車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大晦日に思う事・・2022年

2022年12月31日 04時21分00秒 | 徒然なるままに思うこと

2022年も今日で終わり。明日からまた新しい一年が始まります。新しい年を迎えるという事は老いに近づく一歩。悔しいけれど確実に一つ・・また一つ、体は脆くなっていくように思います。

この一年を振り返って何を思うと問われれば、それはいつも・・あの愛おしく切ない日々。4月も終わりに近い晴れた朝、かけがえのない大切な存在を失ったあの春の日の・・あの言葉にしがたい絶望の瞬間。幾日も幾日も・・癒える時など無いと思えた深い悲しみの日々・・・・・・

けれど、そんな耐え難い日々でさえ、「愛しい思い出」という名の優しさに変えていく・・時間と言う名の魔法。

|

|

財産も無い、もちろん地位も名誉も無い、心身共に健康!・・とは言い難いけど、気力だけは充分ある。辛さを分け合える友もいる。コロナ過のせいでちっとも会えなくなったけど、毎日欠かさず電話をくれる仲良しの義姉もいる。

「生きていればそれだけで幸せ♪ 小さな我が家で二人と一匹、一緒に生きていけるなら、もうそれだけで充分。」

車泊旅は出来なくなったけど、ブログに綴る思い出はこの先何年かかっても書ききれない程あるしね。だからパソコンに向かえなくなるまで書き続けて、そうして更に年老いて書けなくなったら、それを読み返して過ぎた昔を一緒に懐かしがろうよね。

そうそう、いつもいつも車泊のたびに長い日数を留守番させていたお前とも、ずっと、ベ~ッタリ!!一緒に居るからね。ウソじゃないよ!ホント!本当だからぁ~!

今でもはっきり覚えている・・お前が初めて我が家に来たのは、あれは2007年7月の朝の事。出勤したはずのお父さんが、数分後に玄関に立って「ハイ!」と差し出した両手の中に小さなお前がうずくまっていた事を。

カラスに追われて駐車場の車の下で震えていたという小さな子猫。キッチンの網戸から見えたお外に向かって、必死に鳴き始めた小さな小さな子猫。

子猫の声を聞きつけて一度だけ母猫が来たけれど、私の姿を見て、必死に泣く子猫を見て、もう一度私の顔を見上げて・・そのまま立ち去ってしまった。  ねぇ、私、お前の母さんに託されちゃったよ。鳴き続ける子猫を抱き上げると、必死にしがみ付いて・・それから部屋の片隅のキャットフードを見つけ、体半分突っ込みながら必死に食べはじめた。 

我が家には既に二匹の可愛い娘たちがいるけれど、姿を見てしまったら、一度手に抱いてしまったら・・答えはおのずと決まっている。

そうして代々継承してきた名前の一文字を入れて我が家の一員になり、翌日病院に。その日からさっそく、処方された目薬&シリンジでの投薬開始。

何をされてもじっと我慢して、終わったら、お母さんの手にスリスリして、お母さんが抱き枕にしているぬいぐるみにもたれて眠る・・思い出すだけで顔がにやけてしまうくらい、小さな小さな可愛いお前。

お前が家族に加わって賑やかになった我が家の暮らし。よせばいいのに、ついつい調子に乗ってお姉ちゃん猫にちょっかいを出し、たまにきつ~~~~い!お仕置きパンチをされたり(笑)

大先輩のお姉ちゃん猫に、ご飯の催促の仕方を教えて貰ったり、もちろんお食事時のマナーも(*^^*)

お気に入りのおもちゃは、可愛らしさに一目ぼれして買ってもらった大事な私の!(笑)ホワッツマイケル(猫漫画の主役)の手(^^;) 

誰かがわざと手を伸ばすと、慌てて専用のおもちゃ箱まで運んで一緒に隠れてる・・つもり(笑)

毎日、毎日が当たり前に過ぎていった二年後の2009年、キジ柄のお姉ちゃん猫が逝って、その翌年、ふわふわ毛のお姉ちゃん猫も逝ってしまった・・・

以来、お前は超絶な甘えっ子に変身。そうして「いつどんな時でも、ふりかえれば私の側にはお前がいる」。入浴中の浴槽に飛び込んできた時は流石に慌てふためいたものだけど、お前と来たらケロッとして機嫌よく浮かんでるものだから、私の叫び声に飛んできたお父さんも大笑い(笑) 以来、お風呂の蓋は三分の一だけ開けての入浴・・随分と長い事続いたねぇ。

好奇心旺盛で、動物が登場するビデオが大好きで、何時までも画面の前から離れなかったっけ。それからお刺身が大好物で、何時もちょっとしか貰えないんだけど、それでも一生懸命背伸びして、お父さんの側にべったり。

私が寝込んだら、どんなに暑い夏の日でも側に来て一緒に寝てくれた可愛いお前。車泊旅が出来なくなってから殆ど家で過ごしているものだから、お前はいつもご機嫌で夏でも冬でも私の腕を占領して、お陰で腕は汗疹だらけ。

お前がうちの仔になってから14年と7か月と14日。その翌日もずっとそんな風に暮らしていくって、これっぽっちも疑ってなかった。 なのに・・何でだろう?虫が知らせたのかなぁ・・・・三月のあの日、何となく様子が変な気がして、念の為にと獣医に見て貰ったら「変性漏出液で水を抜いても一時しのぎにしかならない。治療は無駄です」って・・・・、あの瞬間・・何を聞き何と答えたのか・・ああ、よく思い出せないけど、頭の中で否定の言葉だけが渦巻いてた。

何で?!どうして?!えっ??いやだってそんなのおかしい。普通に食事だってしてるのに、それなのに「余命は一週間か・・二週間でしょう」って・・そんなの、そんなの絶対におかしい!!嘘? 嘘でしょ?・・ねぇ、誰でもいい、悪い冗談だって・・

泣いて、泣いてお前を抱きしめて泣き明かした夜が明けて・・。側にいた筈のお前の姿が見えなくて、青くなって探したら、自力で二階にあがって、お日様が一杯の畳の上で日向ぼっこをしていてさ。あの時は本当に・・死ぬほど焦ったよ (>_< ) 

でもお前・・そこ好きだったもんね。そうしてお父さんと私は、日が陰るまでずっとお前の側にいて、気持ちよさそうに横になって眠るお前を見ていた。やがて横になって眠れなくなる事を・・医師に告げられていたから。

宣告を受けたあの時から40日と4日、獣医の宣告を跳ね返して、お前は私たちの側で一生懸命生きてくれた。ほんの僅かでも食べ物を欲しがってくれたら、もうそれだけで大喜びして。何でもいい・・お前が望むものを、お前が口に出来るものを誂えて、夜も昼もお前の側に寄り添って・・少しずつ確実に細くなってゆく命の火を、私はただ・・お前を愛おしむ事だけ考えて、そうしてこの一日が明日に繋がるようにと、神にも仏にもすがる思いで見続けてきたのに。

お前が私たちの最期の子供になって14年と8か月と4日・・最後の4日間は何も口にせずただ私たちの側にいてくれた。あの朝、突然苦しみだしたお前を支える私の手の中で・・その最後の鼓動が止まった・・あの瞬間の言葉にならない絶望・・・私はお前の眼を閉じ、口を閉じ、そうして言葉を無くしたまま、動かなくなったお前をずっと抱きしめていた。

真夜中に、ふと気配に気が付いて隣りを見たら私の横にぴったりと寄り添うようにお前がいて・・・ああ・・あれはきっとお前からの最期の贈り物だったんだね・・・

そんな事を思い出した瞬間・・・喉の奥から悲鳴のような声が出て・・そうやって泣き叫ぶことが出来た時、もしかしたらもう一度鳴き声を聞かせてくれるんじゃないかと馬鹿な事を考えてね・・・お前の名前を何度も何度も呼んで、まだ温かいお前の体を抱きしめて頬ずりして・・

ひたすらに生きてくれたお前が旅だった朝、塀はモッコウバラの黄色で埋め尽くされてて。お前の小さな棺を飾るためにと手を伸ばせば、まるでお前の旅立ちがわかったみたいに、淡いクリーム色の花びらはハラハラと手の先からこぼれ落ちて・・私と一緒に泣くんだよ。

お前を見送った翌日、お前が大好きだったチロリアンランプの花が、狂ったように一斉に咲いたよ。今までこんなに一度に咲いた事なんて無かったのに・・・真っ赤な涙を流してお前がいなくなったことを嘆いてくれた。

2022年も今日で終わる。ねぇ、お母さんはお父さんと一緒に、これまで通り、毎日毎日、一生懸命に前を向いて生きていく。お前がいなくなった悲しさは、まだちっとも薄れないけれど、それでもお前に約束する。この先もずっと、しっかり前を向いて、お前に負けないように頑張って生きていくよって。

二人そろって病院と仲良しになったけど、お前の側に行くのはまだずっと先だからね。ちゃんとお姉ちゃん猫たちと一緒に仲良く待っててね。そうそう、お前は知らないだろうけど、お前が来る前の年に向こうに逝ったお兄ちゃん猫は、そりゃぁ面倒見が良くて男前でね。だからすっごく頼りにして良いからね。

ああ・・・きっと今頃は、みんな揃って下界を見ながら楽しくやってるんだろうな。

「時という偉大な力は、どんなに辛くて悲しい日々も思い出という優しさに変えてくれる」・・人の力ではどうする事も出来ない時のお母さんのおまじない。ねぇ、お母さんはこれからも今まで通り、小さな庭に咲く花たちの世話をしながら、かわり映えのしない毎日を送って・・そうして多分、一つ一つ咲いた花を見るたびにお前たちの事を思い出すよ。

今日が終わって新しいカレンダーに変わったら、またいつも通り、何事も無かったような顔をして、マンホールやら神社やら、素敵な旅の思い出を毎日せっせと綴ってゆく。

------------------------00----------------------

拙いブログですが、一年間のお付き合い、有難うございました。

迎える新しい年がより美しきものでありますように。

2022年 大晦日

 

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 大阪府高槻市

2022年12月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

高槻市(たかつきし)は大阪府の北摂三島地域、京都市と大阪市との中間に位置し 、二大都市のベッドタウンとして発展してきました。大阪府の市域を流れる芥川上流に広がる「渓谷・摂津峡(せっつきょう)」は、府の名勝に指定され、市街地から近い景勝地として人気です。

キャッチフレーズは「水とみどりの生活文化都市」

1889年、町村制の施行により、島上郡高槻村が発足。

1896年、島上郡が三島郡に変更。三島郡高槻村となる。

1898年、高槻村が町制を施行、三島郡高槻町が発足。

1931年、三島郡大冠村・清水村・芥川町・磐手村と合併、改めて高槻町が発足。

1934年、三島郡如是村を編入。

1943年、高槻町が市制を施行、高槻市が発足。

1948年、三島郡阿武野村を編入。

1950年、三島郡五領村を編入。

1955年、三島郡を三箇牧村を編入。

1956年、三島郡富田町を編入

1958年、京都府樫田村を編入。現在に至っています。

マンホールには「市の木:欅」「市の花:卯の花」を配し、下水道整備による清らかな水辺の復活を願い、北摂の代表的な景勝地である摂津峡の春がデザインされています。

「鴻池水みらいセンター 」展示マンホール

池田市マンホールサミット展示マンホール

上に市章、勢い良く流れる摂津峡がデザインされています。

摂津峡(2010年8月4日)

市章を中心に「安満遺跡」と「弥生人の足跡」「古代米」がデザインされたマンホール。訪問時点では該当マンホールは、高槻市観光協会事務所の展示蓋のみです。

池田市マンホールサミット展示マンホール

昭和43年6月5日制定の市章は「大阪市と京都市の市章を組み合わせ、高槻の高をかたちどったもので、京阪両都のちょうど中間に位置し、大きな役割を果たしながら両都とともに発展する本市の姿をあらわしている。」公式HPより

高槻市水道部キャラクター『すいぞうくん』がデザインされた仕切弁

仕切弁

泥吐弁

消火栓

側溝蓋

高槻市マスコットキャラクター『はにたん』。高槻市役所営業課での見習い期間を経て、2012年10月1日付けで「たかつきPR係長」に就任。高槻市の魅力発信・知名度向上に取り組んでいます。

撮影日:2008年4月5日&2009年5月3日&

2017年3月14日&2018年8月11日

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪市高槻市Bのマンホールカード第8弾

2022年12月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2018年8月11日、第8弾として全国76自治体で76種類(計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「高槻市B」のマンホールカードは、「阪急高槻市駅ミング阪急高槻内2F:高槻市観光協会事務所 」でいただけます。

1994年に設置開始されたマンホールには「安満遺跡」と「弥生人の足跡」「古代米」がデザインされています。

裏面には上記マンホールと、「水田跡」「弥生人の足跡」「古代米」の写真とデザインの由来が書かれています。

「安満遺跡公園一帯には、弥生時代前期の環濠集落・安満遺跡が広がっており、国宝級の大切な歴史遺産として、国の史跡指定を受けて保存が図られています。 公園の地下には、昨今、頻発する局地的大雨から市街地の浸水被害を軽減させることを目的に、貯留量2万㎥の雨水貯留施設を整備しています。 このマンホール蓋は、雨水貯留施設の工事に伴い発掘された弥生時代の「水田」と「弥生人の足跡」、そして「古代米の稲穂」などをモチーフにした限定デザインです。 「弥生人の足跡」は実寸で表現しています。 ぜひとも公園に出向いて自分の足と比べてみてください。」

座標軸マンホール(配布先展示蓋)

訪問日:2018年8月11日

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪市高槻市Aのマンホールカード第3弾

2022年12月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「高槻市A」のマンホールカードは、「高槻市役所本館7階下水河川企画課」でいただけます。

1988年に設置開始されたマンホールには「芥川」と「市の花:卯の花」、「市の木:欅」がデザインされています。

裏面には上記マンホールと、「 摂津峡と桜」と「うのはな」「摂津峡」の写真とデザインの由来が書かれています。

「下水道整備による清らかな水辺復活の願いを込めたマンホール蓋です。景勝地「摂津峡」の春をモチーフとしており、都市に潤いを与える 「芥川(あくたがわ)」の清らかな流れ、高槻市の花「卯の花(うのはな)」、市の木「欅(けやき)」をバランスよく描いています。 摂津峡は春に見ごろを迎える桜の名所として知られる一方、夏は新緑に川遊び、秋には紅葉と、四季折々に姿を変えて人びとの目を楽しませて くれます。また、芥川は下水道の普及によって水質の改善が進み、魚道整備の効果もあり、今では天然アユが遡上するまでになりました。 多様な生物の命を育む川として、広く市民に愛されています。」

座標軸マンホール

配布先展示マンホール

配布先で頂いた「高槻の下水道」パンフレット

訪問日:2017年3月14日

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水間寺:愛染堂 in 大阪府貝塚市

2022年12月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

水間時の紹介、最後は本堂の南端に建ち「良縁・縁むすび」のご利益があるとして有名な「愛染堂」。御本尊は、行基が椿の木に刻んだものと伝えられる『愛染明王』。この仏様、「良縁成就・結婚成就・夫婦円満」に関して、仏教神の中では最強なのです。

「約700年前、伏見天皇の勅使御参侯の随身に山名清十郎という美男子ありしが、当日勅使饗応のために村下の豪農楠右衛門の娘、お夏が出仕し、これまた鄙にまれな美女にて、いつしか相い思いつつもその場は別れ、その後、お夏は境内愛染明王に毎夜祈願致し、その甲斐あってか間もなく南北朝の戦いが始まり、清十郎は先陣を承り、住吉渡辺橋に戦功を立てしも、敗者の身となりしを聞き、お夏は愛染橋の加護により、奇しくも住吉の松原にて清十郎に巡り会い、水間に手に手を取って帰り、仲睦まじく想いを遂げ、苔下の露と消ゆと伝う。」公式HPより

水間の「お夏清十郎」の伝説は、昭和11年(1936)に『林長二郎(長谷川一夫)・田中絹代』の主演で映画化されました。絶世の二枚目俳優として世の女性を虜にした『林長二郎』。黒目がちのうるんだ瞳と清純な美貌で、世の男性陣のハートを鷲掴みにした『田中絹代』。 

と、いかにも見てきたように書いていますが、すべてはるか昔に聞かされた今は亡き母の受け売り(笑)。 余談はさておき、墓の前の花立には、映画の主演を務めた記念として二人の名が刻まれています。

【 契(ちぎ)らばや 君は赤 われ 白椿 】正岡子規。

「愛はとこしへに」 紅白の椿をあしらった絵馬

この「お夏清十郎」ですが、寛文2年 (1662) に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件が元になったと伝えられています。大店の娘お夏と手代の清十郎は恋の為に家もお店も捨てて駆け落ちしますが、世間知らずの二人・・すぐに見つかり、清十郎は捕えられ、かどわかしの罪で獄門。狂ったお夏はやがて行方知れずとなり・・。御亭主殿曰く「なんとも哀れだね・・」

厄除橋から見た「近木(こぎ)川」

参拝日:2015年10月9日

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水間寺(みずまでら)~其の二 in 大阪府貝塚市

2022年12月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

昨日に続いての水間寺紹介、まずはスタート地点に戻り「厄除橋」と名付けられた太鼓橋の画像から。

橋の手前には、寺名を刻んだ石柱。傍らの小さな祠にはお地蔵様が祀られています。

ご詠歌碑 【 みなかみは  清き流れの水間寺  願う心の  底はにごらじ 】

境内参道東側には、地蔵堂と並んで、享保12年(1727)建立とされる「千日隔夜宝篋印塔」「隔夜参り」は、念仏を唱えながら二つの寺社を1夜交代で千日お参りをするという修業の事ですが、千日・・って三年間ですよ・・・(^^;)

塔身(とうしん)の側面には、念仏を唱えながら社寺に参詣する「隔夜僧」の姿が彫られています。水間寺から18キロ離れた阪南市の「大願寺」にも、同じ作善(さぜん)による宝篋印塔があるそうです。

「説法石」

水間寺の境内には、前述の「千日隔夜宝篋印塔」を始めとして、沢山の石仏や石灯篭、顕著碑の類が建立されています。

そんな中で、特に印象に残った一対の石灯籠。

四層の台座の上に置かれた石灯籠。これを支えているのは六体の石像。二基の灯篭を支える12体の姿はそれぞれ微妙に異なってはいますが、基本的には一対を成して同じ姿勢のようです。

力神なのか、修行僧なのか・・もしくは仏の教えによって改心した邪鬼なのか・・・

悟り切ったかのように膝に手を置く姿、やれやれと安堵の表情で頬杖を突く姿。

頬杖をつきながら膝に手を置く姿、悩みなどは笑い飛ばせとばかりの姿。

こちらはお名前がはっきりとわかる「布袋様」。この細い橋の先に満面の笑みで鎮座されています。

とかくお腹に問題を抱える御亭主殿。布袋様のお腹を撫でて健康祈願のつもりですが、どう見ても太鼓腹自慢(^^;)・・・食事制限させねば(笑)。

今更ではあるけれど、この当時からもう少し食事内容に気を付けていれば今のような障害は防げたかもしれない・・キーを打つ手が何度も止まってしまう取り戻せない後悔。それでも、仲良く病院通いをしながら共に生きて居られることを・・私たちは素直に神仏に感謝しよう。

明日は恋愛成就の伝説で知られる「水間寺:愛染堂」です。

参拝日:2015年10月9日

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水間寺(みずまでら)~其の一 in 大阪府貝塚市

2022年12月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

貝塚市水間にある天台宗別格本山寺院「龍谷山 観音院 水間寺(みずまでら)」『聖観世音菩薩』を本尊とし、「水間観音」の通称で知られます。

「新西国三十三箇所第4番札所」「和泉西国三十三箇所札所」「第26番神仏霊場巡拝の道」「第53番(大阪第12番)南海沿線七福神(弁財天)」。境内一帯は周辺とともに大阪みどりの百選に選定されています。

「寺伝によれば、天平年間(729~749)に聖武天皇の勅願により行基が開創したものという。行基は、病床の聖武天皇の夢に現れた観音菩薩を求め、白鳥に南西の方向に導かれたが、その白鳥は和泉国で羽根だけを残し何処へともなく消え去った。彷徨いながら北東の方向へ進んで行くと、観音菩薩の化身である16人の童子が現れた。童子に案内されるままに進み、2つの川が合流する「水間」の地に着き、誘われて滝に向かうと竜神が現れ、聖観音像を授けられたと伝わる。」公式HPより

降臨の瀧は本堂の裏を流れる秬谷川にあったと伝えられており、岸辺に「聖観音菩薩出現の滝」の絵図が設置されています。

中世より武家による手厚い保護を受けていましたが、羽柴秀吉による紀州征伐の際に根来寺に与したため、天正13年(1585)に堀秀政の軍勢に攻められて焼失。一時衰退したものの、岸和田藩主岡部氏 の帰依を受け、元禄年間(1688~1704)に堂宇を再建。その後、天明4年(1784)の火災で再び焼失するも、文化8年(1811)に岸和田藩主岡部長慎により本堂が再建。文政10年(1827)には他の堂宇も再建されましたた。

本堂に奉納された沢山の絵馬の中から木彫りの蓮を納めた一枚

寺院の大小を問わず、参拝者の前に座しておられる『賓頭盧尊者』。一般的に「なで仏」と呼ばれ、参拝者はおびんずる様の体をさすり、我が身の病や痛みの平癒を願います。

本堂左手前に建つ三重塔、開基当時は多宝塔で多宝如来を安置したといいます。さらに古い記録によれば、『孝謙天皇』が舎利塔を安置したとも伝えられ、本堂同様、天正の兵乱に焼失。萬治年間に改めて三層の塔を建て、釈迦仏の像を安置しました。天保5年(1834)の再建で、明治以前に建てられた三重塔としては大阪府内唯一の建造物。本堂と共に貝塚市指定有形文化財とされています。

三重塔の第一層部分、軒下のかえる股には、極彩色の十二支の彫刻があり、それも見どころの一つとなっています。

本堂の後方に鎮座される「三所権現」。御祭神は『熊野権現、蔵王権現』

「本堂」の正面に相対して建つのは、白漆喰の壁が独特の存在感を放「経堂」。大般若波羅密多経600巻と大蔵経等、それに『傅(ふ)大師』とその二子の尊像が安置されています。

大切な経典を護るのは、屋根の上でしなやかに体をくねらす龍。飛翔するその瞬間のために、全ての力を内に溜めてその時を待っています。

鐘楼の屋根からその様子をうかがうのは、留め蓋の獅子たち。

迫力のある表情に、ご亭主殿、大満足(笑)

見所一杯の「水間寺」、この続きは明日のブログで。

参拝日:2015年10月9日

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孝恩寺:釘無堂(くぎなしどう) in 大阪府貝塚市

2022年12月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

貝塚市木積(こづみ)に門を構える浄土宗寺院「慈眼山・孝恩寺(こうおんじ)」。国宝指定で「木積の釘無堂」と呼ばれる観音堂で知られており、『阿弥陀如来』を本尊とします。

「観音堂は、奈良時代の神亀3年(726)、僧行基が木積の地に建立したとされる深谷山観音寺のお堂として建てられた建物です。現存する建物は鎌倉時代後期の再建と考えられています。明治36年(1903)に国の特別保護建造物に指定され、大正5年(1916)に解体修理が行われました。その後、昭和28年(1953)、文化財保護法により改めて国宝に指定されました。」貝塚の文化財より

折角の国宝の観音堂ですが、周囲に駐車スペースが見当たらず、路駐できる場所もないため、ご亭主殿は車に残り、私1人での参拝となりました。

観音堂が「釘無堂」と呼ばれているのは、建築に際し釘を使用していないとの意味ですが、伝統工法の木組みを用いた社寺建築では、構造部分に釘を使用しないのは必ずしもこの堂に限ったことではないとの事。日本の建築技術って、昔から本当にすごかったんだと再認識。

孝恩寺の創建は明暦元年(1655)、『孝恩上人』によってとされていますが、その由来、草創年月などは不明とされています。本堂である観音堂はもとは深谷山観音寺の観音堂でしたが、大正3年(1914)に孝恩寺と合併。旧境内地は孝恩寺となり、昭和36年より観音堂を同寺の本堂としました。お寺同士の合併って言うのも有るんですね・・初めて知りました(^^;)

境内の一隅にある「五輪石塔」には、地輪中央の梵字の右に「貞和二二年戊子」、左に「七月十四日」。制作年代が特定できる五輪石塔として、旧観音寺の遺物と考えられています。解説板によれば、南朝勢力下にあったこの地域で「北朝の年号である貞和」は貴重な事例なのだそうです。

境内一角『松瀬 青々』の句碑は、孝恩寺の弥勒菩薩坐像をうたったもの。

【 弥勒仏の 下生(げしょう)をいつと 囀(さへづ)れり 】

石版には「漢詩」の一節か何かが刻まれています。 陽は古堂を照らすとか、建立千年とか・・・残念ながら全部の漢字を読み取れないので、内容はほぼ不明(^^;)

こちらも同じ境内にあった石塔二基ですが、特に解説などは添えられていません。

手入れの行き届いた境内、奥に見えるのは鐘楼のようです。

「釘無堂」を後にして「水間観音駅」へと向う途中、近木川に架かる大橋の親柱に「釘無堂」を発見。少し先で車を降りて引き返しデジカメを向けていたら、側にいた人に不思議がられてしまいました(笑)

参拝日:2015年10月9日

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 大阪府貝塚市

2022年12月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

貝塚市(かいづかし)は大阪府の南西部、泉南地域に位置する市です。古代より櫛の生産が行われた事から、日本最古の櫛の産地ともいわれています。「二色の浜」「和泉葛城山」などの豊かな自然に囲まれ、市域には名刹「水間寺」や国宝の観音堂を有する「孝恩寺」を擁し、貝塚市中町に門を構える「願泉寺」を中心として形成された寺内町として発展してきました。

また「東洋の魔女」と呼ばれた日紡貝塚女子バレーの本拠地であった事から、バレーボールの町を推進。

キャッチフレーズは「希望のトス 未来にアタック 貝塚市」

1889年、町村制の施行により、南郡貝塚町・麻生郷村・島村・木島村・西葛城村、日根郡北近義村、南近義村が発足。

1896年、郡の統廃合により、南郡・日根郡が泉南郡となる。

1931年、泉南郡麻生郷村、島村、北近義村、南近義村と新設合併し、改めて泉南郡貝塚町となる。

1935年、泉南郡木島村を編入。

1939年、泉南郡西葛城村を編入。

1943年、泉南郡貝塚町が市制を施行。貝塚市となる。

マンホールには、1990年から市のイメージアップと市民意識の高揚を目的に「コスモス」をシンボルとした「コスモス・アイデンティティ(CI)運動」のシンボルマークを中心におき、周囲に「市の花:コスモス」がデザインされています。(貝塚駅・市役所付近に設置)

池田市マンホールサミット展示蓋

鴻池水未来センター展示マンホール

「貝塚市CIマーク」は、貝塚市のまちづくりのイメージと重ね、コスモス・アイデンティティ運動のシンボルマークとしてデザインされました。

二色浜公園内に設置されている「阪神高速道路公団」のマンホール。デザインに使われているのは「レストハウス」の帆船マストのモニュメントでしょうか?(H・N様より頂きました)

「市の花:コスモス」がデザインされた消火栓。

市章は貝塚町制時の昭和6年4月に町章として制定され、昭和18年8月29日に市章として継承。「貝塚町にあった名松”姫松”にちなむ松葉5本が、合併5か町村の固い契りを願って結び合わされています。その中に大阪湾の昔の呼び名”ちぬの海”の波頭と市名の貝の字を象徴文字で表しています。」公式HPより

止水栓の知章部分に「貝」の文字。貝塚の貝だろうとは思いますが、実際のところは不明です。

貝塚市木積地区で見かけた側溝蓋

貝塚市イメージキャラクター『つげさん』。貝塚市の伝統工芸品「つげ櫛」をモチーフに、貝塚市市制70周年(2013年)を記念して誕生しました。毎朝つげ櫛で、入念にお髭を整えるのが日課だそうです。

撮影日:2009年6月13日&2015年10月9日&2018年12月17日

 

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪府貝塚市のマンホールカード第9弾

2022年12月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2017年4月3日、第9弾として全国60自治体で60種類(累計407自治体478種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「貝塚市」のマンホールカードは、「貝塚市まちの駅かいづか」でいただけます。

1991年に設置開始されたマンホールには「コスモス」がデザインされています。

裏面には上記マンホールと、「コスモス」の写真とデザインの由来が書かれています。

「貝塚市は、2018年に公共下水道の事業着手30周年を迎えました。 マンホール蓋のデザインは、コスモスの花を中央に大きくあしらっており、公共下水道の着手と時期を同じくして考案されました。 コスモスは、市民の公募により選ばれた「市の花」で市民との協調と連帯によって貝塚らしさを確立する「貝塚コスモスアイデンティティ運動」のシンボルマークです。 花のデザインは、柔らかな筆の自然の曲線で、また、愛らしさ、可憐さを表し、親しみやすい貝塚をイメージさせ、伸びやかな茎の線は、「KAIZUKA」の「I」であり、「愛」にも通じています。 」

座標軸マンホール

配布先で頂いたマンホール探索マップ

訪問日:2018年12月17日

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする