8月に入り、夏本番。
今年は7月から“夏”といった感じで、真夏日が続いております。
岡山も30℃越えの日が続いており、まだ当分このような日が続くようです。
昨晩は恒例の“岡山納涼花火大会”が行われたようで、毎年ならばベランダから見物するのですが、今年は家の中で大人しくしておりました。
先日、5か月ぶりに“ぎっくり”をやったようで、今回は仕事には出ているのですがそれが良かったのか、悪かったのか、かなり長期間患っております。
お盆までには何とか治したいものです。

これは北海道・富良野の“ひまわり畑”

確かこの年は、北海道は本州に比べてもかなり涼しかったような記憶があります。
このひまわりを見て思い出したのですが、岡山の県北、津山に貫ける号線沿いにも確かこのようなひまわり畑
があったような...。


今年は7月から“夏”といった感じで、真夏日が続いております。
岡山も30℃越えの日が続いており、まだ当分このような日が続くようです。
昨晩は恒例の“岡山納涼花火大会”が行われたようで、毎年ならばベランダから見物するのですが、今年は家の中で大人しくしておりました。
先日、5か月ぶりに“ぎっくり”をやったようで、今回は仕事には出ているのですがそれが良かったのか、悪かったのか、かなり長期間患っております。
お盆までには何とか治したいものです。

これは北海道・富良野の“ひまわり畑”


確かこの年は、北海道は本州に比べてもかなり涼しかったような記憶があります。
このひまわりを見て思い出したのですが、岡山の県北、津山に貫ける号線沿いにも確かこのようなひまわり畑


岡山には、日本棚田百選に選ばれた“棚田”がいくつか点在しています。
その中の大垪和(おおはが)の西棚田へ行ってきました。
面積は42.2ha 約850枚の棚田です。
徒歩でも回れますが、一周5.2kmのアップダウン。
車で周ってきました。

のどかな田園風景です。
国道からひと山越えるとこんなところがあるんです。

ちょうど中間地点にある、棚田公園から。
帰り道、寄り道したわけでなく...真面目に道に迷いました...。
カーナビも何故か?沈黙...
車一台がやっとの山道を抜けると


ここもどうやら棚田百選の一つのようです。
で、ここはどこ?帰り道はどっち?


その後、これぞ一本道という道をひたすら走り、1時間弱かけてようやく国道53号線に出ました。
この間もカーナビは沈黙...
おとなしいのね...喋ってもいいのに。
すご~く心細かったです。

その中の大垪和(おおはが)の西棚田へ行ってきました。
面積は42.2ha 約850枚の棚田です。
徒歩でも回れますが、一周5.2kmのアップダウン。
車で周ってきました。

のどかな田園風景です。
国道からひと山越えるとこんなところがあるんです。

ちょうど中間地点にある、棚田公園から。
帰り道、寄り道したわけでなく...真面目に道に迷いました...。

カーナビも何故か?沈黙...
車一台がやっとの山道を抜けると


ここもどうやら棚田百選の一つのようです。
で、ここはどこ?帰り道はどっち?



その後、これぞ一本道という道をひたすら走り、1時間弱かけてようやく国道53号線に出ました。
この間もカーナビは沈黙...
おとなしいのね...喋ってもいいのに。



今回、彦根の宿は“彦根キャッスルホテル”でした。
ご存知の方は多いと思いますが、“いろは松“の目の前。
部屋からは彦根城が真正面に見えるところです。

このホテル、桜の季節にはなかなか予約を取るのが難しいのだとか。
確かに“いろは松”に沿って中堀の石垣の上は、すべて“桜”

城内にもかなりの数の桜があるようで、それは綺麗なのでしょう。
フロントの後ろのかかっていた写真もそれはみごとな桜でした。
この時期にいつか訪れてみたいものです。
せっかくなので朝食後、お城周辺をお散歩。

これは佐和口多門櫓を別角度で
明和四年(1767年)に火災で類焼。現在の建物は明和六年から八年にかけて再建されたものだそうです。
こうしてみても立派な佇まいです。

中堀に映る石垣と新緑
天守自体はこじんまりとしているようですが、この縄張りはみごとですね。
この城自体戦火に見舞われてことはなかったようですが、“攻め難し”の城に間違いありません。

ご存知の方は多いと思いますが、“いろは松“の目の前。
部屋からは彦根城が真正面に見えるところです。

このホテル、桜の季節にはなかなか予約を取るのが難しいのだとか。
確かに“いろは松”に沿って中堀の石垣の上は、すべて“桜”

城内にもかなりの数の桜があるようで、それは綺麗なのでしょう。
フロントの後ろのかかっていた写真もそれはみごとな桜でした。
この時期にいつか訪れてみたいものです。
せっかくなので朝食後、お城周辺をお散歩。

これは佐和口多門櫓を別角度で
明和四年(1767年)に火災で類焼。現在の建物は明和六年から八年にかけて再建されたものだそうです。
こうしてみても立派な佇まいです。

中堀に映る石垣と新緑
天守自体はこじんまりとしているようですが、この縄張りはみごとですね。
この城自体戦火に見舞われてことはなかったようですが、“攻め難し”の城に間違いありません。

今回の旅行、いろいろと美味しい物を頂いてきました。
今回の旅行でも、折りたたみ自転車をつんで移動したおかげで、大活躍!
2日目の大津では、「町屋酒肴でんや浜大津店」であれこれと単品物を頂きました。
ここの京風だしのきいた、おでんの美味いこと。

透き通った出汁で、出汁までしっかりといただけました。
これは、近江八幡の赤こんにゃくと近江地鶏のつくね。
そして、牛筋煮込み

こちらも出汁ごといただけます。
そのほか、ジャガイモのパリパリサラダや....数品頂きましたが、あまりのおいしさに写真を撮る事も忘れて....。
地酒の“北島”も美味しかったです。

「こんなお店が近所に有ったら通いたいです。」
今回は彦根にも宿泊。
前回彦根を訪ねた時、帰岡直前に寄った「楽座」
今回は、1泊するのでどうしても、どうしてもこれで一杯やりたっかったのです。
さてこれなんでしょう?

あの信長も好物だった“鮒寿司”
「やっと念願叶いました~」
“鮒寿司”これは各お店によって味も匂いも違うそうで、この「楽座」さんの“鮒寿司”食べやすく、そして美味しいのです。
本当に美味です。
思わず日本酒がすすみます。
あとこちらは近江牛の網焼き


「あ~、これが近江牛」
2人とも感動モノです。
その他に、兜煮、天ぷら盛り合わせ。
最後の締めは、やはり“鮒寿司茶づけ”でした。
「いや~旨かった。ごちそうさまでした」
翌日のお昼は長浜名物“焼き鯖寿司”と“焼き鯖そうめん”を頂きました。

こちらも、今まで食べた事のない味で、しかもそうめんに上に載っている“焼き鯖”
骨まですべて食べられるのです。
ここ長浜は海が無い為、若狭小浜から運ばれてくる“鯖”それも“焼き鯖”が普通に竹串に刺して売られているそうで(昔から)この“焼き鯖そうめん”はこのあたりの家庭料理だそうです。
そう言われてみれば、岡山で“焼き鯖”を売っているのは見たことないですね。
ごちそうさまでした。おいしかったです。
旅行に出かけた先の物を頂く事もたのしいですね。

今回の旅行でも、折りたたみ自転車をつんで移動したおかげで、大活躍!
2日目の大津では、「町屋酒肴でんや浜大津店」であれこれと単品物を頂きました。
ここの京風だしのきいた、おでんの美味いこと。

透き通った出汁で、出汁までしっかりといただけました。
これは、近江八幡の赤こんにゃくと近江地鶏のつくね。
そして、牛筋煮込み

こちらも出汁ごといただけます。
そのほか、ジャガイモのパリパリサラダや....数品頂きましたが、あまりのおいしさに写真を撮る事も忘れて....。
地酒の“北島”も美味しかったです。


今回は彦根にも宿泊。
前回彦根を訪ねた時、帰岡直前に寄った「楽座」
今回は、1泊するのでどうしても、どうしてもこれで一杯やりたっかったのです。
さてこれなんでしょう?

あの信長も好物だった“鮒寿司”

“鮒寿司”これは各お店によって味も匂いも違うそうで、この「楽座」さんの“鮒寿司”食べやすく、そして美味しいのです。
本当に美味です。
思わず日本酒がすすみます。
あとこちらは近江牛の網焼き



2人とも感動モノです。
その他に、兜煮、天ぷら盛り合わせ。
最後の締めは、やはり“鮒寿司茶づけ”でした。

翌日のお昼は長浜名物“焼き鯖寿司”と“焼き鯖そうめん”を頂きました。

こちらも、今まで食べた事のない味で、しかもそうめんに上に載っている“焼き鯖”
骨まですべて食べられるのです。
ここ長浜は海が無い為、若狭小浜から運ばれてくる“鯖”それも“焼き鯖”が普通に竹串に刺して売られているそうで(昔から)この“焼き鯖そうめん”はこのあたりの家庭料理だそうです。
そう言われてみれば、岡山で“焼き鯖”を売っているのは見たことないですね。
ごちそうさまでした。おいしかったです。
旅行に出かけた先の物を頂く事もたのしいですね。

最終日、彦根から“さざなみ街道”を走り長浜港へ
そこからフェリーで40分

見えてきました、“竹生島”
この島、琵琶湖の沖合6kmに浮かぶ周囲2km余りの小さな島で、島の名前は
「神を斎(いつ)く島」に由来しているそうです。中世以来、西国三十三ヵ所観音霊場として賑わっていたそうです。

この島の中にある、宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が夢枕に立った天照皇大神のお告げを受け、僧 行基によって開基させたのが始まり。
かなり古くから信仰されていたようです。
あの、信長さまもこちらには来ているようです。
豊臣秀吉との関係も強く、多くの書物、宝物が寄進されていました。
慶長七年(1602年)には秀頼が豊国廟より、唐門などを移築しています。

“舟廊下”(重文)の下から。

“舟廊下”

“京都東山の豊国廟の正門・極楽門を移築したものと言われています。

桃山様式を色濃く残しています。
信長がきたここへ来た頃は、この宝厳寺があっただけ。

こちらは西国三十三観音霊場三十番札所で、天平十年(738年)に行基によって弁財天を安置したのが始まりといわれています。
島滞在時間80分という制約の中で、駆け足で巡ってきました。

そこからフェリーで40分

見えてきました、“竹生島”

この島、琵琶湖の沖合6kmに浮かぶ周囲2km余りの小さな島で、島の名前は
「神を斎(いつ)く島」に由来しているそうです。中世以来、西国三十三ヵ所観音霊場として賑わっていたそうです。

この島の中にある、宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が夢枕に立った天照皇大神のお告げを受け、僧 行基によって開基させたのが始まり。
かなり古くから信仰されていたようです。
あの、信長さまもこちらには来ているようです。
豊臣秀吉との関係も強く、多くの書物、宝物が寄進されていました。
慶長七年(1602年)には秀頼が豊国廟より、唐門などを移築しています。

“舟廊下”(重文)の下から。

“舟廊下”

“京都東山の豊国廟の正門・極楽門を移築したものと言われています。

桃山様式を色濃く残しています。
信長がきたここへ来た頃は、この宝厳寺があっただけ。

こちらは西国三十三観音霊場三十番札所で、天平十年(738年)に行基によって弁財天を安置したのが始まりといわれています。
島滞在時間80分という制約の中で、駆け足で巡ってきました。
