車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 旧幡豆町(西尾市)

2016年10月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

旧幡豆郡幡豆町(はずちょう)は南は三河湾に面し、北側は山地で、町の東部には三河湾国定公園を構成する幡豆山塊の最高峰である「三ヶ根山」があります。

1889年(明治22年)、町村制の施行により幡豆郡幡豆村・東幡豆村が発足。

1906年、幡豆村と東幡豆村が統合し、幡豆村が発足。

1928年、幡豆村が町制を施行し幡豆郡幡豆町が発足。

2011年、吉良町・一色町とともに西尾市に編入合併され、西尾市となりました。

マンホールには前島(うさぎ島)、沖島(猿が島)、「町の花:山ツツジ」、「町の木:山桃」がデザインされています。

昭和42年9月18日制定の町章は「「幡豆」の「ハ」を表現。単純であるが斬新であること、町旗にした場合に「日の丸」との調和が非常に良いことなどを理由に制定された。」旧資料より

寺部城址近くで偶然見かけた巨大な一枚岩は「寺部の立岩」。岩は太山寺の薬師如来のご威光がかかるとされ、仏神三宝詣の身を清める場ともいわれていました。

幡豆町東部の三ヶ根山には、大東亜戦争で敗戦国となった国の責任を一身にうけ、刑場の露となられた殉国者が祀られる「殉国七士廟」があります。叶うならどうしても立ち寄って手を合わせて来たかったのですが、地理的に負担がかかるコースであり、結局、その願いが叶う事はありませんでした。何年たってもその心残りは消えてくれません

撮影日:2011年9月22日

 

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ご当地マンホール in 愛知県旧吉良町(西尾市)

2016年10月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

旧幡豆郡吉良町(きらちょう)は三河湾に面した町です。海上には無人島の梶島があり、西尾市、一色町、幡豆町、幸田町に隣接。また江戸時代初期の著名な領主に高家旗本吉良義央がいた事でもしられています。町名は青鳥山周辺の地質にみられる斑れい岩を貫くペグマタイトの中に白雲母(キララ)があり採取が行われていたことに由来。「町の木:桐」「町の花:ツツジ」を制定。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、幡豆郡横須賀村・荻原村・富田村・瀬門村・厨村・宮崎村・吉田村、保定村が発足。

1892年、横須賀村が町制を施行し幡豆郡横須賀町となる。

1906年、横須賀町・荻原村・富田村・瀬門村・厨村が合併して改めて幡豆郡横須賀村が発足。吉田村・宮崎村・保定村が合併して改めて幡豆郡吉田村が発足。

1924年、吉田村が町制を施行し幡豆郡吉田町が発足。

1955年、幡豆郡横須賀村と吉田町が合併、幡豆郡吉良町が発足。

2011年、西尾市に編入合併され、西尾市吉良町となる。

マンホールには町章を中心に、「町の花:つつじ」と「町の木:桐」がデザインされています。

昭和32年8月10日制定の町章は「キラ」の2文字を図案化し意匠化したものです。

「西三河南部水道企業団」事業章入り仕切弁

撮影日:2011年9月22日

 

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諏訪神社 in 愛知県西尾市一色町

2016年10月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

西尾市一色町一色宮添に鎮座される「諏訪神社」。御祭神は『建御名方命』。三河一色諏訪神社、愛知一色諏訪神社とも称されます。

創建「第1106代正親天皇(おおぎまちてんのう)の御世 永録年間(1558~1570)当時、鎮守の神を持たなかった一色の地に守り神をお招きしたいと村人たちが考えていたところ、日本の六十六ヵ所の霊場に法華経を納めて歩いていた行者がやってきて、信濃の諏訪大明神の御分霊を請け、捧持してきて祠を建ててお祀りしたのが一色の諏訪神社の始まり。長野県の諏訪大社を総本社とし、全国25000余社の諏訪神社の中で、当社は長崎・神戸・四日市・横須賀・藤沢に次ぐ6番目の御分社として登録されている。」公式HPより

高覧が廻らされた入り母屋づくり平入の拝殿

拝殿向拝の彫刻は、波頭渦巻く海を翔る龍

瓦に刻まれた御神紋は、諏訪大社の根幹枝葉の三枚葉に対し、葉の数が一枚の「梶葉紋」。

広い境内より神域を守護されるのは、阿は角を、吽は宝珠をもつ安政六年奉納の狛犬さん一対。御亭主殿、久々に好みの狛犬さんに出会ってご機嫌(⌒∇⌒)

横顔だと結構強面なのですが、正面に向かい合うと驚く程穏やかで優しい顔立ち。つい馴れ馴れしく、頬など触ってみたくなります(^^;) 

マンホールのデザインにも使われた「大提灯祭り」。HPによれば、その起源は450年前頃、初秋になると毎夜海魔が現れ、人畜農作物を荒らしていました。そこで村人たちは諏訪神社のご神前に魔鎮剣(ましずめのつるぎ)を奉り、大篝火を焚いて悪魔退散を祈ったところ被害が無くなったと言われています。神事として篝火を焚くことが100年ほど続き、その後、寛文年間(1661~1672)に提灯を献灯する祭りになり、江戸中期には提灯の上部に覆いが付けられたりと華美になり、提灯自体もどんどん大きくなって現在の姿へと変わっていきました 。奉納絵馬に描かれた「大提灯まつり」、きっと胸躍る光景なんでしょうね。

大提灯収蔵庫

大提灯の覆いを支える柱の収納庫・・かな?

残暑を映し出す池のほとりに建てられていた「竜宮社」。海とは切っても切れないものですが、諏訪神社の末社や境内社の中にはその所在が書かれていません。もしかしたら「それ」が鎮められる側の神だからなのか・・気になります。

切り株なのか、根っこなのかわかりませんが、おそらく御神木の名残でしょう。不信神な私たちですが、自分が存在する全ての場所にごく当たり前に八百万神の存在を感じます。きっとその心地よさが、神社参拝を続ける要因となっているのかもしれません。

諏訪神社近くで見かけた「西尾市一色消防団 一色中分団詰め所」のガレージに描かれていた祭半纏。何とも粋なデザインに思わずシャッターを!

参拝日:2011年9月22日

 

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ご当地マンホール in 旧一色町(西尾市)

2016年10月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

旧幡豆郡一色町(いっしきちょう)は三河湾に面し、矢作川三角州先端部の干拓地上にあるため、町全体が低平地の自治体です。町域には全域が三河湾国定公園に指定された三河湾内の佐久島も含まれており、産業としては2007年11月に地域団体商標登録された「一色産うなぎ」が知られています。また、町の花であるカーネーションは全国有数の生産地としても有名です。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、幡豆郡一色村が発足。

1923年、一色村が町制を施行、幡豆郡一色町が発足。

1954年、幡豆郡佐久島村を編入。

2011年、幡豆郡吉良町・幡豆町とともに西尾市に編入され、西尾市一色町となりました。

マンホールには町章と「町の花:カーネーション」がデザインされています。(西尾市役所 一色支所前のカラー歩道に設置)

もう一種は、諏訪神社で開催される「大提灯祭り」と、「町の木:松」と「町の花:カーネーション」がデザインされています。

メタウォーター下水道科学館あいち内:展示マンホール拓本

諏訪神社の「大提灯祭り」は付近の橋のレリーフや街灯などにも使われており、祭りへの興味を誘います。

大提灯デザインのマンホールに関しては「西尾市役所 一色支所」の方々に所在をお聞きしました。お忙しい中、丁寧に答えて頂き、本当に有難うございました。

昭和41年12月23日制定の町章は「一色の文字をアレンジしたもので、傾きを用いたデザインは一色町が、未来に向けて大きく広がることを願った表現です。」

「西三河南部水道企業団」事業章入り消火栓

「西三河南部水道企業団」事業章入り仕切弁

撮影日:2011年9月22日

 

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西尾神社・御剱(みつるぎ)八幡宮 in 愛知県西尾市錦城町

2016年10月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

西尾市錦城町、歴史公園の外れに鎮座される「西尾神社」ここには『殉国の英霊六百四十余柱』が祀られています。

由緒「昭和二十年八月十五日終戦の詔勅降りて大東亜戦争も終結し、多くの勇士が戦地より帰還。漸く世の中は平和に期し人心にも平和が蘇りたり。然るにこの大戦に召されて勇躍従軍、各地に転戦武功を樹てられ西尾地区出身六百二十余勇士は祖国の御盾となり散華せられ護国の神と化し給う。~中略~全町民協力の下一致団結建設に東奔西走、昭和三十年三月現神社の創建を見たり。~後略~」

桧皮葺の屋根が美しい御本殿。緩やかな光が祖国を護るために殉じられた御霊を包み込んでいます。

護国の御霊となられた方々が鎮まられる神域を守護されるのは招魂社系の狛犬さん一対。どうぞしっかりと足を踏ん張り目を光らせて、この大切な場所を守り続けてください。

境内に建立されていた「陸軍大尉 中澤稔之碑」

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西尾神社のすぐ隣、西尾城本丸跡に鎮座される「御剱(みつるぎ)八幡宮」。御祭神は『八幡神』と思われますが特に記載はありません。

「古くは文徳天皇の皇子・八条院宮が渥美郡伊川津から当地へ移り住んだ際に松山(現在の山下町東八幡山あたり)へ遷座し、のち承久年中(1219~22)に三河国守護・足利義氏が西条城を築城する時に現地へ移し、源家相伝の宝剣・髭切丸と白旗一流を納めたと伝えられています。城内鎮護の神社として歴代城主の尊崇が篤く、社殿前には城主が寄進した石灯籠が立ち並んでいます。延宝6年(1678)に当時の西尾城主・土井利長が再建したもので、市の文化財に指定されています。」西尾市HPより

延宝6年(1678)に当時の西尾城主・土井利長が再建した一間社流造檜皮葺の拝殿と奥に本殿。いずれも市指定文化財。

拝殿前左右より西尾城鎮護の社を守護されるのは、備前の国からやってきた明治31年奉納の備前焼獅子一対。焼き物ゆえの損傷が随所に見られますが、丁寧に修復が施されており、大切にされている事が分ります。

備前焼はわが故郷の宝、特別に別角度から(⌒∇⌒)

西尾城本丸跡に設けられた「大庿(おおびょう)遥拝所(大庿は伊勢神宮の別称)」

拝殿前の塀に設けられた瓦には、八幡神の巴紋

参拝日:2011年9月22日

 

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西尾歴史公園 in 愛知県西尾市錦城町

2016年10月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

西尾市錦城町の一画、六万石の城下町の威容を今に伝える拠点として西尾のシンボル「西尾城」の一部を復元し、新たな歴史文化の発信地とした「西尾歴史公園」。

「西尾城郭覚書」によれば、承久の乱(1221)の戦功により三河国守護に任じられた『足利義氏』が築城した「西条城」が始まりと伝えられています。足利氏は『吉良氏』と名を改め統治しますが、戦国時代の常として牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主が入れ代わり、これに従って城域も拡大しました。天正13年(1585)、家康の命により築かれた城が近世の西尾城の基礎となり、さらに田中氏の頃に三の丸が造営され城郭が確定されました。慶長6年(1601)に本多康俊が西尾二万石の藩主として入城、その後も松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と代わり、六万石の西尾藩となったのは、明和元年(1764)に『大給(おぎゅう)松平氏』が入城してのこと。やがて明治の廃城令を受けて廃藩となり城のほとんどが取り壊されてしまいました。

城郭図や1994年の発掘調査によって19968年に再建された「本丸丑寅櫓(ほんまるうしとらやぐら)」は、本丸の丑寅(北東)の隅に建てられた櫓で、城内の隅櫓のうち一番高い建物でした。三層、高さ約10メートルの木造本瓦葺、壁面上部は漆喰塗籠、腰部は下見板張りとなっています。

二之丸御殿に至る「鍮石門(ちゅうじゃくもん)」は、間口約9m、奥行き約5m、高さ約7m。その名前から、扉に真鍮(しんちゅう)が飾られていたと言われています。

散策の途次に現われる「本丸井戸」跡、そこには確かに多くの人たちが生きてきた証が残されています。

公園内に保存されていた尾張徳川家の「合印・○八」の天水鉢。

歴史公園内に再建された数寄屋風の「旧近衛邸」。こんな場所でまったりと寛いでいただくお茶は絶対に美味しい!

木陰に設けられた一枚岩の巨大な休憩所? いや・・・いくらご亭主殿が頑張っても数ミクロンも動きませんって(笑)・・って言うか何がしたかったのか今もって謎。

公園内に設置されていた「大名櫓型時計」。時計ですが、ボタンを押すと西尾城などの観光案内・音楽などが流れるとか・・でも多分この時は何も聞いていない・・(^^;)

『故:杉浦喜之助』氏のご遺志により多額の寄付を受け、昭和52年8月に西尾城姫丸跡に完成した「西尾市資料館」。

歴史公園に建立されていた『稲垣一郎』氏の銅像。西尾上町で茶園、製茶、販売を営み、西尾茶の宣伝に貢献した人物だそうです。

某所で見かけた西尾城大手門跡の碑と案内図

訪問日:2011年9月22日

 

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岩瀬文庫 とおもちゃ館 in 愛知県西尾市亀沢町

2016年10月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

西尾市亀沢町の鶴城公園内、西尾市立図書館に隣接する市立博物館「岩瀬文庫」。明治41年(1908)に西尾市須田町の実業家である『岩瀬弥助』が、本を通した社会貢献を志して創設、私立図書館として誕生。戦後に西尾市の施設となり、2003年4月に日本初の「古書の博物館」としてリニューアル。2007年12月7日には登録博物館となり、翌2008年5月6日に創立100周年を迎えました。

「地上三階、地下一階建。設計は名古屋の西原建築工務所(所長はもと愛知県営繕課技師の西原吉治郎)。外壁は煉瓦造り、床と小屋組みは木造の混構造で、外壁の表面には煉瓦の小口積みに似せた素焼きタイルを貼っています。タイルは常滑の陶栄株式会社製造のものです。日本の瓦屋根と洋風の入口上部の装飾や石造りの窓台などが独特な雰囲気を持ち、この時期の特徴的な洋風木造建築として、現在は国の登録有形文化財となっています。」公式HPより

玄関位置口上部

玄関部分アプローチ用の石段

旧書庫は大正6年(1917)に一時休館して増築がなされ、以後、2002年12月までの約80年間、重要文化財をふくむ古典籍から近代の実用書まで、幅広い分野と時代の蔵書8万冊余りがこの旧書庫の中で大切に守られてきました。

旧書庫入り口前に建立された『岩瀬弥助翁之像』

煉瓦造りの旧書庫玄関を斜め左からと、右横から

白い板張りの壁に青い屋根の木造平屋建の建物は、岩瀬文庫の児童文庫として大正期に増設されたもので、岩瀬文庫同様に登録文化財の建物です。

下見板貼りの外壁、ハーフティンバー風の妻飾、縦長の上下窓等に特徴があるデザインは、児童用の施設「おもちゃ館」として使われているそうですが、この時は時間が早過ぎたのかシャッターは閉ざされたまま・・

建物の周囲を一周して・・とりあえず記念写真(^^;)

訪問日:2011年9月22日

 

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伊文(いぶん)神社 in 愛知県西尾市伊文町

2016年10月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

西尾市伊文町に鎮座される「伊文(いぶん) 神社」、御祭神は『素盞嗚尊・大己貴命(大国主命)・文徳(もんとく)天皇』

由緒「1,150年前、朝廷の命により吉良(現在の西尾)の地を根城にして略奪を繰り返していた兼光・兼盛討伐の為、第五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が西尾の地に赴き、その際に屋敷の東西に御祀されていた、天王社(伊文神社)と八幡社(御劔八幡宮)を随遷されたと伝わる。天王社、天王宮、伊文山(いもやま)牛頭天王(ごずてんおう)、伊文山天王宮等と称したが、文政の頃に「伊文社(いもんしゃ)」となり、明治維新以降は伊文神社とされた。承久(1219~1222)の頃より、本所の総産土神、総鎮守とされた。昭和54年1月1日夕刻、不慮の火災にて拝殿及び琴平社拝殿を焼失。翌年にコンクリート造の御社殿を復旧した。」公式HPより

境内入り口より神域を守護されるのは「石匠・酒井孫兵衛作」で昭和6年奉納の岡崎型狛犬さん一対。吽形は仔狛を、阿形は玉の上に足を乗せています、

上目づかいで親狛を見上げる仔狛の視線が、いかにも「隙を狙ってます」風で、何とも「いとかわゆし(笑)」

昭和55年に建築された唐破風付きコンクリート造りの社殿。

お子様の御健康を祈る「子安の泉」。子供の喉や足の病などに御利益があるそうです。

御本殿の正面に置かれた「茅の輪」がデザインされた絵馬。

役割を終えた御札や御守りを返納する「古札納め所」。返納されたお札やお守りは祓い清められ、御焼の儀で炊き上げられます。

「古札納め所」左右より神域を守護されるのは明治23年奉納の狛犬さん一対。イメージとして岡崎型に似ていなくも無いですが、独特の顔立ちが何ともユニーク。

鳥取県に古くより伝わる「麒麟獅子」に何となくイメージが似ていて、特にこの横顔なんかはどちらがモデルなのかと二度見するほど。

自然石を巧みに配した味わいのある手水鉢。

参道左手の建物は地元商人らが飢饉に備えて食料を備蓄していた「義倉蔵」。団結力が強かった町民たちが義倉の制度を作って建てたもので、建物は西尾市指定文化財となっています。

参拝日:2011年9月22日

 

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矢田(やた)神社 in 愛知県西尾市上矢田町

2016年10月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

西尾市上矢田町熊子に鎮座される「矢田(やた)神社」、御祭神は『火産霊(ほむすび)神・奥津日子(おくつひこ)神・奥津比売(おくつひめ)神・八田太郎姫命』

創建「延暦年間(782-805年)。元々八田神社もしくは八面神社とも称され、地域の鎮守の神として祀られてきた。宝暦12年(1762)に熊野本宮三社を勧請、荒神さん・竈(かまど)の神として崇拝を集めたと云う。明治5年に竈神社に改称。明治41年に八剱社を合祀。明治42年に稲荷社とその境内社である秋葉社を合祀。大正10年に矢田神社に改称される。」

右手から見上げる御本殿

御本殿の屋根、留め蓋の上で水しぶきを上げているのは「鯉」。この場所にこの意匠はかなり珍しいと思うのですが、火の神が鎮まられる社とはいえ、やはり火災は避けたいところ。

さらに、さらに珍しい「巻物を持つ仙人」。画像右手は「瓢を抱える仙人」。思いがけない場所で思いがけなく楽しい細工瓦との出会いです。

拝殿彫刻がこれまた見事で、どれくらい見事だったかと言うと・・・拝殿の全体画像を写し忘れるくらい(((((^_^;)

まずは向拝正面に定番の龍。長い尾を丸めた姿勢で逆巻く波を蹴立てる姿は流石の迫力。

後に続くのは母子龍だろうか? 何度も見返る目線の先には一回り小さい龍の姿。

こちらには荒海を突き進む一対の海亀。前方には見事な羽を広げる鶴の姿も。

常緑の松が生い茂る一帯は、神が住まうとされる天上の何処か・・

先を急ぐ獅子一対。足元に咲き乱れるのは満開の牡丹の花。

険しい顔で前を見つめるのは親獅子でしょうか?

咲き誇る牡丹の花に目もくれず、遅れまいと追いかける仔獅子。

同じ獅子の彫刻ですが、こちらは追いかける相方を余裕の眼で見返っています。

眼の光の感じからして、もしかして玉が入ってたのかも・・

「なにもそんなに急がなくとも・・」とでも言いたげな顔で牡丹の花陰から抜け出す獅子。

境内の一画より神域を守護されるのは、明治四十四年建立の狛犬さん一対。大きな顔に三角の耳。大人の雰囲気の吽形さんと、子供のように目を見開いて笑う阿形さんの一対はまるで親子のよう。

境内の一画、囲いの中の石は大正一〇年の矢田神社改称時に立てられた社号標と旧石造鳥居。

この塚に刻まれた文字が何なのか?、他に資料が無く不明(^^;)

この日は境内に重機を積んだ車が入っており、何らかの作業が成されていました。お邪魔にならないようにと思うと気が急いて、後から見返せば何とも中途半端な参拝です。

参拝日:2011年9月22日

 

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寺津(てらづ)八幡社 in 愛知県西尾市寺津町

2016年10月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

西尾市寺津町西市場に鎮座される「寺津(てらづ)八幡社」、御祭神は『誉田別尊・徳川家康公』

由緒「建間久年(1190~1199)鎌倉時代 摂津源氏 源頼政の孫で、大河内氏初代である源顕綱の創建と伝わる。「和名妙」に、この地は大川郷と称し、幡豆郡八郷の一つの開拓地で古くは大川神社と称した。大河内顕綱の信仰深く、寺津城主 大河内家の鎮守として十代 大河内信政により寺津城を築き寺津八幡社を再興、永年十年(1513)の棟札に「願主大河内大蔵小輔源朝臣信綱」とあります。十一代 大河内信貞も天文三年(1532)に寺津八幡社を再興し、大河内氏が勢いを振るい、寺津を領地とした関係で『大河内氏発祥地』の碑が建てられた。慶長三年申年(1680)十一月二十五日徳川家康本殿を再興し将軍家の守護神として仰ぐ。」公式HPより

流造りの御本殿

拝殿は高覧付廻り縁のある切妻の妻入りの縦拝殿で向拝が設けられており、尾張造りではなく、大社造りに近いものとなっています。

拝殿の扁額の文字は、徳川宗家16代『徳川家達』公の書。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、獅子のような鬣を顔の周りに蓄えた狛犬さん一対。

拝殿わきに祀られる「護国神社」。この地域の英霊の御霊が祀られています。境内の一画に建立された「大東亜戦争慰霊碑」「母子の像」。

境内に建立されていた「大河内氏発祥地・碑」「渡辺政香領徳碑」

御神木「薙の木」

本来 ここ寺津は「大河内氏の発祥地」ではないのですが、寺津の地を領地とした関係から碑が建立された事。また江戸時代の国学者『渡辺政香』領徳碑は、かって彼がここで神職を務めた事から。更に、御神木の薙は葉が切れにくいという事から縁結び等のお守りに最適な木として有名であること等々・・・偶然居合わせた宮司様から色々とお話を伺わせて頂き、記念にとその葉を一枚ずつ頂きました。

巨大な龍頭の手水

参拝日:2011年9月22日

 

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