今朝の新聞にこのような記事が載っておりました。
信玄の直筆書状 発見!

内容は次の通り
書状は、縦24・2センチ、横31・2センチの大きさ。
末尾には「八月十日」の日付とともに、「晴信」の署名と花押が記されています。
書状は「天文23年」(1554年)に書かれたものとみられ、信州の小諸城(長野県小諸市)の攻略を狙っていた信玄が、信繁に対し、親族や家来を束ねて戦闘準備を整えるよう指示した内容。
信玄の直筆書状は、全国でも数点しか確認されておらず、信繁(左馬助)宛てのものは初めてとのことです。
小諸城の起こりは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が、現在の城址の東側に館を築いたことから。
その後、大井光忠が小室氏の勢力を押さえて鍋蓋城を築き、さらにその子光為が出城として乙女坂城(別名白鶴城・二の丸跡)を構えました。
天文23年(1554年)甲斐の武田信玄の攻略により落城。
武田信玄はこの地が重要であることから、山本勘助と馬場信房に命じて築城したのが、現在の小諸城址で「酔月城」とも呼ばれています。
その後、仙石秀久が城主となって二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建て、現在の小諸城が完成しました。

三之門(国重文)
こちらは、1615年に建てられましたが、1742年に起きた洪水によって崩壊、現在のものは1765年に再建されたものです。

二の丸
立派な石垣ですな~。
日本の100名城、28番に選定されております。
岐阜より北に位置する城跡はまだ訪れていないところが沢山あります。

信玄の直筆書状 発見!

内容は次の通り
書状は、縦24・2センチ、横31・2センチの大きさ。
末尾には「八月十日」の日付とともに、「晴信」の署名と花押が記されています。
書状は「天文23年」(1554年)に書かれたものとみられ、信州の小諸城(長野県小諸市)の攻略を狙っていた信玄が、信繁に対し、親族や家来を束ねて戦闘準備を整えるよう指示した内容。
信玄の直筆書状は、全国でも数点しか確認されておらず、信繁(左馬助)宛てのものは初めてとのことです。
小諸城の起こりは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が、現在の城址の東側に館を築いたことから。
その後、大井光忠が小室氏の勢力を押さえて鍋蓋城を築き、さらにその子光為が出城として乙女坂城(別名白鶴城・二の丸跡)を構えました。
天文23年(1554年)甲斐の武田信玄の攻略により落城。
武田信玄はこの地が重要であることから、山本勘助と馬場信房に命じて築城したのが、現在の小諸城址で「酔月城」とも呼ばれています。
その後、仙石秀久が城主となって二の丸、黒門、大手門を建て、その子忠政が三の門、足柄門を建て、現在の小諸城が完成しました。

三之門(国重文)
こちらは、1615年に建てられましたが、1742年に起きた洪水によって崩壊、現在のものは1765年に再建されたものです。

二の丸
立派な石垣ですな~。
日本の100名城、28番に選定されております。
岐阜より北に位置する城跡はまだ訪れていないところが沢山あります。
