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「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

武田信玄の書状

2013-10-20 23:17:59 | 城、城跡、歴史
今朝の新聞にこのような記事が載っておりました。

信玄の直筆書状 発見!



内容は次の通り

書状は、縦24・2センチ、横31・2センチの大きさ。
末尾には「八月十日」の日付とともに、「晴信」の署名と花押が記されています。

 書状は「天文23年」(1554年)に書かれたものとみられ、信州の小諸城(長野県小諸市)の攻略を狙っていた信玄が、信繁に対し、親族や家来を束ねて戦闘準備を整えるよう指示した内容。

信玄の直筆書状は、全国でも数点しか確認されておらず、信繁(左馬助)宛てのものは初めてとのことです。

小諸城の起こりは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が、現在の城址の東側に館を築いたことから。

その後、大井光忠が小室氏の勢力を押さえて鍋蓋城を築き、さらにその子光為が出城として乙女坂城(別名白鶴城・二の丸跡)を構えました。

天文23年(1554年)甲斐の武田信玄の攻略により落城。

武田信玄はこの地が重要であることから、山本勘助と馬場信房に命じて築城したのが、現在の小諸城址で「酔月城」とも呼ばれています。

その後、仙石秀久が城主となって二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建て、現在の小諸城が完成しました。


三之門(国重文)

こちらは、1615年に建てられましたが、1742年に起きた洪水によって崩壊、現在のものは1765年に再建されたものです。


二の丸

立派な石垣ですな~。

日本の100名城、28番に選定されております。

岐阜より北に位置する城跡はまだ訪れていないところが沢山あります。


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白虎隊の日

2013-08-23 19:27:46 | 城、城跡、歴史
8月23日、1868(明治元)年のこの日、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した日です。



会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分け、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていました。

会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加し、越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げていた。

この日、飯盛山にいた白虎隊の士中二番隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津落が落城したものと思い、20人の隊員全員が自刃した日です。

日新館を訪れたときに、案内くださった男性の方が仰った。
「幕府はもう戦わないと行って去ったのに、何で会津が戦わなければいけないのでしょうか?」

この言葉、この時の会津の人びとの気持ちを代弁しているようで、2年以上前に聞いた言葉ですが、今でも記憶に残っています。




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津山城、我が手に収めたぞ~

2013-07-15 21:54:59 | 城、城跡、歴史
ここ数日晴れから一転雷雨という日が続いております。
珍しく今年は“海の日”がお休みになりました。


今日もやはりそのような天気で...。
どうやら岡山県内でも1時間に100ミリ以上の雨が降ったようです。

その雨の中、津山城に出陣してまいりました。
そんな雨の中でも、県外ナンバーの車が多数訪れておりました。

この雨の中、津山城を我が手にしてまいりました。



これ、スマホで「よみがえれ!津山城天守」というサイトで、実際に津山城で撮影ポイント3か所で天守に向けて撮影すると...こんな事が出来るのです。



こんな風に、無いはずの天守が!



これなんぞ、いかがかな?

今年は、美作国1300年イベントで、8月には天守閣を1/2サイズの高さ9メートルで復元するイベントが着々と進められているようです。

その関係で天守閣跡には現在立ち入れませんでした。

期間限定での天守閣復元だそうで、完成時には再登城いたしたいと思っております。


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忠政公命日

2013-07-07 23:16:54 | 城、城跡、歴史
7月7日は、津山初代藩主森忠政公の命日でした。
昼過ぎから、津山にある本源禅寺へ鉄砲隊の方々と行ってまいりました。



命日までの1週間は、御霊屋の内部も公開しておりました。
昨年は、命日ではなかった為にご住職にお願して開けていただいたので、薄暗い中での焼香となりましたが、今回は窓もあけられて明るい中でご焼香をさせていただきました。



雨の中、又突然の雷雨の中多くの方が来られておりました。

この本源禅寺、忠政の創建当時は、津山城の出城という性格も持ち合わせていたようで、その名残がいたるところに。


分かりにくいですが、武者走りです。
創建当時は、塀には挟間もあったようです。

また、この山門も....


このあたりは、やはり出城?という感じでしょうか。

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いつものコーヒー店で

2013-06-22 19:46:15 | 城、城跡、歴史
ここ数年、コーヒー豆はここ!と決めている、表町にある“KAERU”

豆はマスターが現地で実際に見て決めたものを、自家焙煎で出されている店。
もちろんその場でもコーヒーが飲めるのですが、もっぱら豆を購入する方が断然多い。

店内にはここちのよいJAZZが流れてゆったりとコーヒーを楽しむこともできます。

今日も、豆を買う為にひとっ走り。



これで約2週間分。

店内の入り口付近には、市内の博物館、美術館のチラシやポスターが良くはられているのですが....。

今回このような催しものを発見。



「細川家の名品展」~永青文庫~

昨年、熊本城に行ったときに時間の関係で見れなかった、“細川家”の名品が、岡山にやってくるそうです。

会期は7月19日~8月25日まで。

前期、後期で若干の展示替えもあるようなので、できれば両方に行きたいと思っております。


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信長公の槍

2013-06-10 23:32:55 | 城、城跡、歴史
先日の阿弥陀寺追善供養の際に見せて頂いた、信長公の本能寺で応戦に使われた槍がこちら



普段はお目にかかれない物のようです。
手槍の先部分しか残っておりませんが、証文も一緒に保管されておりました。

イメージとしてこんな感じでしょうか?



この、フィギュアが欲しい...。

これ、食玩でしょうかね~。

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京都守護職本陣

2013-06-04 23:00:40 | 城、城跡、歴史
信長本廟の“阿弥陀寺”を出る頃には、すっかりと雨模様。

京都八重洲口の駐車場に車を置き、第2の愛車、マウンテンバイク?でここまで来た以上、脚はこれしかありません。

雨の中、それでも今まで行った事のないところへ...。

スマホナビでは、15分程度らしい“金戒光明寺”へ行く事にしました。

とにかく、ナビの通りに走りました。

途中で気がついた事....京都は坂が多かったこと....。
変速付きのマウンテンバイク?でも....きつい....。

っていうか、マウンテンバイク風....でしたね...、マイ愛車。

最後の坂道はさすがに押して上がりましたよ...。



金戒光明寺門


“会津藩殉難者墓所”

ここまで来た時点で、もう“フラフラ”

「ここまで来たけど...会津藩墓所は次にする?」
「ここまで来たら行くべきでしょ...」



「この坂上がるの~」

それでも折角来たので、坂道を登ってみました。



さすがの大河の関係か、ツアーでの方が非常に多かったですね。

「明日、絶対筋肉痛やで~」

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信長公 四百三十二回忌

2013-06-02 22:54:10 | 城、城跡、歴史
本日6月2日は、天正十年に明智光秀謀反により本能寺に於いて自刃された日です。

信長公本廟である、阿弥陀寺に於いて法要が行われました。

以前から行きたかったのですがなかなか予定が合いませんで...今回日曜日という事で初めて法要に参列いたしました。



岡山を朝6時すぎに出発、京都八重洲口に8時40分着。
その後車に積んだ来た自転車で、“いざ、阿弥陀寺へ”

自転車で約30分。

普段自転車でここまで長い時間走る事がないのと、ここ最近の運動不足も相まってかなりきつい距離でした。

「9時からって出てましたが...
「信長公、拙者間にあいそうにありませぬ~

阿弥陀寺には9時15分頃に到着。
あせりましたが.....。

法要は、10時半頃から。

まずは、お墓参りに。





前回よりも一段ときれいに整備されておりました。
“信長公”“信忠公”の墓前に手を合わせておりますと、京大の客員教授をされている方がお声をかけてくださり、しばしその場でお話を。

その後本堂へ




 
雅楽の調べで追善供養が始まりました。

法要の後は、住職の講和を聞いてまいりました。

法要の間は青空がのぞいておりましたが、阿弥陀寺を後にする頃には“ポツリ、ポツリ”と雨が...。


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黒田官兵衛の参戦示す文書発見

2013-05-11 20:48:41 | 城、城跡、歴史
黒田官兵衛の参戦示す文書発見!



文書は、長浜城にいた秀吉が戦場前線にいる弟秀長に宛てた三箇条の指示書。
 二箇条目に、秀吉軍の堀秀政が守るとりで周辺の小屋を、「将右衛門くみの衆、官兵衛くみの衆、隼人くみの衆」が協力して壊すよう指示。また、「明日には後方から軍勢を送り込むので、今いる軍隊は前線から撤退することはあってはならない」などと記されているそうで、黒田官兵衛の参戦を裏付ける文書の発見だそうです。

なお、展示は来月の2日までだそうです。

それにしても、えらいタイムリーな発見ですなあ~

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奥州・平泉の旅 パラパラ漫画編

2013-05-07 19:44:20 | 城、城跡、歴史
奥州・平泉の旅、最終日に訪れたのが、中尊寺にほど近い“ゆめやかた”なる施設。
奥州藤原四代の歴史と文化を精巧な蝋人形で再現した展示が大変面白かったです。


「はっ

     
     「(う)そう」 
     

「とび

これぞ、源平壇之浦の戦いで有名なのが義経の「八艘飛び」。

 平家の中で”王城一の強弓・精兵”と評されていた武将、“平教経(のりつね)”は、屋島の戦い以来、義経を討つことに賭けていました。
 平教経は源氏の船に単身で斬り込み、義経を追い討とうとするのですが、身の軽い義経は、海上を飛び跳ねるように別の船に乗り移り、教経の攻撃をかわし続けたといわれています。
 平家物語によると義経はニ丈(6m)も先の隣の船に飛び移ったとか...。
これが事実ならば、陸上選手もびっくり!

こちらは勧進帳

源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。しかし関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いていた。
富樫は通行を許すが、部下のひとりが義経に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、疑いを晴らす。



              
“弁慶”「強力の分際で...」(ごめんね...義経
   
   “義経”

              
“富樫左衛門”「まっ、そこまでせんでも...」


弁慶の立ち往生



哀れ泰衡の最後

“ズバッ

“うぎゃ~ああああああっ

頼朝に屈して父秀衡の遺言を破り、義経を討ったばかりか命乞いをし、最期は家来に裏切られて奥州藤原氏を滅亡させた泰衡は、偉大な秀衡の不肖の息子として評判は良くないようで、父親が偉大すぎたのかもしれませんね。
「吾妻鏡」の中でも泰衡について「阿津賀志山の陣が大敗したと聞いてあわてふためき我を忘れ」、「一時の命を惜しんで隠れる事鼠のごとく、退くこと子犬に似たり」などと酷評している。

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