3日目は朝から、達屈窟へ
延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷(アテルイ)を討伐した記念として建てた堂。正式名称は、達谷窟毘沙門堂といいます。
平泉の南西約6キロメートルに位置し、北上川の一支流太田川を西にさかのぼると、谷を分岐する丘陵尾根があり、その先端部に現在の天台宗達谷西光寺がある。達谷西光寺境内の西側には、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂が....。

鳥居をくぐると右手に見えるのが、毘沙門堂
「岩にめり込んだお堂だね~」
「めり込んだって...でも確かにめり込んでるね」


中はさすがに撮影禁止。
立派な毘沙門天が置かれておりました

毘沙門堂、本当に岩にめり込んだように建てられています。
その証拠がこの写真。建物半分の頭上は“岩”がむき出しです。
写真はありませんが、毘沙門天の頭上は完全に岩肌のみ。洞窟の中のような感じでした。
このお堂、何度も火災に遭い、
慶長20年(1615年)には、伊達政宗により再建。されたりしておりますが、現在のお堂は
昭和36年(1961年)に再建された5代目のお堂です。

延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷(アテルイ)を討伐した記念として建てた堂。正式名称は、達谷窟毘沙門堂といいます。
平泉の南西約6キロメートルに位置し、北上川の一支流太田川を西にさかのぼると、谷を分岐する丘陵尾根があり、その先端部に現在の天台宗達谷西光寺がある。達谷西光寺境内の西側には、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂が....。

鳥居をくぐると右手に見えるのが、毘沙門堂




中はさすがに撮影禁止。
立派な毘沙門天が置かれておりました

毘沙門堂、本当に岩にめり込んだように建てられています。
その証拠がこの写真。建物半分の頭上は“岩”がむき出しです。
写真はありませんが、毘沙門天の頭上は完全に岩肌のみ。洞窟の中のような感じでした。
このお堂、何度も火災に遭い、
慶長20年(1615年)には、伊達政宗により再建。されたりしておりますが、現在のお堂は
昭和36年(1961年)に再建された5代目のお堂です。
