『旧約聖書出エジプト記』の中のシナイ山でモーセが「十戒」を神から授与されたという物語。僕はこの物語を虚構(フィクション)だと思っています。
だけど僕は十戒の価値は大いに認めています。僕は、一人ひとりの人間が十戒を気持ちよく守りつつ生きられたら、理想的な社会が出来上がると思っています。
でも僕がそこで注意してほしいことがあります。それは僕が十戒を、単なる人間の思考の産物ではなくて、人間観察の産物だと思っているということです。
なぜかというと僕は十戒とは、人間の霊魂はどういうことをすると生き生きとしまたは駄目になっていくのかを、偏見のない心の目で見つめ続けた人間によって定められたものだと思っているからです。
また僕は、彼にそれができたのは、そもそも人間に対する暖かい関心つまり愛があったからだとも思っています。
だから僕は、十戒を守る意味を理解しようとせずに無自覚的に生きてしまう人間には、罪を犯し(的をはずし)中味がスカスカの果実みたいになる危険性があると思っているのです。十戒を守る意味とは守ることで守られるという実感を得られるということです。
僕は理想というものをあまり信用していません。ある理想が単なる妄想に過ぎなかったというようなことは過去の事例を挙げればきりがないからです。
十戒は、人間が厳しいこの世にありながらも、己の人生の本当の目的を生涯求め続けるにはどうしたら良いかという問題意識から生まれたのだと思います。別の言い方をすれば十戒は、人間にとって本当の目的は最初から明確ではなく名無しの神を求めながら人生の歩みを進めていくうちに分かってくることだという認識があるから、定めてあるのだと思います。要するに十戒はこの世で人間が迷子にならないように携えておくべき羅針儀の役目を果たすものだと思います。
僕がこのように思えるまで二十年かかりました。
自分の弱さを克服することは大切だと思います。だけどこの世には越えてはならないものがある。僕はそれが十戒だと思っているのです。
本人が良かれと思って為したから善いという問題ではないのです。なぜなら世間で悪事とされる行為を為した者だってみんな良かれと思って為したからです。
破戒はすなわち破戒者と関係する他者に破戒者の存在を見失わせ結果的に他者だけでなく己自身も損なわせることだということを知ってほしいです。残るのは苦い味だけで実りがないことを知るには実際失敗して痛い目に会わなければならないのでしょうか。そんなことはないと思います。
また、人と接する時にはなるべく思い遣りをもって(相手の立場や気持ちなどをいたわる気持ちで考えて)生きていけたらいいのですが、基準が定まっていないと人間の為すことは多少にかかわらず遣り過ぎになるものなので、そういう意味でも十戒を定めておく必要はあると思います。
でも僕は、他人に十戒を押し付けようとは、思っていません。なぜなら、僕は十戒を内面の規範としましたが、それは誰か他の人に命令されたからではないからです。
僕は、深夜「虚無」と単独者として向かい合ったから、十戒を内面化せざるを得なかったのです。僕は、浮かび上がる自意識(自分の卑劣さ、愚かさといった弱さ)をなんとか落ち着かせるために、こんなことにならないように日中はできるだけ正しく生きようと決意したのです。
そして僕に正しい行いをさせようと決意させ守ろうとさせるから、虚無は神だったと思うのです。
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実際は何処から神で何処から悪魔なのか善く分からないのです。でも苦しむ事によって自分のカルマが消化されていって段々と楽になってきたので嬉しいです。
最後に、たあちゃんが経験した「虚無」、強烈だったんですね。それと向かい合ったから十戒を内面化せざるを得なかったのですね。
「虚無」がそんなにもたあちゃんの思想に影響を与えていたとは思いもしませんでした。