江戸・日本橋と京・三条大橋の間を結ぶ山地側「中山道:六十九次」の六十五番目の宿場として栄えた「愛知川宿」。天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によれば、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒を擁したとあり、歌川広重が描いた「木曽海道六拾九次」には、恵智川を渡る人々の様子が描かれています。
「木曽海道六拾九次之内 恵智川」
浮世絵に描かれた恵智川に架かる橋は、渡橋銭の要らない「無賃橋」として知られています。文政12年(1829)、町人『成宮弥次右衛門氏』ら四名が、愛知川に無賃橋を企画し、天保2年(1831)に完成。橋が架けられていたのは、中山道:高宮宿入口で、正式には「高宮橋」と呼ばれていました。
八幡神社入口に立つ「高札場跡碑」・・と言っても、石灯籠の隅に小さく見える碑なので、説明なしでは誰も気が付かない😓 おそらく、後で八幡神社に参拝するときに写しなおそうとか考えていたのだろう。私たちの「後で」ほど不確かなものは無いのに💦
愛知川宿のポケットパークに設置されていた「書状集箱」。明治4年(1874)郵便創業当時に使用していたものと同じ型だそうで、モニュメントではなく現役ポストととして利用されています。
愛荘町愛知川地区に残る、滋賀県内唯一の「旧愛知郡役所」。木造2階建寄棟造:桟瓦葺の建物で、桁行30m、梁間11.8m、棟は箱棟。日本の洋風建築の代表的手法である下見板張の外壁。大正11年(1922)5月に竣工し、4年にわたって郡区町村編制法に基づく郡役所として利用されてきましたが、大正15年(1926)7月に郡役所は廃止され、愛知郡教育会へ移管。
その後、滋賀県へ移管され、昭和12年(1937)に愛知郡農会へ無償譲渡。戦後には地元の農業協同組合が敷地を共有。その後愛荘町が土地建物を取得し、同年4月に町文化財に指定されました。
現在は愛荘町文化振興課が管理し、町史編さん事業などで収集した歴史資料や民具などの保管に使用されているそうです。
「近江の麻」と大きな看板が上がっている建物は、「近江上布伝統産業会館」
近江上布の始まりは鎌倉時代にまでさかのぼり、湖東地域に移り住んだ京都の職人が、農業をしながら住民に麻織物の技術を教えた事からといわれています。 豊かな伏流水の恵みを受けて作られた近江麻布は、湖東商人によって全国に広められ、江戸時代にはその良質な麻布が「高宮布」として重宝されました。建物の前に建立された「近江麻布記念碑」には近江上布の成り立ちなどが記されています。
「不飲川(のまずがわ)」という何とも気味悪い名前を持つ川に架かる「不飲橋」。川の名の由来は水源となる不飲池。承平天慶の乱によって落とされた『平将門』の首を洗ったところ、池の水が血で濁ってしまって飲めなくなったという😱・・・何とも不気味な言い伝えからですが、親柱の飾りは、とてもお洒落な愛知川の伝承工芸品「びん手まり」。
フラスコ型のガラス瓶に、びんの口よりも大きな手まりを入れた不思議な「愛知川びん細工手まり」。いつ、どこで生まれたのか、その歴史はつまびらかではありませんが、愛荘町には江戸時代末期に伝わったと言われています。
愛知川駅コミュニティハウス るーぶる愛知川 の前に設けられたびん手まり型のポスト。いかにも愛知川らしい意匠に思わず顔が緩んでしまいます😄
愛知川図書館・愛知川びんてまりの館の入り口に吊るされた、巨大な「びん手まり」モニュメント。
「びんてまりの館」に展示されている様々な意匠の「びん手まり」。左上端のタイガースのびん細工手まりは、流石に目を引きます。
旧愛知川町大字長野の地蔵堂に吊るされていた「びん細工手まり」。1840年頃(天保年間)の作品と思われますが、作者も制作時期も不明。長く地蔵堂の柱に吊るされていたそうで、愛知川町では地蔵盆の飾りとして用いられていた所も多かった旨が、写真と共に紹介されています。
館内には作り方の順を追った写真解説もありましたが、正直、作れる気がしません😥 ただひたすら「凄いね~~~」の連発。
訪問日:2006年8月11日&2015年7月16日