中沢 最近、シェークスピアに凝っていますね。<o:p></o:p>
河合 『マクベス』のなかのマクベス夫人の言葉に「望みは遂げても、満足がない」というのがあります。それがいまの日本の状況です。みんな金があって、家買ったり、車買ったり何かしとるのに、だーれも満足していない。仏教の安心というのとは、対極みたいなものでしょう。<o:p></o:p>
中沢 むしろいまのお話で問題になっているのは、クライアントのほうは幸福になりたくて来るんじゃなくて、楽になりたい。実際にたとえば〈イサンカタ〉状態になっている方は、幸福になれないのはそれで楽になれないからですね。 <o:p></o:p>
河合 そう、よけいしんどくなっている。<o:p></o:p>
中沢 自分のところへいっぱい経済的な幸をもらったけども、この幸は人間をぜんぜん楽にしてない。<o:p></o:p>
河合 してない。むしろ苦しく追いつめている。<o:p></o:p>
中沢 そいつを楽にしたいということですね。だから「幸福」などというわけのよくわからない言葉よりも、仏教語の「楽」を使ったほうが、ずっと正確に事態をつかめるような気がするんですが。<o:p></o:p>
河合 そうです。それか、あるいはさっきの「安心」です。<o:p></o:p>
中沢 安心ですね。安んじている心が失われた状態というのは、自分の心がほかのもの、ほかの場所にひかれてふらふらと外に出かけていって、そこで自分では制御のできない力にひっぱり回されて、本来の落ち着きを失ってしまっていることでしょう。そうすると、安心しているとは、お金やら名誉やら、自分の心とは本来無縁なものにひきずり回されることなしに、もともといる場所に落ち着いていられるということなんでしょうね。<o:p></o:p>
河合 安心をみんな忘れすぎているんです。金と物のある人が幸福そうな顔をしているように見えるからね。ない者にとっては、そのために、お金も財産も多ければ多いほど幸福の度合いがあがると思っている。<o:p></o:p>
中沢 「幸福」という言葉そのものに問題があるんですなあ。<o:p></o:p>
河合 そう思います。かつては不老長寿が幸福の目標になったりしましたが、人よりもたくさん金を持っている、人よりもたくさん車を持っているとか、人よりも長く生きるとか、計れるもので人より多いことを問題にしてしまう。<o:p></o:p>
中沢 愛人が多いとか。<o:p></o:p>
河合 そういうことです(笑)。それだって僕の友だちで言うたのがおるけど、「人が持っていたら羨ましい。自分が持ったら非常に困るものはセカンドハウスとセカンドワイフだ」と。<o:p></o:p>
中沢 言い得て妙です。<o:p></o:p>
河合 人が持っていたら羨ましいんですよ。<o:p></o:p>
中沢 バリダンスの名人のおじいさんが友人にいました。このおじいさん、村のなかに愛人がいっぱいいました。みんなは非常に羨ましいおじいさんだと思っているけど、日常生活は大変でした。朝起きて本妻のところで食事する。そうこうしてるともうそそくさと出かけて行かなくちゃならない。向こうの愛人のところへ行ってお茶を飲んで話して、それが終わると次の愛人宅へ行っては肩を揉んでもらって……。まあ、そんなふうにして回っていると、夕方になる。そしてぐったりして家へ戻ってくるという毎日でした。だから一夫多妻も決して人を幸福にはしないと断言できます。<o:p></o:p>
河合 そう、そう。ところが、それも同じことなんです。その話をすると、なれないやつにかぎって「いっぺんおれもなってみたい」(笑)。<o:p></o:p>
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