玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します

東京都建設局北多摩北部建設事務所での話し合 高槻

2023-09-04 21:09:32 | 活動記録
東京都建設局北多摩北部建設事務所での話し合いのメモ(高槻)


 2023年7月14日、水口さんのご尽力により東京都建設局北多摩北部建設事務所工事第一課を訪問し、話し合いをしました。多くは水口さんが事前に準備した質問に答える形でした。これについては水口さんからの報告をご覧ください。
 私としては「建設局の予測が基準値を超えたら、環境局が是正を求めるという形がとられる」ということが聞けたのが最大の成果でした。私は次のように質問をしました。
「東京都が道路工事の計画を立てます。そのことについて東京都が予測し、開通後に測定するのですね?」
「はい」
その時第1課の側から
「東京都と言われますが、実際には工事をするのは建設局、評価をするのは環境局と別の局なのです」
 私は心の中で「しめた」と思いました。評価書を読む限り、全くの「お手盛り」で、工事をすると決めたら調査をして、どんな結果が出ても「問題ないと予測される」と書いてあったので、これでは無意味だと感じていたのに、そうではないと言ったからです。
 例えば排気ガスが環境基準を上回ったら、環境局が是正を求めることもあるというのです。これは、きわめて健全な姿勢です。
そこで、例を考えてみます。お地蔵様などが拡幅工事によって移動を余儀なくされ、「重要な物なので壊すことは良くないから移動した」をこれまで「仕方ない」としてきました。しかしよく考えたら、歩道の脇にあって人が自然に頭を下げたお地蔵様を交通量の多い道路の脇に移動したのは、ほとんど破壊に近いと見ることもできます。このことを、「高度成長期には、お地蔵様を移動することは問題視されなかったが、現在の基準からすれば大きな問題があった」と反省することはごく自然なことです。
 もし「工事によって過度の問題が生じれば戻さなければならない」ということが本当なら、「工事によって自然が破壊されたら、永遠に失われて取り返しがつかない」ことが立証できれば、工事の強い抑止力になるはずです。生物現象は人の浅知恵で予測できないことが多いことは、多くの保全生態学の成果が示しています。その評価が高度成長期と今では違うことを論理と生態学の成果で説明することは十分可能です。そのような考えに立曲して、私は次のような主張をすべきだと考えます。
 「高度成長期に立てられ、認可された道路工事は、当時の社会の価値観から自然に対する配慮が欠けていた。その後社会は生物多様性の重要性を認識し、保全生態学において長足の進展があった。そしてSDGsつまり「持続的発展のゴール」は現代社会の重大な課題とされるに至った。これは人類が地球資源を利用する上では、破壊的ではなく、持続可能な形で利用しなければ人類の未来はないという考え方であり、20世紀の開発優先の考え方を根本的に改めなければならないというものである。この視点からすれば、高度成長期に立てられた計画のうち、自然に対する配慮の部分の問題点を見直すことは、現代社会にとっての必要不可欠な重要な課題である。」
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坂上多津夫氏(元津田塾大学職員)に話を聞く会

2023-09-04 21:07:19 | 活動記録
坂上多津夫氏(元津田塾大学職員)に話を聞く会のメモ
(文責、高槻成紀)

2023年7月10日、上水本町地域センター
参加者:大槻史彦、加藤嘉六、黒木由里子、坂上多津夫、高槻成紀、平林俊夫、松山 景二、水口和恵、リー智子

+++ 武蔵野線 +++
<坂上>
私は昭和22(1947)年生まれで、父が津田塾大学の職員であり、当時は職員も教員も学内の宿舎に住んでいたので、津田塾大で育った。コジュケイがいた。長じて自分も昭和50(1975)年から25年ほど津田塾大で勤務した。大雨の時や入試の時の降雪時は排水溝を掃除したり、通学路の雪かきをするのが大変だった。
 武蔵野線開通前後の話は父から聞いた。武蔵野線は1964年に全体構想ができ、当初は貨物専用路線だった。1973年に府中本町まで開通し、下河原線(東芝の御用路線)は廃止された。
 津田塾大学は1960年代末の買収交渉では教育環境の悪化を理由に買収に応じなかった。東側には日立が住宅を作った。南側の旭ケ丘住宅は菜園付き住宅のふれ込みで都内からインテリ層が引っ越してきた。また当時の経団連会長の石坂泰三氏をはじめ財界の有力者が理事であったことによる影響もあったのか地下化となった*。
 ただし、当時は線路が短かったため、電車のゴトゴト音が大きく、視聴覚教室棟の建設に際しては騒音防止対策に苦慮した。
 津田塾大は新府中街道には反対しなかった。

*地下化された範囲は新秋津の手前から国分寺の恋ヶ窪のあたりまでであり、地下化の要望は他にもあった可能性がある(リー、水口)。

<高槻>
高度成長期には新しい鉄道路線がつくことは歓迎された訳で、その中で地下化にできたのは特別なことだと思う。それに津田塾大学の要求が反映されて地下化が実現したことを知るのは重要なことだ。
<黒木>
新宿御苑に分断道路の計画があったとき、新宿高校の同窓会にやはり実力者がいて阻止した例もある。
<坂上>
正論を言うだけでは動かないから、現実的方法論として働きかければ動くことはある。状況によっては、トップの裁量で方針転換することもある。まずは水口さんが卒業生の市議として学長と面会することから始めたら良い。

+++ 小平と玉川上水 +++
 小平の歴史と文化は玉川上水によって涵養されたと言ってよい。玉川上水は17世紀に標高差92mの平坦地に作った奇跡的な工事。<松山:小平の分水は総延長53kmある。>大学が7つ(津田塾大学、一橋大学、武蔵野美術大学、朝鮮大学校、白梅短大、嘉悦大学他)もあるのは極めて特異。
玉川上水は津田塾大学にとっても重要。礼拝で話した時に、聖書の詩篇にある「流れの脇に植えられた木は強い」*という言葉を紹介した。

*詩篇1篇3節「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」新共同訳、
「かかる人は水流のほとりにうゑし樹の期にいたりて實をむすび、葉もまた凋まざるごとく」旧約、
「And he shall be like a tree planted by the rivers of water, that bringeth forth his fruit in his season; his leaf also shall not wither; and whatsoever he doeth shall prosper. Psalm 1:3 (King James Version)」

+++ 津田塾大学 +++
<坂上>
津田塾大学は小平キャンパスのためにアメリカからも含め10万ドル(<高槻>ウィキペディアによれば50万ドル)を集めた。新校舎はセントラルヒーティング、水洗トイレで、文部省から贅沢すぎると言われたほどだった。津田塾大には在野精神とキリスト教精神があった。戦争中も奉安殿を作ることを拒絶したし、陸軍が女子英語塾の看板の上に部隊の看板をかけたことに対して、学生がそれを剥がして玉川上水に投げ捨てた。大学の部品工場(体育館)で兵器の部品作りをしていた時、ラインが止まって部品が届くのを待つ間、将校が学生に「気をつけ」で待つことを強要した時、藤田タキ(第三代学長、元衆議院議員)が「いいから座って休みなさい」と言った。津田梅子は鹿鳴館で会った伊藤博文の人品について批判する日記を書いている。

<高槻>
女子英学塾(津田塾大の前身)は1931年に小平に移ったが、英学塾の歴史を書いた本に空中写真があり、周囲には1軒の家もなかった。秩父おろしで砂嵐になるため、シラカシなどを植林したという記述があった。
<坂上>
シラカシ、スギ、ケヤキなどを明治神宮と同じように100年後、200年後の変化を考えた計画で植林した。
<高槻>
そうであれば、東大林学教授の本多静六であり、大隈重信と対峙した強者だった。

<高槻>
津田塾大にとって玉川上水が重要とのことだが、具体的には学生の通学の問題があると思う。あそこに大道路がつけば問題であろう。
<リー、水口>
 反対していると聞いたのですが・・・。
<坂上>
その通りだが、大学は明確な意思表示をしていない*。
<高槻>
 学生がどの程度意識しているか不明だが、玉川上水を歩いて通学することが心に与える影響はあるのではないか。
<坂上>
今の玉川上水緑道を通って通うことは大変贅沢なことだと思う。

*<水口>東京都が小平328号線の環境影響評価をしたのは2010年-2012年。私は、当時津田塾大の職員であった利根川氏から、「環境影響評価書案」に対する意見として、津田塾大学が地下化の提案をしたと聞いた。

+++ 地下化 +++
<平林>
328号線計画に反対するとなると小池知事まで届くことになる。そのことを熟慮する必要がある。
<高槻>
シンポジウムでかなりの人が計画自体に反対だとした。しかし我々はそのような理想主義的な主張をして敗北するよりも、現実路線としての地下化を見直すよう説得したい。
<平林>
地下化の場合、住民の土地問題、工事による地下水の動きなど難問もある。
<高槻>
現状で我々は知らないことが多く、これから専門的立場に学びたい。ただはっきりしているのは100年後に「あの時になぜ阻止しなかったのだ」と言われたくないということで、それを思えば課題は多いものの、平面道路に見直しを迫るしかない。
<平林>
地下道の深さは玉川上水の底から5mであり、斜面勾配は5%だから玉川上水から地下道の入り口・出口は水平距離は500m前後になるはず。
<坂上>
 50年前に武蔵野線が地下化して現在まで問題が起きていない。しかもその後の土木工学技術の進展は目覚ましい。買収もほぼ済んでいる。地下化した後の土地は緑地公園にすればよい。何も問題はない。

+++ 玉川上水の自然を守ること +++
<坂上>
 子供の頃、津田構内の住宅に住んでいたが、夜になると蛍が飛んできたものだ。その光景を思い出すと涙が出そうになる。玉川上水の自然を守り、100年後に良い選択をしたと言われるよう努めるべきだ。

<高槻>
 これまで328号線の話し合いをすると、困難であることが認識されて暗い気持ちになることが多かったが、今日は明るい希望が感じられるお話を聞けて大変ありがたかった。
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分断道路を考える集まり 2023.6.1

2023-09-04 21:02:36 | 活動報告
分断道路を考える集まりで話し合ったことのメモ(文責:高槻、6/2修正)

2023.6.1 津田公民館、18:00-19:30
参加者 小口、加藤、黒木、関野、高槻、松山、水口、リー

以下のような話し合いをした。
-前回のシンポジウムは玉川上水みどりといきもの会議、地球永住計画、「ちむくい」の3団体の共催とした。この活動として新たな団体を立ち上げるかという話をし、現状のままでよいとした。
-この集まりの性格を明確にした方がよい。10年前の「道路見直し」の時との違いは、当時あまり取り上げなかった「生物多様性の尊重」について論じる材料も得られたし、時代もその理解が進んだので、小平の玉川上水の林が生物多様性が豊かであることを強調し、328号線が開通したらそれが破壊されることの問題を市民レベルで理解してもらい、行政に見直しを図るものとすることにした。
-シンポジウムでは「道路計画そのものに反対する」という意見があったが、現状を客観的に見た場合、それは現実味がないので、その運動にはしないものとする。そして道路開通は認めた上で、平面(地上)道路による林の破壊を回避する方策を行政に見直させることを目指す。その内容としては地下化、高架化、府中街道右折レーン*などがある。

*(府中街道と鷹の街道の交差点の北上部での右折の待ち時間が長くなって渋滞が生じるので、そこを2車線にすれば渋滞が解消されるはずだが、行政は既存道路の改良よりも新道路の開通の方が問題解決になるとして受け付けない。國分功一郎著『民主主義を直感するために』に詳しい)

-328号線の問題が知られていないので広報の充実が必要。
具体的には以下のようなものがある:新聞に取り上げてもらう。そのために注目を引くイベントを行う。チラシを作る。署名運動をする。ネット署名をする、など。
-こうした機運が高まることで行政が見直しをすることを期待する。
-リー:都議会議員で協力してくれそうな人を探す。
-水口:北多摩北部建設事務所に現状を聞きに行きたい。
-次回の「分断道路を見直すシンポジウム2」は8月下旬とし、神宮外苑街路樹伐採反対運動をしたリーダーに話してもらう(黒木がアクセス)方向で準備する。
-高槻:これとは別に主に小平市民を対象とした「勉強会」を開催することで、理解を広げる活動を進めたい。7月上旬に山田氏を呼んで話を聞くことを希望(今後アクセス)。

高槻による追加メモ:署名運動、ネット署名の具体化については詰めていない。発言はしなかったが、チラシの原案は高槻が進めて、関係者に諮る。


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「市史」に見る川崎平右衛門と小金井桜、加藤嘉六

2023-09-03 22:07:16 | 意見・エッセー

海岸寺

 小金井橋近くにある「海岸寺」に、小金井桜の由来が書いてある「小金井桜樹碑」と言う石碑があることは以前から知っていましたが、漢字ばかりで手に負えないと思い敬遠してきました。最近碑は誰が建立したのか気になり始め、インターネットで検索してみました。それによると建立者は川崎平右衛門正孝(こちら)の孫平蔵と大久保狭南の娘婿石永貞子亭(ていしてい)と分かりました。



小金井桜樹碑

 碑文のいくつかは玉川上水や小金井桜に興味がある方はご存知と思いますが、サクラの花びらが水毒を消すと言う効用(非科学的)や、サクラの根が土手の崩落を防ぐ、花の盛りに人の目を楽しませてくれる、五日市街道の夏の往来には旅人に休憩の場をもたらす、など恩恵について書かれているとのことでした。しかし最も重要なことは小金井桜植樹の由来に始まり、桜花の賞賛、川崎平右衛門の功績が記されているとのことです。

 今回ネット検索によって、この碑文の元となったものは寛政9年(1797)に刊行された大久保狭南(漢学者)の「武野(ぶや)八景」で、「金橋桜花」(小金井橋から眺めた桜並木)、「六所挿秧」(現府中市)、「立野月出」(現国分寺市)、「玉川観魚」(現日野市)など武蔵野の八景が紹介された名所案内紀行文を編纂したものであることが分かりました。そして、この「武野八景」刊行以降「小金井桜」が江戸の町に知れ渡るようになったと書かれています。では碑文にはどう書かれているか見てみましょう。

武州多摩郡。玉川上水。小金井橋上下両岸桜樹。有廟時。川崎平右衛門定孝之所種。大凡古者十里餘。今二里間千株餘云。初定孝。及武野墾闢役。與而有功。遂解褐司郡。於是乎。請而承 朝命。採芳野及諸邦名種。雑種之。  以下省略

 訓読が併載されていますので、分かりやすく記します。

 武州多摩郡玉川上水の小金井橋、上下両岸の桜樹は有廟(徳川吉宗・有徳院)の時、川崎平右衛門定孝の種(う)うる所なり。大凡古は十里余と云う。初め定孝、武野墾闢(武蔵野新田開発)の役に及び、与(あずか)って功有。遂に褐(粗服・低い身分)を司郡(代官)に解く。是に於うて(おいて)朝命を承り、芳野(大和吉野山)及び、諸邦の名種を採り、之を雑(まじ)へ種(う)う。郡民子来し風職亟に畢る(植樹は地域住民も加わって行われたの意)。実に元文二年(1637)丁巳の歳也。其の挙は、衆根(多根)の深く堤中に入りて、長に壊闕の患無からんことを慮る。則ち両岸の樹数均しくして、南岸は葉茂り、北岸の花の盛りなるは豈徒ならんや。其の陰陽を相、其の便宜を度り、春は艶陽に随って往来の目を悦ばしめ、夏は炎光障り、行旅を憩わしむ。且つ開花は鮮美、映じて清潔を加う。落英(花びら)繽紛、浮んで汚穢せず。且つ又吾が東方(江戸)の医家、一二(僅か)の方函(処方)に桜じょ(桜の皮)及び花、を総て解毒の剤に用うれば則水毒も亦解くべしと。況や両岸の千株相蔭暎し、直流して径に東都に入れば何の毒か之有らん。億兆(万民)の餐炊の用、煎茶第一の水、鬼神に薦め、公侯に羞むる所なり。誠忠にして心を用うるは、仁政の一助に庶(近)からん。前こと十余年、余、娘婿石子亨を誘い、郷里親旧と多摩郡中の名区(名勝)を歴覧し、優たる者八所を撰び、子亨と其の目(題辞)を議定し、各に題辞を附し、事実を審にす。その一つ金橋桜花、即ち此所也。遂に題して武野八景と為し、梓(出版)し以て世に公す。是に於いて、人は奇勝察し、一覧せんと欲する者尠なからず。爾後、遊人春毎に相倍(二倍三倍)し、野路綿綿、人肩摩し、馬蹄連なる。騒人詩客(文人)の吟詠相競い、異説稍間起す。余、吾が題辞の相混乱して、以て鹵莽(粗略)と為さんことを恐れ、子亨と同く、定孝の孫川崎平蔵を押立村に就き、終始を質訪し、三人相謀りて石に刻し、違を永世に防がんとす(多くの文人らが来訪することで、異説が間々生じる状況になることを危惧し、異説を永久に防ぐことを目指したの意)。銘に曰く。

「武野八景」刊行 寛政9年(1797)、「小金井桜樹碑」建立 文化7年(1810)

 ここで思い出したのが、小金井桜の川崎平右衛門説には明確な資料(幕府の記録)がないという話です。年代を調べてみると、この書は川崎平右衛門没後30年、この地を離れて50年後に刊行されています。

小金井市教育委員会刊「名勝小金井 桜絵巻」小金井桜年表には

元文2年(1737)府中押立村名主川崎平右衛門定孝。幕命により武蔵野新田地先の玉川上水両岸に山桜を植えたと言われる。また、延享4年(1747)この頃まで小金井堤に桜を植え続けたといわれる。

 とあります。また、昔から小金井市のチラシや冊子などの刊行物や新聞などのマスコミには必ずと言ってよいほど、上記のように説明され続けて来ました。そこで、小金井桜川崎平右衛門植樹説の根拠を調べてみることにしました。

「小平市史 近世編」と「小金井市史 資料編 小金井桜」

 先ず、「小金井市史 資料編 小金井桜」では後半の解説 Ⅰ近世の小金井桜(2)桜樹の植栽

玉川上水堤に初めて桜並木が造成された当時の文書は未だ発見されていない。

「御代官川崎平右衛門発起書」(資料20)には

「関前新田より上鈴木迄、上水堀に添う道手の山方、五日市辺よりの江戸道について、凡そ二里程の間の上水堀際に桜並木を仕立てた。是は(花見に)差し向く人出があり、新田の賑わいの為に植付けさせた」

と記されている。また享和3年(1803)、多摩郡野口村(現東村山市)在住の八王子千人同心小島文平は「玉川上水起元卉に野火留分水口之訳書」(資料21)に、

平右衛門殿が官命によって和州吉野・常州桜川等の桜の実を蒔き、上鈴木新田より梶野新田の辺迄、御上水の両縁一里二十四町の間に植えた。利左衛門(鈴木新田名主)も実を蒔き苗を仕立て植えたが、これは有徳院様(徳川吉宗)が内々に好まれたもので、上意により新田掛の町奉行大岡越前守殿が差図して植えたと聞いている。

と記している。

桜樹植栽の経緯とその年代については、江戸時代の地誌や紀行文にも様々な記述がみられる。寛政7年(1795)、石子亨は、「武野遊草」(資料74)に土地の古老から聞いた話として川崎平右衛門が元文の頃に植えたと記している。なお、(中略)

 小金井桜の植栽年代には寛永(1624~1644)・承応(1652~1655)・享保(1716~1736)等の異説もあったが、文化七年(1810)建立の「小金井桜樹碑」(資料127)に、元文二年(1736)に幕府の命により川崎平右衛門が植えたこと、土手の保護や水毒を消す等の目的があったことが刻まれた。以来、近代に至るまで多くの文献がこの碑の存在に触れ、碑文全文を掲載する文献も見られる(資料69, 104)。こうして小金井桜の元文二年起源説が定着していったが、「小金井市誌Ⅱ 歴史編」では元文年間(1736~1741)は早きに失するとして、寛保年間(1741~1743)が妥当であろうとしている。

 以上のように桜樹の最初の植え付け時期や具体的な経緯については、関係文書の出現を待たなければならないが、~以下省略

 この件について、小金井市生涯学習課文化財担当高木翼郎氏は、川崎平右衛門説の資料(幕府の記録)がないことは知っているとの回答でした

 一方、「小平市史 近世編 川崎定孝の桜植樹」には

元文検地(元文元年、1736)ののち、新田世話役の川崎は、新田開発と並行して、玉川上水の両岸に桜を植える政策を実施した。これが、今日の「小金井桜」の発端とされる。中略

しかしこの桜の植樹については、不明な点が多い。まず、いつ植えたか様々な説がある。(それぞれの解説は省略)①寛永年間(1624~44)説(最も古い) ②承応3年(1654)説 ③寛文10年(1670)説 ④享保年間(1716~36)説 ⑤元文2年(1737)説 ⑥元文3年(1738)説 ⑦元文年間(1736~41)説 ⑧元文~延享年間(1736~48)説 ⑨寛延年間(1748~51)説 

 以上のように桜の植樹については、寛永年間から寛延年間まで幅広い説がある。このうち④~⑧はいずれも吉宗の享保の改革の時期であり、享保有力説の根拠となっているが、すでに近世において桜の植樹の時期を特定することは難しくなっていた。

と明解に書かれているとは驚きでした。

 小金井桜はかつて名所と言われるほど見事な桜花を咲かせたのであるから、その歴史を全否定するつもりはありませんが、川崎平右衛門が植えたと言う説は情報の乏しい時代、村人の言い伝えによって培われたものではないかと思われ、幕府の公式記録がない事実は静かに浸透して行って欲しいものだと思っています。

++++++++++++++++++++++
参考資料

小金井市史 資料編 小金井桜、平成21年(2009)3月31日 小金井市発行
小平市史 近世編、平成24年10月20日 小平市発行
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変わり果てた小金井地区の景観 加藤嘉六

2023-09-03 21:56:54 | 意見・エッセー
変わり果てた小金井地区の景観 加藤嘉六 2021.2/5 

2021年2月5日 加藤さんからの報告です。私たちはこの事実をできるだけ多くの小金井市民の皆さんに知っていただきたいと思います。このような殺伐とした景色と行いを、多くの小金井市民が歓迎するとはとても思えません。「桜は好きですか」と聞かれれば誰でもうなずきます。でもそのことは「桜以外の雑木は伐り尽くす」ことでしか実現できないわけではないはずです。このようなむごいことが桜を愛でる心につながるとは思えません。どうか実態を知り、この植生管理を見直すよう行政に声をあげようではありませんか。

+++++++++++

今日(2021年2月5日)午前中花ごよみの調査で小金井橋から梶野橋間を見て来ました。この写真は昨年の立ち合いがあった12月10日に撮ったもので、陣屋橋下流にはモミジがきれいに色づいていました。


陣屋橋下流(2020年12月10日)

以下のものが本日の写真で、物悲しい寂しい風景となりました。


陣屋橋下流


梶野橋から上流


小金井橋から下流

実施地区全域が殺伐とした風景になり、桜整備計画の恐ろしさを感じます。

加藤嘉六
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