車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 山口県旧鹿野町(周南市)

2024年05月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧都濃郡鹿野町(かのちょう)は山口県の東部に位置し、都濃郡で最後まで残っていた町です。徳山市、新南陽市、徳地町、錦町、県を跨いで島根県六日市町、日原町に隣接。「町の木:杉」「町の花:シャクナゲ」を制定。鹿野SAのスタンプですが、デザインは「津和野の鷺舞神事」😥

明治22年(1889)、町村制の施行により都濃郡(つのぐん)鹿野村・須金村が発足。

1940年、鹿野村が町制を施行、都濃郡鹿野町となる。

1955年、須金村金峰の一部・および須万の一部が鹿野町に編入。

1955年、鹿野町が佐波郡徳地町巣山を編入。

2003年、鹿野町、徳山市、新南陽市、熊毛町と合併して周南市が発足。

マンホールには「町の木:杉」を中心に、周囲に「町の花」石楠花」と町章がデザインされています。(マンホールは知人からの頂き物)

1963年3月制定の町章は「「かの」を円形に合わせたもの」

明治時代、鹿野町「二所山田神社」『宮本重胤』という宮司がいました。当時、女性が神や仏に奉仕するとされる職に就く事はタブーとされていましたが、神道には女性をけがれとみなす思想は無かったことから、女性神主の登用や参政権を求め1905年に「日本敬神婦人会」を結成。明治39年(1906)にその機関誌『女子道』を発刊し、その資金源を確保するため設立されたのが、おみくじの製造・販売を行う「女子道社」でした。今でも、印刷以外の紙を折ったり切ったりする作業や、おみくじの箱詰めは全て手作業で行なわれています。1906年には、日本で初めて「おみくじ自動頒布機」を考案したのも同社で、日本のおみくじ製造・出荷数の60〜70%シェアを誇っています。

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機会を逃して立ち寄れなかった旧鹿野町。中国自動車道:鹿野SAが唯一の立ち寄り地とは、何ともお粗末な結果 😩😣

訪問日:2015年11月10日

 

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周南市あちこちウォッチ in 山口県周南市

2024年05月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市土井にある「国登録有形文化財:旧日下医院本館」。昭和3年(1928)に医院として建てられたもので、現在は複合ショップとして活用されています。

「西面して建つ木造2階建。L字型に落棟を設ける寄棟造瓦葺。正面は中央北寄りに車寄を設け、窓を南に3ヶ所、北に2ヶ所開け、柱型を表す。外壁はモルタル塗で、2階窓下などに幾何学的な装飾を施す。セセッション風意匠になる昭和初期の建築として親しまれる。」文化遺産オンラインより

遠目から改めて眺めても異彩を放っています。

周南市晴海町にある「晴海親水公園」。今日のお昼はここで用意したお弁当を頂きます。広大な敷地に他に人影はなく、贅沢過ぎる休憩時間を過ごしました。

眼前に繰り広げられるのは、工場群やクレーンなどが立ち並ぶ周南コンビナート。その圧倒的な迫力に、しばし時を忘れて見入る二人・・・

「東浜崎の石灯台」は、明治26年(1893)、当時「共栄社」の代表であった『光永又之丞』によって建立されたもので、 ランプによって点灯していました。役目の終 わった灯台は、2002年3月に、船から一番よく 見える徳山湾頭の親水公園内に移転。徳山の明治を象徴する建造物とし て、その雄姿は今も人々から親しまれています。

「遠石神社」の近くで見かけた「吉田屋醤油(株) アサヒワシ醤油」の鏝絵看板。その迫力の凄さに思わず「この醤油、買いたい!!🌸」

同じく、近くで見つけた「基準点」

訪問日:2015年11月15日&2017年11月29日

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2015年・2017年の山口車泊旅では、「道の駅ソレーネ周南」にて車中泊をさせて頂きました。美味しい物が一杯の店内、ついついあれこれと買ってしまって・・さぁ、どうやって狭い車内に収納しよう😓

2015年の翌朝は、陸上自衛隊の「軽装甲機動車:96式装輪装甲車」の展示があるという事で、出発時間を大幅にずらして・・いや~何だろう?この頼もしさ。元々、応援していた自衛隊の活動ですが、阪神大震災を経験し、より一層有難さを感じるようになりました🙏

で・・・、自分では食べられないくせに、ご亭主殿御所望の「海軍カレー」二種、外色々・・買ってしまいました😆

2017年の車中泊ではこの「巨大な梨」他、色々お買い上げ。「大丈夫か??🍀」とご亭主殿。「食べきれるの??🐣」とJさん。大丈夫、ちゃんと二日で完食しました😆

車で旅をする者にとってこの様な道の駅は本当に有難く大切な場所です。

改めてその折には有難うございました🙏🙏🙏

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川崎観音堂 in 山口県周南市川崎(旧新南陽市)

2024年05月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市川崎に門を構える「周防国三十三観音霊場:西国十八番」 「霊峰山:川崎観音堂」『十一面観世音菩薩』を本尊とします。

川崎観音(音羽観音)由来に「当寺の観世音菩薩は平安時代末期(1183~)平家の武将「平の景清」が兜の八幡座に頂き幾多の戦陣を駆け巡るも観音加護により身に寸傷も受けなかったという御身丈一寸八分の十一面観世音菩薩である ~略」

元は「曹洞宗寺院:萬福寺」というお寺でしたが、萬福寺が北方の須々万地区に移転し、観音堂だけが残されました。安産とお乳の観音様として知られ、お乳の奉納絵馬が有名である事から、別名「おっぱい観音」と呼び親しまれています。

個人的に感動してしまった「おっぱい」。柔らかなタオル地を使い、レース編みと真珠色のビーズで大切な部分を作っています。きっと生まれてくる赤ちゃんは、ママの手作りの玩具や産着に囲まれるんだろうな。

子安地蔵尊

「石祠(せきし)」と碑

勇猛な平景清が海岸から運び上げたと伝わる「景清の力石」。力石を撫で、自分の腰から下の患部を擦れば腰痛などの治癒に霊験ありと伝えられてい ます。

目を患った景清が、井戸の清水で目を洗ったと言われる「景清の目洗い井戸」

「目の悪い人は自分の定規箸で井戸から出る溝のゴミを取り除くと霊験あらたかといわれています。「金」等投入すると目病になると言われています」・・と書かれているにも拘らず小銭を投げ入れる人・・ここはトレビの泉じゃありません。ちゃんと賽銭箱がありますよ😠

「楠洞中村先生の墓」・・ごめんなさい😓 何方なのか存じ上げません。

御詠歌【 ちかいある 仏の御手のかずかずに 手間の糸を かけて頼まむ 】

参拝日:2015年11月15日

 

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山崎八幡宮 in 山口県周南市富田河内(旧新南陽市)

2024年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市富田河内に鎮座される「山崎八幡宮」。御祭神は『応神天皇』『田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・神功皇后』を配祀します。

由来書に「新南陽市富田河内の神室山に神が降臨され、これを祀った。また一説には、豊前国宇佐より御分霊を祀ったとも言われている。和銅二年(709)八月に、現地に鎮座され[江宮(えのみや)」と称した。大同元年(806)・宝暦七年(1757)火災により、社殿・宝物・古文書等はすべて焼失。神仏習合の時代には真言宗の荘宮寺と習合し「荘寺八幡宮」と呼ばれていた。明治維新の神仏分離により「山崎八幡宮」と改明。明治四年に郷社となり、明治九年(1871)に社殿を再建。昭和五年、県社に昇格。」

龍門(楼門)

龍門(楼門)前左右より神域を守護されるのは、安永六年(1777)建立の上宮型浪花狛犬さん一対。スラリと細身の体に小ぶりの尾団扇。口元も程々で狛犬界では紳士顔の一対😊。

楼門左右の水盤には清浄な榊が置かれており、これを用いて身を清め、神前に参拝します。

拝殿

奉納絵馬は「霊峰富士の鏝絵」

境内の一画に建立された亀趺「洞春公(元就)の安芸に起こるや、使を遣わして以て祈ることしばしなり、兵出でて勝たざるはなし、十州を奄(領)有す、以て冥裕(めいゆう、神仏のご加護)の使事する所となす」とあり、毛利氏も篤く崇敬し、江戸時代には徳山藩の御祈願所として、歴代藩主が度々社参した。文化四年(1807) 南部伯民 撰文

亀趺の近く、石灯籠を間に神域を守護されるのは「大正十五年(1926) 徳山町遠石 石匠 武田道助」の刻を持つ徳山型狛犬さん一対。阿形さんの四角い口が妙にツボ😅

拝殿前右手にはキリンビールの製壜工場に設置されていた「麒麟像」2013年の山﨑八幡宮御鎮座1300年に合わせ、富田で親しまれてきたキリンビールの製壜工場があった証として奉納されました。

本殿の右にしつらえられた「築山枯山水」

築山之碑詞略~南には黒髪島、竹島などしまじまならび南の海辺なる島々より ここらの石を運びてその狭間には様々の草木を植えたり巌の佇まい坏 いとめづらかになむ されば春は花のころ 秋は紅葉の時など 人の心をゆかしむべし掛巻もかしこけれど 折々は神のみ心を慰め給ふらん かかれば菊川の久しくしくまがだけの動きなく御社の栄む事を寿ぎつつ かしこみかしこみもしるす 長門国住吉神社宮司  明治二三年八月 ~略

境内の一画に鎮座されていた石。奥に見える輝石は・・もしや「黒髪島水晶」では😍

本山坂の石段参道の一角に『青木健作』句碑。

【 寒月や 干潟に光る いかの甲 】

「御神田記念碑」

境内から見下ろす鳥居、真っすぐに続く宮の前。亀趺の一文に「古くは社の前は海辺であった。虎の形をした洲があり、これを虎の洲といった。」

山崎八幡宮の境内下に門を構えるのは、かって神宮寺であった「真言宗寺院:荘宮寺(しょうぐうじ)」

石祠の中に座しておられる「弘法大師像」

参拝日:2015年11月15日

🌸明日はおっぱい観音の名で知られる「川崎観音」の紹介です。

 

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永源山公園 in 山口県周南市富田(旧新南陽市)

2024年05月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

永源山公園は、新南陽市が昭和45年(1970)11月の市制施行を記念して計画された公園で、市街地の中央に位置し、緑豊かな自然と山頂からの眺めもすばらしいことから、市民のレクリエーションやコミュニティ活動の場となるよう、また市民の「ふるさと」としての心のシンボルとなることを願って着手したものです。

山頂には、日本最大級のオランダ風車「永源山公園 夢風車」があり、周南市のランドマークとしてその存在感を知らしめています。

そんなこんなで😅 とにもかくにも山頂を目指します。

市の花:サルビアで彩られた花時計・・・一応、四季咲きのサルビアですが、冬の寒さには若干弱く・・寂しい姿に💦

なんだかんだで山頂に到着(笑)。お目当ての夢風車は目の前にドーンとそびえています。

高さ24m 羽の長さ12m

並んで立っている私の姿に気が付かない位、兎に角大きい😍

山頂から見る新南陽市の景色

中央付近に見えているのが「周防大橋」で・・、その向こうに見えるのが「大津島」。橋が無いから車では行けないね😥

山頂の景色を楽しんだら下山・・と言うほど大層なものではないのですが、一応山なので😅。 途中で何かのモニュメントらしきものを発見!と近寄ってみれば「永源山北3号古墳」

「墳丘の低い小型の円墳、内側には小型の箱式石棺。棺の中には頭蓋骨だけが残っていました~」。いや・・それって素直に怖い😱

この辺りは古墳山だったのね・・。古墳って言うと何でもなく聞こえるけど、要は古代人のお墓だからね。ホントの所はね、何時の時代のものでもお墓は苦手。

根性無しの我が足にはそれなりに大変だった永源山も、この石段を下りたら終了。

と言ってる目の前に「永源山北1号古墳の石棺」😅 要するに石の棺桶・・って、まだ言ってる(笑)

園内の案内看板で見かけた「ジョウビタキ(雄)」の写真。こんな姿を見る事が出来たら、古墳山だろうが何だろうが、きっと最高に嬉しいだろうね。

訪問日:2015年11月15日

🍀明日は富田河内に鎮座される「山崎八幡宮」の紹介です。

 

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ご当地マンホール in 山口県旧新南陽市(周南市)

2024年05月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧新南陽市(しんなんようし)は山口県の中央から、やや東よりに位置した市です。市制施行前の自治体名は南陽町でしたが、山形県に南陽市があった為、頭に「新」を冠し、新南陽市としました。徳山市、鹿野町に隣接。市域は、瀬戸内海を臨む周防灘に面した南部と、中国山脈の支脈に囲まれた北部からなり、全国でも珍しい「飛び地」という地理的条件を有しています。

南部は、天然の良港と干拓地の優れた立地条件を生かした近代的な商工業都市。北部は、島地川に沿って開けた農山村地帯で、それぞれの地域特性を生かしながら、周南地域の発展の一翼を担ってきました。「市の花木:金木犀」「市の花:サルビア」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により都濃郡富田村・富岡村・佐波郡和田村が発足。

1915年、富田村が町制を施行、都濃郡富田町(第1次)となる。

1941年、富田町が富岡村を編入。

1949年、 徳山市のうち旧村域が分立して福川町(第2次)が発足。

1953年、都濃郡富田町、福川町が合併、南陽町が発足。

1955年、佐波郡和田村を編入。

1970年、南陽町が改称・市制を施行し、新南陽市が発足。

2003年、徳山市・鹿野町・熊毛町と合併、周南市となりました。

マンホールには永源寺山公園の「夢風車」と「市の花木:金木犀」「市の花:サルビア」がデザインされています。

高瀬地区の特定環境保全マンホールには「島地川ダムと螢」、特産の「和田丸太原木」がデザインされています。

永源寺山公園内に設置されているコンクリ―制のマンホール

1970年11月2日制定の市章は「1958年に南陽町章として制定され、市制施行後に継承。新南陽市の「南」を図案化したもので、商工業都市として限りない発展と市民相互の強い和を表現しています。」旧HPより

市章が無く自治体名が記されています。

新南陽市庁舎の敷地内にあった「道源・椎木両氏顕彰碑」

撮影日:2013年4月17日&2015年11月15日

🌸明日は永源山公園「夢風車」他、諸々の紹介です。

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遠石(といし)八幡宮~其の二 in 山口県周南市遠石(旧徳山市)

2024年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

二日目の「遠石(といし)八幡宮」紹介は、いつものように「一の鳥居」から。

一の鳥居左右より神域を守護されるのは「文政七年(1824)甲申7月吉祥日建立」の狛犬さん一対。角ばった四角い顎と首から背中に向かって瘤のような巻き毛、小さめの天狗の羽団扇のような尻尾もすっかりお馴染み。

二の鳥居

二の鳥居の奥、右手に御神馬。

さらに左手の奥にも先代の御神馬が奉納されています。

「三猿の像」

石段参道と三の鳥居

三の鳥居左右より神域を守護されるのは「安永六年丁酉(1777) 八月」建立の徳山狛犬さん一対。角張った顎や、真っ直ぐに伸ばした細身の脚。ピンと伸ばした背筋も頼もしく、このタイプも周防地区ではすっかりお馴染み😊

境内に見かけた句碑・・読めない😭 

「新宮速玉神社」の鳥居横の「句碑」・・やっぱり読めない😭

境内社近くに建造されていた「五重塔」

一の鳥居の外に「亀趺」。「側面に刻まれた天翔ける龍

久々に楽しいお顔だったので、正面から😊

「八幡宮龍鐙道」碑と「石灯籠」

「秩父宮殿下御登臨之地」碑

「凱旋記念」碑

御旅所の鳥居と参道石段

参拝日:2015年11月15日&2017年11月29日

🌸明日は旧新南陽市のご当地マンホール紹介です。

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遠石(といし)八幡宮~其の一 in 山口県周南市遠石(旧徳山市)

2024年05月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市遠石に鎮座される「遠石(といし)八幡宮」。御祭神は『品陀和気命(ほむだわけのみこと)=(応神天皇)』

由緒「推古天皇三十年(622)の春、「この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕わる」との宇佐八幡大神のお告げによりご神霊を奉安し、和銅元年(708)この地に社殿を造営したのを創建とします。平安時代には京都の石清水八幡宮別宮となり、 本朝四所八幡の一つとも称されました。江戸時代には毛利徳山歴代藩主の崇敬篤く、祭礼には諸国からも多くの参詣を集め門前は賑わいました。」公式HPより

境内飛地に鎮座される「影向石(えいこういわ)」

社伝に「往古宇佐八幡より神馬にて飛来され磯辺に現れた大石に降り立たれた際のお告げに、「あゝ遠し」とあり、遠くよりこの石に飛来されたことに由来するとされています。 この石は神社の西方の飛び地にあり、影向石(えいこういわ)として地元の人に崇拝されています。」

2015年・2017年の参拝で頂いた御朱印。

参道石段を上りきった先に昭和15年(1940)建造の「銅板葺:神門」、両脇に「袖塀」が設けられており、ここから先はより御祭神に近い神域となります。

向かって左側に赤衣の右大臣、向かって右に黒衣の左大臣。

神門正面に、昭和15年(1940)建造の「銅板葺:楼拝殿」。木造平屋建、銅板葺で、楼門の左右に翼部をのばし、正面に向拝屋根を持つ社殿形式を継承。

拝殿前左右より神域を守護されるのは「昭和47年(1972)」建立の青銅製の狛犬さん一対。「皇紀2600年 昭和15年(1940)」の先代さんは先の大戦の際に供出、こちらは二代目となります。

昭和15年(1940)建造の「銅板葺・三間社流造の本殿」。庇の側面を前室風に囲み、側背面に縁高欄を廻らせ木階七級を設ける。身舎側面に板唐戸を、庇に引戸をたて、妻飾は虹梁大瓶束で華やかな笈形を付し、軒は二軒繁垂木。上質な近代の神社本殿は、神門・袖塀・拝殿・幣殿と共に、2013年12月24日、国登録有形文化財に指定されました。

「儀式殿」

「撫で牛様」

「新宮速玉神社」、御祭神『速玉男神・伊邪那岐命・伊邪那美命』

「松前稲荷神社」

紹介があとになりましたが昭和16年(1941)建造の「手水舎」。社殿と同じく登録有形文化財の指定です。

🍀まだまだ終わらない「遠石八幡宮」の境内、明日に続きます。

参拝日:2015年11月15日&2017年11月29日

 

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西緑地公園:万葉の森 in 山口県周南市徳山

2024年05月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市徳山、周南緑地の西に位置する西緑地は、ハス池や、万葉の森など自然林を生かした公園となっており、のんびりと過ごすには最適の場所。冒頭は、万葉の森の近くにある「大賀ハス池」。縄文時代に咲いていたという大賀ハスが植えられており、7~8月の上旬が見頃。もちろん11月上旬の現在はただの池😅

「万葉の森」は、徳山ロータリークラブにより整備、寄贈された植物見本園で、木本類約70種、草本類約60種に及ぶ万葉植物が植えられています。

【秋野尓 咲有花乎 指折 可伎数者 七種花(秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花)】山上憶良 巻8-1537

【 折々の  風おのずから風道を  示して菖蒲の  花揺きおり 】

埴輪さんが大切に捧げ持っているのは・・小さな埴輪さんでした。

大切に手入れされた祠に手を合わせて🙏

【 いにしえに ありけむ人もわが如(ごと)か 三輪の檜原に 挿頭(かざし)りけむ 】柿本人麿

不思議の森に迷い込んだような錯覚、でも秋の日差しと鳥のさえずりが、今いる場所を教えてくれる。

【 巨勢山(こせやま)の  つらつら椿 つらつらに  見つつ思(しの)ばな 巨勢の春野を 】坂門人足(さかとのひとたり)

すっかり枯れてしまったハス池で今日のお食事を探す「サギ」君。良い獲物が見つかるといいね。

「この西緑地は京都大学演習林があったところです。」という張り紙がありました。

訪問日:2015年11月15日

🍀明日は2015年/2017年に参拝した「遠石(といし)八幡宮」の紹介です。

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児玉(こだま)神社 in 山口県周南市児玉町(旧徳山市)

2024年05月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市(旧徳山市)児玉町に鎮座される「児玉(こだま)神社」。御祭神は『児玉源太郎命』

由緒「周防徳山藩の藩士として生まれた祭神の出生地の縁により、大正11年(1922)、その徳を偲ぶ地元有志の発起によって児玉家の旧宅跡に江ノ島児玉神社の神殿を移築して創祀。昭和8年(1933)5月16日に県社に列する。」境内案内より

「児玉源太郎陸軍大将」

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大きな目がとってもユニークな昭和八年(1933)奉納の狛犬さん一対。傘寿を超えたばかりの、狛犬界ではまだまだヒヨッコさん🐤

『後藤新平』の筆による「徳足以懐遠( 德足りるを以って遠くを懐かしむ )」。大正7年建立。

児玉源太郎の薨去を悼み、祭資を賜いて弔慰すべき旨、御沙汰書きとして明治天皇により発布された「御沙汰書」

「山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれたる歌」【 越えはまた 里やあらむと頼みてし 杖さへ折れぬ 老いの坂道 】

国立台湾博物館が所蔵する新海竹太郎作の像を基に制作された「児玉源太郎像」。台湾産業の育成や学制の充実などの融和政策で台湾と台湾人の為に貢献した証として李登輝氏が児玉源太郎に贈った言葉「浩気長存(浩然の気は永遠に不滅である)」の碑。

「日本帝國褒章之記 山口縣華族 兒玉ヒサ」。児玉源太郎の叔母である久子は、子弟の教育と仏道に帰依して報謝の生活を送り、昭和三年(1928)六月二十三日に、八十六節婦として緑綬褒章を受章した旨、後藤新平の揮毫で記されています。

後藤新平「児玉神社参拝記念碑」

「徳山七士碑」「贈従四位碑」

「元治元年(1864)禁門の変の直後、徳山藩でも恭順派と主戦派とが激しく対立し、同年8月9日夜、主戦派10数人は恭順派の藩士の住居を襲い、これをきっかけに恭順派は、主戦派の河田佳蔵、児玉次郎彦、本城清、江村彦之進、浅見安之丞、信田作太夫、井上唯一の7人を捕らえて、処刑・暗殺しました。この7人は、「徳山七士」「殉難七士」「勤王七士」とも呼ばれています。」現地案内より

「勤王七士之碑」「兒玉将軍旧邸」

「台湾五葉」 「台湾総督として台湾の近代化に尽力した児玉を顕彰するため、大正14年(1925)に台湾五葉の幼木数本が台湾から取り寄せられ当社に植えられた。」現地案内より

「慰霊碑」

参拝日:2015年11月15日

🌸明日は周南緑地公園 にある「万葉の森:文学碑」などの紹介です。

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