ペットたちの食器を洗うボランティアさん。これが終わると犬たちの散歩へ。本当にみなさん忙しくボランティアをしていました。

このシェルターにいる被災ペットは、仮設住宅に住む主人が引き取れなくてペットたちも我慢して生きているのだ。本当にペットと住めない仮設住宅もあり、みんなもつらいだろうなぁ~と思う。

引き取れない人が多いため本当に細さんには感謝です。あの子たちの餌代本当に申し訳ありません。ボランティアのみなさん、毎日、本当にありがとうございます。

今日は一日無事に終えたので、みなさんにも感謝して終わりにします。







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福島の二の舞に。

2012-10-26 07:30:20 | 日記
NO-258
昨日は朝早くに知人からSOSの電話が入り、自分のスケジュールを変更して事に当たり更新できませんでした。難病に苦しむ人の付添いを手伝ってあげなければならなかったのです。

朝晩めっきり寒くなってきましたが、みなさんは風邪などをひいてないでしょうか?会津の友人が先日風邪をひいて寝込んだらしいので、この頃の寒さに用心しています。

さて今週末に大時な用事があり静岡へ行ってまいりますので、明日からまた少しだけブログをお休みさせて頂きますのでよろしくお願いします。

昨日みのもんたさんの朝ズバで、24日に原子力規制委員会が発表した放射性物質拡散予測を取り上げていたが、新潟県の柏崎原発から40kmも離れた新潟ブランド米魚沼産コシヒカリのである産地南魚沼市でも、事故対策を迫られる結果になったと報道された。

この南魚沼市でコメ農家を営む60代の方の言葉が僕の心に響いた。「どこかに次の土地を見つけて暮らすことは出来るだろう。ただ農業(米作り)は出来ないだろう。そうなれば自分の人生は終わりだ。」と。


荒廃していく真っ最中の富岡町のたんぼ。農家の人はもうあきらめているかも.....

福島の農家の人は「今までの苦労は何だったのだろう」と思っている人が多いかも知れない。故郷富岡町のコメを本当に農協は買い上げてくれるだろうか?除染しましたと言っても放射能汚染された土地で作った米や野菜などが本当に売れるだろうか?

僕は食い入るようにTVを見たが、それでもこうした予測をその土地土地で生かせればそれで良いと思った。人間のみならずペットや家畜までの避難を考えてくれれば、福島の二の舞にはならないだろうと思ったからである。


人間は立ち入りを禁じられ、水も餌も貰えずに苦しんで死んでいった家畜たち。今度どこかで原発事故が起きた時は、必ず避難させ守って欲しい。震災後の牛舎は、何処もこのような無残な姿になっていた。去年の6月撮影。


放し飼いにされ自力で餌を見つけ生き延び、殺処分からも逃れて今ようやく安住の地を見つけたか?松村に保護された牛。

全国の原発立地町村の行政が本気で対策を練って、まさかの時の事故に備えて欲しい。僕らの福島を踏み台にして多くの事象を勘案して欲しいと強く思う。

ある町は事故が起きたら福島の2.5倍の40万人の避難者が出ると予想されたが、福島の16万人は未だに安住の地を見つけられないでいる。鳥小屋のように狭い仮設住宅での生活を強いられ苦しい日々を送っているが、国は事故が起きたら何をすべきか?はっきりと国民に示すべきだ。

原発再稼働して、もし福島のような事故が起きてしまったら本気で責任を取る気はあるのか?いや取れるのか?と聞きたい。取れると言うなら今の原発難民の問題を先に解決してくれ。

福島原発避難民をこのままにしていて、原発再稼働なんてありえないだろう!とこれだけははっきりと言いたい。


 




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原発事故のおかげで。

2012-10-24 07:55:00 | 日記
NO-257
昨日、久しぶりに師匠から電話をもらった。いわき市の仮設住宅に避難して来て、家を建て仮設住宅からそこへ移り住んだのだが、賠償や補助金とか色々と前に進まなくて「本当に困ったもんだ」と話した。


師匠が避難していたいわき市の泉玉露地区の仮設住宅。

師匠はこの10年くらいで家を3軒も建てた。以前に自分の家と娘さんの家を建てて、この大震災と原発事故のおかげでまた家を建てる羽目になったのだ。

僕は家のローンを抱えて避難しているからとても家を建てる余裕はないし、借金をどのように返していったらよいかを考えることの方が先決なので、家を建てた師匠を羨ましく思わないほど、家についての考え方や価値観がこの原発事故で大きく変わった。


住宅も仮設ならお店も仮設でみんな頑張っています。

仮設住宅に避難していれば、きっと同じく家を欲しただろうか?とふと思う。仮設住宅に住むみんなが言うように、仮設住宅の暮らしは厳しいのだろう。僕は3kの団地に住まわせてもらっているので仮設住宅の辛さを知らない。


郡山の木造の仮設住宅。ここなら入ってもいいかなぁ~と思った事がある。

川崎市に避難してきた同じ避難者の人は「こんなとこにいつまでも居たくない。早くいわきかどこか富岡の家に近い所に移りたい。」と僕から見てもいいマンションに住んでいるのに、今の環境を嘆いていた。

やはり彼女には富岡の家が落ち着ける場所なのだ。亡き夫と子供たちと暮らした思い出のたくさん詰まった住み慣れた家が心のよりどころなのである。

原発事故の放射能のおかげで、人も動物も植物も昆虫に至るすべての生き物の生態系を脅かし、除染出来ない山林は元に戻るまでこれから長い年月がかかるだろう。

国や政治家は福島の復興が大事と口では言うが、国は除染を本気でやっていないとみんなが思っている。今の除染だって有効な工法が確立されておらず、その効果も不透明だからだ。


アパートみたいな作りのこんな仮設住宅もあります。体育館やホテルや温泉宿に避難した被災者を急いで住まわすために何でもありだったのかも知れない。

僕がいつも書くように広大な山林の除染をしないで、こんな放射能まみれの故郷に帰れという国は住民を馬鹿にしているとしか思えない。今の日本の政治家や官僚や電力会社との繋がりを考えると町は元には戻らないだろう。

今日の朝のニュースで中部電力の浜岡原発を取り上げていた。再稼働目的で高さ18mに及ぶ防波堤を建設中であると。地震の多い静岡県で福島と同じマグニチュード9.0クラスが来たら津波より、地割れや断層のずれの方が怖いと思うのだが・・・。

こんな狭い日本にもう原発はいらない。人間と動物と植物と自然界のすべての命あるもののために、これからも原発反対を書き続けようと思う。















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バルーンの形に。

2012-10-23 09:31:45 | 日記
NO-256
昨日、先週お世話になった横須賀のNPO法人元気ハツラツ明るいまちづくりの佐藤昌久代表から大きな茶封筒が届き、開封してみると松村がみんなで撮った写真と神奈川新聞に彼が掲載された記事のコピーとあいさつ文が入っていた。


本当にまめな代表であり、何であんなにパワフルでいられるのだろう?かといつも感心させられる。僕はいつも佐藤代表には感謝しているけれど、あのタフさはとても真似できない。(笑)

このところ自分の事で追われているので、強制避難区域の富岡町に行ける日がなく11月になったら松村の所に行って、今の富岡の現状をお伝えしますので少しだけ時間を下さい。


この子たちとまた会ってきます。コメントにもあったけどこの子たちは病気にもならず元気ですので安心して下さい。

数日前、藤沢市湘南台駅のバルーンアート会場で「いやらしい」とか「卑猥」とかのクレームによりバルーンが撤去されたニュースを見て、自分ではそれほどでもないと感じていた。

表現は個人の自由だとは言うけれど、美術や芸術なるものの見解もそれぞれの個人の感性によるものだから、あのバルーンを子供たちが見て大人と同じように卑猥だとか感じるのだろうかと思っていた。

こんな事を書くつもりはなかったけど、ブドウを買ってきたらその一房のブドウの一粒がまるで問題のバルーンにそっくりだったのだ。


バルーンは女性のお尻にTバックを想像させる形をしていてこの一粒が似ていて笑ってしまったが、僕の興味はこの一粒に種の部分が2つあるだろうか?または一つでこのような形になったのか?という事だった。

とにかく思い出そうとしても今までにこんな粒に出会ったことが無いので、珍しく感じアップしました。ちなみに値段は598円。まだ食べていないので、その答えは出ていないがちょっとだけ楽しみである。

ついでにこの前、富岡町の町長が5年帰れないといった趣旨の記事が新聞に掲載されたそれをアップします。


同じ神奈川に避難してきている知人から一週間単位で少し遅れ気味で頂いているのだが、地元の新聞はとても貴重な情報源で知人がサインペンで重要な部分に線を引いたものも多くあるが、ありがたいと思っている。

今日の話題はかなりそれた感じがするけどお許しを。。。それではみなさんまた会いましょう。









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福ちゃん。島ちゃん。

2012-10-22 08:52:50 | 日記
NO-255
今週の土曜日曜と自分にとっては大事な事があり、それををするための準備に追われている。そんな中で福島県の飯館村の牛たちのことを思い出した。

国と東電の対応が悪く高い放射線量の中、避難指示を出されずに普段と変わりない生活を続けていた飯館村の住民と動物たち。その放射能汚染はかなり大きなものだったと震災後TVや新聞などで毎日のように報道されていた。

飯館村の牛は原発事故から2か月を過ぎた頃から、TVのドキュメンタリーや新聞で栃木や茨城など近県の畜産家の所へ引き取られたのを知った。だから飯館では牛の殺処分は無かったかも知れない。


この子牛たちもTVなどで報道されて結構有名な牛である。新聞記事から飯館村から山梨県に引っ越しした福ちゃんと島ちゃんの記事。

国はスピーディーの情報を見ていなかったのか?福島原発事故現場から北西の風に乗って恐ろしいくらいの量の放射能が飛んで行った。その方角に飯館村は位置している。


これは先月に新聞掲載された今年6月の空間線量を測ったものだ。一年三か月を過ぎてもかなり高い数値を示している。赤色の場所は大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市、葛尾村、飯館村がある。僕らの富岡町は一番下の黄色部分


今、現在の規制された区域の図。

話を元に戻して僕は何故、飯館村の牛たちは県外に出され、楢葉町、富岡町、大熊町の牛たちは次々に殺されていったのだろうか?とふと思ってしまう。

僕らの町よりはるかに高い線量の中で生きていた牛の移動はOKで、僕らの町の牛は移動もダメ。すべて殺処分!っておかしくないか?と自分の中で思ってしまい、本当に釈然としない。

町が第一原発から半径20k以内に位置していたのが悪かったのか?30~50km離れた場所でこんなに凄い汚染となっているのに・・・何故だろう。

正直、かなりの牛が殺されていった。今、殺処分を反対する畜主さんの牛と松村に保護された放浪牛だけが生き残った。松村はその牛の餌や水をやり汚染区域で動物たちの命を守っている。

先月に松村の所へ農水省の人から「現在放浪している牛は全て捕獲後、殺処分する」と通達があって、彼は必死で探し一人で牛の保護していたと聞いた。彼がその人に「疲れた。」と言った事を知り、そんなこと滅多に言わないあいつが言ったのだから相当疲れたようだ。

これからの事も踏まえて他の町に牛を出せれば、牛も人間もいい環境で暮らせる。絶対に食肉にしないのだから、そのくらいは考えてくれよと僕は農水省さんに言いたい。

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イベントを終えて。

2012-10-20 08:33:11 | 日記
NO-254
先週の土曜日のイベントからあっという間に1週間が経ち、時間が経つのを早く感じる今日この頃である。松村は土曜日の12時頃に会場に着いたが、次の日の夕方餌を待つ動物のために福島に戻った。

横須賀のスタッフのみなさんに再会出来た事や、前回または前々回に支援して頂いた支援者に会うことが出来たのは、間違いなく彼にとっても嬉しい出来事だったに違いない。


13日の夜、横須賀のスタッフさんのお店で食事をしていたら、松村に渡して下さいと頼まれた方がそれを届けてくれた時の写真。穏やかな松村の表情がいいので紹介しました。

また彼を介して新しいつながりを作れた人もいて、彼を中心にしてその輪が広がっている所を見て少しいい気分であった。そして横須賀の温かいハートを持って、福島に帰る新幹線の中の彼はどうだったろうか?と想像した。


福島に帰る直前の写真。小さなガールフレンドじゅなちゃんとお母さんのあいかちゃんと。

彼は帰った次の日からまた動物たちのために強制避難区域で餌をやり水をやり、残された動物の保護をしている。彼が向かっている夢の実現にこれからもみなさんの力が本当に欲しいと思う。


今年の夏の超猛暑でこの柵の井戸が枯れ、毎日1トンの水をポリタンクを使って水やりをしていた。タンクを5個積んで給水に何度も走り、汗びっしょりになって水遣りをする松村は息つく暇が本当になかった。8月撮影。


この夏の酷暑を牛たちはこの岩塩で乗り切った。ミネラルなどの補給はこれに限る。松村はいくつかこの黄色のケースを用意して牛たちに、毎日岩塩を与えた。9月撮影。


牛たちの食事。みんな健康でたくさん食べます。9月撮影。

10月17日の福島民友新聞の3面に双葉町の復興まちづくり委員の木村真三独教医大准教授が、私見としながらも同委員会で「除染をしなかった場合は帰町まで少なくとも150年かかる」と発表したことが書かれていた。

また「こんな高い線量の所を除染をするのは意味がない」と指摘。放射性物質の物理的な減容と土中へしみ込んだ遮蔽効果を考えた場合でも「150年安心して住める地域にならない」と。。。。

木村氏は10月2日に町内で採取したコケ類から最大1キロ当たり約57万ベクレルのプルトニウムが検出されたと報告。「本当に安全なのか検討していかなければならない。」と帰町を考えている被災者には希望を打ち砕くような記事だった。

松村がいつも「今の除染では全然だめだ!」と言っていたが、まさにその不安要素が書かれていた。僕も個人的な意見だが山林の除染を完璧にしなければ富岡町と言えども安心して暮らせないと思っている。

国は本気で除染する気があるのか?全く見えない。被災者の中にはそんな国に対して期待もしないし、諦めの境地でいる人が多い。それでも目の前にある現実からは逃げられないのだから、耐えて頑張って行くしかない。

みなさん、放射能汚染の中で動物の命を守る松村をこれからも応援して下さい。宜しくお願いします。







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早合点。

2012-10-19 08:07:37 | 日記
NO-255
昨日、故郷富岡町の帰還困難の話を書いたが、新聞がまだこちらに届いていなかったので確認できていなかったが、どうやら町長と町議会で作った5年間帰還しませんの2度目の要望書を国に提出した話らしく、早合点して書いたことをお詫びします。

もうどっちかに決めてくれ!と声に出して言いたい。これからも国と町との責めぎ合いがあって、また二転三転するものと思っている。今の政治を信じていない自分がいるから、がっかりもしないがあまりにも時間がかかりすぎる・・・

「一年七か月も経っているのに、政治家は何をやっているんだ!我々原発避難民は日本の国民だろ?違うのか?国民が苦しんでいるのに政治家は何もしないのか?」と同じ被災者の怒りの声をよく聞く。

自分の党の党利党略で都合のいい事ばかり並べて、今まで何をやってくれたんだ?あんたら政治家が原発事故被災地の双葉郡に住んで国会は東京電力のすぐそばで建物立てて国会を開いたらいいんじゃないかと僕も言いたい。


富岡町で松村に保護された牛たち。今はのんびりとリラックスしているが、放し飼いにされて死にもの狂いで餌を探し生き延びた彼らの安住の地にここがなるだろうか・・・

国はどうしても被災者を今までの町に戻したいらしい。富岡の首長である町長が「インフラ整備と除染を考えると、とても5年は帰還宣言は出来ない」と言っているのにである。

家や土地の賠償を少しでも減らしたくてやっているのだと思うが、帰れます。帰れます。って言うなら自分たちが年間20ミリシーベルトの所に家族全員と住んでみるがいい。

今まで1ミリシーベルトを20倍に引き上げて赤ちゃんや小さな子供を連れて帰る親がどこにいるんだ!除染もまともに出来ないくせに原発を今でも建設しているのだから気違いの境地である。

経団連のあの会長も人の命より金儲けが大事らしく、目の色変えて原発再稼働だって言っているが、こんな気違いの集まりの国にいつからなったのだろう。


今年の3月11日の原発反対決起集会。郡山の野球場 座る場所も取れないくらい盛り上がったが、これは福島だけの事なのだろうか?

被災者の心の叫びである。原発事故がすべてを奪っていった。金は要らないから以前の町に、以前の暮らしに戻してくれ!懸命に働いていたあの頃に戻りたい。仕事も家もあの頃のままにして返してくれ!

この事故のせいで苦しんで死んでいった犬や猫。牛や豚。ダチョウににわとり。その他の動物の命もみんな元に戻して返してくれ!


あの事故さえなければこんな無残な姿にならなかったダチョウの死骸。30羽位いたらしいが今は松村に保護された2羽と大熊町のダチョウ園に2~3羽しか生きていない。


牛舎で水も餌も与えられず苦しみの中で死んでいった牛の無残な姿。

こんなむごい死に方があるかって言いたい。全国のみなさん、これが原発事故です。人間に留まらず多くの動物たちにも大きな悲劇が襲いました。僕はこれからも原発に反対していきます。原発はもういりません。







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帰還困難!に。

2012-10-18 03:33:22 | 日記
NO-254
一昨日の夜、会津若松市に避難した友人から電話が入り「富岡町は5年帰れなくなったよ!16日の新聞に載った」と友人は言った。

そして昨日、義母はがっくりしているのではないか?と心配し電話を入れ確認した。富岡町も避難区域を解除するかしないか二転三転したが、この発表で決定しただろう。

ふと頭をよぎったのは5年先の想像がつかない事と、これからの5年は長いと感じた事に、松村が面倒をみている牛たちの事を思い描いてみた。そして5年も避難していたら県外避難者は、そこで新しい生活環境を作り帰る人は少なくなるのだろうと。。。。


強制避難区域富岡町の松村の柵の元気な牛たち9月撮影。

僕はがっかりすることもなく、どこか諦めの気持ちを持っている自分を初めて客観的に見た。今までは不安でたまらなかったのに、政治の悪さも手伝ってか?ころころ変わる復興政策に嫌気がさしていた。

それでも先が見えないのは変わりない。今日はいわき市泉玉露仮設住宅に避難している佐藤紫草子さんの自費出版詩集「原発難民の詩」から原発難民を全国のみなさんに紹介させていただきます。

仕事が ありますよ
お金を たくさんあげますよ

甘い言葉にのせられて
自分の墓穴を掘るために

夢中になって働いてきて
原発景気をつくった
あの頃・・・・・

人間が年を取ると同じように
機械も年を取るということを
考えもしなかった
技術者たち!
ましてや
大地震、大津波に
襲われるとは・・・・・

地震国であり
火山国であるという
基本的なことを
忘れてしまった国の末路か

私たちは
どこまで逃げれば
いいのだろうか
追いかけてくる放射能
行く手を阻む線量

見えない恐怖!
匂わないもどかしさ!
聞こえない焦立たしさ!

私たちは安住の地を求めて
どこまで
いつまでさすらうのだろう

朝日新聞出版から出版された詩集で1,050円です。私たちは安住の地を求めて どこまで いつまでさすらうのだろうの3行に共感しました。僕と同じように帰る家を失った16万人の避難者の不安はここにあるのだと思います。

これは大人も子供も一緒です。昨日の知人は「5年帰れないというけど、5年後に返れる保証はあるのか?ひょっとしたら5年後にまだ帰れませんって言われる可能性もあるだろう?」と僕に言いました。

僕は言葉少なに「うん。」と・・・これが原発難民の一人である昨日の僕でした。

いわき市の佐藤紫草子さん、「原発難民」をお断りもせずに紹介させて頂いたことをお許し下さい。











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横須賀の話Part3

2012-10-17 07:50:07 | 日記
NO-253

横須賀のイベント2日目。雨で少なかった来場者の中にも足を止め写真を見入ってくれる人もいて、その中の一人の方だが小さなお子さんを連れて写真を指差す子供に、この悲劇を説明してくれた若いお母さんに思わずシャッターを押してしまった僕だった。


帰り際に募金までして頂き、何とも温かい感覚が僕の胸を叩いた。小さなお子さんにはどのようにあの写真の数々が映ったであろうか?分からない事ではあるが嬉しかった。

さて、今日は少し砕けた事を書いてみようと思う。以前にも紹介した横須賀イベント商業協同組合の志水さんちの箱入り娘の杏菜ちゃんの事だ。このイベントでいつも被災者である僕たちや松村にお好み焼きとかを焼いて持って来てくれる可愛い女の子である。


いつもは写真(左)の杏菜ちゃんの右側のお父さんがいる場所に髪の長い女の子がいるじゃありませんか。

さすが志水さんだ。しっかりと売り上げが上がることしてんじゃん。なんて思って杏菜ちゃんに聞いてみたら同級生の広菜ちゃんだと聞いて、オヤジさんが見つけてきた秘密兵器じゃない事が分かり少し笑った。


左が杏菜ちゃんで右が最新兵器の広菜ちゃん。香ばしいソースの香りにこの可愛さだもの売れないはずがない。僕より若いお父さんだけど、こんな若い子に接点なんてないよなってオヤジの僕も納得した。(笑)

若い子は可愛い!完全にオヤジになって書いている僕である。真面目に強制避難区域の事や原発事故や放射能の事ばかり書いている訳ではない。たまには脱線したい僕がここにいる。


2日目の少し雨が止んでいる時間にも、スクールガールのリーディングダンス。今はこの競技をチアリーダーって言うらしいがこのダンス?を見せて頂いた。

この女の子たちと同じ若い女の子なのに、福島県飯館村の女子高校生は「もう結婚できねえべな。それでも良いという人が現れたとしても、怖くて子供なんて産めない」といった話を以前にも聞いていたが、山本宗補さんの本の中で確信した。

高濃度の放射能に苦しむ飯館村の酪農家の長谷川さんの話の中ではっきりと書かれてあったからだ。杏菜ちゃんや広菜ちゃんにチアリーダーの女の子たちが、同じ思いをしたら何ていうだろうか?とホントに思った僕だった。

やっぱり脱線しきれないなぁ。ついつい放射能が出てきてしまう。飯館村の子たちは、結婚後も自分の子供を心配し、その先の孫の心配をしていると。。。。奇形児で生れたらどうすっぺって思っていると聞いた。

俺たちオヤジはすぐに死ぬだろうが、この先長い人生がある若い女の子に放射能という大きな十字架はあまりにも重すぎる。十代で苦悩を背負い生きてゆくなんて、東電よ!国よ!すべての電力会社はもう少し考えろ!

事故を起こしたら放射能も抑え込むことが出来ないくせに、新しい原発はもう作るな!日本の未来に原発はいらない!今一番大事なのはこれからの日本をしょって立つ若い人や子供たちだ。

この子供たちや若い人の未来に原発はいらない。今すぐ建設を止めてくれ!今日は、可愛い杏菜ちゃんと広菜ちゃんと飯館村の女の子を思って書きました。











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横須賀の話Part2

2012-10-16 08:45:42 | 日記
NO-252

横須賀のイベントの2日目は朝から雨で、野外イベントのスケジュールも大きな変更が出て主催者の苦悩を自分のことのように感じた。

横須賀のボランティアのスタッフさんは、朝7時ごろから会場の設営に身を以て奉仕でボランティアをやられているのだから、頭が下がる思いだった。イベントの成功はスタッフさん全員の目標だったのに、この日の雨を恨めしく思った。

また、いつも僕たちは雨にも濡れない場所でやらせてもらえる事を本当に感謝した。一週間前から写真選定・サブタイトル編集・4パターンのレイアウトと今回は気合を入れて準備したのに、僕もこの雨が憎らしかった。


2日目は写真のレイアウトを変え、写真も増やして開演までにセットしました。これが中央広場の写真展会場。


こちらの横須賀市役所前の展示場もレイアウトを変え、少ない枚数でも気合の入った感じにしたのになあ~。

雨が降って白羽の矢が当たったのが松村だった。雨で踊りなどのパフォーマンスがストップしている間に、マイク一本でパフォーマンス出来るので、当然彼は雨の中で演説するしかなかった。

この日も前日と同じように、朴訥な風貌から被災地の現状。生き残った動物たちの事。原発や放射能の事を雨の中で訴えた。またこの日には10年に一度開かれる日本獣医師会のイベントがあって、松村はそこへも引っ張って行かれた。

そこから帰って来た松村にどうだった?と聞いたら、「乳搾り体験コーナーの牛もいたぞ!他にもいろいろ動物が来る予定みたいで準備中だった」と聞いて、面白そうだなあ~と思った。

以前このイベントに松村を紹介したいと、ある人からお誘いを受けた経緯があったのだが、元気ハツラツフェスタと日程が被るので今回は出られなかったのだ。


雨がしたたり落ちるのか?首筋をしきりに気にする松村。この日は雨なので可愛いじゅなちゃんはお休み。

彼は2日目も忙しい男だった。この日も某TV局のディレクターから複数のジャーナリストや新聞記者に追われ、東京や埼玉から来た支援者のみなさんの対応もしなければならなかったが、すべてを無難にこなした。

2日目は、いつも強制避難区域で活動する松村を気遣ってくれるジャーナリストで、鎮魂と抗いを書かれた山本宗補さんも駆けつけてくれた。僕が挨拶したら「行商に来ました。」と笑いながら山本さんは自分の本を出した。

松村も僕も、もちろん即OK!当然、山本さんの本は完売!足りなかったくらいであった。僕がもっと持って来てくれれば良かったと言ったら、重くて持って来れなかったに納得。


今回、松村はサインをねだられ希望者の望みどおりに本にサインをした。後ろにいるカメラを提げている方が山本さんです。

午後には少し雨が上がったのだが、たくさんの演舞が出演回数を減らしたりとスケジュールの変更を余儀なくされ、雨で人の出足も悪かった。日曜日は人の通りも少なかったが、それでも2日間で横須賀のみなさんから222,638円の募金をして頂きました。

横須賀市民のみなさま、そして遠方から駆けつけて頂きました皆様、最後にNPO法人元気ハツラツ明るいまちづくりならびにすべての関係協力団体のみなさまに、代表の松村に代わり熱く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。















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横須賀の話Part1

2012-10-15 10:17:37 | 日記
NO-251みなさん、ほんの少しご無沙汰しました。横須賀の元気ハツラツフェスタの写真展が無事に終わり少しほっとしてますが、ブログを少し書けないでいたことを申し訳なく思っています。

写真展は横須賀のNPO法人元気ハツラツ明るいまちづくりの佐藤昌久代表様をはじめ、各関係協力団体のみなさまのご厚意により今回も参加させて頂きましたことを深く感謝しています。本当にありがとうございました。


マイクパフォーマンスは完璧の横須賀元気ハツラツ明るいまちづくりの佐藤代表。

法人名のように本当に元気がある団体です。色々な舞踊にパフォーマンス。屋台などの出店もあるから初めて来た人は、何のお祭り?って思うだろう。


衣装もきれいだったベリーダンスの演舞にハワイアンダンス。


今回も、よさこいから歌に楽器演奏あらゆる演舞のスケジュールがぎっしり詰まったフェスティバルでした。たくさん撮りたかったのだけど、写真説明に追われてみんな取れませんでごめんなさい。

13日の12時頃、僕たちのスタッフの歓声が聞こえたので振り返ると、強制避難区域で一人動物の命を守るわれらの大将松村直登がそこにいた。スタッフのみんなの笑顔。笑顔。笑顔。僕も嬉しかった。

松村は着いて間もなく、新聞記者やジャーナリストや報道関係者の取材に追われ、この横須賀に来ても本当に忙しい男であった。初日の日に僕は僕で、彼が取材を受けている間は支援者や横須賀市民の皆様に写真説明をしていたので、会場では彼と全く話せなかった。


松村を待つ写真展会場。もう一つの会場にも写真展ブースを頂いたのだが、初日は顔を出せなかった。


支援者、市民のみなさんに写真説明をする松村代表。

もちろん松村も会場にいるときは彼は彼で写真説明をしていたわけだから、接点は本当になかった。彼がここに来る意義は大きい。何故なら福島の強制避難区域のありのままを、痛烈に話せる男だからである。

彼は今、被災地の現状をいつものように落ち着いた口調で語った。町の状況。残された動物の事。放射能除染の事。原発の事。もちろん農水省や環境省などの現在の対応なども語ったが、最後に原発反対!を訴え締めくくった。


マイクを力強く握り熱く語る松村代表。余談だが、彼の前にちょこんと立っているのが松村の小さなガールフレンドのじゅなちゃん。20分も彼が話す間、腕も痛くなっただろう。ずっと腕を上げて手作りの段ボールのボードを持っていた。

お母さんに痛くなるから下げて持つように言われたのに、最後までずっと下げなかった。この日、3回は松村のマイクスピーチがあったが3回とも腕を上げたままでいた。あとでじゅなちゃんのおばあちゃんに聞かされた。それが泣かせるのだ。

「じゅなは背が低いからみんなに見えるように」と松村のためにみんなに見てほしいから下げるのは嫌だったらしい。(嬉し涙)じゅなちゃん本当にありがとう。

僕らの願いは原発ゼロである。未だに返れない故郷を持つ我々被災住民にとって、原発から撒き散らされた放射能は憎いなんて言葉で片付けられないものである。

今回参加させて頂いて、いつも横須賀の人は温かいと思った。ここに松村を応援してくれる人がたくさんいる。横須賀のみなさん本当にありがとうございました。







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イベントのお知らせ。

2012-10-09 10:00:02 | 日記
NO-250
昨日はこの停滞する日本の中にあって、京都大学の山中教授がノーベル医学生理学賞を受賞した明るいニュースを聞いて、これは凄い事だと自分の事のように喜んだ。

僕の先輩にもかなり軽い方だが脊髄損傷で苦しんでいる人がいて、この数か月両手の痺れで生活に支障をきたし、自分で食事が出来ないほどの不便な生活をして来た人がいる。

煙草を吸う先輩であるが、腕や手のひら・指に至るまで感覚を失ってあの軽い一本の煙草すら持てないほどの重症であった。手術をして首の後ろには20cm位の傷跡が残ったが、只今リハビリ中である。

両手がマヒしていたからトイレにしてもお風呂にしても何にしても大変だったと思うので、これがもっとひどかったらどんなに苦しんだ事だろうと思っていた。それでも今は、スプーンで何とか自分で食事を摂ることが出来るまでになった。

だから山中教授のiPS細胞作成は骨髄損傷で体のマヒで苦しむ人や多臓器不全やその他の難病・重病の患者さんに、大きな希望と夢を与えたのではないかと感じとても嬉しかった。山中教授、本当におめでとうございます。

この頃毎日更新出来なくてごめんなさい。今週末に横須賀でイベントもあり、その2週間後にも個人的な会合の準備に追われて時間的・精神的に余裕がありません。

今度の土曜日と日曜日に横須賀で、NPO法人元気ハツラツ明るいまちづくりの佐藤昌久代表様のご支援により、3回目になりますが元気ハツラツフェスタに参加させて頂くことになりました。場所は京浜急行の横須賀中央駅前広場です。


いつもパワフルな佐藤昌久代表。NPOの他にも横須賀市ボランティア連絡協議会会長やTHE☆すかっ子「ソーラン」会長など幅広く活動なさっています。

強制避難区域の富岡町で活動する松村直登と残された動物たちの写真展を展開させて頂きます。NPO法人がんばる福島の代表松村直登も横須賀に参りますので、是非、彼の生の声をお聞きください。福島から新幹線できますので午後の1時頃までには着くと思います。


横須賀市長の吉田雄人さんに写真を説明する松村直登。5月の写真。


強制避難区域の富岡町の現状と反原発を訴えた松村直登。5月の写真。

みなさんのご来場を心待ちにしております。前回同様、少しブログをお休みしますが宜しくお願いいたします。





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深い落胆。

2012-10-06 10:31:50 | 日記
NO-249
昨日、一日中家に閉じこもり色々と今度のイベントで使えるものはないかと探し、あーでもないこーでもないといたずらに時間を潰してしまった感が残り、消化不良の一日を過ごしてしまった。

それでも作業の合間に同じ被災者の友人からの電話があった。僕も横浜に避難してきて一年四か月が過ぎたが、家を福島に残していて本格賠償の進まない今を過ごし、彼らと同じ先に進めない状況にいる。

友人の言葉は「東電は本格賠償(家・家財)の支払いが、生活再建の最終ゴールだと思っている。本格賠償の先にある生活が一番大事なんだ。今のままでは農業の再建も出来ず帰っても暮らせない。」と・・・・ここにも農業再建に苦しむ人がいる。


6月に撮ったある田んぼの写真。今では伸びるだけ伸びてもっと見通しの悪い姿になっていると思う。豊かな田園地帯はどこの田んぼでも雑草で覆われて、どこが田んぼなのか全く分からない状態になっている。このままいけば荒廃してしまうから元に戻すのが大変だ。


以前紹介した我が家。門柱も雑草に覆われ庭が見えない。それでも去年よりは良い。何故なら去年は放浪牛が秋から冬になって餌が乏しくなってきた頃、庭の2m以上に伸びきって枯れた草を根っこまで食べつくしてくれたから、今年の庭は背の高い雑草が少なく去年の状態より良かった。もちろん去年は牛からのおみやげつきであったが(泣)


今年の庭の状態。去年より少ない背の高い雑草の根元を足で踏み倒して行けば庭に出られる状態になっている。去年の庭は2m超えの数千本の雑草に阻まれ、全く庭には出られなかった。除草剤を撒けばいいのにと言われるが、その気さえ起きないのは何故だったのか?僕にも分からない。

僕は友人の言う通りで被災地に戻っても農業再建は難しいかも?と思ってしまった。強烈な風評被害もあるだろう。コメを作っても野菜を作っても売れないと思うし、売れたとしても赤字の値段で取引されることだって考えられるし、賠償金で暮らしていけるはずがない。

どこまでもひどい仕打ち(放射能汚染)なんだとつくづく思ったし、国の政策は本当に目先の金だけの心配をしているようにしか思えない。友人の深い落胆は僕まで気を落としてネガティブになった。

今日から巷では3連休だとTVのニュースで交通情報を流していたが、僕には連休を楽しむ余裕もない。被災してから旅行のりょの字もない暮らしぶりで、ゆっくりと旅行を楽しみたいものだと思っている。

それがいつ?ということは予測できないが今は早く東電との接点を無くし、普通に暮らせるようになりたい。ただそれだけである。












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悪魔の餌食。

2012-10-05 09:00:50 | 日記
NO-248
昨日は帰りが遅くなってしまい、ボーっとしてます。非公開と言う事でコメントしてくれる方も多く、その方からの内容がホントに内容が濃いくて重い?そんな問題を常磐高速道路を走り、ずっと考えながら帰ってきました。

韓国・中国との竹島や尖閣諸島問題に、オスプレイと沖縄の問題に原発と被災地復興問題などなど。

びっくりしたのは、「もしも自民党に政権交代したら自民党には原発賛成論者が多くて、原発を再稼働もそうだが、新しい原発を建設するかも?」とか、「自民党政権になると、自民党は原発賛成ですから、ますます福島の被害を隠そうとするかもしれません。」これにはギクッとしました。

笑い事じゃない。ここまでは考えもしなかなかった。だからこのコメントも強烈に感じた。

人間は放射能の恐ろしさを知っているから避難したが、人間の言葉を話せない動物は置き去りにされた。植物は何も言わず放射能にまみれで生きている。事故を起こせば人間も動物も植物も放射能汚染で苦しむのに・・・・。


生き延びた奇跡の牛たち。

もう原発はいらない。たくさんです。福島の事故は一歩間違えれば東京まで悪魔の餌食になったはずだ。そうあの吉田所長の英断が無ければ・・・今、東京は熱くてスカイツリーの開業に、東京駅も500億円をかけ大正時代の駅の姿に修復させ、人が集まり賑わいを見せている。

2030年には原発ゼロと言っておきながら青森県大間の原発の建設を開始したとニュースで知ったが、がっかりを通り越した。もしも大間で事故を起こしたら、全く関係のない北海道の人まで被害を被る。日本はこんな事でいいのか?と本当に思う。

東日本大震災と福島原発事故の被災者を合わせて約32万人が住む家を失い、仮設住宅等で今も避難生活をする中この半分の16万人の原発被災者は、いつか戻っても見えない放射能の脅威にさらされて暮さねばならず大きなハンデを背負わねばならない。


郡山の仮設住宅。

地元の9月21日の新聞を読んだが原子力学会員向け調査で4分の1の教授や博士の方が、除染の効果を信用していないと書かれていた。この記事では分からないの2%と、どちらともいえないの23%を足すと半分の50%に達している。

これが実情です。福島県民も除染効果を信用していないと思う。事故が起きてからでは取り戻しが出来ません。もう二度と元には戻らないかも知れません。

どうかみなさん、新しい原発の建設に反対して下さい!福島の悲劇をこの国は繰り返してはならない!本気でそう思います。これ以上の原発が建設されない事をここに祈って・・・。

















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楢葉町にて。

2012-10-04 14:28:48 | 日記
NO-247
只今、福島県双葉郡楢葉町に来ています。今日は富岡町の一時帰宅で数百人が避難先から自宅へ戻っていると思いますが、朝一番で川崎市に避難している人から高速道路を走行中に、電話をもらった。

「富岡で会えないか?」と言う事だったのだけれど、僕にその時間が無くて今度にしようって事で許してもらいました。今は事業を再開した友人の事務所を借りて更新しています。


笑っちゃうのだが、去年の3月のカレンダーのままで震災を忘れたい僕は、友人に文句を言う羽目に。

先週タイヤを交換してもらった時に、震災の年の2月に車検を受けてから5万kmも走ってしまい「タイミングベルトも交換した方がいいよ!」という事で、危険な思いはしたくないので交換しに来ています。


福島の冬には絶対に欠かせないスタッドレスタイヤも用意してもらいました。来月に履き替えようと思います。関東から南の雪と無縁の人はスタッドレスタイヤなんか持っている人いないかも知れないけど、東北はこれが無いと絶対にダメです。

楢葉町に入り車で町の中を見たけれど、富岡町の環境とそう変わらないんだなぁ~とつくづく思いました。大地震で壊れた家々の姿を見ました。


家々は可哀想でアップ出来ないけれど、塀が倒れて家の壁が丸見えの家もたくさんありました。屋根の補修が出来ずブルーシートで覆われている家はもっとあったかな?


復興を果たした四倉の道の駅。


道の駅の出入り口から見える三角のテトラポット。


やはり船の瓦礫はあの時のままでした。


変わり果てた海水浴場。テトラポットで砂浜は全く見えなくなっていました。波立海岸で。

変わるものは変わり、変わらないものは変わらずでどんな町に変化しようと故郷は故郷に変わりない。がっかりすることもなしにがんばるしかない!今日の夕方にいわきで知人と会って、夜に横浜に帰ります。それではこの辺で失礼します。
















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