天正十年六月二日。
6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍は本能寺を完全に包囲した。
馬の嘶きや物音に目覚めた信長が小姓・森成利(乱丸)に訪ね様子をうかがわせた。小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。
だが、本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。
紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と成利(乱丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。
成利(乱丸)らは信長に対し、本能寺から逃れるよう進言したが、光秀の性格や能力、明智軍の兵数を知っていた信長は脱出は不可能と悟り、「是非に及ばず」と言い放ち、弓を持ち表で戦った、が、
しかし弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。
殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。
女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は成利(乱丸)に火を放たせ、自刃。
信長の遺骸は発見されなかった。
これが本能寺の変のかいつまんだ流れ。
その本能寺の変から今年432年。
433回忌が今日です。
昨年はちょうど休みと重なり、参列しましたが今年は残念ながら月曜日ということで致し方なく、岡山から線香をあげさせていただきました。

信長公墓所とされる、京都・阿弥陀寺

信長、信忠父子の墓は同じ場所に並んでいる。
向かって右側が信長、左側が嫡男の信忠の墓。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍は本能寺を完全に包囲した。
馬の嘶きや物音に目覚めた信長が小姓・森成利(乱丸)に訪ね様子をうかがわせた。小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。
だが、本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。
紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と成利(乱丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。
成利(乱丸)らは信長に対し、本能寺から逃れるよう進言したが、光秀の性格や能力、明智軍の兵数を知っていた信長は脱出は不可能と悟り、「是非に及ばず」と言い放ち、弓を持ち表で戦った、が、
しかし弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。
殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。
女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は成利(乱丸)に火を放たせ、自刃。
信長の遺骸は発見されなかった。
これが本能寺の変のかいつまんだ流れ。
その本能寺の変から今年432年。
433回忌が今日です。
昨年はちょうど休みと重なり、参列しましたが今年は残念ながら月曜日ということで致し方なく、岡山から線香をあげさせていただきました。

信長公墓所とされる、京都・阿弥陀寺

信長、信忠父子の墓は同じ場所に並んでいる。
向かって右側が信長、左側が嫡男の信忠の墓。
