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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大善寺(だいぜんじ) in 滋賀県高島市新旭町

2025年05月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

高島市新旭町新庄東町に門を構える天台真盛宗寺院「放光山・大善寺(だいぜんじ)」。近江高島郡三十三ヶ所観音霊場第24番札所。伝教大師作と伝えられる『大日如来(重要文化財)』を本尊とします。

沿革「延暦年間(782~806)、最澄の開基と伝える。最初熊野山の堂立山にあったものを寛平年間に東河原村に移す。延暦寺の飛地境内の一区で当時は七堂伽藍が備わっていたが、元亀2年(1571)の織田信長の焼打ちで衰退。天正6年(1578)織田信澄が大溝城下に大善寺の別院を建立。延宝年間の火災で諸堂什器すべて焼失したが、本尊は難をのがれた。」滋賀県百科事典より

御本尊である大日如来像が納められている本堂。重要文化財の指定の故か、外からでは中の様子を伺う事はできません。

こちらは観音堂でしょうか? 大善寺には、伝『恵心』作と伝えられる観音立像がある由。口碑によれば、旧弥勒寺の本尊であったが、堂塔が破壊し、安曇川の洪水の時に拾いあげ、大善寺に納めたと伝えられています。

鐘楼

境内山門近くに咲いていた釣鐘草。

純白の墨田の花火。

大善寺山門前の「新庄城址」案内の立て札。大善寺境内から東側の水田を囲む様に、新庄城の一部とされる土塁の遺構が残っているらしいのですが、正直・・どのあたりがそうなのか良く分かりませんでした😔。

参拝日:2016年6月14日


覚伝寺(かくでんじ) in 滋賀県高島市新旭町

2025年05月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

高島市新旭町饗庭(あいば)に門を構える曹洞宗寺院「高岳山(こうがくざん):覚伝寺(かくでんじ)」。びわ湖百八霊場第24番札所(湖西第24番札所)、近畿楽寿観音三十三ヶ所霊場第28番札所、高島西国観音霊場。『宝冠釈迦如来坐像』を本尊とします。

沿革「応永4年(1397)火災により堂宇書類等ことごとく烏有に帰した為、開基、創立年代等は不詳。 応永9年(1402)、西林坊義光が堂宇を再建して後、永享元年(1429)越前国興善寺四世の唄庵宜梵を請して、覚伝寺を開山。 本堂内左に安置される聖観世音菩薩(丈5尺5寸)は、永禄年間(1558~1570)、もと熊野山(現、饗庭野台地)に白蓮山宝賛寺という寺があったが、織田の兵火にかかり、天正8年(1581)当覚伝寺に移されたものと云われる。このほかに、地蔵菩薩(丈3尺1寸)などの諸仏像がある。」近畿楽寿観音霊場HPより

御朱印を頂く間、御本尊様への直接参拝もさせて頂きました。

石段参道の先に山門

山門の内より境内を守護される阿吽の仁王像は、猛々しさを全面に押し出すように肩を怒らせて参拝者を出迎えます。

山門からまっすぐに本堂へと続く参道

本堂前に建立されていた「観音像」と、境内の一画に建立されていた「学童疎開記念の塔」

白漆喰の壁と勾欄との対比が美しい、袴腰付の鐘楼。

境内の一画に建立されていた小さな堂宇。

何故この堂宇が気になったのか・・それは屋根の鬼瓦が頭襟(ときん)をつけた鴉天狗だった事。それから想像すると、祀られているのは秋葉権現だと思うのですが・・・

鬼瓦繋がりで、二段構えの鬼瓦。多分山門だったと思うのですが、今となってはあやふや😓 こういう時は所在が分かる画像を残さないとダメだとしみじみ反省しています。

御詠歌 【 世のために  かくて結びしこの寺の  功徳普照の常ならぬには 】

参拝日:2016年6月14日


ご当地マンホール in 滋賀県旧新旭町(高島市)

2025年05月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

旧高島郡新旭町(しんあさひちょう)は滋賀県の西部、琵琶湖北西岸に位置した町です。高島郡今津町・安曇川町に隣接。東部は安曇川の沖積平野、西部は洪積台地の饗庭野(あえばの)で、自衛隊の演習場があり、麻・スフなどの繊維工業が盛ん。市の中央部を流れる安曇川の伏流水を主な起源とした「針江・霜降の水辺景観」は高島市内で2か所目の重要文化的景観に選定されました。「町の木:ソメイヨシノ」「町の花:サツキ」「町の鳥:ホオジロ」を制定。

また、新旭町安井川に鎮座される「大荒比古神社の七川祭り」は湖西隋一の「馬祭り」として有名で、新旭駅前には「七川祭り」に奉納される「流鏑馬像」と、奴姿の若者が的を片手で持って練り歩く「的練(まとね)り像」が来町者を出迎えてくれます。

新旭町役場は現:高島市役所として使われている為、支所としての庁舎は存在しませんが庁舎の敷地には、新旭町時代のモニュメントや、更にもう一世代前の旧新儀村(しんぎむら)役場の門柱が、今も大切に保存されて来庁者を出迎えてくれます。

明治22年(1889)、町村制の施行により、高島郡新儀村・饗庭村(あいばむら)が発足。

1955年、新儀村、饗庭村が合併、高島郡新旭町が発足。

2005年、高島郡マキノ町・今津町・朽木村・安曇川町・高島町と合併、新たに高島市となりました。

マンホールには、「風車村公園の風車」と「新旭花菖蒲園の花菖蒲」がデザインされています。

風車村公園の風車

淡海環境プラザ展示マンホール「自然の風力により発電したエネルギーを利用して 曝気水車を回転させ、水質浄化を促している風車と、沼の周囲に植栽している花じょうぶをデザインしたものです。」

昭和33年(1958)11月4日制定の町章は「新旭町の“ 新 ”をひら がな「しん」で図案化して 円とし、「旭」を左肩に配し ている。 また、三方に光を放って 向上発展を表現している。」合併協議会資料より

補導タイルには、新旭町のシンボル「町章・風車と花菖蒲・ソメイヨシノ・ホオジロ・サツキ」がデザインされています。

撮影日:2008年7月15日&2016年6月14日


水尾(みお)神社 in 滋賀県高島市拝戸

2025年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

高島市拝戸に鎮座される「水尾(みお)神社」。御祭神は『磐衝別命(いわつくわけのみこと)・比咩神(ひめがみ) 』。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。

由緒磐衝別命は猿田彦の天成神道を学ぶ為当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神を遙拝されたので、この地を拝戸と称した。磐衝別王が当地で亡くなられた為、その子磐城別王(いわきわけのみこ)は三尾山に父君を葬り、奉斎の為、水尾神社を創建された。100年後、応神天皇の第11皇子速総別王(はやぶさわけのみこ)も天成神道を学ぶ為に拝戸に来られ、4世孫彦主人王(ひこうしのおう)磐城別王の5世孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産した。この太迹部王が後の継体天皇と伝えられる。」滋賀神社庁HPより

鳥居の先、参道真っ直ぐに入母屋造の拝殿。その中央奥に社殿、中門を挟んで塀に囲まれて一間社流造の本殿が鎮座。画像右には3社相殿の「摂社:八幡社」が鎮座します。

中門前左右より神域を守護されるのは、全体がよい具合に苔むして丸みを増した狛犬さん一対。

吽形さんは思いっきり強がった表情で足を踏ん張り、阿形さんはそんな相棒が可笑しくてたまらないと大笑い・・・と、見えるのですが😊

境内には、1996年に地元の業者によって造園された2段式の池泉回遊式庭園「水尾庭園」が参拝者の目を楽しませてくれます。

山の斜面を切り崩して出てきた約2,000個の石を使って造園された、巨大な池泉回遊式庭園。画像左上は池泉の主景をなす滝石組で、水が岩肌を伝わらず落とす「離れ落ちの滝」となっています。

水尾庭園の上段と下段の間、苔に覆われた上に建立された三基の石塔。水尾神社の石塔は残欠が多く、その残決を組み合わせて石塔としているそうで、塔身には四方仏が刻まれています。

庭園の片隅にあった「安産石」、全体のフォルムも含めて、中央から水が流れているのが・・何というか・・シュール😅

水尾庭園の入り口近く、注連縄で守られた結界の中に置かれた「磐座」

磐座の前には「拝戸古墳群」の説明がありましたが、この磐座と何か関連があるのか・・・ものすごく気になったものの、結局聞けず仕舞い。

境内入り口近く、注連縄の中に鎮座する「祓岩」「罪穢を祓う霊石としての信仰があり古来は古いお札などを納めた」と記されています。

参拝日:2016年6月13日


白髯(しらひげ)神社 in 滋賀県高島市鵜川

2025年05月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

高島市鵜川に鎮座される「白髯(しらひげ)神社」。御祭神は『猿田彦命』。国史見在社(こくしげんざいしゃ)で、旧社格は県社。別称「白鬚大明神」「比良明神」とも称され、全国にある白鬚神社の総本宮とされます。

由緒「近江最古の大社で、社記によると垂仁天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命が社殿を御創建、天武天皇(第40代)の白鳳3年(675)勅旨を以て「比良明神」の号を賜るとある。 当社の縁起は謡曲「白鬚」<観阿弥(かんあみ)作>にも謡われ、日本全国に約300の分霊社が祀られている。 御祭神の猿田彦命は、天孫 瓊瓊杵尊降臨の際に先頭に立って道案内をされた神で、導き・道開きの神として知られている。当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えた老人のお姿で、御社名の由来にもなっている長寿神である。」公式HPより

「近江最古の大社」として厚い崇敬を受け、『豊臣秀頼公』の寄進により慶長8年(1603)に造営された本殿は、間口三間・奥行三間の入母屋造で、向拝一間を付し、屋根は檜皮葺。棟札等から、『片桐且元』を奉行として播磨国の大工の手で建てられたとされ、国重要文化財に指定。

拝殿脇から境内を抜けた一番上手に鎮座されるのは「岩戸社」。古墳の石室は天の岩戸とされ、大切に祀られています。

「岩戸社」の右手には、古代祭祀の跡とされる「磐座」が鎮座。

「海上安全心願成就」の文字が刻まれた「永代常夜灯」は、京都の『近江屋藤兵衛』によって天保4年8月に奉納。以前は湖岸で灯台としての役割を果たしていました。

境内入り口近く、安政4年に芭蕉門下によって建立された芭蕉47歳の句碑。

【 四方より 花吹き入て 鳰(にほ)の湖 】

境内には他にも幾つか歌碑が残されており、下は『紫式部』が、越前国司として赴任する父に従って、この地を通った時に詠んだもの。 

みおの海に 網引く民の てまもなく 立ちゐにつけて 都恋しも】

大津市出身の歌人『中野照子』歌碑

【吹き晴れて 藍ふかまれる 湖の 光となりて かへりくる舟】

揺らぐさざ波に影を映す「湖中鳥居」、そのはるか沖合にかすんで見える「沖の島」。それは夢のように淡く美しく・・大昔より、白鬚明神前の湖中には鳥居があったと伝えられ、室町時代の屏風絵「近江名所図」や、江戸時代に描かれた当社の縁起絵巻にも、湖中の鳥居が描かれています。云い伝えには、古来より、波打ち際に鳥居が見え隠れしていたとも、天下異変の前兆として社前の湖中に石橋や鳥居が突然姿を現したとも・・・この神秘的な由来に基づいて実際に鳥居が建てられたのは昭和12年(1937)、大阪の薬問屋『小西久兵衛氏』の寄進によってでした。

境内の内側から見る琵琶湖、目の前を走る国道161号線、昭和56年(1981)に建て替えられた湖中鳥居、沖ノ島・・・湖上交通の盛んであった時代、琵琶湖を行き交う船人たちは、この鳥居の奥にある神々を拝し、道中の安全を祈願し、向う旅先が間違いのない善きものであるようにと願ったのかもしれません。

参拝日:2005年9月11日

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一口メモ

「国史見在社(こくしげんざいしゃ)」、延喜式に先行する「六国史(りっこくし)」に記載のある神社。特に巻9、10の延喜式神名帳に登載されていない、式外社(しきげしゃ)について用いられる。


ご当地マンホール in 滋賀県高島市・旧高島町

2025年05月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

高島市(たかしまし)は琵琶湖の北西側に位置する市です。2005年、高島郡高島町・新旭町・今津町・マキノ町・朽木村・安曇川町が合併して発足しました。大津市、長浜市に。また県を跨いで、京都府京都市、南丹市。さらに福井県小浜市、敦賀市、三方上中郡若狭町、三方郡美浜町、大飯郡おおい町に隣接。古来より京都・奈良の都と北陸を結ぶ西近江路や若狭街道は交通の要衝として、また大津方面への湖上交通の拠点である港町や宿場町として発展。滋賀県内では最大の面積規模を持ち、安曇川と石田川流域の扇状地や三角州にまとまった平地があるほかは、比良山地や野坂山地など森林が広がり、琵琶湖の水質汚染も少なく、豊かな自然に恵まれています。「市の木:サクラ」「市の花:カキツバタ」「市の鳥:ヒバリ」を制定。

キャッチフレーズは「未来へつなぐ 人と自然のまちづくり」

2005年1月1日制定の市章は「『水と緑 人のいきかう 高島市』花をモチーフにし、6町村をそれぞれ1枚の花びらに見立て、各花びらは、地図上の6町村の位置と対応しており、このデザイン全体で「高島市」を表しています。6町村が合併することで、互いに協力し合い、大輪の花が咲くように発展して欲しいという願いを込めて、6枚の花びらが一つの花を咲かそうとしている姿を表しています。」公式HPより

高島警察署マスコット『あっぱれ高ピー』。旧高島町、旧マキノ町、旧朽木村のシンボル「ウグイス」と、旧新旭町のシンボル「ホオジロ」を掛け合わせて作った「鳥のお巡りさん」。高島署の玄関付近でお出迎えしてくれます。

高島市ごみ減量キャラクター『スリムヤン』。ごみの減量を身近な問題として感じて貰いたくて誕生しました。家庭ごみって、ほんの少しの手間で、ビックリする位減らせるんですよ😄。

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旧高島郡高島町(たかしまちょう)は滋賀県西部、琵琶湖西岸に位置した町です。大津市、高島郡安曇川町・朽木村、滋賀郡志賀町に隣接。比良山地東斜面と鴨川流域の沖積平野に水田が開け、米作が盛ん。鴨川下流域には古墳が多く、音羽古墳群、稲荷山古墳などが存在。また『継体天皇』の出生地:三尾別業(みおのなりどころ)は、「和名抄」の三尾郷に続く地名で、鴨川下流の安曇川町から当町にかけて存在したと考えられています。近世には大溝藩が置かれ、高島郡の政治的中心地として繁栄。町域には、白鬚神社・水尾神社・鵜川四十八躰仏など多くの旧跡が残されており、また高島市鹿ヶ瀬には、「ガリバー旅行記」をモチーフにした施設「ガリバー青少年旅行村」があり、観光スポットとして一役買っています。「町の木:松」「町の花:菊」「町の鳥:ウグイス」を制定。

「織田・京極・浅井家にまつわる大溝城」案内図

高島市勝野に残る「旧大溝藩惣門」

明治22年(1889)、町村制の施行により、高島郡大溝村・高島村・水尾村が発足。

1902年、大溝村が町制を施行、高島郡発足。

1956年、大溝町が、滋賀郡志賀町大字鵜川を編入。

2005年、高島郡マキノ町、今津町、朽木村、安曇川町、新旭町と合併、新たに高島市となりました。

マンホールには「町の花:菊」を周囲に、内側に「町の木:松」、中央に町域にある「ガリバー青少年旅行村」に因んで『ガリバー』がデザインされています。

淡海環境プラザ展示マンホール「町民一人ひとりがそれぞれ“新しい挑戦、試み”を 進める町づくりの‘イメージシンボル’である「ガリバー」を中心に、「町の木(松)・町の花(きく)」を配置したものです。」

汚水枡用のマンホールには、手のひらに小人族の帆船を載せたガリバー少年がデザインされています。

JR西日本湖西線「近江高島駅」前の「ガリバー像」

「ガリバー青少年旅行村」案内看板

昭和28年(1953)6月1日制定の町章は「中心に配した高島町の「高」の字が、平和を象徴した円形を形作っており、外側の5つの星が「大」の字を形どって、「大・高島町」としての将来を表しています。」合併協議会資料より

撮影日:2008年7月5日&2016年6月13日


鏡神社・義経元服の地 in 滋賀県竜王町

2025年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

「道の駅:竜王かがみの里」は竜王町の国道8号線沿い、旧義経街道とも呼ばれた「東山道」八十六の駅のひとつ「鏡の宿」に位置する道の駅です。その昔、牛若丸(源義経)が元服した地と言われ、また東山道、中山道の宿場町として、古来より多くの旅人たちの休、泊の宿場として賑わってきました。

道の駅と国道8号線を挟んで向いに鎮座される「鏡神社」。御祭神は『天日槍(あめのひぼこ)』

「第11代垂仁天皇の御代(紀元元年)に帰化した新羅国の王子天日槍の従人がこの地に住んで陶芸、金工を業とするに及び祖神として彼を祀ったことに始まり、のち近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が崇敬して護持したと伝えられています。拝殿の後方に見える本殿は、三間社流造りのこけら葺で、南北朝時代の建築は国の重要文化財に指定されています。」公式HPより

参道には、義経が元服の後に参拝した折に鳥帽子を掛けたと伝える松がありましたが、明治6年の台風で倒壊。株上2.7mを残し石垣上に仮屋根をして保存されています。

鏡神社の西側130mの場所に残る「源義経元服池」。遮那王は京の鞍馬山より奥州へ向かう途中に「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳」の屋敷に泊まります。その夜、稚児姿では人目につきやすい事を避けるため、この地で元服することを決意。鏡池の石清水を用いて前髪を落とし、元結の侍姿を池の水に映して元服をしたと伝えられています。

「道の駅:竜王かがみの里」にある「静御前と源義経」の顔出し。どうせなら稚児姿の「遮那王」の顔出しが良かったな😊

訪問&参拝日:2007年7月5日


ご当地マンホール in 滋賀県竜王町

2025年05月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

蒲生郡竜王町(りゅうおうちょう)は滋賀県の東南部、湖東平野に位置する町です。近江八幡市、東近江市、甲賀市、野洲市、湖南市に隣接。町名は、合併した二つの村にあった東の竜王山(雪野山)、西の竜王山(鏡山)に由来。水口丘陵北西部の丘陵と日野川南岸の平野からなり、水田農業が盛んで良質な近江米を産出。また400年の歴史を持つ近江牛産地としても知られ「近江牛発祥の地」を標榜。また鏡山地区は、鞍馬を出て奥州を目指した『遮那王(牛若丸)』が、元服をした地として知られています。「町の木:松」「町の花:アエンボ」を制定。

キャッチフレーズは「若者も暮らしたい 希望かなえる 輝竜の郷 ~心弾む 新時代へのチャレンジ~」

明治22年(1889)、町村制の施行により、蒲生郡苗村・鏡山村が発足。

1955年、苗村、鏡山村が合併、蒲生郡竜王町が発足。

マンホールには町章を中心に「町の木:松」、周囲に「町の花:アエンボ」がデザインされています。

淡海環境プラザ展示マンホール「「町章」を「町の木(松)」で囲み、外周に「町の花(アエンボ)」を配置したものです。「町章」の( )は、「両山」と竜王の「り」を、中央は竜王の「王」を図案化したものです。」

昭和30年(1955)4月29日制定の町章は「左右の( )でりゅうおうの頭文字「り」をイメージし、鏡山・雪野山の二つの竜王山を表し、中央は竜王の「王」を表現しています。」公式HPより

2010年に誕生した「道の駅竜王かがみの里」のマスコットキャラクター『近江うし丸』。鏡宿で元服した源義経の幼名「牛若丸」と、特産品の「近江牛」から名付けられました。

撮影日:2008年7月5日&2013年8月23日


日野散策~あちこちウォッチ in 滋賀県日野町

2025年05月23日 09時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

日野町の街歩き、まずは大窪仕出町にある「近江日野商人館」からスタート。ここはもと日野商人の一人で御殿場に出店して大成功した『山中兵右衛門』の旧宅だったもの。昭和56年に日野町に寄贈されました。

建物は昭和11年に新築、典型的な日野商人の本宅の特徴をそのまま今に残しています。昔から「八幡表に日野裏」という言い習わしがあるように、近江八幡の商人は、表に贅を尽くして富を誇示。逆に日野商人は、家の表側に冨を誇示する事をせず、厳格さとつつましい生活態度を表わしています。

館内には行商品や道中具、家訓などが展示されており、400年におよぶ近江日野商人の歴史と商法が紹介されています。上り口に置かれていた石は「逢坂山の車石」。花崗岩に車の轍を掘って二列に並べ、荷車が峠を越えるための手助けとしたもので、江戸時代、逢坂山の峠道に敷かれていました。

昔の帳場を再現したものでしょうか?

それほど広い範囲ではありませんが、同じ近江商人の里とされる五個荘、近江八幡に比べると、どの建物も取り立てて豪奢には見えず、しかし奥行きは相当なものと充分に想像させられます。「八幡表に日野裏」、こうして歩き、実際に目で見ればその言葉は、実にストンと腑に落ちます。

街歩きの途中で見かけたこのお宅、額縁のように作られた窓に思わず目が釘付け・・不躾ですが玄関に近寄ってみたら、左から右書きで「館真写口西」の看板。そうか写真屋さんだったんだ~。

800年以上の歴史を持つ「綿向神社」の春の例祭「日野祭」。祭りの場には、日野商人の財力で贅を尽くして仕立てた、豪華絢爛な曳山16基が神社境内に勢ぞろいします。これは日野ギンザ商店街の一画に展示されていた本物の日野祭曳山。

この建物は「山蔵」。装飾品を取り外した曳山はそのままの形でここに納められます。大窪町山蔵の庇の下に施された鏝絵は、丸紋の中に二羽の千鳥、それに戯れる一対の獅子。

町歩きの後はバイクを走らせて、日野町鎌掛にある「日野ダリア園」まで。HPではまだ見ごろとあったのですが、どうも更新が滞っていたみたいで、期待していたダリアはすでに終わっていました。

ダリア園の近くに門を構える「普門山 正法寺」「今から300年以上も昔に普存禅師という禅僧が、近くの人家の隣にあった古ぼけたお堂の中の観音菩薩を今の地に移しお堂を建て、境内を整備して藤を植えられました。その藤が300年以上の歳月を経て見事な花房を垂れるようになりました。」日野観光協会HPより

もちろん、藤の花もすでに終わり、見事な藤棚は緑でおおわれています😓。結局本堂も何も見ることなく、付近の散策だけで参拝は終了😔

ダリアも藤の花も見る事はできませんでしたが、この緑深い場所に流れる時間はとても穏やかで静かです。

訪問日:2008年7月19日


ご当地マンホール in 滋賀県日野町

2025年05月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

蒲生郡日野町(ひのちょう)は滋賀県の南東部、鈴鹿山系の西麓に位置する町です。東近江市、甲賀市に隣接。西流する日野川と、その北方を同じく西流する支流出雲川によって挟まれた平坦部のほぼ中央にあり、中心地区の日野は天文年間(1532~55)蒲生氏の城下町として栄えてきました。江戸時代以降は漆器・売薬・呉服を行商する多くの近江商人を輩出。現在も製薬を主とする商工業が営まれています。

西大路地区には、中世ドイツをイメージした、酪農・ふれあい・体験をテーマに自然の中で遊びを通じて感性を育む体験型農業公園「ブルーメの丘」が。また鎌掛(かいがけ)地区は、国の天然記念物「ほんしゃくなげの群落」で知られます。「町の木:ヒノキ」「町の花:ほんしゃくなげ」を制定。

キャッチフレーズは「ひびきあい 自治の力で輝く町 日野」

明治22年(1889)、町村制の施行により、蒲生郡日野町・東桜谷村・西桜谷村・西大路村・鎌掛村・南比都佐村・北比都佐村が発足。

1955年、日野町、東桜谷村、西桜谷村、西大路村、鎌掛村、南比都佐村、北比都佐村が合併、改めて蒲生郡日野町が発足。

マンホールには「日野川と錦向(わたむき)山」、「町の花:しゃくなげ」「日野商人」がデザインされています。

淡海環境プラザ展示マンホール「日野町の中央を流れる「日野川」、東側にそびえる「錦向山」、「町の花(しゃくなげ)」、「日野近江商人」の風情と豊かな自然に恵まれた「日野盆地」をデザインしたものです。」

昭和30年(1955)3月16日制定の町章は「日野町の頭文字である「ひ」を図案化し、全体の円形は町民の“和”を、左右に伸びた翼は将来への飛躍発展を願ったもの」公式HPより

撮影日:2008年7月19日