プシコの架空世界

ホレホレ触るとはじけるゾ。
理性がなければ狂いません(妄想の形成にも理性の助けがいる)。

僕が死にたいというのは

2024年07月27日 15時38分15秒 | 日記
僕が死にたいというのは死にそうな気がしないからかもしれない。
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GDP(国内総生産)

2024年07月27日 14時00分00秒 | 日記
GDP(国内総生産)についてN・グレゴリー・マンキュー著『マンキュ―入門経済学』から抜粋。

これまでみてきたように、GDPは経済の総所得と経済の財・サービスへの総支出の両方を測定したものである。したがって、1人当たりGDPは経済の平均的な人の所得と支出を表す。ほとんどの人は、より高い所得を受け取り、より多い支出を楽しむことを好むと考えられるので、1人当たりGDPは平均的な個人の経済厚生の自然な尺度であると思われる。
しかしながら、GDPが厚生の尺度として妥当であるという説に異議を唱える人もいる。ロバート・ケネディ上院議員は、1968年に大統領選挙に出馬したとき、この経済的尺度について感動的な批判を行った。

「GDPは」われわれの子どもたちの健康や教育の質、あるいは遊ぶことの喜びなどを考慮していない。GDPは詩の美しさや夫婦の絆の強さ、公開討論での理知や公務員の清廉さなどを含まない。GDPはわれわれの勇気も英知も測らず、そして国家への忠誠心も測らない。要約すれば、GDPはすべてのものを測るが、人生に価値を与えるものは除外されており、またそれはアメリカに関するすべてのことを表しているが、われわれがアメリカ人であることを誇りに思う点は除外されているのである。

ロバート・ケネディが言っていることの大部分は正しい。それでは、なぜわれわれはGDPに関心を持つのだろうか。
その答えは、GDPが大きいことは、実際にわれわれによい生活をもたらすのに役立つということである。GDPは子どもたちの健康を測定しないが、GDPが大きい国のほうが、子どもたちによりよい健康管理を施すことができる。GDPは教育の質を測定しないが、GDPが大きい国のほうが、よりよい教育システムを提供することができる。GDPは詩の美しさを測定しないが、GDPの大きい国のほうが、より多くの市民に詩を読み、楽しむことを教えることができる。GDPは理知、清廉、勇気、英知、あるいは国家への忠誠心を考慮していないが、このような賞賛すべき属性はどれも、物質的な生活必需品を手に入れることをあまり心配しなくてもよいときに育成されやすい。要約すれば、GDPはわれわれの人生を価値あるものにする諸々のことを直接には測定しないが、価値ある人生を送るのに必要なものを獲得する能力を測定しているのである。
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