奥多摩のはなし「蕎麦粒山」

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 ▼奥多摩のはなし「蕎麦粒山」

 

 

 

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みなさんこんにちは。また新しく読者登録して下さったみなさん、 よろしくお願いします。

さてきょうの【奥多摩のはなし】は「蕎麦粒山」

【概略】  東京都の奥座敷といわれる奥多摩。そのJR奥多摩駅のちょうど 真北、埼玉県秩父市との境に蕎麦粒山という山があります。この山 は標高はさほど高くはありませんが、行程が長くあなどれません。

 山頂は南面が開けていて川苔山方面が見渡せ、またかたわらの岩 の上からは秩父方面も眺められます。この山は三角山とか火打山と も呼ばれるという。

 とがったような姿が特徴的なので「三角山」なのだそうです。ま た麺類になる作物のソバの実は、ひし形をしていてとがっています。 この山も遠くから見ると三角形でソバの実を立てたようなのがこの 名の由来。

 同じ奥多摩の大岳山や三ツドッケとも似ています。さらに火打山 というのは埼玉県側秩父市の村人の呼び方とか。山頂には、火打ち 石といわれる燧石質(すいせきしつ)の露岩が散在しており、山名 はそこから来ているという。 ・東京都奥多摩町と埼玉県秩父市にまたがる。

……【さらに本文と出典】は筆者のページで↓ http://toki.moo.jp//merumaga/octama/oct-03.html

 

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★おわり ………………………………………………………………………………

 

 

 

 

 

 

 

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▼富山県立山の天狗・縄乗坊(しじょうぼう)とそのいわれ。

 ▼富山県立山の天狗・縄乗坊(しじょうぼう)とそのいわれ

【本文】 北アルプス立山にも、天狗がすんでいることになっています。弥

陀ヶ原東部の溶岩台地を天狗平、その南側の山を天狗山といいま

す。立山信仰のいいつたえに「参詣人の不敬、慢心の者には天狗

が怒り、石を投げる」とあります。天狗の名は立山縄乗坊(しじ

ょうぼう)と呼ばれています。

 

『甲子夜話』(かっしやわ)(1821年・江戸時代文政4年起稿)と

いう本の(巻七十三)に、ある時、千葉県上総(かずさ)の源左

衛門という人が天狗にさらわれました。そしてここ立山にある大

きな洞窟(穴は石川県の白山まで通じているという)に連れこま

れた話が載っています。

 

立山は、主峰の雄山(おやま)、大汝山(おおなんじやま)、富士

ノ折立(おりたて)の三峰をとくに「立山三山」というそうです。

雄山山頂には雄山神社奥宮(立山権現)があります。祭られてい

る神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と刀尾(たちお)天神とい

う神さまだそうです。

 

立山権現などと、よくいわれる権現とは、聞きかじりによれば「平

安時代におこった本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)という説

によるもので、日本の神は仏や菩薩が人々を救うために権(かり

・仮)に神の姿になってあらわれているものだとしています。

 

それによれば、伊邪那岐命の本地仏(ほんぢぶつ・本当の姿の仏

さま)は阿弥陀如来で、刀尾天神の本地仏は不動明王だそうです。

さらに刀尾天神は地主神で手力雄命(たぢからおのみこと)のこ

とだそうです。

 

もともとこの立山を開山したのは佐伯有頼(さえきありより・の

ちの慈興上人、実際は約200年後の延喜年間の人)という人(大宝

元年・701開山)だとされています。そのあと天台宗、真言宗の修

験者たちにより、立山への入峰の道が作られます。

 

富山県中新川郡立山町から東へ向かって突き上げる常願寺川に

沿って、岩峅寺(いわくらじ)から芦峅寺(あしくらじ)という所を経由

して雄山に登る道は天台宗の人たちが通った入峰の道。

 

一方、富山県中新川郡上市町大岩にある大岩山日石寺を拠点とす

る真言宗は、馬場島(ばんばじま)から大日岳に登るコースだそ

うです。(天台宗の修験でも芦峅寺から大日岳の順路で入峰した)。

このコースはどちらも剱岳は避けています。

 

このように剱岳は近世末までは、立ち入ることはタブーの山だっ

たそうです。それでも登りたがる人間はいたらしく、天保9年(18

38)ごろ、加賀前田藩士の増(松)崎藤左衛門という人が剱岳へ登っ

たという記録があります。しかし、その帰途に急死しているとい

う(登るのは藩命違反だということで処分されたらしい)。

 

同じころ、修験者の快天も登頂したそうですが、自分の手柄とし

て自慢して歩いたため地元の村人に虐殺されたと聞きます。それ

でも、このタブーの山、しかも裏剣の仙人谷洞窟で修行した行者

がいたというから驚きです。

 

南北朝時代の作と思われる仏像が洞窟で見つかっています。大日

如来の座像らしいというから、たぶん真言系の修験者ではないか

といわれています。

 

下って明治40(1907)年、柴崎芳太郎が測量のため登山した時、

剣岳山頂で銅製錫杖頭と鉄剣を発見。さらに山頂わきの石窟の中

に木炭も見つけている話は有名です。その錫杖頭は8世紀代のも

のといい、こんな大昔から石窟は籠山修行の場だったといいます。

 

そんなに古くから盛んだった修験道場の立山、剱岳あたりに天狗

がいないわけがなく、いろいろな天狗ばなしが伝わっています。

しかし、いまではシーズンになると押すな押すなの登山者たち。

 

雄山神社は本殿に入るのに入場料をとられ、剱岳山頂では、祠に

よりかかって昼寝をするやから、小宴会をやらかすパーティまで

いて、記念写真もままなりません。そんな有りさまにあきれかえ

ったのか、いまでは天狗の姿も見かけなく、文献を調べてもサッ

パリ出て来ないようです。

 

▼【データ】

【山名・地名】室堂平バスターミナル。室堂は立山の信仰登山のた

め、1695年(元禄8)に金沢藩の参籠所としてつくられた。のち享

保年間(1716~36)に山小屋になった。わが国で最も古い山小屋。

 

【所在地】

・富山県中新川郡立山町町。富山地方鉄道立山線立山駅の東14キロ。

富山地方鉄道立山駅からケーブル、美女平駅からバス、立山室堂平。

電子基準点(標高2441.24m)と電子基準点(付)(標高2432.55m)

ある。

・地形図に室堂平、室堂ターミナル、自然保護センター、郵便局記

号、病院建物記号、交番建物記号、官公署建物記号、電子基準点記

号とその標高(2432.6m)の記載あり。

 

【位置】 ・電子基準点:【緯度経度】(三角点位置・北緯36度34分37.17秒、

東経137度35分45.47秒)

 

【地図】 ・2万5千分の1地形図「立山(高山)」

 

▼【参考】

・東洋文庫『甲子夜話・5』(松浦靜山著)校訂・中村幸彦ほか(平

凡社)1989年(昭和64):『甲子夜話』(巻七十三・六)

・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)

1979年(昭和54)

・『山岳宗教史研究叢書・16』五木重編著(名著出版)1981年(昭

和56)

・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭

和52)

・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)

 

 

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▼山の伝説ひとり画ってん「四国愛媛県・石鎚山の天狗は役行者の 化身?」

 【本文】  四国の石鎚山(いしづちさん)にも天狗伝説があるといいます。

天狗の名前は法起坊(ほうきぼう)。石鎚山は、石土山、石槌(木

偏)山、石鉄山とも書き、石鎚神社のある弥山、その南東にある天

狗岳(最高峰・1982m)、またその先の南尖峰があります。

 

 法起坊(ほうきぼう)天狗はもちろん最高峰の天狗岳にすんでい

ることになっています。石鎚山は『古事記』(上つ巻)「…かれ、生

みたまへる神の名は、大事忍男(おほことおしを)の神。次ぎに石

土毘古(いはつちびこ)の神を生み…」とある石土毘古(いわづち

びこ)の神をまつった山。この神は岩や土をあらわす男神だという。

 

 この山も役ノ行者が開山したといいます。大昔、役ノ行者がこの

山に蔵王権現をまつってから修験の山と仰がれましたが、ふつう人

には登れる山ではなかったといいます。その後、役ノ行者の亜流と

される石仙道人が苦労して登山道を開き、登山者のため中腹に成就

社(じょうじゅしゃ・もとは常住舎といい、山に籠もるための宿坊

だったらしいという)を建立したといいます。

 

 中世以後は、神仏習合修験の山として本尊を石鎚蔵王権現といっ

たそうです。ただ『伊予温故録』という本に「……役ノ行者の開き

たるは瓶ヶ森(かめがもり・1896m)の方なり」とあり、古くは

石鎚山の東北東にある瓶ヶ森(かめがもり)を石土山(石鎚山)と

呼び、石土神社もここにあったものを、中世現在の場所に遷座した

ものといいます。

 

 しかし、いずれにしても石鎚山は役ノ行者に関わる山に違いあり

ません。『梁塵秘抄』という本にも「聖の住所は何処何処ぞ、大峰

葛城石の槌」と詠われているほどです。成就社を創立した石仙のあ

とに上仙、光正などの大行者が次々とあらわれ、山中に横峰寺、前

神寺などを創建していきました。

 

 この山には不思議な話がいくつか残っています。石鎚山の北麓・

愛媛県西条市中野甲というところに伊曽乃(いその)神社がありま

す。この神社の神は女神で石鎚の神の妻だったそうです。ある時、

石鎚の神が山に登ろうとしましたが、この山は女人禁制でした。妻

の伊曽乃の神は登ることができません。

 

 ウロウロしていた時、すでに山頂の登っていた石鎚神が大石を投

げ、転がった石が止まったところに住むようにといいました。そこ

で伊曽乃の神は、そこに神社を建てて暮らすようになったといいま

す。伊曽乃神社からは石鎚山がよく望め、社前には夫の石鎚の神が

投げたという大石があるそうです。しかし随分と離れた場所ですね

え。

 

 また、平安初期822年(弘仁13)ごろ成立した薬師寺の僧景戒

著『日本霊異記・にほんりょういき』という本の「下巻・第三十九」

に「……又、伊与国神野郡(いよのくにかみののこほり)の郷(さ

と)に山有り。名をば石槌山(いはづちやま)と号(い)ふ。是(こ)

れ即(すなは)ち、彼(そ)の山に有(いま)す石槌(いはづち・

槌は木偏)の神のみ名なり。其(そ)の山高く崒(さが)しくして、

凡夫(ただびと)は登り至ること得ず。但(ただ)し浄行の人のみ、

登り至りて、居住(とどま)れり。

 

 ……。彼(そ)の山に浄行の禅師有りて修行しき。其の名は寂仙

(じゃくせん)菩薩と為(い)へり。……。帝姫(ていき)の天皇

(すめらみこと・孝謙天皇)の御世の九年(758年)の宝字の二年

の歳(ほし)の戊戌(つちのえいぬ)に次(やど)れる年に、寂仙

禅師、命終の日に臨みて、録文(ろくもん)を留(とど)め、弟子

に授け告げて言(いは)はく、「我が命終より以後(のち)、二十八

年の間を歴(へ)て、国王のみ子に生まれて、名を神野と為(い)

はむ。是(ここ)を以(も)て当に知れ。我寂仙なることを云々(し

かしか)」といふ。

 

 然して二十八年歴て、……則(すなは)ち山部の天皇の皇子(み

こ)に生まれ、其のみ名を神野の親王と為(な)す。……。」とあ

ります。要するに、伊予の国神野郡に石槌山(木偏)という山があ

った。これはその山におわす石槌の神の名である。その山は高く険

しく、心身を清めて修行するものだけが登り住めた。孝謙天皇の時

代、この山に寂仙という僧が籠もって修行し、菩薩とあがめられて

いた。

 

 ところで天平宝字2年(758)に寂仙は臨終に及んで、文書を書

き記し、弟子に与えて「わたしは28年後、国王の子に生まれ変わ

り、名前を神野と名づけられるだろう」と告げた。それから28年

後、延暦5年(786年)に、桓武(かんむ)天皇の皇子に生まれ、

その名を神野親王(のちの嵯峨天皇)と名づけられたというのです。

 

 さらに元慶(がんぎょう)3年(879年・平安前期)の民間の巷

談、俗説、訛言、古老の伝誦(しょう)、怪異などを採録した「文

徳実録(もんとくじつろく)」(菅原是善・都良香ら)にも同じよう

な話が載っています。

 

 「伊予国神野郡。昔有高僧名灼然。称為聖人。有弟子名上仙。住

止山頂。精進練行。過於灼然。諸鬼神等(くさかんむりの外字を使

用)。皆随(したがう)頥指(いし)。上仙甞(嘗の異体字)従容語

所親檀越云。我本在人間。有同天子之尊。多受快楽。尓(じ・爾の

俗字)時作是一念。我当来生得作天子。

 

 我今出家。常治禅病。雖遣餘習。気分猶残。我如為天子。必以郡

名。為名字。其年上仙命終。先是。郡下橘里有孤独姥。号橘嫗。傾

尽家産。供養上仙。上仙化去之後。嫗得審問。泣涕(てい)横流云。

吾與和尚久為檀越。願在来世。倶會一處。淂(とく)相親近。俄而

嫗亦命終。其後未幾。

 

 天皇誕生。有乳母姓神野。先朝之制。毎皇子生。以乳母姓。為之

名焉。故以神野為天皇諱(き・いなむ)。後以郡名同天皇諱(き・

いなむ)。改名新居(にいはり)。后時夫人。号橘夫人。所謂天皇之

前身上仙是也。橘嫗之後身夫人是也。……」とあります。

 

 つまり「昔、伊予国の神野郡に灼然(しゃくねん)という偉い坊

さんがいた。弟子に上仙(日本霊異記の寂仙のことか?)という弟

子がいて石鎚の山上に住み、精進練行の結果、灼然を超え、山のも

ろもろの鬼神たちを自由に使役できた。(中略)その上仙が亡くな

る際、自分が天皇に生まれ変わるであろうと予言した。

 

 また、この上仙に深く帰依していた橘姫が、来世は上仙とともに

過ごしたいといいながら亡くなった。神野天皇とその后橘夫人は、

ふたりの生まれ変わりである。親王の名は、乳母が伊予国神野郡の

出身で「神野」と呼ばれた女性であったことに由来しているといい、

以後、郡名を親王名をはばかって、新居(にい)郡と改めた」とい

うのです。両方とも天皇の子に生まれ変わることを予言したという

のです。不思議な話というか、不思議な本が残っているものです。

 

 さて石鎚山の天狗について「石鎚山勤行法則」というものには「南

無眷属(けんぞく)宝(法)起坊、大天狗、小天狗、十二八天狗、

有摩那(うまな)天狗、数万騎天狗にに至るまでうんぬん」とある

ように、天狗岳には大天狗法起坊と眷属の小天狗たちがウジャウジ

ャいることになっています。

 

 それをとりまとめるのが法起坊大天狗だという。ところでここを

開山した役ノ行者は、江戸時代後期の寛政11年(1799年)に、天

皇から神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)というおくり名を貰うま

では、法起菩薩とか法起大菩薩と呼ばれていました。法起とは役ノ

行者の法号だったのです。そんなことから石鎚山法起坊は、役ノ行

者の化身ではないかとか、先の石仙聖人、光定道人だという説もあ

ります。

 

 しかし、天狗研究家は石仙、上仙が生きた時代が嘉祥3年~天安

2年(850~858年)であることや、『伊予温故録』や「前神寺縁

起」、その他文献を考察した結果、いくら法起坊天狗が法名を継い

でいるからといって、役ノ行者などこの山の開拓者の化身とは考え

られず、結局は大昔から天狗岳に生まれていた地主神を後の世に祭

り上げたものだろうとしています。石鎚山はいまは、お山開きの7

月1日のみ女人禁制になっているそうです。

……【さらに本文と出典】は筆者のページで↓

http://toki.moo.jp/merumaga/temg/temg10.html

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山の民俗伝承ひとり画ってん。「奥多摩・三頭山ろく集落名と長嶺の池」

 「奥多摩・三頭山ろく集落名と長嶺の池」

【概略】400字  奥多摩三山の三頭山の山麓には人里(へんぼり)などという変わ った名前の集落があります。千数百年前、大和朝廷の東国開拓の施 策で先進技術をもった渡来人たちがやってきて、ここに土着したと いう。

 地名の「へんぼり」は、蒙古語で人を表す「フン」と、里を表す 新羅語の「ボル」をくっつけたフンボル(人の住む里)が、ヘンボ リに訛っていったのではないかといわれています。

 また、数馬は南北朝時代、この土地を開拓した南朝ゆかりの中村 数馬という人の名前から来ているという。三頭山のふもと、笛吹(う ずしき)という村に、オマンジャという美しい娘が洪水で流されま したが、池のヌシとして生きているという。

 また、同じ村の美しい娘が池のヌシの子を宿しましたが、菖蒲を 入れた酒を飲んで、邪気を免れたという伝説などが残っています。 ・東京都奥多摩町と檜原村、山梨県小菅村と上野原市との境。

……【さらに本文と出典】は筆者のページで↓ http://toki.moo.jp//merumaga/octama/oct-02.html

 

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山の伝承ひとり画ってん「大室山は富士山を隠す」

 「大室山は富士山を隠す」

 【本文】  神奈川県と山梨県境の大室山(おおむろやま)は、丹沢のなかで も一番奥深い山です。その山名は山梨県道志村の大室指(おおむろ さす)集落の名に由来しているといいます。以前の地図には大群山 (おおむれやま)とも書いたものもあります。

 「むれ」とは古代朝鮮語の山の意味だそうで、牟礼(むれ)とも 書き、昔、道志村の椿村地区が山頂に奉納した石碑には「大牟連(お おむれ)山大権現」と記されていたそうです。

 しかし、道志村の郷土誌『道志七里』に、大室(おおむろ)権現 や大室大神、または大室八幡神社など、牟礼や牟連ではなく、室と の記述があったり、隣町の神奈川県津久井町郷土誌にも大室山と書 かれていて、なかなかどっちなのかははっきりしません。

 かつて人々は、人知を越えた自然の現象を恐れ、神を感じ敬いま した。天に届くような高山が地震のために揺れ動き巨岩が砕け、大 木がへし折れ、土砂で押し流されるとき、人々は山そのものを神と 感じるのは当然です。その神意を感じる山が望めることができる場 所を神域とし、神聖な礼拝場所に定めました。

 そんな古い形をいまに残しているのがここ山梨県道志村にある大 室神社(大群(おおむれ)神社)です。この神社は丹沢の大室山(大 群山とも書く・標高1587.60m)をご神体とし、イニシエより雨屋 本殿をきらう神として伝えられています。

いまでも社は白木の建木だけで屋根がなく、そこに埋め込んだ神鏡 は雨ざらしです。この神鏡の裏側には何か意味あるものがあるらし く、建て替えの時、宮大工だけが裏面を見ることが許されるといわ れています。

 さて大室山から畦ヶ丸・菰釣山・三国山にかけての尾根は、神奈 川県と山梨県・静岡県の県境になっています。このあたりはよい木 材が採れる山だったという。かつて小田原北条氏の命令で伐り出さ れた木材は、城のある小田原まで運搬されていたそうです。江戸時 代になると御木となって保護され、明治には御料林に指定されます。

 こんな山林ですから、相模の国(相州・神奈川県側)・甲斐の国 (甲州・山梨県側)・駿河の国(駿州・静岡県側)とも自分の領地 に有利にしたいところ。そんな中、甲州・平野村の名主・長田勝 之進らが相州から国境を越えて炭焼きに入り込む者ありという騒 動が起こりました。

 これが発端になり、大論争に発展していきました。1841年(天 保12)10月、ついに平野村の勝之進は幕府に幕府に告訴します。 西丹沢の菰釣山にコモを吊して立てこもったのはこの時だったそ うです。

 相州側は中川村(現山北町)・青根村(現相模原市津久井)・青 野原村(現相模原市津久井)・牧野村(現藤野町)と甲州側は道志 村・山中村(山中湖村)・長池村(山中湖村)の3村)、駿州側は須 走村(小山町)の計8ヶ村に及ぶ国境論争です。

 甲州側の主張は、「道志川・神ノ川の合流点から長者小屋を経て 犬越路、中川川箒杉を進んで遠く倉骨峠・山神峠、さては三国山越 しに須走神社前まで」と申し立てました。一方、相州側は大室山か ら畦ヶ丸から菰釣山などの峰続きと主張し幕府へ上訴。ついに幕府 の家老が裁定に乗り出すことになりました。

 当時、大室山山頂には甲斐の国の道志側が祭った「大牟連(おお むれ)山大権現」の石碑があったという。甲斐側はこの石碑のため ここが境界だと幕府に思われるのは困ります。そこで神官が石碑を こっそり担ぎ下りて隠したという。

 ところが、幕府は逆に何もない尾根上を境界とみなし、相模側が 主張するいまのような大室山から鐘撞山への国境線が引かれてしま ったということです。1847年(弘化4)のことだそうです。古く は平安時代の797年(延暦16)中央政府の裁定からの国境紛争は、 千年にもおよんだわけです。

 そういえば、いまでも大室山から山中湖へ続く尾根上には、当時 の国境紛争を説明した掲示板が見受けられます。その裁定のとき、 幕府から派遣された家老は、文字通りのお年寄りで、自力では現 場の山頂に登れなかったという。

 仕方なくかごを雇って道志側から登ったという。そのことから、 家老が登った北東にのびる尾根を家老ノ尾根(またはカゴ尾根と も)と呼びました。(いまは茅場が多いので「カヤの尾根」という)。 ほんとかいな。

 この山には「富士隠し」の異名もあります。八王子近郊や相模 原北部側から見ると富士山の前に大室山が横たわっていて富士山を 隠してしまうからだそうです。

 江戸時代1814(文化11年)、松平定能(まさ)という人が編集 した地誌『甲斐国志』の(巻之三十七・都留郡郡内領)に「大群山  高山ナリ麓ヨリ登ルコト五十余町頂ニ大群権現ノ社アリ此ノ峯富 士ノ東面ヲササ(遮蔽)フ故ニ武蔵ニテ富士隠ト云フ西ハ諸窪澤ニ 續キ戌ノ方ニ椿澤北ニ大ザスアリ峰ヨリ北ヘ分カルゝヲネハ其末道 志川ノ間ニ出ツ」とあり、「富士隠し」の名はかなり古くから呼ば れていたようです。

 さらに、1953年(昭和28)に道志村役場から出された『道志七 里』(伊藤堅吉)に柳田國男が序文を寄せ「富士見町ヨリ富士山ヲ 望見スルニ『富士隠シ』ト称シ、一座ノ青山ノ外線極メテ雄渾ナル モノアリテ其前面ニ横タハルヲ見ル。是レ陸地測量部ノ地図ニ所謂 大群山(一五八八米)ニシテ其頂点ハ正シク相模ノ足柄・津久井甲 斐ノ都留三郡ノ境ヲ為シ、道志ノ山村ハ即チ此連峰ノ北麓ニ拠レリ。 大群ノ『牟礼』ハ古語ノ山ヲ意味ス。以テ其命名ノ久キヲ知ルベシ」 と牟礼についても触れています。

 また、道志村は「横浜市民ふるさと村」になっています。神奈川 県横浜市と山梨県道志村とはどんな関係があったのでしょうか。こ れに至るまでには次のようないきさつがあったそうです。

 明治16年(1883)当時、横浜市街と同地外国人居留地帯は水が なく、日常の引用水にも乏しかったという。そこで横浜市は道志川 の水源に目をつけ、山梨県と売却要請を交渉します。その水を相模 原市津久井町青山から取水、横浜へ運ぼうというわけです。

 土地売却話には影で交渉に暗躍するものもあらわれ、1915年(大 正4)山梨県議会はあっさり可決。県はそのいきさつを地元道志村 に一切知らせないまま、横浜市と道志村のとの売買契約書に調印し てしまったという。

 慌てた道志村は緊急村議会を開き、村会議員たちが県会議員に売 却撤回の陳情に行きましたがけんもほろろ。つづいて郡役所、山梨 県庁などに懇願書を提出しましたがすげなく却下されてしまいまし た。

 こうして1916年(大正5)5月30日、地元民の意向も聞かず、 村の総面積約7000町歩中、4割に近い山林原野を横浜市に売り渡 されてしまったのだそうです。ちなみに代金は13万1414円96銭 8厘だったという。

 「2003年(平成15年)になり、道志村村民 653名(全住民の3 割超)の賛同をもって住民発議され、横浜市に合併を申し入れた。 しかし、距離のある越境飛地となり、また村議会や山梨県などの賛 同も得にくい状況であったため横浜市側から断ることとなった」と いう(道志村ホームページ)。

 その後、2004年(平成16)になり、改めて両自治体は友好・交 流に関する協定書を締結、共同して道志川の水源林を保全している そうです。やはりけんかより友好とするのがうまくいく方法ですね。

▼大室山【データ】 【所在地】 ・神奈川県山北町と山梨県南都留郡道志村と境。中央本線四方津 駅の四方津駅の南11キロ。小田急新松田駅からバス・西丹沢下車 歩いて4時間で大室山。二等三角点(1587.6m)がある。

【位置】 ・二等三角点:北緯35度30分39.5秒、東経139度04分6.9秒

【三角点】 ・点名:大群山

【地図】 ・2万5千分の1地形図「大室山(東京)」

▼【参考文献】 ・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11年):(「大日 本地誌大系」(雄山閣)1973年(昭和48)所収 ・『角川日本地名大辞典14・神奈川県」伊倉退蔵ほか編(角川書店) ・『コンサイス日本山名辞典」(三省堂)1979年(昭和54) ・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17) ・『道志七里」伊藤堅吉(山梨県道志村役場)1953(昭和28)年 ・『日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年(平成9) ・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

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