車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

2020年・大晦日です

2020年12月31日 10時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

今年最初の朝を迎えたとき、私は何を思っていたのだろう・・・・記憶には自信があった筈なのに、どうしても思い出せない。

毎年恒例の行事のように迎えたO県在住の兄宅でのお正月。兄夫婦に甥・姪・姪の息子君・・そして私たち。小さい子供がどんどん大きくなって行く事に驚く以外、特に代わり映えもしない、それだからこそ平和で穏やかな一年の始まり。

驚きのニュースを初めて耳にしたのは二月・・中国の武漢を発症としたコロナウイルスの発生・・それによって死亡する有名人。人が病気で死ぬのはある意味仕方の無いことだと思う。けれどその臨終に立会い、死者を悼み声を掛けることも、その手を握り締めて名を呼ぶことも出来ないという信じがたい事実・・これほどの恐怖があるなんて・・

免疫不全の持病を持つ人間にとって罹患は死に繋がる・・私もその一人です。それに対し、マスクに手洗い、密を避けて不用意に出歩かない。そんな事しか予防手段が無いという恐ろしさ。

五月のある日、障害を抱えて実家で一人暮らしをしていた姪が急死。施設の方に見送られ、兄によって母と祖父母の墓に納められました。

それから一週間後、ご亭主殿の様子に異変を感じて病院へ、下された診断は脳梗塞による「高次脳機能障害」記憶障害・失語症と・・かなりの範囲にわたって脳の機能が失われていました。そのまま緊急入院。

何も出来ず、何も考えられず、それでもやらなければならない。考えなければならない。何が出来る。どうすればいい・・面会も制限された中で、ご亭主殿と一緒に生きていく為にはどうすればいいのか、考えて考えて、眠れぬ夜を幾つも過ごし・・そうして回復に僅かでも望みがあるならそれを生きる糧としていこうと決めました。

主治医に直談判をし、一ヶ月ぶりに我が家に帰ってきたご亭主殿は・・・いろんな意味でまるで宇宙人のようで、でも、それでも間違い無く、私の大切なご亭主殿でした。ゆっくりと少しずつ前に進もう。二人一緒に居られるならば、きっと頑張れる。

退院して迎えた翌朝、家族ぐるみで兄弟のように付き合ってきた親友から「昨日、夫が動脈瘤の破裂で死んでしまった」・・と電話がありました。何を言えばよいのか・・言葉が見つけられず、受話器を握り締めて泣く事しかできませんでした。

次から次にと辛いことが続く中で、それでも心温まる出来事も沢山ありました。途方にくれて立ちすくむしかなかった私に手を差し伸べてくれた人・・マンホールカード仲間と言う繋がりでしかない方から届いた「病気平癒のお札・お守り」。そして添えられた言葉の真摯な優しさ・・生きている事の喜びは、こんなにも沢山溢れている・・私はきっと、とても幸せな人間だ・・

暗闇の中を手探りで歩くような日々を迎えて終えて・・そうして一年の締めくくりを迎えました。あと何時間かで2020年が終わり、また新しい一年が始まります。綴ってきた車泊旅の思い出は、今まで以上に大切な二人の記録となりました。

全ての思い出を書き尽くすまでに何年掛かるのか分からないほど、画像はフォルダ一杯に溢れています。キラキラと、どんな宝石よりも光り輝く珠玉の日々。誰の為でもなく自分の為に書き綴ってきた旅の思い出。これから先も書き続けられる事に感謝し、またこんな個人的なブログを見て下さる「方々」に心から感謝いたします。

迎える年が、誰にとっても美しく穏やかな日々でありますように・・・八百万の神々の加護があまねく人々の上に降り注がれますように・・・・・・

2020年12月31日 大晦日

 

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別子銅山跡 in 愛媛県新居浜市別子山村

2020年12月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

アンデスの山麓、高い山の尾根に存在する、15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」

新居浜市の山深くにある別子銅山・・その坑道から運び出された鉱石を山麓まで下ろすのに使われた索道基地跡。鉱石の貯蔵庫跡は、過去の栄光を深い霧のヴェールで覆い隠し、静かに、ひたすら静かにそこに存在しています。誰が言い出したのか「四国のマチュピチュ」と呼ばれながら・・・
などと書くといかにも現地に行ったみたいですが、実はこの画像、バスの車体で見た写真😄

国領川に架かる「端出場(はでば)大橋」を渡ると、「道の駅・マイントピア別子」の建物が見えてきます。深い緑に囲まれた道の駅は、まるで別世界のような雰囲気で、初めて足を踏み入れた私たちに不思議な期待感を抱かせます。

道の駅のある端出場地区は、別子銅山最後の採鉱本部が置かれていた所と言うことで、今も当時を偲ばせる物や場所が幾つか残されています。マイントピア別子の案内に寄れば、その範囲はかなり広大で、お手軽に見学は無理。

それでも6月の夕方はまだまだ明るさを残しており、敷地内に限ればそれなりに見学も出来そう。

灰色の・・まるで異世界のような建物は、大正8年(1919)完成の「端出場貯鉱庫跡」。鉱石を貯めていた施設だそうですが、近未来のSF映画に登場しても違和感ありません。

木々の向こうに僅かに見えているレンガの建物は、大正4年(1915)完成の「第四通洞」入口。行ってみたいような・・迂闊に近寄ってはいけないような・・。

敷地内の一画には「仲持(なかもち)」の様子を再現したモニュメント。「仲持」とは、奥深い銅山で精錬した粗銅や山中での生活物資(男性は45キロ、女性は30キロ)を背負って、険しい山道を運搬した人の呼び名。明治13年(1880)に牛車道が開設されるまで、すべて人力に頼られてきました

実際には非常な重労働であった「仲持」さんですが、時代が過ぎてしまうとこんな優しい顔出し看板になって訪問客を出迎えてくれます。

敷地内には本物の「銅鉱石」「からみレンガ」なども展示されています。実際に手で触れてみて、改めてその質感、重さに驚ろかされます。

トロッコに積み込まれた銅鉱石は、ここに運ばれ貯蔵庫に入れられて・・・そうして今は役目を終えて、ここでひっそりと赤く錆をまとい始めています。

水の音に誘われてそぞろ歩けば、まるで一枚の絵のような足谷川が見えてきました。それほど大きな川ではありませんが、場所によっては深い水の色を見せており、全くの金づちの私にはかすかな恐怖さえ感じさせます。

対岸に目をやれば、ひっそりと緑に隠れるようにレンガの建物・・あれは明治45年(1912)に創業を開始した「旧端出場水力発電所」

急峻な山の南を流れる銅山川の水を利用し、当時日本一を誇った597mの落差の水圧鉄管を使用。また、当時世界一と言われた20キロメートルの海底ケーブルにより四阪島製錬所まで送電を行っていたとか・・歴史的な事実を知れば尚更に、その「凄さ」に圧倒されます。

赤煉瓦造りの建物は、愛媛県を代表する西洋建築のひとつで、マイントピア本館のモデルとなりました。館内には、ドイツのシーメンス社製発電機、フォイト社製のペルトン水車などが、当時の姿のまま残されています。

気がつけばあたりは薄っすらと夕闇の気配を漂わせて始めています。まだまだ散策したいけれどデジカメも役に立たなくなり始めた事だし・・明日も早いし・・

訪問日:2011年6月14日

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マイントピア別子は、別子銅山施設跡を利用したテーマパークを併設した道の駅です。施設内には温泉も有り、この日はこちらで車中泊をさせて頂きました。周囲には同じような車も何台かあり、温かい温泉でゆったりと手足を伸ばして寛ぎ、ぐっすりと眠ることが出来ました。車で旅する者にとってこうした施設は本当に有り難く大切な場所です。

改めて・・その節には本当に有難うございました🙏🙏

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ご当地マンホールとマンホールカード第3弾 in 愛媛県新居浜市&旧別子山村

2020年12月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

新居浜市(にいはまし)は四国地方のほぼ中北部、愛媛県の東予地方に位置する市です。西条市、四国中央市に。また四国山地を境として高知県吾川郡いの町、土佐郡大川村。海上にて香川県観音寺市に隣接。瀬戸内海最奥の燧灘に面し、市域の北半分には新居浜平野が広がり、市街地が形成。新居浜平野の南縁では中央構造線に沿うように千数百メートル級の急峻な四国山地がそびえます。毎年10月に行われる新居浜太鼓祭りは勇壮な山車が市内を練り歩く事で知られ、四国三大祭りや日本三大喧嘩祭りの一つとされています。

南方奥地には別子山地区があり、江戸時代に開坑された別子銅山を足掛かりとして、住友グループとその協力企業群により発展を遂げた企業城下町としても有名で、瀬戸内有数の工業都市としても知られています。「市の木:クスノキ」「市の花:ツツジ」を制定。

キャッチフレーズは、「あかがねのまち、笑顔輝くー産業・環境共生都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により、新居郡新居浜村・金子村・高津村・垣生村・大島村・多喜浜村・神郷村・泉川村・中萩村・船木村・大生院村・角野村が発足。

1908年、 新居浜村が町制を施行、新居郡新居浜町が発足。

1937年、新居郡新居浜町、金子村、高津村が合併、市制を施行、新居浜市が発足。

1939年、泉川村が町制を施行、新居郡泉川町となる。角野村が町制を施行、新居郡角野町となる。

1942年、中萩村が町制を施行、新居郡中萩町となる。

1953年、新居郡垣生村、大島村、多喜浜村、神郷村と合併、第二次新居浜市が発足。

1955年、新居郡泉川町、中萩町、船木村、大生院村を編入。

1959年、新居郡角野町を編入。

2003年、宇摩郡別子山村を編入。現在に至ります。

マンホールには市章を中心に、「新居浜太鼓祭り」の象徴的な図柄、雨を示す「房」と、「布団締め」に刺繍される「龍」が描かれています。

「新居浜太鼓祭り」:太鼓台布団締めの「龍」と「房」

市制施行30周年を記念して制定された「市の木:クスノキ」が市章を中心に描かれています。

新居浜で生息が確認された「カブトガニ」がデザインされたマンホール、同じデザインのマンホールは、カブトガニで有名な岡山県の笠岡市などでも採用されています。

空気弁と仕切弁に描かれているのは「市の花:ツツジ」。空気弁のカラーはデザインが際立って綺麗です。

カラー消火栓に描かれているのは「銅山川に架かる打除鉄橋」と思われます。

昭和12年(1937)11月3日制定の市章は「上下の井は二井(新居)を意味し、末広形の横の開きは工業、港都、灯台の光芒をあらわしている。」公式HPより

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旧宇摩郡別子山村(べっしやまむら)は吉野川最長の支流である「銅山川」の上流域に位置した村です。新居浜市、伊予三島市、宇摩郡土居町に。また県を跨いで高知県土佐郡大川村・本川村に隣接。北の赤石山系をはじめとして、周囲を千数百メートル級の四国山地の山々に囲まれ、銅山川のV字型渓谷に沿って走る道路の沿線の斜面に僅かに人家や公共施設が点在。元禄3年(1690)の別子銅山発見、翌年に採掘が始まり、急速に発展を遂げてきました。「村の木:ゴヨウマツ」「村の花:しゃくなげ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇摩郡別子山村が発足。

2003年4月1日、隣接する新居浜市に編入合併し、新居浜市別子山となりました。

昭和56制定の村章は「 美しい山里の図案化 手を広げ、大きく 羽ばたきたいという願いを込めている。」合併協議会資料より

(※)旧宇摩郡別子山村では、ご当地マンホールの類は見つけられませんでした。

撮影日:2011年6月14日

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2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。

「新居浜市」のマンホールカードは、「あかがねミュージアム」でいただけます。  ただし、第1火曜日と第2以降の月曜日と年末年始はお休みです。

1990年に設置開始されたマンホールには、「新居浜太鼓祭り」の太鼓台に取り付ける布団締めの「龍」と「房」がデザインされています。

「「新居浜太鼓祭り」の太鼓台に取り付ける布団締めの「龍」と「房」(束ねた糸で雨を表現)をデザインしたマンホール蓋です。 新居浜太鼓祭りは、毎年10月15日から4日間開催される絢爛豪華かつ勇壮華麗な男祭で、四国三大祭りの一つに数えられます。 見どころは、重さ約3トンの巨大な太鼓台が集まって行う「かきくらべ」。 太鼓台の4本の棒(かき棒)に最大約150人の男衆(かき夫)がつき、太鼓台を担ぎ上げる技術や力強さを競います。 太鼓台から打ち鳴らされる腹に響く太鼓の音、かき棒にまたがって運行を仕切る指揮者の笛、揃いの法被に身を包んだ男衆のかけ声は、観衆の心を熱くさせます。」

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三島神社 in 愛媛県西条市(旧丹原町)

2020年12月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

西条市丹原町田野上方に鎮座される「三島神社」。御祭神は『大山祇神、雷神、高龗神

由緒 「和銅5年8月23日国司越智玉澄が、国内各部落毎に鎮護のため建立したという。そのうちの一社である。」愛媛県神社庁より

鳥居の内、参道途中より神域を守護されるのは、前足を折り、低く構えた狛犬さん一対。派手に広げた尾が扇のように華やかですが、吽形さんの玉を持つ姿がと、自慢そうな顔が何とも可愛らしく😊 きっと阿形さんも同じ事を思っているのでしょうね。

参拝日:2011年6月14日

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綾延(あやのべ)神社 in 愛媛県西条市丹原町

2020年12月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

西条市丹原町に鎮座される「綾延(あやのべ)神社」。御祭神は『綾延姫命(あやのべひめのみこと)、品陀和気命、息長帯姫命、三柱姫大神』。

「往古、西条市今在家の黒須賀の浜に漂着した綾延姫命は、土地の旧家汐崎氏に奉じられて田野の郷に移り住み、綾織りの技を伝えた。この地に没するや、里人は、生前の賢徳を慕って霊亀二年(716)墓辺に一祠を建立してお祀り申し上げたのが当社の創祀と伝えられている。それ故に、往古は墓辺社(はかべのやしろ)(墓辺神)とも称し三代実録に依れば、元慶2年7月8日従五位下に叙せられている。 その後、延久5年8月15日源頼義が、豊前の宇佐から八幡宮を勧請して合祀し、墓辺社又は八幡宮と称したが、後に綾延八幡宮と称え、明治2年10月綾延八幡大神と改称し、同12年9月綾延神社と改める。明治15年県社となる。」愛媛県神社庁より

参道途中、神門前より神域を守護されるのは文政5年(1822)壬午8月建立の狛犬さん一対。体格に比較して小顔なのが不思議な愛嬌を見せ、見上げたこちらも釣られて笑顔になりそう。

大降りの注連縄が掛けられた神門の左右には、随身様と神殿狛犬さん。

神門内より神域を守護される随神様と木製の狛犬さん。いずれもかなりの年代を経たと思われるひび割れがあり、それがとても痛ましい。

10月の第3日曜日とその前日に行われる、家内安全と五穀豊穣を願う綾延神社の秋季大祭。拝殿前で繰り広げられる「獅子踊となぶりこの掛け合い」「奴行列」。一度でいいから見たいと思うも、ここまでの距離は如何ともし難く・・

境内に鎮座される「金神社:塚神」・「和霊神社:山家公頼霊」・「荒神社:塚神」

「稲荷神社:宇賀御魂神」「古綾延神社:綾織神」「床浦神社:宇津久志神」

「高良神社:武内宿祢命 」

参拝日:2011年6月14日 

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ご当地マンホール in 愛媛県旧東予市・旧丹原町・旧小松町(西条市)

2020年12月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧東予市(とうよし)は愛媛県の東部、東予地方に位置した市です。西条市、今治市、越智郡玉川町・朝倉村、周桑郡小松町・丹原町に隣接。燧灘と石鎚山系に挟まれ、瀬戸内海に面している事から海運・造船業が、さらに昭和期に埋立造成された海浜工業団地を中心に製造業が発達。市域の多賀地区には日露戦争において、日本軍として戦った「喜左衛門狸」の伝説が残されています。また、東予郷土館では絶滅危惧種の「カブトガニ」が飼育されており、可愛い関連商品も販売されています。「市の木:クスノキ」「市の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、桑村郡三芳村・楠河村・庄内村・吉岡村・国安村・壬生川村が発足。周敷(すふ)郡多賀村・吉井村・周布村

1897年、郡制の施行により、周敷郡・桑村郡の区域をもって周桑(しゅうそう)郡が発足。

1901年、壬生川村が町制を施行、周桑郡壬生川町(第一次)が発足。

1940年、周桑郡壬壬生川町が多賀村を編入。

1955年、壬生川町、吉井村、周布村、国安村、吉岡村が合併、周桑郡壬生川町(第二次)が発足。

1955年、三芳村、楠河村、庄内村が合併、周桑郡三芳町が発足。

1971年、壬生川町と三芳町が合併、周桑郡東予町が発足。

1972年、周桑郡東予町が市制を施行、東予市が発足。

2004年、西条市、周桑郡丹原町、小松町と合併、(新)西条市となりました。

マンホールのデザインは丹原町と同じで、自治体章のみが東予市です。これは東予市と丹原町が共同下水の為で、デザインも「東予市の花:ツツジ」と「丹原の花:桜」が描かれています。

昭和47年9月22日制定の市章は「カタカナの「トーヨ」を円形に図案化したものです。」

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旧周桑郡丹原町(たんばらちょう)は愛媛県の東予地方に位置した町です。東予市、周桑郡小松町、上浮穴郡面河村、温泉郡重信町・川内町、越智郡玉川町に隣接。「丹原」の名は、江戸時代に整備された土地が、赤く砂礫の原野であった事に由来。道前平野の中央よりやや南西にあり、西に平野がゆるやかに傾斜して山麓に達する高縄半島、南に四国山地の一角を占めており、東部、北部は田園地帯と山麓の傾斜地は、農業地帯として知られています。「町の木:柿」「町の花:サクラ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、周敷(すふ)郡福岡村・田野村・中川村、桑村郡徳田村が発足。

1897年、郡制の施行により、周敷郡・桑村郡の区域をもって周桑(しゅうそう)郡が発足。

1913年、福岡村が町制を施行・改称し周桑郡丹原町が発足。

1955年、丹原町、徳田村が合併、周桑郡丹原町が発足。

1956年、丹原町、田野村、中川村が合併、周桑郡丹原町が発足。

2004年、西条市、東予市、周桑郡小松町と合併、(新)西条市となりました。

マンホールのデザインは東予市と同じもので、自治体章のみが丹原町です。これは丹原町と東予市が共同下水の為で、デザインも「丹原の花:桜」と、「東予市の花:ツツジ」が描かれています。

昭和49年4月1日制定の町章は「丹原の「た」を、特産の「あたご柿」と重ねて図案化したものです。」

「伊予の青の洞門」安永9年(1780)、時の来見村の庄屋、越智喜三左衛門が私財を投じ、自身ものみを振るい岩を削り、9ヶ年の歳月をかけ寛政元年(1789)に完成させたと伝えられる「劈厳透水(へきがんとうすい)」。長さ12間(21.6m)の井堰と20間(36m)の隧道及び98間(172.8m)の岩石掘割水路を後世に伝えるべく建立された「劈巌透水之碑」。丹原町来見にある二基の碑、訪ねたかった。

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旧周桑郡小松町(こまつちょう)は愛媛県の東予地方、道前平野(周桑平野)の南東部に位置した町です。西条市、東予市、周桑郡丹原町、上浮穴郡久万高原町に隣接。町域は中山川右岸一帯と石鎚山麓からなり、大半は石鎚山系の山々で平地は北部、小規模河川による扇状地や緩傾斜地の中山川右岸に限られます。町の名は、古く「塚村」と称しましたが、小松藩成立時に陣屋をおいた地を「小松」と改め、小松原を開墾したことに由来します。小松町新屋敷乙にある「石鎚山サービスエリア」は、石鎚山脈の山々が連なる風景を望めるスポットとして知られています。「町の木:松」「町の花:ツバキ」を制定。

【山石鎚 海瀬戸内や 秋晴るゝ】渡部抱朴子

明治22年(1889)、町村制の施行により、周敷郡小松村・千足山村が発足。

1897年、郡制の施行により、周敷郡・桑村郡の区域をもって周桑(しゅうそう)郡が発足。

1898年、小松村が町制を施行、周桑郡小松町が発足。

1951年、千足山村が改称、周桑郡石鎚村となる。

1955年、小松町、石根村、石鎚村と合併、周桑郡小松町が発足。

2004年、西条市、東予市、周桑郡丹原町と合併、(新)西条市となりました。

旧小松町のデザインマンホールは発見できず、上水道関連の蓋が幾つかありました。

昭和33年(1958)6月14日制定の町章は「全体の形で「小」の一字とし、三町村の合併を三角と弧によって表し、中央の三角は、国定公園四国最高峰の石鎚山を象徴させています。」合併協議会資料より

役ノ行者の開山とされる石鎚山の天狗岳。この山には「石鎚山法起坊」という天狗が住んでいると言い伝えられているそうですよ。

撮影日:2011年6月14日

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ご当地マンホールとマンホールカード第13弾 in 愛媛県西条市・旧西条市

2020年12月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

西条市(さいじょうし)は愛媛県東予地方、西日本最高峰石鎚山の麓に位置する市です。2004年11月1日、旧西条市、東予市、周桑郡小松町、丹原町が合併、新たに西条市が発足しました。新居浜市、東温市、今治市、上浮穴郡久万高原町に。また県を跨いで高知県吾川郡いの町に隣接。南は西日本最高峰の「石鎚山」、北は瀬戸内海に囲まれ、気候は温暖で、良質な自噴水「うちぬき」に代表される豊かな自然環境と、由緒ある寺や名湯といった魅力的な観光資源に恵まれています。また、日本一の生産量を誇るはだか麦やあたご柿、春の七草など、多種多様な農作物の一大産地であるとともに、飲料、電気機械などの工場が立地し、四国最大規模の工業地帯となっています。

キャッチフレーズは「人がつどい まちが輝く 快適環境実感都市」

マンホールはおそらく旧西条市のものをそのまま利用しているものと思われます。加茂川の流れに羽を休める「市の鳥:カワセミ」、上に「市の木:黒松」下に「市の花:桜」がデザインされています。

2004年11月1日制定の市章は「四角形は、西条市、東予市、丹原町、小松町を表し、4つの点を結ぶことにより、2市2町の合併(和)を意味する。緑色は石鎚山を表し、青色の曲線は西条市の頭文字「S」の形をとりながら、瀬戸内海、加茂川などの豊かな水を表している。」公式HPより

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旧西条市(さいじょうし)は愛媛県東部に位置した市です。東予市、新居浜市、周桑郡小松町、上浮穴郡久万高原町に。また県を跨いで高知県吾川郡いの町に隣接。かって伊予の河野氏ゆかりの一柳氏は外様大名として西城藩を治めていましたが三代目の際に改易。しばらく天領となり、その後紀州徳川家より『松平頼純』を迎え、以後 紀州徳川家の支藩として幕末まで西条藩を統治。以後西城藩の城下町として栄えてきました。西条の地名は、鎌倉時代の荘園名にも見ることができ、歴史的にも由緒ある地名です。「市の木:黒松」「市の花:桜」「市の鳥:カワセミ」「市の色・ブルー」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、新居郡西條町・飯岡村・神戸村・橘村・氷見町・神拝村・玉津村・大町村が発足。

1925年、西條町、神拝村、玉津村、大町村が合併、新居郡西条町が発足。

1941年、新居郡飯岡村・神戸村・橘村・氷見町と合併、西条市が発足。

マンホールには「市の鳥:カワセミ」と「市の花:桜」「市の木:黒松」がデザインされています。

昭和26年(1951)9月30日制定の市章は「西条の「西の文字」を組み合わせて図案化したもので、市の発展と和を輪型で象徴しています。」旧公式HPより

西条高校の正門として利用されている「陣屋大手門」

「旧西条藩陣屋跡」の碑。わずかでもこうした歴史を垣間見られることに感謝です。

西条市の観光案内所には、豪華絢爛な御輿屋台が繰り出される事で有名な「西条祭り」の資料、「西条型のだんじり」等が展示されています。

祭りそのものが現在のように大掛かりな祭礼行事になったのは江戸時代初期から中期の事。特に祭りの責任者は「鬼頭」と呼ばれ、庶民でも帯刀を許されたといいます。このような例は他に無く、全国でも稀な祭りとされていました。

撮影日:2011年6月14日

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2020年12月17日、第13弾として全国50自治体で50種類(累計557自治体717種類)の マンホールカードの配布が開始されました。「西条市」のマンホールカードは、「西条市観光交流センター」でいただけます。

2020年に設置開始されたマンホールには「カワセミ」と「桜」「黒松」がデザインされています。

「本デザインは、1993年に「水の都西条」を象徴するものとして公募し、最優秀作品として西条市のマンホール蓋デザインに採用されました。 羽色が鮮やかで、翡翠(ひすい)のような体色から飛ぶ宝石ともいわれるカワセミが、加茂川の流れの中で羽を休め、黒松や桜並木を眺めているところを表現しています。 正岡子規の句にも「川せみの ねらい誤る 濁(にごり)かな」とあるように、自然環境が破壊されるとカワセミは生きていけません。 そんなカワセミが生息できる清流を、下水道事業が守っています。 本デザイン蓋は、JR伊予西条駅駅前広場の東西にそれぞれに1枚ずつ設置してあります。」

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ご当地マンホールとマンホールカード第10弾 in 愛媛県旧重信町(東温市)

2020年12月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧温泉郡重信町(しげのぶちょう)は愛媛県の中部に位置した町です。松山市、温泉郡川内町、越智郡玉川町、周桑郡丹原町、上浮穴郡久万町に隣接。町域は南北に細長い形で、町域の中央部が松山平野の南東部にあたり、南部は山地、北東部から中部に町名の由来となった重信川が流れています。「町の木:モクセイ」「町の花:菊」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、久米郡北吉井村、下浮穴郡南吉井村・拝志村が発足。

1897年、郡制の施行により、温泉郡・久米郡・風早郡・和気郡、伊予郡の一部・下浮穴郡の一部の区域をもって、改めて温泉郡となる。

1956年、北吉井村、南吉井村、拝志村が合併、温泉郡重信町が発足。

2004年、温泉郡川内町と合併、東温市となりました。

マンホールには、特産品の「どてかぼちゃ」「イチゴ」、「町の花:キク」と重信の文字がデザインされています。

昭和51年9月制定の町章は「重信の「シ」を飛翔する鳥の 形にデザインして、町の平和 と明日への飛躍発展を象徴し たものです。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月14日

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2018年8月11日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計539自治体455種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「東温市B」のマンホールカードは、「東温アートヴィレッジセンター」でいただけます。

2000年に設置開始されたマンホールには市章と「どてかぼちゃ」「町の木:モクセイ」「町の花:キク」に特産の「イチゴ」、「重信」」の文字がデザインされています。

「東温市は平成16年9月に重信町と川内町が合併して発足しました。 こちらのデザインマンホール蓋は、旧重信町でデザインを募集し、賑わいと活気に満ち溢れる町をイメージした作品が選ばれています。 マンホール蓋の中心には、どてかぼちゃと活気溢れる町をイメージした子供たち、その周りに特産のいちご、町花の菊を描いています。 1985年に日本初の「どてかぼちゃカーニバル」が開催され、毎年9月頃に百キロを超える巨大かぼちゃやユニークな形のかぼちゃなど全国各地から大集結して、賑わいを見せています。 旧重信町に位置する処理区に本マンホール蓋を設置しています。」

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ご当地マンホールとマンホールカード第8弾 in 愛媛県東温市・旧川内町

2020年12月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

東温市(とうおんし)は愛媛県中予地方、道後平野の扇頂部に位置する町です。2004年9月21日 、温泉郡重信町・川内町が合併して東温市が発足しました。西は松山市、北は高縄山地を境に今治市、東は西条市、南は皿ヶ嶺連峰を境に上浮穴郡久万高原町に隣接。北部に源を発する重信川が市の中央を流れ、小扇状地を形成。南部の皿ヶ嶺連峰県立自然公園は、東部の霊峰石鎚山系と連なり、豊かな自然と渓谷美に恵まれ、都市近郊田園都市として発展を続けてきました。「東温」の名称は、明治30年の郡の合併によって改めて設置された「温泉郡の東部」であることを意味します。「市の木:ハナミズキ」「市の花:桜」を制定。

キャッチフレーズは「いのち輝き 緑あふれるまち」

マンホールは旧川内町のデザインで、市章を中心に「かわうち」の文字と、「町の花:桜」、「町の木:楠の葉」がデザインされています。

2004年9月21日制定の市章は「『と』をデザイン化。躍動する人をイメージしています。 赤い丸は夢を育む情熱のまち、青色・緑色は豊かな自然を 表わし、二重に重なる構成は二町合併を意味する。未来に 躍進する“夢創造都市”東温市を象徴します。」HPより

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旧温泉郡川内町(かわうちちょう)は愛媛県のほぼ中央、松山平野の東部に位置した町です。温泉郡重信町、周桑郡丹原町、上浮穴郡久万町・面河村に隣接。県都松山市から東へ16kmのところにあり、古くから交通の要衝の町として栄えてきました。重信川の上流、表川白猪越の渓にかかる高さ96mの白猪の滝をはじめ、唐岬の滝、雨滝など数多くの景勝地を有しています。「町の木:クスノキ」「町の花:桜」を制定。

1889年、町村制の施行により、久米郡川上村・下浮穴郡三内村・周敷郡桜樹村が発足。

1897年、郡制の施行により、温泉郡・久米郡・風早郡・和気郡、伊予郡の一部・下浮穴郡の一部の区域をもって、改めて温泉郡となる。

1955年、 川上村、三内村が合併、温泉郡川内村が発足。桜樹村が中川村と合併、改めて周桑郡中川村となる。

1956年、川内村が中川村大字滑川、大字明河字九騎及び字海上を編入のうえ町制を施行、温泉郡川内町となる。丹原町大字明河字塩獄を編入。

2004年、温泉郡重信町と合併、東温市となりました。

マンホールには町章を中心に、「かわうち」の文字と、「旧町の花:桜」、旧町の木:楠の葉」がデザインされています。

昭和51年9月1日制定の町章は、「川内の「カか 」と「力 ちから 」を意匠化したも ので、山形は山に代表される自然と人 が力強く立つ姿を表わし、輪は「和」 を象徴し、住民ひとりひとりが団結し、 川内町の発展に尽くす意気を示します。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月14日

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2018年8月11日、第8弾として全国79自治体で76種類(累計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「東温市A」のマンホールカードは、「東温市さくらの湯観光物産センター」でいただけます。

1997年に設置開始されたマンホールには市章と「町の花:桜」、周囲に「楠の木の葉」がデザインされています。

「東温市は平成16年9月に川内町と重信町が合併して発足しました。 こちらのデザインマンホール蓋は、旧川内町で発案され、あたたかい大地河内町を後世に残せる様にとデザインの中にあたたかさ、やさしさのイメージが込められています。 中心には町を表すマークを配し、外側には町をあたたかく見守る様に町花の桜。 大地をより固め、大きな緑を与えてくれる町木のくすの木の葉。 その間には町へ戻り集う人々を点描し、その周りに清流を維持すると言われる石積みをデザインしています。 現在、旧川内町に位置する川内処理区で本マンホール蓋を設置しています。」

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ご当地マンホール in 愛媛県旧城川町(西予市)

2020年12月22日 10時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧東宇和郡城川町(しろかわちょう)は愛媛県南部の山間に位置した町です。東宇和郡野村町・北宇和郡広見町・日吉村に。さらに県を跨いで高知県高岡郡檮原町に隣接。高知県との境を接する四国山地に抱かれるように、集落は谷に沿って分散。魚成、土居等の地区は、河岸段丘ながら比較的傾斜がゆるやかで棚田が一面に広がっており、町全体が伊予の国のもっとも奥まったところにあることから、「奥伊予」とも呼ばれます。「町の木:イチョウ」「町の花:ツツジ」「町の鳥:キジ」を制定。「わがむらは美しく」のスローガンのもと、独自の地域おこし活動を行い、農村の伝統文化を残して来ました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、東宇和郡遊子川村・土居村・高川村・魚成村が発足。

1954年、遊子川村、土居村、高川村、魚成村が合併、東宇和郡黒瀬川村が発足。

1959年、黒瀬川村が町制を施行、改称して東宇和郡城川町が発足。

2004年、東宇和郡明浜町・宇和町・野村町・西宇和郡三瓶町と対等合併、西予市城川町となりました。

昭和35年9月23日制定の町章は「 「しろ川」の文字を図案化したもので、しろで円を描き、これで平和郷を表現、右上部の三線は町内を流れる川を表現すると共に、つばさを意味し、町の飛躍発展の希望をあらわしている。」合併協議会資料より

かつては愛媛県南予地方から高知県にかけて各地にあった「茶堂」。各地の茶堂が老朽化などで姿を消していくなか、城川町には60箇所近の茶道が残され、あるいは新築され、地区の人々のコミュニケーションの場として活用されています。

これら茶堂群は、日本建築家協会四国支部によって1998年、「建築巡礼四国八十八ヶ所第45番建築札所」に指定。「道の駅:きなはい屋しろかわ」の敷地内に設けられた「茶堂型休憩所」、ご亭主殿すっかりくつろいでいます。

(※)旧東宇和郡城川町では、ご当地マンホールは見つけられませんでした。

撮影日:2011年6月14日

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旧東宇和郡明浜町(あけはまちょう)愛媛県の南部、宇和海に面していた町です。東宇和郡宇和町、西宇和郡三瓶町、北宇和郡吉田町に隣接。東西に細長い海岸線は、佐田岬半島宇和海県立公園の中心的な位置にあり、典型的なリアス式海岸が美しい景観をつくっています。冬でも菜の花が咲き誇り、世界屈指のみかん産地であり、また水産業としてはチリメン漁や真珠・ハマチ等の養殖が盛んです。「町の木:桜」「町の花:ハマユウ」を制定。

旧キャッチフレーズは「潮風とみかんと心ときめく町」

1889年、町村制の施行により、東宇和郡俵津村、狩江村、高山村が発足。
1955年、俵津村、狩江村が合併、東宇和郡豊海村が発足。
1958年、豊海村、高山村が合併、東宇和郡明浜町が発足。
2004年、東宇和郡城川町・宇和町・野村町・西宇和郡三瓶町と対等合併、西予市明浜町となりました。

昭和43年(1968)8月1日制定の町章は「 地色は濃紺で海の色。 意匠は明浜町のアを図案化。字色はオレンジ色でみかんとパールのPをイメージ。また、長いリアス式海岸線も象徴している。」合併協議会資料より

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旧東宇和郡野村町(のむらちょう)は愛媛県の西南部に位置した町です。大洲市、東宇和郡宇和町・城川町、北宇和郡三間町・広見町、喜多郡肱川町・河辺村、上浮穴郡小田町・柳谷村に。さらに県を跨いで高知県高岡郡檮原町に隣接。四国カルストの源氏ヶ駄馬をはじめとする急峻な山々に囲まれた地域であり、典型的な農村地帯を形成しています。「のむら」という地名は、室町時代から呼ばれていた史実がありますが、由来は定かではありません。「町の木:ブナ」「町の花:ツツジ」を制定。旧キャッチフレーズは「ミルクとシルクのまち」

1889年、町村制の施行により、東宇和郡野村・渓筋村・中筋村・貝吹村・横林村・惣川村が発足。
1922年、野村が町制を施行、東宇和郡野村町が発足。
1955年、渓筋村、中筋村、貝吹村、横林村、惣川村と合併、東宇和郡野村町が発足。
2004年、東宇和郡城川町・宇和町・明浜町・西宇和郡三瓶町と合併、西予市野村町となりました。

昭和50年(1955)10月31日制定の町章は「のむらの「の」を図案化したもので、円は、かがやく太陽と町民の和を、鋭角は、力強く限りない町の飛躍と発展を象徴しています。 」合併協議会資料より

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旧西宇和郡三瓶町(みかめちょう)は愛媛県西部に位置した町です。八幡浜市・東宇和郡宇和町・明浜町に隣接。町域の西にはリアス式海岸の三瓶湾が開け、背後には300mから500mの急峻な山々が連なっており、そのため平地に乏しく集落は湾岸に立地しています。基幹産業は農漁業を中心とする第1次産業であり、昭和36年に農水省のモデル地区に指定された養豚団地の完成で畜産は県内最大規模。また漁業では、はまち、ヒラメの養殖と大型巻き網が主体となっています。「みかめ」という地名は、嵐の翌朝に打ち上げられた鼓と剣、そして三つの瓶をおそれ、祠に納めた伝承からこう呼ばれるようになりました。町域からは縄文式の石皿や弥生式の土器などが出土し、古くより人が住んでいたと言われています。「町の木:ウバメガシ」「町の花:セトノジギク」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡三瓶村・二木生村・三島村・双岩村が発足。
1921年、三瓶村が町制を施行、西宇和郡三瓶町が発足。
1955年、三瓶町、二木生村、三島村と双岩村の一部が合併、西宇和郡三瓶町(第二次)が発足。
2004年、東宇和郡城川町・宇和町・明浜町・野村町と対等合併、西予市三瓶町となりました。

大正10年(1921)9月制定の町章は「町名の三瓶(みかめ)を図案化し、和と協調性を象徴しています 」合併協議会資料より

(※)旧東宇和郡明浜町、旧東宇和郡野村町、旧西宇和郡三瓶町は未訪問のため、マンホールの有無は確認できていません。

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