車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

千代女ゆかりの聖興寺(しょうこうじ) in 石川県白山市

2017年09月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

白山市中町に境内を構える、真宗大谷派寺院「聖興寺(しょうこうじ)」。加賀の千代女ゆかりの寺として知られ、境内には彼女の辞世の句が刻まれた「千代尼塚」もあるという事で、立ち寄らせて頂きました。

この時頂いた御朱印ですが、本来、真宗大谷派の寺院では御朱印は授与されていません。それを知らずにお願いをした私たちに、ご住職はあえてそれに触れず千代縁の朱印を下さいました。物知らずの非礼を咎める事なく接して頂きました真心に心から感謝申し上げます。

 

明治31年(1898)に建造された入母屋造本瓦葺の「聖興寺本堂」「松任四ヶ寺の一つ「聖興寺」。創建は明応4年(1495)徳光の在地領主であった徳光弥二郎政明が、蓮如上人に帰依して明源と名乗り、その地で徳光寺を建立したのがはじまり。文禄4年(1595)に聖興寺と改称、慶長6年(1601)に宮保へ移転、慶安元年(1648)に現在地に移り、今日に至っています。歴史のある寺院で、本堂をはじめ11棟の建造物が国登録有形文化財に指定されています。」白山市公式HPより

大きな唐破風造の玄関を構える「聖興寺客殿」。欄間には珍しいライオンの彫刻。本来なら獅子と書きたいのですが、この姿はやはりライオンと書いたほうがしっくりします。

何故か画像に残し忘れた国登録有形文化財の鐘楼。その鐘楼の下に置かれていた梵鐘の図柄は『棟方志功』。多分その事に気を取られていたのでしょう・・「聖興寺鐘楼」の存在を忘れてしまっていた事に気が付いたのは、帰宅してからでした(^^;)

元禄16年(1703)~安永4年(1775)。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれ、今も多くの人に愛され親しまれる『加賀の千代女』。境内には千代尼の辞世の句が刻まれた句碑「白山市指定史跡:千代尼塚」があります。寛政11年(1799)千代尼没後25年目(五五の忌)に際し、彼女の遺徳を偲ぶ人々によって建立。自然石の正面に【辞世   月も見て 我はこの世を かしく哉(かな)  千代尼塚 】。側面「安永四年九月八日」

画像:門前の標石は文化12年(1815)に建立されたもので、戸室石の角柱正面に「千代尼塚在此境内」。側面には【 百なりや  つるひとすじの 心より】の文字が刻まれています。書は大乗寺第43代住持無学愚禅の手によるものです。(「百なり」=「百生瓢箪」を略した秋の季語)

訪問日:2015年10月19日

 

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松任駅界隈ぶらっと散策 in 石川県白山市

2017年09月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

松任駅の南口駅舎を正面から見ると、白山連峰をイメージしてデザインされているのが分ります。

だから駅前広場にあるモニュメントも、てっきり「白山」をイメージしたのかと思っていましたが、モニュメントの愛称は「まっとんまっし」。この地方の方言で「待っていてね」と言った意味だそうで、特に白山との関連は無いとか・・つまり白山とは無関係?

加賀駅前に千代女句碑【あそびたき あのきに成りて 藤の花

駅前緑地広場の高架近くには「D51 822」が静態保存されています。ちょうど私達が訪問する三週間前に塗装補修工事が行われたとかで、吃驚するくらい綺麗。

「D51 822」近くの像は、真宗大谷派の僧侶『暁烏 敏(あけがらす はや)』と彼の歌碑。『高浜虚子』に師事し、詩や俳句を多く残した人です。

【 十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる 母ありなむや 】

駅からは外れますが、白山市北安田町にある「明達寺」は彼の生誕寺として知られ、境内にも同じ歌碑が建立されています。

俳句の人と言えば、何と言っても「千代女の里・俳句館」入口にある『加賀千代女』。想像していた彼女のイメージからはちょっと離れた、晩年の『千代尼』さん。

近くには有名な【  朝顔や つるべとられてもらひ水  】の句碑。

「俳句館」の隣は明治期の実業家『吉田茂平』の私邸を移築した「松任ふるさと館」。国登録有形文化財の建物ですが、わずかに塀の隙間から覗き見ただけ。実は「俳句館」も「松任ふるさと館」も想定外の休館日。我が家には良くある事・・・

松任駅の近くに「松任城址公園」があるという事で、そちらに行ってみる事に。「松任城」は平安時代末期に松任氏の館として建てられ、江戸時代に廃城となった城。

まずは公園内の一画に建立された「忠魂碑」の前で、国の礎となられた御霊に揃って拝礼。

『野本永久』句碑。【 泣きいさつ 男神の如く 梅雨荒し 】

「「古事記」より、須佐之男の命が 子生みの果てに死んでしまわれた母の国へ行きたいと、泣きに泣き給う姿を想い 濡れ立っている自分の中から、この表現句が出てきた。 野本永久」

ラストは、昭和45年  千代顕彰会建立『千代尼』句碑で「一念の心に三千の諸法を具す」を詠んだ

【 百なりや つるひと筋の 心より 】

訪問日:2015年10月19日

 

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ご当地マンホール in 石川県旧松任市(白山市)

2017年09月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・石川県

旧松任市(まっとうし)は石川県の南部、日本海に面した町です。北陸経済の中心都市である金沢市に隣接し、多様な製造業が育成されてきました。また、伝統産業として、豊富な米と清らかな手取川の伏流水を利用した酒造業も盛んです。俳人『加賀千代女』の故郷である事から、俳句の里としても有名。松任駅前の「千代女の里・俳句館」には、句を読む『千代尼』の銅像があります。「市の木:松」「市の花:菊」「市の鳥:鶯」「市のシンボル:朝顔」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、石川郡松任町・旭村・中奥村・林中村・出城村・御手洗村・一木村・宮保村・笠間村・柏野村・石川村・郷村・山島村が発足。

1954年、松任町・旭村・中奥村・林中村・出城村・御手洗村・一木村・宮保村・笠間村・柏野村・石川村が合併し、新に石川郡松任町が成立。

1956年、松任町が石川郡郷村の一部を編入。

1957年、松任町が石川郡山島村を編入。

1970年、松任町が市制を施行、松任市が発足。

2005年、松任市、石川郡美川町、鶴来町、河内村、吉野谷村、鳥越村、尾口村、白峰村が新設合併、白山市となりました。

マンホールには、市章を中心に、市のシンボル「あさがお」が美しくデザインされています。

「あさがお」は『千代女』が句の題材として多く使われた事から、市のシンボルとされました。代表作【 朝顔や つるべとられて もらひ水 】

昭和45年10月10日制定の市章は「「松任」の頭文字「マ」の字を組み合わせて団結を表す。円形はその円満性を、四方の鋭角は飛躍と発展性を象徴する。」合併協議会資料より

「松任」の地名は「松木氏に任せる」が由来と言われています。『松木氏』とは、平安時代の承平5年(935)頃にこの地域3集落の合併を進めた国司。随分と歴史的に奥深い地名である事に驚くと共に、それが失われる事に些かの残念感を覚えます。

撮影日:2011年10月12日&2015年10月19日

 

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ご当地マンホール in 石川県白山市

2017年09月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・石川県

白山市(はくさんし)は石川県の南部、市全域が県内最大の河川である手取川の流域に位置しています。2005年2月1日、松任市、石川郡美川町・鶴来町・河内村・吉野谷村・鳥越村・尾口村・白峰村が合併して誕生しました。日本三名山の白山を有する市南部は山岳地域で、市全域が「山-川-海そして雪 いのちを育む水の旅」をテーマとする白山手取川ジオパークとして認定されています。「市の木:ブナ」「市の花:朝顔」「市の鳥:鶯」を制定。

キャッチフレーズは「豊かな自然と共生する自立と循環の都市(まち)」

マンホールは、朝顔が描かれた松任市バージョン。市章が白山市に変更されています。

鶴来町バージョンは紫陽花のデザイン、市章が白山市のものに変更されています。

白山と北前舟をデザインした美川町バージョン、市章が白山市のものに変更されています。

2005年2月1日制定の市章は、「頭文字の「白」をデフォルメし、青空にそびえる緑豊かな白山を象徴として中央に配置し、そのふもとに流れる3本の潮流は、上の1本が手取川、下の2本は日本海を表現。全体の造詣で。豊かな自然にはぐくまれ、未来へ発展し続ける白山市を表しています。」HPより

中央に「白」をデザイン化した知章がありますが、ロゴマークでも市章でも無く不明。 白河市の市章に似ていますが、それだと周囲に梅の花があるので、やはりそれも違うようです。

「山-川-海そして雪 いのちを育む水の旅」をテーマとする白山手取川ジオパーク。白山市では合併した各地に同じような看板が設置されています。

北陸新幹線の上に立っているのは、白山手取川ジオパークキャラクター『ゆきママとしずくちゃん』。白山の雪でできた「ゆきママ」は、白山をイメージした帽子に「市の花:あさがお」をつけています。

最後は、幕末~明治時代の治水家で、七ヶ用水の父と言われた『枝権兵衛翁像』。安定した用水の取入を行うために、いくつもの苦労を乗り越えながら、その生涯と全財産をかけて、安久濤ヶ淵(あくどがふち)からトンネルを掘り、手取川の水を取り入れることに成功した偉大な先駆者です。

撮影日:2011年10月12日&2015年10月19日

 

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小松市内~ぶらり散策 in 石川県小松市

2017年09月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

東西25.5K、南北33.1K、總面積は371.05km²の小松市、有名な観光地も沢山散在しておりとても全部を網羅なんて・・・・。結果的に時間的には十数分の滞在地が多く、個別に紹介するには物足りない名所旧跡をまとめて紹介。スタートは石川県指定史跡:安宅関の前に広がる安宅海岸から。梯(かけはし)川の河口、日本海の守りとして火を灯し続ける「安宅港口灯台」。 何故か海際に立つ灯台を見ると、切ないような懐かしさに胸がキュッとなります。

小松市馬場町の小さな川に架かっていた「境橋」に、祭り太鼓を叩く像のモニュメントが有りました。近くの鎮守の祭り風景なのか、それとも単に地区の伝統芸能なのか詳細は不明。

小松市の新小松駅から尾小屋駅までを結んでいた軽便鉄道「尾小屋(おごや)鉄道」。17世紀末 ~18世紀初頭に金山として開発されその後廃坑となっていた尾小屋鉱山が、銅山として大きく発展したのは明治19年(1886)の新鉱脈の発見から。尾小屋鉄道は、この尾小屋鉱山の鉱山鉄道として大正8年(1919)から大正9年にかけて開通した軽便鉄道です。昭和46年(1971)12月30日に尾小屋鉱山が閉山され、その六年後、昭和52年(1977)3月20日に廃線となりました。

小松市符津町念仏にある「いしかわ子供交流センター:小松館」に併設した「なかよし鉄道」。ここには廃線となった総延長473mの保存線路と鉄道車両が動態保存されています。

また、センターの広場には「エヤロコマンダー680型双発機・はやたか号」も展示されおり、子供たちに大人気。昭和35年(1960)、アジア航測が新鋭双発機として導入、翌年3月から撮影作業に配備された機体です。

小松市立明寺町、市内から少し山に入ったところにある「ハニベ巌窟院」。石川県出身の彫刻家・都賀田勇馬氏とその息子伯馬氏が親子二代で作り上げたという地獄風景。駐車場正面にド~~ンと置かれたこの巨大な仏頭が、巌窟院への入り口だそうです。私たちはとりあえずこの仏頭に圧倒されそのまま回れ右(~_~;) 何をしに来たんだ??・・いやだって地獄風景なんて、好んで見たくない。

小松市八幡己に残る「小松市立登窯展示館」。こちらでは貴重な文化財が無料で見学できます。「連房式登窯」は丘陵の傾斜面を階段状に整地し、焼成室を連続して構築した地上式の窯。近代九谷磁器窯の典型的形式を今に伝えるものとして、昭和48年(1973)に市指定文化財となりました。

「道の駅:こまつ木場潟」は国道8号小松バイパス:蓮代寺インターチェンジに隣接。店内には吃驚するほど「トマト」関連のお土産が一杯。物珍しさとみやげ話のタネに、二つ程買い求めて見ました。

訪問日:2011年10月12日&2015年10月21日

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2015年の石川県の旅では、友人と我が家の二台、こちらで車中泊をさせて頂きました。 新しい道の駅と云う事もあってロケーションも最高。お土産も軽い食べ物も充実し、とても快適に過ごすことができました。同じようなお仲間が沢山いたのも心強かったです。

車で旅をする者にとって、このような道の駅は本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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若宮白山神社(那谷寺) in 石川県小松市

2017年09月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

小松市那谷町シ1番地外12筆合併地に鎮座される「若宮白山神社」。御祭神は『菊理姫神(くくりひめのかみ)』。別名を『白山比咩神』とし、仏教では『十一面観世音菩薩』を本地仏とします。

由緒「勧請の年月は不詳であるが、もと白山社と称し字ル148番甲地山坂にあった。明治15年3月24日現社名に改める。同26年6月30日現在の地に移した。現在の拝殿は、昭和61年に新築造営した。本殿幣殿は大正14年に新築した。境内は国宝那谷寺に隣接し、近年他の町の人々が多く参詣されるようになった。明治39年12月神饌幣帛料供進神社に指定された。」石川県神社庁HPより「那谷寺」の境内に鎮座されている為、拝観料を払わなければ参拝できない・・・別な意味で難易度の高い神社(^^;)

参道途中より神域を守護されるのは、独特の風貌が懐かしくも思える出雲系の狛犬さん。 吽形は、前脚の間に可愛らしく遊ぶ子狛をおき、向かい合う阿形は優しい笑みで相方とその仔を見守ります。

心地よく引き締まった空気の中、真っ直ぐに進み千鳥破風唐破風:入母屋造りの拝殿。後方は深い木々に覆われており、本殿の様子を見せて頂くには難易度高く断念。

拝殿前より神域を守護されるのは、明治32年(1899)4月建立の狛犬さん一対。ちょっと異星人っぽい顔立ち。 場所的なものなのか阿形さんの体には赤っぽい何かが付着。花粉にしては払っても落ちる様子もなく、石の奥深くまでしみこんでいる感じ・・もしかしたら何か菌類のたぐいかも。

 

「境内社:金刀比羅社」。社殿前より神域を守護される小さな狛犬さん一対。

みればこの狛犬さんの顎から胸にかけても、先のと同じ様な嫌な赤色・・・こちらは阿吽とも、さらに台座にもおよんでおり、まるで自然界の何かが悪戯でもしたような・・・

この美しい騎馬像は、やはり境内の中にあったものですが、何方の像なのでしょう? 若宮白山神社の騎馬像でいくつか探してみましたが、該当するものがありません。できればこれにも説明を・・以下略。

社寺の参拝を終えて駐車場に向かう際「戦没者慰霊塔」碑を見つけました。 北海道開拓で名を成した『坂本竹次郎』が、郷里の那谷小学校に寄付した元「奉安殿」。「奉安殿」とは戦前に天皇・皇后両陛下の御真影や教育勅語を納めていた建物のこと。今は何も残されていないだろうと思いながらも・・揃って手を合わせて拝礼。

参拝日:2015年10月22日

 

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那谷寺(なたでら)~其の四 in 石川県小松市

2017年09月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

境内の全域が文化財や史跡で構成されている「那谷寺(なたでら)」。パンフレットやHP上には美しい四季折々の画像が紹介されています。ですが実際に自分たちがその中に在って、五感全部で感じる荘厳さは全く別物。ラストになった「那谷寺」の案内、次は慶安2年(1649)建立で重要文化財の「護摩堂」。本堂と同じく『山上善右衛門』の造と伝えられます。

禅宗様を基調に和様の手法を折衷させた設計、単層、入母屋造りに1間の向拝付き。4方に縁を巡らし、4面の壁板には、躍動する9頭の唐獅子と牡丹の浮彫が施されています。様々な表情や仕草を見せる八相唐獅子。何と言うか可愛い・・(笑)

同じく『山上善右衛門』の造と伝えられる「鐘楼」は寛永19年(1642)の建立。入母屋造の純粋な和様建築で、袴腰の上部まで石造なのは全国でも例がないといわれます。

石段を降りた先に建立された「那谷寺の庚申さん」。縁結びの庚申さんとしても有名で、心に思う相手を願いながら「南無青面金剛(なむしょうめんこんごう)」と3回唱えてお参りします。庚申さんの強い力で願い事が叶うなら、私はこの先も二人で生きていけるようにと願いましょう。

境内には金堂前の歌碑や芭蕉の句碑以外にも、沢山の碑が建立されています。「盡忠護国碑」とは、読んでそのまま「忠義を尽くし国を護る」。手前の自然石は「鎮守之森」碑。

「昭和留魂碑」。留魂とは「故郷・国民・家族」を護らんとした殉難者の御霊。今の時代に平和を享受する私達が、決して蔑ろにしてはならない方々の御霊の碑です。

加賀大聖寺藩第十四代藩主『前田利鬯(としか)』の歌碑。内容は判読できません。

右端は「那谷寺・御詠歌」 【この山を たずねて法の皇(すめらぎ)も 重き誓いの 石や立てけん】 横には「太初國之舞」の碑。達筆すぎるのと難しすぎる内容で判読不可(^^;) 

さらに隣に並んで建立されていた大きな自然石の碑、こうしたモノには、せめて由緒の冊子中でも良いので説明があれば嬉しいと思うのですが・・

那谷町出身の時代小説作家『陣出達郎』句碑。ちなみに「誰?それ?」と思われた方。『遠山の金さん』を執筆した作家と言えばわかるでしょうか。

【 ふるさとの 月てる山に のぼりけり 】

これも、多分判読できるだろうと思っていたのに、実は部分的な文字の拾い読みしかできなかった句碑。

消化不良の感が否めない「那谷寺」の碑。気分直しに(笑)オリジナルキャラクター『なたちゃん』の顔出しパネル。白山権現の本地仏である「十一面千手観世音菩薩」に由来するそうです。

参拝日:2015年10月22日

 

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那谷寺(なたでら)~其の三・本堂 in 石川県小松市

2017年09月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

「奇岩遊仙境」への上り口横に建つ重要文化財の唐門、その先に本殿へと続く石段。

かなり急な石段を見上げれば、一息つきたいその場所に何とも良い表情の狛犬さん一対。

顔立ちや尾の感じから、浪花系に近い狛犬さん。どっしりと貫禄たっぷりの吽形さん。阿形さんは口中に玉を含み、この上なく上機嫌な顔で参拝者の皆様を出迎えています。

狛犬さんに見送られて更に石段を登ると、巨大な岩山の洞窟と繋がった木造の本殿「大悲閣」。慶長2年(1597)に岩窟内に建立された本堂は岩壁に寄って屋根を造らない構造で、唐木造、向拝、柿葺。

これより上への石段は柵で止められており、堂宇がどのように岩窟内に建てられているのか見る事は出来ません。いずれにしても、ただ、ただ「凄い」としか言葉が無い・・。

江戸時代、一向一揆の乱による境内の荒廃を嘆いた加賀藩主・前田利常公が建造した堂宇。四方の欄間には、昨日参拝した小松天満宮の造営を手掛けた『山上善右衛門』作の透かし彫り。こうして次々と歴史ある場所を訪ね、そこで同じ人物の名を目にすると、妙な親近感を覚えます。写し手の技量が拙い為、見た目は今一つかも知れませんが、実際にはとても素晴らしい彫刻の数々。

本殿から下の洞窟に続く道の途中で見かけた初めタイプと浪花系二組の狛犬さん。対の阿形さんは反対側にいると思われます。胎内潜りをすればもしかしたら対面できたのかもしれませんが・・・

洞窟出口、改めて見ると・・やっぱり凄い。

そこから暫く細い参道。参道というよりも公園の中の小径といった方がしっくり。

やがて目前に寛永十九年(1642)建立で国重要文化財の「三重塔」。徳川家綱の生誕祝に前田利常が建立したものと伝えられ、三層とも扇垂木の手法で各層ごとに組み立てられており、内には『胎蔵界大日如来』座像が安置されています。

「元那谷寺の根本堂の本尊でしたが、暦応1年(1338)、新田義貞の軍により焼かれ、白山宗徒たちの手で火中より運びだされたお像です」駒札より

扉に浮き掘りされた唐獅子に牡丹。精緻とは言えませんが、その独特の表情はどの子も可愛らしい。全部で16体が刻まれていましたが、とりあえず4体だけ。

三重塔を後に「楓月橋」を渡って次の目的地に行く途中、こんな可愛いお猿さんを発見!!「木組みの猿」は、楓月橋建立の際に棟梁が遊び心で作ったもので「棟梁サル」と呼ばれているとか。頭には鉢巻、手にはバナナ(^^;)

で・・・足元に散らばる小銭に、いっそ賽銭箱を設ければと要らぬ心配。だってこの下に落ちたら多分誰も拾えそうに無い場所。せっかくの志が勿体ないです・・と、日々の節約を頑張っている庶民の呟きは置いといて(笑)「那谷寺」の紹介いよいよ明日がラストです。

参拝日:2015年10月22日

 

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那谷寺(なたでら)~其の二:奇岩遊仙境 in 石川県小松市

2017年09月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

那谷寺の景色を代表すると言っても過言ではない「奇岩遊仙境」。噂には聞いていましたが、実際に目の前にすると・・思わず呼吸を忘れます。

太古の海底噴火の跡と伝えられる一帯には、長い長い年月に風と波に洗われた奇岩が、まるで人の顔の様にも。あるいは浄土への入り口の様に姿を変え眼前に展開され、自然界の力の壮大さ、過ぎてきた時間の長さにただ感動し、圧倒されます。

一度、人の顔のようにと思ってしまうと、もうどこからどう見てもそれは人の顔。口と思しき場所に奉納された幾対もの石仏は浄土への案内人・・・

「奇岩遊仙境」に鎮座される稲荷舎へは、若干の注意を要する参道があり歩いて参拝できます。ご亭主殿の前をソロソロと這うような姿勢で、一歩ずつ慎重に足を運び、無事に参拝。稲荷舎から見る境内、対岸に見える朱塗りの建物は「鎮守堂」。

参拝を終えて稲荷社から見下ろす下界・・はっきり言って下りる時の方が怖い(-"-)

下界に下りたところで深呼吸(^^;) 続いては那谷寺パワースポットの一つ「不動明王の閼伽(あか)水」。公式HPによれば「古来より涸れることなくこんこんと湧き続ける霊水。お手持ちの念珠や指輪などに願いを念じながら霊水をかけると、不動明王の加護を受けられると言われています。」

「鎮守堂展望台」から見る「奇岩遊仙境」。そそり立つ奇岩霊石に、いくつもの窟が開口した様は、まさに「古きよき時代の浄土」。季節を問わず「境内で最も美しい眺め」と称されているのも決して大げさでは有りません。

元禄2年(1689)、弟子の『曾良』と別れた『芭蕉』は、小松へ戻る道中ここに参詣し、その時の様を「奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造り、かけて殊勝の地なり。」と述べて句を残しました。画像右の「翁塚」に、「奥のほそ道」における那谷寺の条が刻まれています。

【 石山の 石より白し 秋の風 】

古くよりの神仏習合の姿が残され、神と仏が混在する理想郷を表したとされる「奇岩遊仙境」。2014年に「おくのほそ道の風景地」として新たに国名勝に指定されました。

この時、何をとち狂ったのか、展望台の更に上まで登って写した「奇岩遊仙境」の画像。

ビックリして思わずご亭主殿がカメラに収めた「私」。多分一番びっくりしていたのは私自身かもしれません(^^;) 何故とか聞かれても「さぁ?」怖くなかったかと聞かれても「ちっとも (^▽^) 」。何だったんだろう?

一足飛びに「鎮守堂」からの「奇岩遊仙境」を紹介したので、明日は重要文化財の堂宇を。

参拝日:2015年10月22日

 

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那谷寺(なたでら)~其の一 in 石川県小松市

2017年09月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県小松市那谷町に門を構える、高野山真言宗別格本山「自生山:那谷寺(なたでら)」『千手観世音菩薩』を本尊とします。御朱印の「大悲」は観世音菩薩の大慈悲心、「殿」は観世音菩薩を祀る御堂をさします。

寺伝に「養老元年(717)泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。その後寛和二年(986)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求むる観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名。 南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃したが、近世に入って加賀藩藩主前田利常の命により、大工棟梁『山上善右衛門』によって再建。」

参拝者を迎えてくれるのは、「自生山」の額が掲げられた山門

山門の片隅両側には、極彩色に彩られた青と青緑の二対の獅子彫刻。

山門の内より仏域を守護されるのは、昭和51年『松久宗琳師』作造の阿吽の仁王像。一般的に目にする仁王像とは異なって柔和な表情に見えるのは、そういった作風なのでしょうか。

 

参道入り口付近に「釈迦三尊像」の碑。

作者不明の歌碑。

奉納絵馬は「般若心経」。母と、何故か下の兄がよく唱えているので、私も半分くらいは唱えられます(*^^*)

深い緑に包まれた参道は柔らかな苔にくるまれて、歩む足裏を優しく押し返して、一歩先へと後押しを。

木々の深さによって色を変える緑は、自然と人の手の両方が作り出した御仏への道。大きく息を吸い込み、一歩ずつ歩を進めていけば俗世の諸々も薄れてゆくような気がします。

広大な境内、この先には国名勝指定「奇岩遊仙境」など、まだまだ見所が一杯。という事で恒例の続きはまた明日のブログで(*´꒳`*ノノ゙。       

参拝日:2015年10月22日

 

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