『新約聖書マルコによる福音書』一〇章一七、一八節には、イエスのことを善い先生と言った男に対して、イエスが「なぜ私を『善い』などと言われるのか。神お一人のほかに善い者なぞいない」と答えたことが書かれています。
教会の仲間と善悪の話をしたとき、イエスにも悪い心があったのだろうかというところまで話が及びました。そして僕は、先の例を挙げて、イエスにも悪い心はあったと思うと発言しました。
どうして自分の心の中に悪がない者が悪について語れよう。またイエスにまったく悪い心というものがなければ善い心というものもなくなると思います。
イエスが普通の人と違うのは、第一に、唯一善なる神を信じ求め続けた愛の強さにあると思います。それから、善い行為と悪い行為とを見分ける(直感的、感覚的、思考的、感情的)判断力が育まれ、さらに、絶えず悪い行為を遠ざけ善い行為を選択した勇気と忍耐力がついたのだと思います。
「誰もが善いことを求めて行動するのだ」と言われるのを聞いたことがあります。悪いことをする人でもその人にとっては何らかの利益(善)があるからするのだと言うのです。
でも人間は自分独りで生きているわけではありませんし、人生はその場限りで終わってくれません。
イエスは自分のかけがえのなさを十分知っていたと思います。だから十字架にかけられる前に独り恐れの気持ちと戦ったのだと思います。それはイエスが単なる狂信者ではないことを示すので僕のイエスに対する評価を下げるどころか上げます。
しかしイエスはそれだけでなく他人のかけがえのなさも、頭だけでなく全身で、知っていたと思います。幸か不幸か、全ての人間にそれを見出してしまったのでしょう。
だから彼が、逃げることもできたはずなのに、十字架にかけられたのは最善の道だったのでしょう。
どっちが真相か分からないけれど、酒を飲んでふざけてるイエスの方に人間的な温かさを感じます。
僕は母を殴ってしまった事、その他幾人の人を殴ってしまった事について罪悪感を持っていました。そこで僕の家の近所のバプテスト教会と言う教会に行って懺悔をしに行きました。僕は自分がした悪行を神父さんに告白しました。僕の話を聞いて神父さんは聖書の言葉を引用して言いました。
「義人はいない。どこを探しても義人はいない」。みたいな内容でした。「君自分だけが悪いと思っているが、世の中には正しい者なんていないのです。帰ったらお母さんに一言ごめんと言いなさい」そう言って神父さんは僕を送り出してくれました。
この出来事とイエスの「神以外の他善い者などいないぞ。」という話がオーバーラップするのです。
僕はいくら善い人でも神から見たら善くなんて見えないのかなあと思いました。