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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 滋賀県愛荘町

2025年04月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

愛知郡愛荘町(あいしょうちょう)は滋賀県の中央部、琵琶湖の東部地域に位置する町です。2006年2月13日、愛知郡愛知川町と秦荘町との合併により発足しました。彦根市、東近江市、犬上郡多賀町・甲良町・豊郷町に隣接。愛知川の右岸、湖東平野の東部に位置し、東方は鈴鹿山地の西麓にかかり、田畑が町域の約4割を占めます。江戸時代には愛知川宿が中山道の宿駅として栄え、また中世には北隣の沓掛地区も、鈴鹿山地越えで、伊勢地方との通商に従事する商人が集住し。近江商人の一翼を担ってきました。近江商人が扱った主力商品である麻織物(近江上布)は、当地を含む湖東地方が主産地で、国の伝統的工芸品に指定されています。町の中央部を流れる宇曽川の上流部には昭和54年(1979)ロックフィル式の宇曽川ダムが竣工。鈴鹿山系からの豊かな清水と自然に恵まれ、古くから水との関わりが深く、この地形が農業をはじめとするさまざまな産業を発展させてきました。「町の木:モミジ」「町の花:サクラ」を制定。

キャッチフレーズは「心ふれ愛・笑顔いっぱいの元気なまち」

2006年11月21日制定の町章は「愛荘町の「あ」をモチーフに「心ふれ愛・笑顔いっぱいの元気なまち」を目指して発展する「愛荘町」を象徴したものです。人々の未来への躍動と交流、町民の融和を表現。橙色は活力と未来へ輝く太陽、青は人々の活き活きとした活動、緑は自然に恵まれた豊かな暮らしを表します。」公式HPより

愛荘町イメージキャラクター『あしょうさん』。一説には、湖東三山まんなかのお寺金剛輪寺出身ともいわれています。愛知川びん細工手毬をモチーフにした兜をかぶり、近江の麻の服、腰にさしているのは、特産の山芋をかたどった刀で、年齢は永遠の5才です。

2014年3月に誕生した近江鉄道・マスコットキャラクター駅長の『がちゃこん』。「ガチャコン」は、県下で最も長い歴史を持つ私鉄「近江鉄道電車」の愛称。基本的には「猫キャラ」一押しですが😅、「狐キャラ」も有り!

撮影日:2015年7月16日

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豊郷小学校(ヴォーリズ建築) in 滋賀県豊郷町

2025年04月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

豊郷町石畑。旧中山道に面した校地の中央に西面して建つ、鉄筋コンクリート造二階建の白亜の校舎は、2013年3月29日「豊郷小学校旧校舎群」として国登録有形文化財(建造物)に指定されています。

中央部を三階建の塔屋として正面に車寄を出した外観。昭和初期のモダニズムを基調とした左右対称の建物は、地域のランドマークとして親しまれています。

昭和12年(1937)、本校出身で丸紅の専務取締役であった『古川鉄治郎』が私財を投げ打って建設した鉄筋コンクリート造の校舎。正門前には彼の胸像が建立されています。

設計はヴォーリズ建築事務所、建設は竹中工務店。壮麗な建物は「白亜の殿堂」や「東洋一の小学校」との異名を取り、また、暖房設備など当時最先端の技術が惜しみなく使用され、その総工費は当時の村の予算の10倍ともいわれた参拾六萬五千円。

それにしてもこの広大さ・・・これよりもずっとずっと後の世代の私が通っていた田舎の小学校を思い出すと、まさしく天と地以上の差。校庭の芝生、緑の木々・・何もかもが別世界に見えます。

鉄筋コンクリート造平屋、一部2階建、一部地階付の旧豊郷小学校講堂。校舎の南側前方に北面して建ち、渡り廊下で接続されています。

鉄筋コンクリート造平屋、一部2階建の建物は「旧豊郷小学校酬徳記念図書館」。現在は観光案内所として使用されており、マンホールカード配布の折にはこちらで頂きました。

それにしても・・・改めてこれが昭和12年の建築だなんて。ここに通っていた生徒たちはどんなに誇らしかっただろう。近在の子供たちはどんなに羨ましく思っただろう。

正面玄関からちらっと中をのぞいただけで、内部の見学はまた次の機会に回したのですが、結局次の機会は訪れず苦い後悔が残りました。階段の手摺に取り付けられたイソップ寓話の「兎と亀」のブロンズ像・・見たかったな。

地道に頑張ることの大切さを説いたイソップ寓話の「ウサギと亀」。階段を上るごとに二匹の物語は進んでいきます(画像は公式HPよりお借りしました。

さて、その「兎と亀」ですが、旧豊郷小学校のシンボル的存在として町の随所に登場します。豊郷駅コミュニティセンターの入り口前にも「兎と亀」の石の椅子。

夜道の安全を守る街灯の上にも😄

・・・・😲ハッ!! 、千樹寺の近くのあの亀さんもその流れであそこにいたのかも・・とすると相方の兎は何処に??

訪問日:2015年7月16日

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江州音頭発祥地&豊会館 in 滋賀県豊郷町

2025年04月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

「江州音頭発祥地」として知られる豊郷町。町中にはそれを示すものが沢山あります。私たちが豊郷訪れたのは7月半ば、各地区で催される盆踊りの案内がすでにあちこちに掲示されていました。
中山道沿いの下枝地区にある臨済宗永源寺派寺院「日吉山:千樹寺」。参道入り口には「江州音頭発祥地」の碑と、「江州音頭発祥の起源」碑が並んで建立されています。

奈良時代に行基が開創した48院の一つと伝えられる「千樹寺」ですが、戦国の世に『織田信長』の兵火にあい消失。その後、本能寺の変によって信長亡き後、近江商人となった藤野喜兵衛の先祖『藤野太郎右ェ門』が寄金し、天正十四年(1586)に再建。その落慶供養の余興として、当時の住職『根誉上人』が、経文の二~三句に節をつけて面白可笑しく唄い、手踊りをして見せたのが「江州音頭発祥の起源」と伝えられています。

以来、毎年7月17日(旧暦)にこの行事は続けられましたが、天明年間の大火で、またもや「千樹寺」は焼失。この時、北前船で活躍した近江商人『又十・藤野四郎兵衛』が、父の意思を継いで再建を果たします。古例通りに遷仏供養を行う際、『又十』は祭文作りの名人『西沢寅吉』を私邸に招き、経文祭文を唄いこんだ音頭を作らせ、また、踊り手に絵日傘や扇を与えるなどの工夫も凝らしました。当日、寺に集まった人々は、その節回しに釣られて次々と踊りに加わり、踊り明かしたと云います。

雨に濡れた「観音堂(千樹寺)」はひっそりと静まり返り、賑やかな音頭とは無縁に思えますが、盆踊りの夜ともなれば、境内には明々と提灯がともり、威勢の良い掛け声に合わせて踊りの輪が広がるのでしょう。

~コラ~ ヨイトヨイ~ヤマッカ ドッコイサッサノエイヤ~サ~~~~♪

多少の違いはあれ、関西人にとってこの独特の掛け声はとても馴染み深く、お盆シーズンに聞こえてくる賑やかな歌声に思わず釣られて口ずさんだものです。

今日はあいにくの雨模様で、境内もし~~んと静まり返っています。水路の側で耳を澄ませているのは、私たちと「亀さん」くらいのもの。

って・・!!えっ!!!か~~~~め~~~~????  ああ、びっくりした。それにしてもなんだってこんなところに亀の石像が👀

参拝を済ませて次に向かったのは、藤野家「又十屋敷」と呼ばれる「豊会館」。中山道に面した建物の前には、豊郷町石畑にあった「中山道一里塚跡」碑が移築されています。

屋敷は江戸時代中期に蝦夷地に進出した近江商人『藤野喜兵衛』の本宅だったもので、現在は歴史資料館として一般開放されています。

建物の玄関脇に展示された「逢坂山車石」。中央にえぐられたように溝があるのが分かるでしょうか。その昔、物資の輸送が盛んであった大津と京都を繋ぐ道の中でも最大の難所と言われた逢坂の峠。江戸時代になり、大津から京都三条までの約3里に、荷車往来用に轍を刻んだ敷石が並べられました。これにより荷車での物資運搬は格段に楽になったと言われます。敷石の溝は轍の為に刻んだのか、それとも長い年月の間に轍によって刻まれたものなのか・・本当の所はまだ謎だそうです。

訪問日:2015年7月16日

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ご当地マンホールとマンホールカード第9弾 in 滋賀県豊郷町

2025年04月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

犬上郡豊郷町(とよさとちょう)は滋賀県東部、湖東平野に位置する町です。彦根市、愛知郡愛荘町、犬上郡甲良町に隣接。中山道に沿って町域が開けており、米作・園芸が盛ん。また、中世近江商人の出身地の一つでもあり、蝦夷地の開拓・交易で成功、貧民救済事業でも活躍した「藤野家」や、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事)などの豪商を輩出。また千樹寺は江州音頭の発祥地として知られます。「町の木:ウバメガシ」「町の花:ツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「江州音頭発祥のまち」・「もに ろこび らなる よさと」「コンパクトで便利なまち「とよさと」」

明治22年(1889)、町村制の施行により、犬上郡豊郷村・愛知郡日枝村が発足。

1956年、豊郷村と日枝村が合併、犬上郡豊郷村が発足。

1971年、豊郷村が町制を施行、豊郷町となりました。

マンホールには、町章を中心に「江州音頭を踊る人々」と、「町の花:ツツジ」、「江州音頭のちょうちん」がデザインされています。

淡海環境プラザ展示マンホール「“江州音頭”の発祥地として「提灯」と「踊る人」および「町の花(つつじ)」を図案化しています。中央の「町章」は、豊郷の「とよ」を図案化したもので、 円形は町内の「和合協力」を、上部の両端を 左右に出すことで「飛躍発展」を、図を斜めに切ることで交通の要所をあらわしています。」

豊郷町観光協会展示マンホール

小型マンホールには、町章の上で「扇踊りを踊る踊り子さん」と「町の花:ツツジ」が描かれています。

昭和41年(1966)9月30日制定の町章は、豊郷村章として制定され、町制施行後に継承されたもので「豊郷の「とよ」を図案化したもので、円形は町内の和合協力を意味し、上部の両端を、左右に出す事で町の飛躍発展を、斜に図を切る事で豊郷町が交通の要点にある事を表します。」公式HPより

豊郷町観光協会マスコットキャラクター『よいとちゃん』。名前は、江州音頭の掛け声「よいと よいやまか」と「よいとよさと」を掛けたもの。 頭に「絵日傘」、「扇」の絵柄をあしらった服を着た可愛い女の子ですが、お誕生日は天保11年(1840)8月17日生まれの大長老。

「旧豊郷小学校」の道路向いに見つけた「やりこの郷」モニュメント。

昔、旱魃に苦しんだ農民が「阿自岐神社」に祈願したところ、「安食南にある大木から矢を放てば、矢の落ちたる所から水が湧く」とお告げを受け、その通りに落ちた矢を抜くと水が湧き出しました。この時、矢を射た大木を「矢射り木」と呼び、それが訛って「やりこ」となったとか。この情報を事前に知っていれば「阿自岐神社」にも寄れたかも・・。

撮影日:2015年7月16日

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2018年12月14日、第9弾として全国60自治体で60種類(累計407自治体478種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「豊郷町」のマンホールカードは、「豊郷町観光協会」でいただけます。

1991年に設置開始されたマンホールには町章を中央に「江州音頭のちょうちん」と「踊り子さん」、「町の花:つつじ」がデザインされています。

 

「日本最古の庭園の一つといわれる阿自岐庭園等、歴史を偲ばせる文化財が数多く残されている豊郷町は、まちの中心を中山道がとおり、この沿道には江州音頭が生まれた千樹寺(せんじゅじ)があり、この寺は戦火や村の大火によって焼かれましたが再建され、その落慶法要の中から「江州音頭」が生まれました。 豊郷町は華やかで陽気な唄と踊りの「江州音頭」発祥の地として知られ、江州音頭・扇踊り・絵日傘おどりを後世に伝えるべき伝統文化として保存・継承を行っており、マンホールふたは公募によって町章を中央に江州音頭のちょうちんと踊る人、町の花(つつじ)を図案化して生まれました。」

配布先で頂いた観光マップ

訪問日:2018年12月19日

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ご当地マンホール in 滋賀県旧蒲生町(東近江市)

2025年04月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

旧蒲生郡蒲生町(がもうちょう)は滋賀県の東南部に位置した町です。東近江市、甲賀市、蒲生郡竜王町・日野町に隣接。鈴鹿山系に源を発する日野川とその支流になる佐久良川の流域にひらけた純農村地帯で、町の北東・南西部は海抜200メートル内外の古琵琶湖層の丘陵山林。東北部は、なだらかな布引山系が占めています。一帯は約1万年前、縄文時代より開発が進み、多くの遺跡遺物が残され、中でも県指定史跡の木村古墳群、日本最古最大の石塔寺(いしどうじ)石造三重塔などが知られています。また宮川地区には、かってその地が祗園神社感神院の領地であった頃に勧請された「八坂神社」が鎮座します。「町の木:桜」「町の花:サツキ」「町の鳥:ウグイス」を制定。

旧キャッチフレーズは「田園風景が広がる 万葉ロマンあふれる町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、蒲生郡桜川村・朝日野村が発足。

1955年、桜川村、朝日野村が合併、蒲生郡蒲生町が発足。

2006年、能登川町と共に東近江市に編入されました。

マンホールには、町章を中心に毘沙門亀甲、周囲に「町の木:桜」が描かれています。

「淡海環境プラザ展示マンホール」「「町章」を中央に「町の木(桜)」を外周に配置したものです。 「町章」は、“がもう”の「が」「も」を図案化したものです。」

プラ汚水枡には「町の花:さつき」と「町の木:さくら」「町の鳥:うぐいす」に町章がデザインされています。

昭和32年10月1日制定の町章は「蒲生町の「ガモ」を表し、丸く抱擁していることにより町民の幸福と和を、また左右にひろげた羽型によって飛躍発展を願ったものです。」旧公式HPより

撮影日:2008年7月19日

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能登川水車公園と宗祇像 in 滋賀県東近江市能登川町

2025年04月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

2006年、真夏のバイクタンデムで選んだ目的地は、東近江市伊庭町道海の伊庭内湖に面した「能登川水車公園」。広い芝生の園内には、水車資料館や水上ステージ、そして今回のお目当てでもある直径13mの水車があり、自由に見学することができます。

直径13mの大水車・・・さすがに大きいです😲 広大な芝生広場で迷子になっても、この巨大水車を目印にしておけば絶対に迷わず落ち合えると断言できるくらい大きいです😄

そうして真正面に立って、ゆっくりと動いていく升目を追いかけていると、いつの間にか体全体が吸い込まれてしまいそうな・・眩暈にも似た錯覚を覚えます。

そうそうにその場を離れた私を見て笑うご亭主殿。こういうのは離れてみる方が良いのだと目いっぱいの強がり 😡

公園内に展示されていた、水車を動かす要となる水車軸。これは1991~2004年まで稼働していた初代大水車の軸だそうで、軸の大きさは2メートル、軸重さは5トンと記されています。

東近江市の夏を代表するスポーツイベント「東近江市ドラゴンカヌー大会」。周囲に水を張り巡らした円形の水上ステージが開会式の会場となるそうです。

巨大水車を背景に、水上ならではの乗り物やレンタルカヌーの貸し出しもある「能登川水車公園」。夏休み真っ最中のはずなのに、なぜかこの日の来場者は私たち二人だけ、まぁ・・静かだしのんびりできて良いのですが😅

琵琶湖に面し、開拓によって生まれた能登川では、精米や製粉に水車が活躍し、一時は36基の水車があったと言います。いずれの水車も小屋や家に併設され、大きいものでは直径六メートル以上のものもあったとか。しかし時代の流れと共に水車の数は減り続け、1971年を最後にその姿を消しました。

かっては能登川のそこかしこで見られた水車の回る風景。今は町の景観を形作るものとして、そこかしこで活躍しています。

能登川町栗見新田の大同川に架かる「水車橋」。左右それぞれの4本の親柱には、まるで本物かと目を凝らしたくなる水車が。

水車の形を模した能登川駅。その西出口広場には巨大水車を切り分けたような時計が時を刻み、奥には小さな水車が回っています。ここまで拘ってくれると他にも何かないかと探してみたくなりますね👀

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能登川の林中央公園交差点で見かけた「故郷で吟行する宗祇(そうぎ)騎馬像」と、「室町時代の連歌師 宗祇法師生誕地」の看板。ちなみに彼の生誕地に関しては、紀伊もしくは近江と言われており、謎の部分が多かったのです。しかし広島大学名誉教授:金子金治郎氏によって、宗祇の父は近江国守護職で六角家の重臣であるとの学説が発表されたことを受け、宗祇が能登川町出身であると確定、顕彰碑建立に至った旨が記されていました。

和歌の『西行』、俳諧の『芭蕉』と共に日本三大漂泊歌人の一人として知られる連歌師『宗祇法師』。この騎馬像は「ボストン美術館蔵伝宗祇像」からの写しのようですが・・馬のサイズがものすごくバランス悪い😅

訪問日:2006年8月11日&2008年7月26日

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ご当地マンホール in 滋賀県旧能登川町(東近江市)

2025年04月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

旧神崎郡能登川町(のとがわちょう)は滋賀県の中央部、神埼郡の北西部に位置した町です。彦根市、近江八幡市、東近江市、蒲生郡安土町、愛知郡愛知川町に隣接。愛知川が繖山(きぬがさやま)山系を迂回して形成した堆積平野にあり、琵琶湖に面した北西部一帯は、弁天内湖と伊庭内湖の干拓地で広大な農地や葦原が広がり、野鳥や魚類の生息地となっています。また古くより麻織物の産地としても知られています。「町の木:マツ」「町の花:キク」「町の鳥:キジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「水・緑・人が輝く水車のまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、神崎郡能登川村・伊庭村・五峰村・八幡村・栗見村が発足。

1942年、能登川村、伊庭村、五峰村、八幡村、栗見村が合併、神崎郡能登川町が発足。

2006年、蒲生郡蒲生町と共に東近江市に編入。

マンホールには、町章を中心に能登川のシンボルである「巨大水車」がデザインされています。

淡海環境プラザ展示マンホール「河川の多い能登川町では、歴史的遺産である“能登川水車”を イメージし図案化しました。中央の「町章」は、能登川の「能」を図案化したもので、 “能力、能率、有能”等実力を持つ意味と、“飛躍躍進”をあらわし、円輪は“融和団結”を意味しています。」

能登川水車公園の巨大水車

集排マンホールには「巨大水車」と伊庭内湖で開催される「東近江市ドラゴンカヌー大会」がデザインされています。

「東近江市ドラゴンカヌー大会」の開会式が行われる水上ステージ。

シールタイプマンホールは、「東近江市ドラゴンカヌー大会」の、ドラゴンをかたどったカヌーと巨大水車のデザインです。(能登川駅西口のタイル舗道上)

昭和30年4月1日制定の町章は「能ある鷹は爪をかくす」能登川の能は、能力、能率、有能等実力をもつことを意味しているのである。町章の能の文字はこの能登川の飛躍躍進を表し、円輪は本町の融和団結を意味したものである。」旧公式HPより

樹木カバーにデザインされた巨大水車

街灯にデザインされた巨大水車

巨大水車を元にデザインされた能登川駅舎

撮影日:2006年8月11日&2008年7月26日

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ご当地マンホール in 滋賀県旧永源寺町(東近江市)

2025年04月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

旧神崎郡永源寺町(えいげんじちょう)は滋賀県の南東部に位置した町です。八日市市、甲賀市、蒲生郡日野町、愛知郡愛東町、犬上郡多賀町に。また県を跨いで三重県いなべ市、三重郡菰野町に隣接。町域の大部分は山地で古くから林業が行なわれ、愛知川支流御池川流域の政所は茶の産地。その上流域にある君ヶ畑・蛭谷は木地師発祥の地として知られています。耕地は西部愛知川沿いに開け、愛知川の谷口近くにある奥永源寺地域は、湖東平野への水源地として、また紅葉の美しさで知られる「永源寺」を有することで知られ、東部一帯は鈴鹿国定公園に属します。「町の木:モミジ」「町の花:ツツジ」「町の鳥:キジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、蒲生郡市原村・神崎郡山上村・愛知郡東小椋村・高野村が発足。

1943年、山上村、愛知郡東小椋村、高野村が合併、神崎郡永源寺村が発足。

1955年、神崎郡永源寺村と蒲生郡市原村が合併、神崎郡永源寺町が発足。

2005年、八日市市・神崎郡五個荘町・愛知郡愛東町・湖東町と合併、東近江市となりました。

マンホールには、紅葉の名所として知られる「愛知川」と「町の木:モミジ」が描かれています。

昭和32年(1957)4月1日制定の町章は「六角形は、滋賀県を表し、その中へ永源寺の頭音である(エ)を図案化したもの。円の中に配したのは円満和合を表している」合併協議会資料より。

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「木地師の里」として知られる奥永源寺。「木地師」とは、広葉樹の木を伐採し、轆轤(ロクロ)を使って、盆や椀などを作る職人たちの呼び名です。今から約1200年ほど前、山深い里に隠棲され、御名を『筭延』と改めた惟喬親王は、経典の巻軸が回転する様から轆轤を思いつかれ、その技術を家臣であった一族へ伝えたのが木地師の始まりといわれています。

愛知川を見下ろす地に鎮座される「歳苗神社」。御祭神は『武甕槌命、経津主命、天児屋根命』。仁和元年(885)2月の創立。惟喬親王が越智の深山に御巡幸のおり、当地に休憩所を設け川辺に斎殿を置き、三神を祀って五穀産業の神とされたのが歳苗の始めとされます。

鳥居の前より神域を守護されるのは浪花タイプの狛犬さん一対。時間的な余裕がなく、鳥居前での拝礼で終わらせてしまった神社ですが、叶うならもう一度、奥永源寺君ヶ畑・蛭谷の集落訪問も併せて、きちんと参拝したいと今も願っています。

撮影日:2008年7月5日

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金堂の町並み・てんびんの里 in 滋賀県東近江市五個荘町

2025年04月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

「五個荘の町を歩きたい」・・と思ったのは、私たちが京都に引っ越して間もない頃の事。お正月休みを利用して出掛けた明治村、翌日は二見ヶ浦に行く予定が時ならぬ大雪で断念。しかもチェーン装備の無い我が家の車では雪の高速に乗れず、ひたすら下道を走って・・その帰路に天秤棒を担いだ近江商人の銅像を見たのが切っ掛け。 それから8年を経てですから、願いが叶うまで随分と時間がかかりました。

近江商人発祥地の一つとして知られる「五個荘町」。古来より交通の要衝として、古代には東山道、近世には中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、その利点を活かし、江戸時代後期から昭和初期にかけて多くの商人を輩出してきました。近江尚商会発行の「近江商人」には、「神崎郡の旭村大字山本と南五個荘村大字川並及金堂は、もとより田舎の小部落なれど、ひとたび足を入るもの誰か豪家櫛比の状に驚かん」とあり、富裕な家が建ち並んでいた様子が記されています。とりわけ金堂地区は保存活動が盛んであり、1998年に重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。

その佇まいの静謐さゆえに、映画のロケなどにも多く使われ、知っている人なら「あ、ここっ!」と指さす場所がたくさん登場する金堂の町並み。2007年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で登場したのは、この路地あたり?・・電線が沢山あるから違うかな?

滋賀県の近江地方には、いわゆる「近江商人の里」と呼ばれる地域が、近江八幡・日野などに残されています。そのどれを見ても「故郷に錦を飾る」と言った言葉が実感できる佇まい。それは、己の身一つ、天秤棒一つでこれほどの財をなした・・・いわば立身出世の見本のような人たちが、故郷に対して、自分がいかに成功しどれほどの財を築いたかを披露する場だったのかもしれません。

そうした豪壮な建物を見た人たちは、自分も負けるものかと天秤棒を担いで、山を越えて商いに行く。そうやって故郷を後にした人たちの誰かが成功し、財を成して故郷に帰り、お屋敷と呼ぶに相応しい建物を建てて錦を飾る・・・

故郷を捨てるのではなく、故郷に必ず帰ってくる! それは近江商人たちの信念のようなものかもしれない・・そんな事を思いながら路地を歩くのは、とても心が躍るような不思議な興奮を覚えます。

金堂の町中にひときわ高くそびえ立つ浄土真宗大谷派の古刹「弘誓寺」。表門は市指定文化財、鐘楼は登録有形文化財。本堂は宝暦5年(1755)、『高木作右衛門』によって建てられたもので、昭和六十二年に国の重要文化財に指定されています。

寺伝によれば『那須与一』の末孫、『愚咄坊(ぐとつぼう)』が正応5年(1292)に現在の寺号を受け、その後神崎郡躰光寺村に移り、天正9年(1581)に現在地に永住する事になったとあります。それにしても源平屋島の戦いの、あの『那須与一』の・・・末孫ですか・・・何だか凄い発見をした気分😲

「大城神社」の御旅所は金堂の馬場と呼ばれ、そこに正安2年と刻まれた五輪塔が据えられています。仏教では、空・風・火・水・地が万物構成の要素であり、これの変化で全てが生じるとして、これを五輪と呼び、それを象徴的にかたどったものが五輪塔であると伝えています。

赤い鳥居があるのは稲荷の社。ここはもと大和郡山藩の陣屋跡で、江戸時代には、大和郡山藩の陣屋がありました。今は陣屋は無く、お稲荷様が祀られています。

中の見学ができると言う事で訪ねた「近江商人屋敷:外村繁文学館」。彼の作品に関しては生憎と無知で、建物の外部をざっと見学させて頂いただけで終わりました。

屋敷内には、掘割に屋根をかけた「川戸」と呼ばれる一画があり、ここで炊事や洗いものをします。洗い物の際にこぼれた米粒などは魚の餌として利用され、ここで魚も飼われていたとか。とても合理的な工夫ですが、「川戸」の大切な役割には防火用水としての役目もあったそうです。

小さな路地の先にも、大きな神社仏閣の一角にも、素晴らしい発見の種は無数に転がっています。そして・・どんなに詳細に見たつもりでも、後になって見返せば見残した場所が一杯出てきます。悔しい思いは、そこがどんなに素敵な場所だったかの証拠であり、いつかまた・・の期待につながるのです。

訪問日:2008年7月26日

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ご当地マンホール in 滋賀県旧五個荘町(東近江市)

2025年04月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

旧神崎郡五個荘町(ごかしょうちょう)は滋賀県の東部、近江盆地(湖東平野)に位置した町です。八日市市、蒲生郡安土町、神崎郡能登川町、愛知郡愛知川町・湖東町に隣接。愛知川中流左岸にあり、米作のほか愛知川の砂利を原料とするコンクリートブロック製造や、繊維加工、織物の工場があります。古代には東山道、近世には中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、交通の要衝としての利点を活かして、中世以降は近江商人発祥地の一つとして発展してきました。今も五個荘金堂地区には成功した商人の屋敷などが多く残り、その観光資源化が進められています。「町の木:五葉松」「町の花:サツキ」を制定。

旧キャッチフレーズは「近江商人発祥の地・てんびんの里」

「外村與左衛門翁頌徳碑」。世代を担う郷土青少年の育成に尽くした外村與左衛門は、財団法人日本青年協会結成に際し、土地建物一切の私財を寄贈してこの地に関西青年道場を作りあげた人物です。

明治22年(1889)、町村制の施行により、神崎郡東五個荘村・南五個荘村・北五個荘村が発足。

1890年、東五個荘村が神崎郡旭村に改称。

1955年、旭村、南五個荘村、北五個荘村、蒲生郡安土町の一部が合併、神崎郡五個荘町が発足。

2005年、八日市市、神崎郡永源寺町、愛知郡愛東町、湖東町と合併、東近江市五個荘となりました。

マンホールは町章のみの規格蓋です。

淡海環境プラザ展示マンホール「中央に「町章」を配置したものです。 

昭和30年(1955)4月1日制定の町章は、五個荘の「五」を図案化したもので、 力強く前進する五個荘町を象徴しています。」合併協議会資料より

プラ汚水桝には「五箇荘」「てんびんの里」の文字と、天秤を肩に担ぐ近江商人がデザインされています。

五個荘地区まちづくり協議会イメージキャラクター『三代目:てんびん坊や』。特技は算盤と貯金、趣味はお絵かき。好きな物は鮒ずし・梅干し・にぎりめし、おやつはでっち羊羹です。

でも個人的には、枡蓋にも採用された近江商人キャラの方が好みだったりします😄

撮影日:2008年7月26日

コメント (4)
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